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 願い。

国の公害等調整委員会で、杉並病の原因が杉並中継所であると裁定が下されたそうです。原因物質不明のまま原因が特定されるのは初めてとのこと。
自分自身もいつも目に見えない恐怖に怯えているだけに、かなり見逃せません。

こういう大気汚染とか水質汚染とかって、目に見えないだけにすごい精神的に怖い。どんなに自分で体に取り込まないように努力したところで、本当に排除できているのかどうなのかちっともわからないのです。だから、体調が良くならない限りあれが悪いんじゃないか、これが悪かったんじゃないかって、日常生活の全てにおいて気を張り詰めていなければいけない。これって、本当にものすごいストレスです。
おまけに、人からわかってもらえないことが多い。不摂生しているせいじゃないのかとか、ただ怠惰なだけなんじゃないかとか、心無い人に言われる悲しさときたらありません。・・・と、ここで過去の私の愚痴を言っても仕方ないのですが。

ちなみに区側は、不燃物を圧縮処理するだけで有害物質が発生することは考えられない、と反論しているらしいですが、私からすれば考えられるとか考えられないとかそんなことはどうでもいいのです。ほんの少しの可能性だけでもあるのであれば、対処するべきなのが当然。グレーはすでに真っ黒です、こういうことに関しては。健康や生命に変わるものなんて何にもないもん。失われた時間や命はたとえいくらお金を積まれたところで取り戻せるものじゃない。原因がはっきりしない限り対処しないという行政のやり方(例えばそれは薬害や食品衛生に関しても同じだけど)には、本当にやり切れない思いがします。
っていうか、圧縮すれば熱が発生して、そこから有害物質が発生するって言う可能性はけっこう普通に考えられるような気がするのは私だけ??

ありがたいことに空気も水も、わりときれいなところで生まれ育って、だから都会の空気は恐怖です。ダイオキシン大国と言われる日本で、いったいどうやって自分の身を守れって言うんだろう。暮らす土地を選ばなければ生きていけない人もたくさんいる。
塩化ビニール製品は買わない、石油製品も出来るだけ選ばない、塩素系の漂白剤も使わない。私一人の努力が何なんだろうって思ったりもするくらい巷には土に還らない物が溢れているけど、諦めたりしない。杉並区では区長が対応策をとろうとするのを役所の職員が区のイメージが悪くなるからやめて欲しいと言うんだそうです。しっかり対処して、これから人にも環境にも優しい行政をしていくことをアピールしたほうが絶対にイメージだってよくなるって私は思うんだけどな。

ちっちゃな何かを守ろうとして躍起になる人がいるんだったら、もっと大きなものを守るために力を持てたらいいな、と思う。下からの小さな小さな声がいつか大きな力になりますように。

2002年06月27日(木)



 案ずるより生むが易し、とも言う。

思うこと多々。本当に情けないのは自分自身だって言うことは、嫌って言うくらい身に沁みているけど。
でも、動かないって決めたから動かない。正しいことなのかどうなのかは全然わからない。いつか答えが出るのか、それとも正しいって信じるしかないのか、それもわからない。少なくとも今は、迷わないのが最善の道だと思う。虻蜂取らずって、昔の人も言ってることだし。格言みたいなものの正しさには全く、圧倒されるよね。
せめてもの罪滅ぼしは知る努力と考えることをさぼらないこと。

・・・ただし、最近の悩みは視力の低下。ものすごく強いコンタクトレンズが、あっという間に合わなくなります。視力がよくなる3D絵本でも、買ってみようかと思ったりしているのですが。

2002年06月24日(月)



 廻り廻るということ。

有事法制成立のために国会会期延長とか言っていましたが、どうやら今国会での成立は難しくなったとかで、ちょっぴり安心していなくもない今日この頃。とりあえず、頭を冷やして落ち着いて考える時間が出来たのは良いことなのではないでしょうか。なんかさ、誰も彼も感情論で躍起になっていて本来の目的が見えにくくなっていたような気がするから。メディア規正法もしかり。
それにしても政治家と官僚の関係が未だにいまいちよくわからない無知な私。でも、政治家が官僚に踊らされるようなことがあってはいけないとは思う、絶対に。政治家は未来の創造者、官僚はサービスマン、と言うのが本当のところだとは思うんだけどね。

最近思っているのは、循環すると言うことの大切さ。というか、それこそが真理・・・なんていうとちょっと大げさな気もしなくもないけどでもほんとに、そう思う。、”回る”ということはたぶんこの世界の基本。つまり循環しないものはとても不自然であって、いつかどこかで行き詰る。
自然を考えれば、全てが循環の中にあることがわかる。朝がきて夜が来てまた朝になること。季節が巡ること。雨が川になり海に流れて空へ戻ってまた雨になること。命がの営みが続いていくこと。食物連鎖だったり、もっと小さなことで言えば呼吸器だって、細胞レベルでだって、循環しているからこそ私たちは行き続けていられるんだよね。
でも、今、私たちの周りを見渡すと循環しなくなってしまっているものの多さに気づく。
例えば植物。種が芽吹いて育ち、花を咲かせて実をつけ、またその種から新しい命が芽生える。それは誰でも知っている当たり前のこと。だけど、実は今、植物たちは必ずしもその循環の中にあるわけじゃない。
高校生のときに地理の授業で地元の酪農家を訪ねたことがある。そのときに一番びっくりしたのが牛に食べさせているとうもろこしの話だった。
その農家では、とうもろこしを自分の畑で栽培して、それを餌の一部として牛にやっている。そのとうもろこしは実の部分がすごく大きくなるように改良された飼料用のハイブリッドコーンなんだけど、実をつけてもそこから同じコーンは出来ない。そしてその技術はアメリカの会社の特許なので、毎年種を輸入しなくてはいけないんだって。つまり、名目上自家栽培の餌といっても実質的にはそうではないということなんだけど。
そういうことはもちろんこのとうもろこしに限ったことではなくて、今の農業ではむしろ主流のようです。本来農業って、前の年に出来た種をとっておいてそれを次の年に蒔けば永久にお日様と雨の恵みだけで続いていくもののはず。でも、今は、毎年種を買わないといけない。改良されたF1の種たちは、自然界の循環の仕組みの中にないから。
紙はもともとは木で、本当なら土に還るはずのもの。だけど、定着剤が使われることでプラスチックと変わらなくなってしまっている。
漁業もそうだね。獲れるだけのものを獲れただけ食べている分には資源の枯渇なんてないはずなのに、必要以上に食べようとするから不自然になってくる。大きな網で大量に水揚げされる魚をテレビで見ていると、どうしてもそれが”適度”だとは思えない。
原子力発電は、温暖化の防止には貢献するけど、その廃棄物のことまで思いを馳せたとき、やっぱりどう考えても続いていくものではない。
人間の排泄物が大切な畑の肥料であった時代、下水なんて必要じゃなかったよね。もっとも現代人の排泄物は、化学的なものが多すぎてあんまり健全な堆肥にはなりえないのかもしれないけど。

持続可能な社会って、最近時々聞く言葉。それはとりもなおさず、循環していくことを指していると思う。
何かをする前に「これは果たして続いていくことだろうか?」って思ってみることは、ちょっとだけ、未来について考えるきっかけになるような気がします。

あ、出生率の低下もね、私は悪いことじゃないと思ってるんだ・・・。人口が増え続けていけばある程度までは確かに、生産年齢が増え続けるわけだから豊かさをもたらすかもしれないけど、どう考えても”続いていく”ことが可能じゃないのは自明の理でしょ?

2002年06月13日(木)



 体の声を。

食品の安全性についてのニュースが連日飛び交っておりますが・・・。

香料。そもそもおかしいわけです。無果汁のフルーツジュースなんていうものが存在したりすること自体。透明の水に桃の匂いがするなんて気持ち悪いと思ったほうが健全。
でも、認可されているされていないだけであまり大騒ぎするのもなんだかなーって思ったりしなくもない。認可されてれば平気なの?って、思ってしまう私。もちろん大企業の法律を守らなかったりうそつきだったりする、その体質が一番問題ではあるんだけど。
外でお酒飲むときはできるかぎり純米酒と決めてます。

中国産野菜。これも、何を今さら、と言う感じ。無農薬とか有機栽培がわりともてはやされるようになってきた近頃、こういう野菜がどこに一番流れているかというと、なんと学校給食だったりするようです。有無を言わせず選択の余地はないし、経費削減のために入札でやすーい業者に頼むらしい。給食ってさ、この国の未来を担う子どもたちの命の源だと思うんだけどなあ。
自分に子どもが出来て学校行くようになっても私はお弁当を持たます、たぶん。
ちなみに大切なのは悪いのは中国人ではなく、大資本を投入して見た目のきれいな野菜を求めて安く買い叩いてきた日本企業のほうだということ。体を壊してまで不本意な農業(と呼べるのかどうかわからないけど)に従事させられている中国の人はむしろ被害者のはずです。

言い出せばきりがない。いったいこれは食べ物と呼べるんだろうか?安売りのスーパーばかりが繁盛して、私にとってのコンビニである地元の自然食品やさんは未だに赤字だそうでせめて独立採算がとれるようになってほしい・・・と言うのが社長の声です。当たり前の普通の食べ物をわざわざ”自然食”と呼ばなくてはいけないことの不自然さ。
今朝食べたパンやハム、使った調味料の材料表示を見てみてください。少なくともそれがいったい何なのかわからないものはなるべく口にするべきではない、と、私は思っています。

2002年06月12日(水)



 覚書。

久しぶりに、心にゆとりが出来たらしく、ずいぶんいろんなことを考える今日この頃です。周りから入ってくる情報に、反応できるようになっている気がします。
「国家百年の大計」が苦手なのは日本人の国民性。熱しやすく、冷めやすい。”日本人は顕微鏡、対する中国人は望遠鏡中国人は双眼鏡”。(9日の社説より)
長い目で先を見て、物事を考えられる人がものすごく少ないと言うのは常々感じること。憲法改正(改悪?)に、私が絶対に反対な理由も実はここにあると思っている。憲法を変えること自体は、人間が作ったものである以上出来るのは当然。でも、未来のこの国ことまで考えた”より正しい”憲法を日本人が作ることが出来るとは私にはどうしても思えない。ほんの小さな動きに過ぎなくても、何かを少しずつ始めれば、いつか大きな波になるんだろうか?
相変わらず企業からは問題が噴出し続けているし、コンビニや100円ショップは大盛況、利潤を追い求める社会は恒久的なものではないことに、気づいてる人がどれだけいるんだろう。
昨夜、テレビでたまたまやっていた”エンデの遺書”の再放送をみた。資本主義、特に貨幣社会は普遍的ではないこと、むしろそれこそが世界の環境の悪化や貧困を招いていること。資本は、お金から生まれるものではなく(要するに利息などの差益)、資源と労働から生み出されるべきものであると言うこと。最近自分自身が感じていたいろいろなことと相まって、すごく心に訴えかけられる内容だった。
貨幣経済が不要だとは、きっと誰も思わない。国際社会の中で、お金が必要不可欠な役割をになっているのは変えられることではない。でも、生きていくためになくてはならないものではない。それに振り回されて、自分の心や自分たちの未来を失ってしまうとしたらそんなに愚かなことはない。
地域的な範囲で、それを少し違ったものにすることは小さな力になるだろうか。
防衛庁が、情報公開請求者を正当な権利の行使者ではなくあたかも異端者であるかのように扱ったのもこの国の国民性の表れだと思う。少し変わったことをすれば一般社会のなかで生き辛くなる。世間体やモラルなんて、やっぱり普遍的なものでもなければ必ずしも正しいものでもないのに、それを気にして正しいと思うことが出来ないのだとしたらなんてばかげているんだろうね。

正しいと思ったり違和感を感じたりする自分の感覚を信じること。それに自信を持つこと。あきらめないで進むこと。
たぶんまだ気がついていないことも含めて、全てのことは布石になっているはずだから。

2002年06月11日(火)



 ぎゅっ。

どこか空っぽな気持ちを抱えたまま、だからといって動き出す勇気もなくて、少しだけ自分が嫌いになりそうになる。全然なんにもない私。そしてたぶん、そのことを認めたくなくて、逃げてるんだろうな・・・。
頑張らないといけないと思うのに何をしていいのかわからなくて、そのうちにいったい自分がどうしたいのかわからなくなって、いっそ決められたレールの上を歩いていたほうが楽なのかなあなんて、現実離れしたことを思ってみたりして。そんなことが出来ていたら、私が今ここにいることはないはずなのにね。
考えれば考えるほど空回りばかりして、考えるよりもまず、一心不乱に信じてみることが必要だって頭ではわかってるのに、何やってるんだろう。何も変わらない、自分で動きださなければ。わかってるのに。
負けたって、失敗したって、何度でもやり直せばいいんだよ。それで前よりちょっとでも大きくなれたなら、無駄なことなんてひとつもないでしょう?

頑張らなくちゃね。ちょっとだけ、弱気になっていたりする初夏の夜。明日はきっと、いいお天気です。

2002年06月08日(土)



 言霊といふもの。

たくさんの想いが生まれては消えていって、それを少しでも自分の心に留めておきたいと思ったのが、私が物を書き始めたきっかけ。そういえば人に伝えたいと言う気持ちはそこにはなかったんだな、ということに気がついた。理不尽なことへの憤りや悲しみを忘れた大人になりたくないと、思っていた。
私にとっての言葉は今でも、表現であるより先に気持ちのバランスを取る術。だから私が饒舌になるのはたいてい何かを心に抱えているときだね。
そういう言葉はいったい、人との関係ではどういう意味を持つんだろう。共感されたり反発されるだけならいいけど、それがマイナスの力を含んだものじゃないといいなと思う。
きっと必要なのは埋没してしまわないだけの客観的な視点と、多少のユーモア。たとえここが自分のテリトリーだとしても、人の目に触れる以上はその影響力を思わないわけには行かない。ほんの小さな力しか持たないんだとしても、発するからには自分の言葉に責任を持ちたいんだ。マイナスのエネルギーなんてさ、全く喜ばしいものじゃない。偶然そういうものに触れてしまったときの自分の気持ちを考えると一番よくわかる。

まあなんていうか、きっとここに私が書くようなことはマイナスとかそういう問題とは別に、本来スマートでスノッブな大人であるためには内に秘めておくべきことなんだとは思いつつ、ここは私のお家だから許して、と、思うのは・・・やっぱり矛盾してるかな?

2002年06月04日(火)
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