unsteady diary
riko



 焼き林檎の午後


ただいま“ちいさな幸せ探し”実行中。
嫌なことはあげればキリがないけれど、そうでないことも数えなければ。



勤務地が地元になって以来、残業は相変わらずだけど、通勤時間が往復で2時間短かくなって、帰りに本屋にも寄れる。
通勤疲れが少なくなった分、風邪もひきにくくなったし、就職前によく嘆いていたようにエアコンがなくて猛暑で眠れないということもなくなった。
それに、自分のお金で美味しいごはんを食べられること。
ゆっくりお昼を食べられるほど優雅な身分じゃないけど、たまに時間をやりくりして、近くのアフタヌーンティーで一人アップルパイを食べる昼休み。
生クリームがさっぱりしていて口当たりが雪のようで、アップルパイというより焼き林檎を食べているような本体は、甘酸っぱくて香ばしく大好き。
ちっちゃな頃、私を可愛がってくれた隣のおばさまが、よく林檎を焼いてくれたのを思い出して、ほろりとする。
最近のお気に入り。
紅茶も美味、アフタヌーンティーの100g入りを買って帰る。
ミルクティーが好きなら、チャイもおすすめ。
あんまり飲む暇ないけれど、アイスチャイ(牛乳で薄めて飲むリキッド)と低脂肪牛乳が、ちゃんと職場の冷蔵庫に入っているときは幸せ。


そうだ、初めて入ったのは有楽町のアフタヌーンティールームだったっけ。
Tさんが東京に来られていたときでした。
アールグレイが1杯700円もして、バイトしていない大学生にとってはかなりの贅沢で、どきどきしながら注文したことを思い出す。
しかも、結局おごってもらった記憶が。


そのとき言われたのが、次の人に返してあげればいいんだよってこと。


今は暗雲立ち込めていても、それを突き抜けて、惑わない大人になって、いつかは逆に誰かの相談にのってあげて、美味しいお茶とケーキで気持ちをほぐして、そうやって自分がしてもらったことを次の人へ返してあげられるようになりたい。
心からそう思った。



結局、その後も“大人のお姉さんプラン”は実現できてないけど。



でも現在は、自分がまだまだ未熟でも、職場で後輩の指導員になって半年たつわけで。
たとえ私より指導っ子(中途入社)のほうが年上でも、ミスしたり落ち込んでいるときはさりげなくフォローしますよ。
やり方が優しすぎるというか甘いと、批判もされるけど。
頭ごなしに怒るよりは、さりげなく褒めてその中に注意を入れるくらいが、いいかなあ、と思う。
普通の神経をしていたら、失敗の重さは誰より自分が解っていて、周りから言わなくたって十分痛い気持ちでいると思うから。
自分自身が、吊るし上げを食って、ほんとうに辛かったから、同じことはしない、したくない。
甘いかなあ。でも譲れない。
おかげでそこそこ懐かれてます。(たぶん)
あんまり先輩らしい威厳もないけど、そういうのも自分らしいというか。



とりあえず、近頃のちいさな幸せ願望としては、結婚退社でとっととやめてしまった派遣さんの後任で来る人が、いい人だったらいいなあ、と思う。
人が減った分毎日残業が4時間以上ある状態だけど、土日は休めているんだし、とりあえず今のところは頑張るよ、うん。




>たけこさん

こんな風に誰かに宛てて言葉を書くことは久しぶりでちょっと緊張しますが。
元気にしてます。
千葉の片隅でゴスのアルバム買ってみたり、相変わらずな本を買ったりして過ごしてます。
人間、そう簡単には変わりませんね。(笑)

読んでくれて、書き込んでくれて、ありがとうございます。

たけこさんも、お元気で。


2005年01月29日(土)



 幸せなことは


この日記を書き始める少し前に、初めて取得したexciteのメールボックスが、とうとう削除されていた。
当時の赤裸々過ぎるメールを読み返すことなんて怖くて怖くて出来はしなかったけれども。
これで本当に、全部何もかも消えてしまったのだと思うと、複雑な心境だった。




一方で。



映画の検索をしていて、偶然ひとつのblogにたどり着いた。
もしかしたら、知っている人の文章なのかもしれないと思う。
なんの根拠もない、ただの勘だけれども。
少し毒が抜けたような気もするから、別人なのかもしれないし、
4年という歳月が、文章を変えただけかもしれないけれど




独り言です。




あの頃遅い“思春期”だった私は、気がつけば25歳になりました。


どうしても、うつむかずにはいられなかった。
仮面を外しても外しても、素顔にはなれなかった。
厳しさは優しさであり、何歩も前を行く人が、いずれつまづくだろう私に、道しるべを置いてくれていたのだと知ってはいても、その厳しさに向き合うことが出来なかった。
言葉はどこまでも自分を欺いて、吐く言葉すらなくなって、しまいには沈黙へ逃げました。
その頃の自分について、想うことはたくさんあるけれど。
それでも確かに、形のない多くのものを、受け取ったのだと思います。



あれから時間ばかりが過ぎたのに、あまり前には進んでいないのかもしれない。
それでも、自分の重さで溺れかけていたあのときに出会えたこと、手を差し伸べてもらったことは、私にとってこの上なく「幸せ」なことでした。



ありがとう。



それだけを伝えたかったのです。


2005年01月21日(金)



 「SKIP」とか


昨年12月にキャラメルボックスの「SKIP」を観に行った。


明るい未来を夢見る普通の高校生・主人公真理子は、ある日まどろみから覚めたら、40代の子持ちのオバサンになっていた、というお話。
原作は、ご存知のとおり同名のベストセラー小説だ。
とは言っても、まったくストーリーを知らないまま舞台を観ることになったのだけれど。


ただのタイムスリップ物かと思いきや、物語は意外な方向へ進んでいく。
SFのように時間を飛び越えたのではなくて、実際には普通に生きてきて、突然記憶が欠落した、というだけの、現実。
奇跡なんて起こらないのだ。
そうして、すっくと立った若木のようにまっすぐで、潔癖で、恋に恋するような年頃の少女の感性だけが、オバサン(便宜上の表記)の中に、取り残された。
それでも彼女は歯を食いしばり、必死に現実を生きようとする、けれども。



ラスト近く、真理子は学生時代の親友と再会する。
意識だけがタイムスリップしたと話すと、「信じられない。現実逃避からの記憶喪失では?」と否定されて、沈む彼女。
気まずい再会となってしまった二人の耳に、どこからともなく赤ん坊の泣き声が聴こえてきた。
それに対して親友は、「自分の子供の泣き声を思い出す」と微笑んだが、真理子には自分が産んだはずの子供の泣き声すら、欠片も思い出せない。
自分の身体のどこを探しても、それは「聴いたことのない音」でしかないということに気づかされ、堪えていたものがあふれて、泣き崩れる。


それは、あまりに哀しすぎる「気づき」だった。


実際に存在する「家族」と「自分」とを深く結びつけてきたはずの数々の記憶が、身体のどこを探しても、「知識」として以上の実感を持たないということ。
永遠に喪ってしまったものの果てしなさに、慟哭するだけ。


胸に迫ってくる喪失感に、ぼろぼろ泣いた。
なんでそんなに泣くのかと自分でも思いながら、止められなかった。


結論から言えば、「STEP」は悲劇ではない。
誰が死ぬわけでもなく、最終的には、ひたむきに今日を生きようとする一人の女性の、むしろ清々しい物語であったはずなのに。





今日の帰り道、いつものように田舎道を走るバスに乗っていた。
薄暗い車内で、ふと解った気がした。
どうしてあんなにシンクロしたのか。
真理子のように、「喪った」というのとは違うけれども。
たとえば20歳の自分から、これまでの5年がどのように過ぎたのかと考えれば、喪いたくないと思うほどの鮮烈な記憶が、手ごたえが、そもそも欠落していた。
辛くて、少しでも楽になるようにとだけ祈って、鈍る感性でどうにかやり過ごしてきた時間。
目が覚めたら急に25歳になっていたとしても、今の気分と大差はないのかもしれない。
そのこと自体が、私の中で共鳴した「喪失感」だったらしい。


薄い膜が張られていて、どこかで別の人の人生とつながっているようなもどかしさ。
その前は、何を願い、どんな風に傷つき、夢見ていたのか。
赤ん坊の声に反応することが出来ずに泣いた真理子のように、確かにあったはずの痛さがはっきりと蘇らないことが、酷く堪えた。






そういえば。
先日某Rに呟かれた「輝いていない」という言葉は痛くて、
何ひとつ、返す言葉はなかった。




2005年01月19日(水)
初日 最新 目次 MAIL HOME


My追加