unsteady diary
riko



 好きな詩

ゼミのメンバーから、どんな本を読むのって訊かれて…。

周囲はミーハー含みのミステリー好きが多いのだけど。
私はミステリーはほとんど読みませんね。思考がついてゆかんので。
好きなのは、日本の現代詩です。
谷川俊太郎、石垣りん、吉野弘、黒田三郎、茨木のり子、他にもいっぱいいますねぇ。
言葉がうつくしいひとは、好きです。
自分がそうではないから、憧れるし、どうしようもなく惹かれます。その言葉を吐いたその精神に。
ネットをやっているのも、やはりそういうひとと出会いたいから。
誤解を恐れないでいうとすれば、(自分を棚上げできるなら(笑))文章から透けて見えるそのひとの病み方に、心の震える瞬間が、やみつきになってるからでしょうね〜。
これは極論ですが、完全で、すべてに満足しているひとは、恐らく文章なんて書かないで生きていると思うの。逆に、病んだ自分をリハビリしたいから、文章を書き、それをひとに読んでもらいたいと思い、公表するのだと思う。

ま、堅い話になってしまいますが、少なくとも私は、自分が言葉でもって生きているんだな、とよく思う。思い知らされる。ことあるごとに、言葉の不自由さに苛立ちながら、それでも自分の稚拙な言葉を棄てることはできないから。

好きな詩をすこしだけ。



黙っていた方がいいのだ
もし言葉が
言葉を超えたものに
自らを捧げぬ位なら
常により深い静けさのために
歌おうとせぬ位なら

(谷川俊太郎「もし言葉が」より)


逆説的だけれど、確かに事実をそのままに言葉に置き換えることは永遠にできないのだろうと思う。圧倒的な存在のリアリティに言葉は代わることはできない。だが、沈黙はどうあっても、それ以上推敲することはできないけれど、言葉は少しずつでも限りなく高めてゆけるもの。そうやってひととつながってゆけるから、言葉はこんなにもいとしいんだと、私は思います。


2000年08月26日(土)



 心をえぐる言葉。


以下は、私のだいすきな物書きさんの言葉です。

「きみのことばのひとつひとつがぼくをうちのめすのはぼくがきみではなくまだぼくをみているから」

ひらがなだけなのに、なんてこころをえぐることばなんだろう。相手のためのようで、実は自己満足のためだったり―。相手をちゃんと好きでいるようで、自分が相手におしつけた友人なり恋人なりの理想像を、つまり自分自身を、愛しているだけだったり―。
やりとりは、いつもどこか、不安です。こんなふうに。
でも、ほかは透明で、ただ相手を見るまなざしだけが存在する生きものには、
どんなことをしてもなれないし、それはもはや自分ですらないから。
けっきょく100%自分から相手に目を向けるのって、むずかしいです。
自分と相手のあいだを、行ったり来たり…かなあ。





2000年09月16日(土)



 片想いではないというきもちよさ

心が動く付き合いって、痛さもふくめてほんとうに気持ちいいです。
最近やっと片想いではなくなってきた「友人」がひとり。
たったひとりだけど、もうちょっとやそっと自分の汚い部分をたたきつけても、嫌われない自信がでてきたので、今やけんか紛いの擦り合わせをしてますねー。
最近のお題は「強さ」について、でした。
「ベスト・フレンド・ウェディング」という映画のことで、手段かまわず好きな男をとりかえそうとする美人で魅力的な主人公と、その主人公と前に付き合っていた男性と結婚がきまってる、自分のやりたいことを投げ打ってその男性に付いてゆくことを決めた大人しやかな女性とがいて、そのどちらのタイプに視点をあわせて見ていたかという、話から始まったんですが。
けっきょく、おたがいのスタンスが全然ちがってたので、「共感」は一生できないけど「理解」はできると信じてるから、だから、こうしてぶつけあうんだよね、と語ってました。ちゃんと好きだから、どうせ理解されないと諦めたくはないんです、おたがい。その結果、傷つける寸前までおたがいやりあっちゃうけれどねー。
彼女はいろんな意味でとても大人な開き直りを身につけたひとなので、
まだ突き抜けてない私は、専ら置いてゆかれるばかりで焦るのですが、
一生付き合えるといいなあ、と思ってはいます。
そのためには、相方に軽蔑される人間にはならないように、自分を磨きつづけないと…。
永く付き合ってゆく上で一番大切な感情は、一時の燃え上がりでもなく、同情でもなく、憧れでもなく、たぶん「尊敬」なんじゃないか、と最近よく思うので。


2000年09月20日(水)



 2度とないだろう、デートらしき話。


年寄りのよた話ですのであしからず。


高校の部活の先輩で、受験のときなどに相談に乗ってくださってたひとがいたんです。おだやかで、ちょっとくせのある、文学青年って感じの人で、ビオラをやってたりして、私の目には、大人に映ったんだと思います。今思うと、私が勝手に大人びてると思ってただけなんでしょうけど。

高校を卒業してからは、メールをやりとりするようになって、そうすると、内面的なこととかも、随分おたがい吐き出すようになりました。
彼は、文芸部の先輩ですから、文章やら詩を書くのが得意な人で、メールもわりとそんな感じでした。堅い話題が多かったんですねー。
私もちょっと背伸びして返事を書いてたような覚えがあります。
軽蔑されないように、気を遣ってたかなあ。
私は彼を素直に尊敬していて、懐いてたので、そのうち、高校のとき以上に親しくお話する関係になってました。電話もときどき。決まって長電話になっていたけど、そういえば、自分からかけたことは一度もないなあ。やっぱり、自分のなかではバリアを張ってたんだろうと思います。
ともかく、私にとってはよきお兄さん的な存在だったわけです。全然とはいわないけれど、あまり恋愛は意識してなかったような気がします。

もっとも、その頃から私はすでにコンプレックスがあって、絶対自分を恋愛対象として好きになる人なんていない、と堅く思い込んでいたので、自分が好意をもたれてるかもしれないと考えることさえ、恐ろしく自意識過剰で恥ずかしいことに思えたんでしょうね。
こういうところは、悲しいことに、いまも変わってないなあ。(苦笑)

半年ぐらいたったころ、つまり大学1年のときです。(高校生じゃなかったのですよー、もうけっこういい年だった。(笑))
メールのなかで、呑みにいこうというお誘いがあって、借りてた本も返さなくちゃいけなかったので、お会いすることになりました。
お散歩して、大学に入ってからの私の格好が少し大人っぽくなったとからかわれたり…まあ他愛のない話をしてて。
風が冷たくて手がかじかんできて、私はコートを着てたので、手があったかいですよー、という話になって、なんだかわかんないうちに手をつながれてたのかなあ。手の大きさとか、比べてたような気も…。
けっきょく思考停止した私は、(最近は友達同士でもきっと手をつなぐのね)と自分を納得させ、しのぎました。(笑)

これでもまだ、私は彼がそういう気持ちなのか、よくわかんなかったんですねー。だって、杓子定規に、ちゃんと「告白」→「デート」→「手をつなぐ」→「?」というような段取りを踏むもんだと思ってたもので。(笑)
それをすっとばされてしまったもので、これは恋愛感情ではなく、ただのスキンシップなんだわ、と思うようにしました。
ここらへんから、どこか歪んじゃってたのかもしれません。

その後、とにかく約束通り呑みにいって、いろいろ話したりして、でも、当然直接アプローチされるでもなく、たしか「誰かと付き合ったりしないの?」と訊かれたとき、私が「そんな物好きはいませんよー」という感じのことを答えたら、社交辞令で「俺はかわいいと思うけどなあ」と言われたくらい。
ちなみに、それは本当に社交辞令だったと思いますけど…。(笑)

そのあと、酔いを醒まそうと外に出て、ぼおっとしていました。
彼は、穏やかなんだけど、でも、落ち込みやすいひとだったようで、(精神的に少し弱かったのかもしれませんが)そのうち、不安でたまらなくなるんだと涙ぐんで、少し震えはじめて…。私は、どうしていいのかわからなくて、とりあえず、そばにいました。そのうち、ライナスの毛布か、母の膝枕か?というような感じで、縋りつかれ、抱きしめられ、私は、精神安定剤にでもなった気分で、とりあえず、震えがとまるまで背中をさすってました。

身動きできないまま、私をこのひとは、どんな存在だと思ってるんだろうと、考えてしまいました。恋愛の「抱きしめる」とは、絶対ちがうだろう、と思ったんです。抱き枕になったみたいな気がしましたから。

そのあと少し判明したんですが、私は、どうやら優しいひととして頼られていたみたい。包み込んでくれる穏やかでやさしい女性、という大勘違いな認識をされてたようです。私のほうが年下なんだけどなあ。(苦笑)

その日は、そのまま彼を励まして、「みっともないところを見せてごめん」と謝るのを、「いいんですよー」と笑って帰し、「また今度埋め合わせをさせてくれ」というのを流しながら、きっともう会わない方がいいのかなあ、と思ってました。

その件を境に(何も告白されたわけじゃないですが…)私の側は結論は出ていて、弱い部分を見せられても、どちらかというと困惑の気持ちのほうが強くて、ときめくこともなかったので、恋愛感情は自分にはないんだなあ、と感じました。
彼が不安を感じる理由が、漠然としすぎて共感できなかったというのも、あるかもしれません。そして、自分自身がそういうふうに不安定になるタイプだったので、それを癒す側には回るだけの余裕もない、という気持ちも正直ありました。エゴ…ですね。

そのあとも、大学のオーケストラのコンサートの誘いがあったりして、メールや電話があったけれど、私の側が一方的に壁をつくってしまって、気がつくとそっけなくぎこちなくなってしまってたように思います。彼も感じていたようだけど、それでもメールがつづいて。

でも、相手が言葉にしない限り、私は、断ることも、自分の感じたことを話すこともできないでいました。自意識過剰なだけかもしれないと、まだ思っていたし。
ただ、私なら、友達と思ってる人と、安易に手をつないだりはしません。
抱きしめたりもしたくありません。
そう思うから、相手がはっきりしないままずるずる行こうとするなら、会いたくないなあ、と思ってしまったんですねー。…頑固かなあ。

私がメールをやめようと思ったのは、
「精神的に落ち込むことが多くて、疲れてる。
コンサートが終わったら、なんとか時間をつくって君に会いたい」
というメールが来たとき。

なんとなく、彼はこのまま言うつもりもなく、続けてゆこうとしてるのかもと思ったら、尊敬してたはずが、卑怯なひとに見えてきてしまって、
もう、いいやって、思ってしまった。
そこらへんで、終わりました。
あっけないんだか、始まりもしないで、終わったと言うか。(苦笑)

もしかしたら、ほんとうに私の一人相撲だったのかもしれませんね。
友達にでもそういう弱音を吐くひとも、いるのでしょうし。
けっきょく、エゴをぶつけあっただけだったのかもしれません。
私も、彼が大人っぽいひとだと思い込んでいたのだし、彼もまた、勝手に私のイメージをつくりあげ、しかも気持ちを言葉にすることさえなかった。
私は、恋愛対象かどうかはわかんなかったけれど、彼のメールや言葉にそれなりに惹かれてはいただけに、弱いところをみせてくる彼にたいして、ひいてしまう自分がすごく冷たい人間のような気がしました。

私はもしかしたら、他人をまるごと好きにはなれないのかもしれない、と思いました。相手を通して、自分を見ていただけなのかもしれない。
だから、押し付けたイメージが崩れたり、彼から寛容さを求められたら、
急にこんなに冷たくなれるのか、と。
欠陥人間ということを、これまで以上に思うようになったかなあ。

まとまらない文章になってしまったけど。
ほんとうによくわからないんです。これが恋愛に関する話なのかさえ…。
ただ、ずっとこのままバリアをはりつづけ、相手がはっきりとその壁を壊してくれるまで待っているのなら、きっと一生恋愛なんて成立しないような気がしちゃうんですよね。20年そこそこしか生きてなくて、なにを「一生」とか言えるものか、とも思いますが。





2000年09月24日(日)



 それも自分の中の声

夢とか寝言とかって、自分の脆い部分が意図せず露にされるので、
ちょっと扱いに困りませんか。

私は学校の夢をよく見ます。
高校よりも中学の夢。締め付けの厳しい学校で、
ちょっとでもはむかうと異端視されてしまったので、
よく不安定になってました。いまだに、その頃の知り合いと会うのが怖いもの。

そのころ、眠ってても、熟睡できずに、寝言でよく泣いていたみたい。声殺して、すすり泣きみたいなやつ。さすがに親が気づいてましたが、自分でもどうにもならないことだからね。
けっきょく、落ち着くまで止みませんでした。
いまは、だいぶ減りましたが。

心の揺れって、体調や無意識の夢の世界とかに、あらわれるものなんだろうねー。そういうのって、怖いし扱いが難しいけど、でも確かに自分の中の声、叫びだから、無視しちゃいたくないです。
無視しても、かえって酷くなるばかりだもの。

夢判断は信じないほう。
夢で見たものは、たしかになにかのメッセージだとは思うけど、
けっきょくは、その変換公式は自分のなかにしかないものなんだと思う。
だから、死ぬ夢は再生のあかしだとか、
そんなの、信じない。

どうやって付き合えばいいのか、よくわからないけれど、
穏やかに眠りたい。
幸せな夢をみたい。
さめて、寂しくてどうしようもなくなるってわかってるけど、
ちょっとだけでも、がちがちのカラダをやわらかく眠らせたい。


2000年10月18日(水)



 眠れなくていろんなことを考えてしまう夜。

まだネット上をさまよってるよー。
明日もサブゼミなのになあ。だめじゃん、私。
某裏掲示板にひさしぶりにレスして、その内容を書くことで、自分の本音を再認識して、ちょっとブルー。
なので眠いのに、眠れなくってこんなもの書いてみたり。(笑)


人恋しいというのは、自分が充実してないからだってわかってるけど、どうにもならない。
しつこいだろうか、と臆病になるとか、沈黙に居た堪れないとか。そのくせ、しゃべりたくてたまらないのに。
チャットやってるとね、どんどん自分のボロが出るからさ、見せたくないところとかも、自分ですら見ないところとかが見えてきて、面白いけど、痛いね。昨日の、ある人の「rikoさんのファザコンも根が深いねえ」って言葉とか、考えなくちゃいけないことがいっぱい。
偏見だらけで、悪意に満ちてる自分を、改めて確認しちゃったもん。
苦い薬こそ良薬だってわかってるけどね。
やっぱり、自分の底の泥沼を覗きこむのは、気持ち悪い。
相当にえぐい人間だと、わかってたつもりだけど、私の病んでる部分は実はもっともっと根が深いみたい。


些細なことなんだけど。
心の支えになっている大好きな人たちに
なにか役に立ちたくて。
でも、サイトをやって文章を書いて、対等に言葉を交わせる、批判しあえる、
それで心を揺さぶったりできるようなそんな力は私には到底なくって。

だからって、せめてなにかモノで返そうとしてたりする自分がみじめで、卑屈でみっともなくて、いやな感じだ。
相手に喜んでほしい。
ただそれだけのつもりなんだけど、
「それだけのつもり」の後ろに自分でも意識化できていない、なにかどす黒いものが潜んでいそうでいやになる。

ほんのちょっとしたことなんだけど。
距離のはかりかたに、困ってしまう。へたくそすぎ。>自分


今日ね、ある就職のための公開講座みたいなものを見に行ったの。自己PRを200以上、とかって言うのさ。
5つ以下だったよ、わたし。
つくづく、自己分析っていやになるね。
チャットでやってるのは、いやな自分を認めることだけど、もっとすすんで、役に立つ自分の特性を見つけるなんて、きつい。
いっそ嘘、つけたら楽なのに。面接官にたいして、だけじゃなく、自分自身にさえ。
そんな逃げを、考えてしまった。
けっきょく、コミュニケーションをとること、いかに自分が役に立つ稀有な人間かを説得すること、らしい。
就職に打ち勝つには…。
自分自身さえ信じられてない人間には、いばらの道みたいです。

なんのために働くのか、自分がそもそも働きたいのか、それさえ解ってないのにね。
だけど、選択するまで、もう時間がない。
いや、選択の余地さえ、ない気がする。
甘ちゃんだと、言われるのもしかたがないよね、これじゃあ。
ひとりで生きてゆこうという気持ちが、なんでこんなに脆いんだか。


2000年10月20日(金)



 掲示板などの書き込みについて

レスとか、書き込みとか、する前にためらってしまう時があります。
けっきょく、自分の中だけで解決できない人間なので、吐き出してしまうけど、でも重たい話って、サイトの雰囲気を、居心地の悪いものにしてしまうときもあるんだよね…。
そのせいで露骨に書き込みが減ったり…さあ。(苦笑)

厄介なのは、自分にとって大切なひとであればあるほど深い話をしたくなること。でも、一方では、相手を汚さないよう、セイブしなくちゃって思うんだよねえ。
あっ、セイブしてるようには見えないという指摘はなしですよ?一応、ためらってはいるんです、アレでもねー。

どうしても重たくなるし、時には私の見当違いの解釈とかで、かえって相手を重苦しい気分にさせちゃうので。そんなふうに思いはじめると、なにも言えなくなっちゃうから、けっきょくは、自分の気持ちを優先するしかないんだけど。でも、迷わないわけじゃないんだ。

それでも、露出狂なので、書きます。
言葉が、自分のなかで粘って糸ひくより、よほど健全だと思うから。
被害に遭われた人は、お気の毒としかいいようがないけど、
そうやって毒まき散らかしても、私はもっと楽になりたいらしい。
もうすこしだけ、ゆるしていて。



2000年10月21日(土)
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