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■ 流れ星
帰りの飛行機の中で、一週間ぶりに日本の新聞に触れた。 北朝鮮の拉致問題が急激な展開を見せていて、ただただ驚いた。 空港から帰宅する間も、他の人の持っていたスポーツ新聞の過激な見出しが目に入って、なんとも言えない暗い気持ちになった。
数日後、通勤電車の中で、チマチョゴリを着た二人の女の子を見かけた。 朝鮮人学校に通う場合、何時間もかけて遠いところへ行かなければならないひともいるのだと、中学時代に習ったことを思い出していた。
なんと言えばよいのだろう。
その周りを囲むように、満員電車の中では不自然な隙間があった。 私の気のせい、だったのかもしれない。 先日の拉致問題の報道で、在日韓国人の方たちへの差別が激しくなったという話を聞いたばかりだったから。 ただ、ひそひそとよくない言葉が聞こえてきたのは、たぶん気のせいではなかった。 けれど、朝の満員電車の中で、私に出来ることは、何もなかった。
こんなとき、思い出す詩がある。 好きというのとは違うけれども、 自分が大切なことから目を逸らすときに、ふと出てくる。
「住所とギョウザ」
岩田宏
大森区馬込町東四ノ三〇 大森区馬込町東四ノ三〇 二度でも三度でも 腕章はめたおとなに答えた 迷子のおれ ちっちゃなつぶ 夕日が消えるすこし前に 坂の下からななめに リイ君がのぼってきた おれは上から降りて行った ほそい目で はずかしそうに笑うから おれはリイ君が好きだった リイ君おれが好きだったか 夕日が消えたたそがれの中で おれたちは風や帆前船や 雪のふらない南洋のはなしした そしたらみんなが走ってきて 綿あめのように集まって 飛行機みたいにみんな叫んだ くさい くさい 朝鮮 くさい おれすぐリイ君から離れて 口ぱくぱくさせて叫ぶふりした くさい くさい 朝鮮 くさい
いまそれを思い出すたびに おれは一皿五十円の よなかのギョウザ屋に駆けこんで なるたけいっぱいニンニク詰めてもらって たべちまうんだ 二皿でも三皿でも 二皿でも三皿でも!
この詩を書いた“おれ”にとって、リイ君は大好きな友達。 リイ君もたぶん、“おれ”を好きだったはず。 でも、他の子たちにとっては、ただ“朝鮮”という民族のひとりに過ぎなくて。 “おれ”も、みんなの前ではいじめるふりをして、大好きなリイ君を裏切った。 今でも思い出すと居た堪れなくなって。 ちっともくさくなかった大切な友達をくさい、くさい、と言った自分を罰するように、ギョウザを詰め込んでしまう。 初めてこの詩を読んだときから、10年経っているのに、 改めて読み直してみても、少し切なかった。
民族だったり、国家だったり、その全体を憎むのは、ひとりひとりを見て判断してゆくより、ずっと楽なんだと思う。 私にも、根っこのところに、深い偏見がたくさんある。 尊敬する友人たちと話していると、他の人よりそれが強い気がして、何度も自己嫌悪に陥った。 だからこそ、みんなが同じ顔をしているように見えて、みんなが嫌いに思えたときには、少し立ち止まることが必要なんだと思う。 目の前のそのひとが、そのひととして、きちんと見えるように。 いまのところ、失敗してばかりだけれども。 何か事件が起こるたび、無差別に、同じ民族・宗教・国籍だというだけで誰かを引き裂くような、そんな卑怯な大人にならない為に。
2002年09月29日(日)
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