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■ 学校という飼育箱のなかで
マスコミが騒ぎ立てるほどむかついて、 だから書くまいと思っていたのだけど。 私なりの書き方も、あると思うので。
中学生2人の自殺。 自殺という結末について、とやかく言えるほど 人生長くも濃くも生きてはいない。 ただ、それにいたる経過については、自分と重ねて思うことはあった。
彼女たちが飛び降りた日は、親と教師との三者面談の予定だったそうだ。 それ以前も、なぜ教室で授業を受けないのか、教師に問われていたらしい。 この中学には、教室でみんなと一緒にいることを拒む生徒たちの過ごす場所が きちんとあったという。 それなのに、少しでも元気なら教室に戻そうとしていたわけ。 それが「健全」かつ「普通」の生徒のあるべき姿だから。 学校側が、教育委員会から望まれている結果、だから。
学校は、団体行動のなかで協調性を身に付ける場所。 レクリエーションも修学旅行も委員会も運動会もなにもかも、 言うなれば、参加することが勉強であり、仕事だ。 それが楽しいという、素敵にタフな中学生は、なんの問題もないだろうし、 そのまま天真爛漫に生きていってくれればそれでいい。 ただ、全員が全員、その状況を楽しめるわけではないのだ。
四六時中同じメンバーと過ごす、狭い狭い空間。 食事でさえ、トイレでさえ、なにひとつ逃げられる場所はなく。 たかが席替えや班分けひとつ、神経をすり減らして。 グループの足を引っ張れば、たちまち攻撃の的になる。 たったひとつのミスで、その日の午後にはもうクラスのなかで孤立していたりする。
そんなシビアな世界で、どうにか自分自身を保つため、 ひとりで毅然としていよう、と心を決めると。 友達の多さで生徒の人間的な評価を決めるような人(教師)もいて、 おまえ自身に問題があるのだろう、と決め付けてくる。 ひとりでいるというその1点のために、「変人」とみなされる。 そして実際、ひとりでいて不自然でない距離をとるには、教室は狭すぎる。
学校というところは、 どうしてあんなにもひとりでいさせてくれないのだろう。 今回はふたりでの自殺、だったけれど、 ある意味ふたりだけでいることを奇異な目で見るまわりの人間がいたからこそ、 疲れたのではないだろうか。 たったひとりでいてもおかしくないだけの隙間があれば、 もう少し風が吹き抜ける場所であれば、 逆にいうと、わざわざふたりでくっついている必要もなかっただろうし、 もっと自分を大切なものでくるむだけのスペースをとれたはずだ。
そして、せっかく教室外にそうした居場所をつくっていたはずの学校が、 なぜ再び、彼女らを教室へ押し込めようとしたのか。 けっきょく、スクールカウンセラーも、在宅教育も、 表層的なものにすぎないということだろうか。 「教室」というのはなにも物理的な意味だけじゃなく、 つまり「健全」な学生のあるべき道のことで。 そちらへ必死に引き戻そうとする大人たちに、 疲れはてたのかもしれない。
それともうひとつ。
彼女たちの文章のなかで「終わらない」という言葉が耳に残った。 ふたりの、終わらない関係って、なんだろう。 それは、はじまってもいない関係と同じだ。
なんとなく。 終わらせないために付き合っていた、という気がしてしかたがない。 お互いがお互いを本当に必要としていたのではなくて、 相手が誰であろうと、運命共同体をつくることに意味があったような気がするのだ。 そうして、お互いが裏切らないように、ふたりの腕を手錠でつないで。 あとに残されるのが怖くて、お互いにしがみついて。 裏切らないために、 まわりを見ないように。 お互いが変わらないように。
もしも、もしもそうだとしたら。 私にも、同じような欲求はある。 そのうえで私は、手錠をかけることよりは、 自分から手を離して、ひとりで立つことを考えたけれど。 相手に手錠をかけるつもりはなくても、 約束や保証を求めてしまう自分が、時として顔を出す。
少し感傷的な日記になってしまったかな。
安易に、「死んで花実が咲くものか」なんて言葉はいいたくない。 誰も本人になりかわって選択をやり直すことはできないのだから。 最終的に自分を殺す理由は、リストラやら倒産で首をくくる人でもない限り、 たぶん些細なものじゃないかと思う。 死ぬ勇気、ではなくて、生きる気力がなくなったとき、そんな結末を選ぶのかもしれない。
2001年11月14日(水)
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