unsteady diary
riko



 目まで

たった半日で目に薄い膜が張って、片目はもうほとんど開けていられない。
目を疑うほど食欲も体調も悪くなってゆく。
もうとっくに卒業するはずの生まれたての仔猫用のミルクで
どうにか栄養を取ってほしいと願う。
大学病院でMRIを受けるのは、早くても年が明けてから。
こんなふうで、あの子は年を越せるんだろうか。

せめて大人になってほしい。
そりゃあ、弱いから長生きはできそうにないと思っていたけれど、
こんなにちいさいままでいなくなってほしくない。

片目をつぶって、目やにだらだらの、足も不自由なやせっぽち。
見ているこっち側が、いたたまれない。
けれど、直視しなくては。

夜間の救急をやっている獣医さんが近くになくて、困っている。
東京や神奈川にはかなりあるのに。
翌朝までほうっておくしかないことが、歯がゆい。
今日なんて、数日前にメールで相談した東京の獣医さんが、
夜間診察をしているので、礼儀知らずにも、電話をしてしまった。
取り乱してしまって、ごめんなさい。>○○先生


しょせん犬猫でしょ、という人は多い。
確かに人間の命に比べたら、取るに足らないのかもしれないけれど、
この子にはちゃんと名前があって、
一緒に暮らしてきた2ヶ月があって。
だからもう、たかが「犬猫」じゃない。
わかってもらえるとは思っていなかったけれども、
実際に、「たかが猫のことで…」と言われてしまうのは、少し詮無い。



猫と仲がよすぎるせいか、私も片目が赤く充血して、少し腫れている。
鈍く痛むので、久しぶりにものもらいかな。
眼科行かんとだめかしらん。

2001年12月25日(火)



 家族なのに…

うちの猫はタムといいます。
とてもとてもかわいくて、かけがえのない存在です。


生後2ヶ月で飼いはじめました。
飼ってすぐに、兎足と言われる歩き方をしていて、後肢が若干湾曲し、
きちんと後足で踏ん張ることができないことに気づきました。
猫自身も、後足を浮かせて前足を支えにしているような状態で、
下半身をべったりとつけてだらりと座る、というか寝そべったり、と
普通の猫とはちょっと違いました。
ですが、この当時はじゃれつくような元気はすごくありましたし、食欲もありました。

足が将来もっと不自由になるのではないかと思い、ショップへ相談したところ、ショップの規則で、ショップと関わりのある獣医の方に診てもらうことになったのですが。
「スコティッシュフォールドは先天的に異常が出やすいし、多少の奇形はあたりまえ。うちの(その病院の)スコティッシュも2歳で、後肢湾曲気味だが元気なので、これ以上歩行が困難になることはないだろう」と、軽くかわされてしまいました。

けっきょく、不信感をもった私は、別の獣医さんに診てもらうことにしたのですが、そちらでの診断は、進行性のものだと思うが、どこまで悪化するかわからないというものでした。
ちなみに、その獣医さんは、脳には障害はないとおっしゃられました。
とにかく、生後3ヶ月にも満たない状態ではレントゲンもあまり映らないと言われ、一応撮っていただいたのですが、けっきょくはっきりとした原因は見当たらない、とのこと。

しばらく様子を見るしかできないと言われ、
生後3ヶ月を迎えたのですが、歩行がより酷くなっただけではなく、
そのころから徐々に食欲が減退してゆきました。
また、さらに頻繁に身体の痙攣が起こり始めました。(猫は平気な顔をしており、痛がってはいない)
しかし、診断は皮筋をつかさどる首から下の(あくまで脳ではない)
どこかの神経異常だろう、とのことでした。
痙攣については、あくまで心配することはない、と。
気休めのビタミン剤をもらって、終わり。

3ヵ月半ごろ、やっと、後肢の膝が脱臼していることが判明しました。
それまでも透視やレントゲンをしていただいていたのですが、わからなかったようです。(でも触ればすぐにわかるのだと次の獣医さんは言いました)
診断は、生まれつきの脱臼だろう、とのことでした。
しかし、猫の膝脱臼自体が、非常にまれだということで、
生まれつきだとすればなにが異常なのか、けっきょく判らないままでした。

さらに、最近は3度、どこにもぶつけていないのに鼻血を出しており、これも原因がわからないままです。
食欲は相変わらずあまりないし、抑鬱状態で、眠ってばかりいます。
そのような状態でしたので、ただ様子を見ているだけのことしかできないのは辛く、けっきょく、3つめの獣医さんを訪れることになりました。
それが、今日…でした。

いま、生後4ヶ月ちょうど。
体重1,2キロ。
食欲減退とともに、しばらく体重も骨格も増えていません。

その獣医さんは、痙攣をみて、すぐに「小脳の形成不全」と診断しました。
母猫の子宮内でウィルス感染した場合、そうなるのだそうです。
その場合、生後2ヶ月ごろから痙攣や食欲不振、動きも鈍くなり、すべてに無気力になり、数ヶ月のうちにほとんど動けなくなり、飼い主が見るに見かねて安楽死させるのが先か、死亡するのが先か、というほどの、重い先天性の病だということでした。
「これは先天的なものだからペットショップに交渉すべきだよ」とも言われました。


このように、治療法は一切なく、進行性で死ぬのを待つだけ、という診断があり、大学病院で麻酔をしてMRIをかけるかどうかを尋ねられたのですが、
子猫で、現在の状態で、はたして麻酔をかけていいものかどうか、MRIでなにがわかるのか、糸口を見つけられる可能性があるのか。

後肢についても、脱臼だけではなく腫れている、とのこと。
ほかにも、鼻をぐすんとやったりくしゃみをすることが、ここ1ヶ月ほどずっと続いているし、目やにも、黄色いねばねばしたものが消えません。
一度は気にすることがないと言われた痙攣がそんな重い病の徴候だったらしいので、なにを信じていいのか、正直混乱している状態です。
私がしっかりしなくてはならないのに。


最後にこの診断をした獣医が、
「これは面白い、ほかにもいっぱい疾患持ってそうだね」と言われました。
医者らしいコメントだと思いましたが、「面白い」というふうに患者である子猫を見ていらっしゃる方の言葉と熱意をいったいどこまで信じてよいものか、迷わざるを得ませんでした。

いったい、この病気はどんな病気なのか、きちんとした情報がほしいと思い、インターネットで検索してみたのですが。
難病には違いはないようですが、けっしてほとんど知られていない病気というわけではないようです。
なぜもっと早く自分で病名を見つけられなかったのか。
そればかりが、ぐるぐるとめぐります。
不治の、進行性の病だとしても、なにか、できることがあったのではないかと。


ついさっき、症状のひとつだそうな眼振を確かめるため、
タムの眼が振れていないか確かめようとして、
眠っているところを起こそうとしたのですが、
何度声をかけても、なんの反応もありませんでした。
思わず、かなきり声でヒステリックに叫んでしまった。
ゆすっても、叫んでも、なかなか目が覚めなかった。

…このまま目が覚めないんじゃないか。

心細くて、医者を信じてこの子の病気に気づけなかった自分が悔しくて。
なんとか目を覚ましてくれたあとも、
堪えきれず、大泣きしました。


あんなふうに、動かなくなって、食べなくなって、
歩こうとしてもふらついて、やせ細っていって、
苦しそうに痙攣しつづけて。
しまいにはただ眠り続けて。
そういう状態を、いずれ見続け、看取らなくてはならないみたいです。


どうしてこんなことに。


母の大切な伯母が、いま危ない状態で、山形に行かなくてはいけないので
たったひとりで週末を過ごすことになっています。
この子の容態が急に悪くなっても、すぐには病院に連れて行ってあげることもできない。
いますぐどうにかなるとは限らなくても、
寝てばかりのこの子がちゃんと起きてくれるのか、きっとずっと心配してしまう。


私が泣いたって、タムが怪訝な顔をするだけなのに。
取り乱している場合ではないわ。
やれることをすべて、やってあげるだけ。

2001年12月21日(金)



 予定は未定とよく言うけれど


今後の予定についてです。


ファイルづくりやFTPソフトなどの設定を一からしなおすなんて気力はないので、HPの更新はおそらくしばらくはありません。
これまでもしていなかったので、今更ですが。
こんなに放って置いて、ジオに削除されないかどうかが心配。


最近の日記のダークさ加減は、お気づきだと思います。
否応なしに、一番ぐさぐさくる方向に神経を集中させなければいけないので、こんなことになっています。
あとから読めば、面白いとは思うのだけどね。
今はちょっと、生々しすぎる…。
けっきょく、書けば書くほど自分が一番へろへろになったので、
(読む側も災難だと思うけれど、犬にかまれたとでも思って勘弁してください)
これ以上変な方向へ行く前に、お知らせを。


しばらくのあいだ、日記の更新が止まります。
ネットじたいは、逃避でさまよっていると思うので、
どこかでお会いできましたら、よろしく。


あ、それと。
卒論提出おめでとう。>真理子さん
ほんとに、ほんと。(笑)


このunsteadyを少しでも気に入ってくださった方々すべてに、
よいクリスマスと、よいお正月が訪れますように。


         私なりの想いをこめて

2001年12月19日(水)



 食事


最近、解凍ソフトをダウンロードするついでに、便利な栄養計算ソフトを見つけたので、ときどき食事を記録するようになったのだけど。
思ったとおり、かなり栄養が偏っていることが判明した。
特に、鉄分とカルシウムと食物繊維がむちゃくちゃ不足。
カルシウムだけはサプリメントでなんとか取るようにしたけれど、
鉄分は…プルーンヨーグルトのほうが早いかな。

ここ1年ほどホルモンバランスが狂っているようなので、
もう少しまともに食事をしなければ。

前向きのときはご飯を作る気もするし、それなりに自己管理できるけど、
どうでもよくなってくると、こんなところまで酷くなるのね。
食材を買いに行くことさえ嫌になるもの。
反省。


でも秋冬は美味しいものがたくさんあるのよねえ。
「らぽっぽ」の中華ポテトが最近のお気に入り。
本当は、さつまいものアップルパイが売れ筋なんだけど、それよりも
ひんやりカリっとした大学芋が、好きです。
私の大学芋のイメージ(もさもさっ)を崩してくれたといってもいい。
さつまいも好きにはおすすめ。






その2


偶然立ち寄ったある日記のなかでのこと。
自分の手について、ぷくぷくの手だけど、この手で食材を持つとなんでも美味しそうに見える、と書いてあった。
しかも、写真つき。
ダイエット中なのだそうだけど、無理していなくて、キレイに真っ赤なマニキュアが塗られていて、なんだか素敵だと思った。


2001年12月18日(火)



 内側に飼っている虫の反乱

いろんな悩みを手紙でしか伝えられない子供たちとカウンセラーとのやりとりをまとめた本。
『手紙でしか言えなかった レターカウンセリングの子供たち』(八巻香織)より





「男は出してもいいけれど、女は出していけないといわれているもの、なあに?」
その答えは、
「怒り」「性欲欲求」「冒険心」「好奇心」「ありあまる才能」「オナラ!!」

(中略)

食欲も視線も体臭もオナラも、感情と同じように自分自身の内側から生じるものだ。オナラで悩む相談者の多くは、このほかにも「食べ過ぎることへの恐れ」「視線で人を傷つけることへの恐れ」などを、同時に訴えることがある。それ自体は病気でもなんでもない内発的なものを、意思でコントロールしようとすると脅迫的なとらわれとなる。

(中略)

朝登校して、授業が進むにつれて、ヨモギ〈相談者の名前〉のおなかが膨らんでいく。はじめは気のせいかとも思ったのだが、確かにおなかにガスが充満してくる。
教室では、いつも誰かに監視されているような気がしたり、笑われているような気がしたり、悪口を言われているような気がして、〈自分の弱みを見せたら嫌われる。つけこまれる〉と緊張の連続なのだ。
針のむしろに座る心地かもしれない。そういうときにはからだは正直に反応する。呼吸が浅くなって、吐くことを忘れてしまう。じっと外界の圧力に耐え、味も色もないものを飲み込み続ける。その一方で、取り込むだけ取り込んだものを排出して、一気に開放されたくなる。

〈中略〉

学校でも、家の中でも、ヨモギは自分の内側から湧き上がる感情を必死で抑えていたのだろう。しかし、抑えれば抑えるほどに、からだは氾濫する。おなかのなかで膨張し、「恐れずに感じてよ。あるがままの私を認めてよ」とヨモギに訴えていたのだ。







と、続く。
難しいところのない、ケーススタディ的な本。
ともすれば、ありがちなお涙頂戴になってしまいそうで、
ふだんはあまり読みたくない類の本なのだけど。
ジェンダーに関わる本なのでアイデアの足しになるかと思って手を出して、
図書館で座り込んで泣いた。

昨日の上野さんのフレーズをはじめて読んだときも、実は泣いた。
身体の中に閉じこめられ、精一杯まるい身を縮めて浅い息をしている自分がかわいそうで泣いた。


私は、あまり自覚してなかったし、悩んでいるつもりもなかったのだけど、
このヨモギっていう女の子と同じように、呼吸が浅くなって、視線が怖いために身じろぎひとつできず、そういう緊張が、頭痛と腹痛に出ていたらしい。
教室のような逃げ場のない閉鎖空間に、長時間、顔見知りとすごすときに出るだけだったので、まさしく“仮病”だと思っていた。
いわゆる「なまけ虫」の仕業だと。

特に生理のときはひどくて、ピリピリとした緊張感があって、それがよけいにからだを痛くさせていた。
生々しい話になるけど、椅子を汚したことがあって、気づいた私は、立つこともできず、顔を上げられないまま、涙声で「ごめんなさい」を何度も繰り返した。
たかがこんなことでなぜ泣くのか、体育の先生はまるで理解できなかったと思う。
私だって、自分に嫌気がさしたもの。
泣くならもっと実のあることで泣けよ、といまは思う。

その当時は、今以上に、内側から出るすべてのものが、なにもかも「ごめんなさい」だった。
大らかなうちの高校では当たり前だった「回し飲み」という習慣も、私が口をつけてもいいの?って最初は思った。
誰も嫌がらないの?って。

今思うとわれながら痛々しい。
それも、この子のようにはっきりと自覚することさえなく、じんわりとやり過ごしていたわけで。
この子の話を読んで、突如思い出して、納得した。


そうか、内側からの反乱だったのか。


私は自分を“繊細”だとは思っていない。〈否定する声もあるけれど〉
ストレスで食が細くなるわけでもないし、引きこもりっていっても、外に出て発作を起こすわけでもないし。
面接などでもわりと度胸があるほうだし、まったく知らない男たちに通りがけにヤジられ嘲笑されても、まったく表情を変えずにその日を過ごすくらいだから、打たれ強いとは思う。
ただ、そんなふうに自分が痛みに鈍いと思う理由のなかには、いろんな倫理や規範に縛られて、健全な人間だと思いたいあまりに、自覚することさえできなかった部分もあったのかな、と思ってみた。


女の子だから、内側から出してはいけないもの。
抑圧されている、自然な内発的な、いろんなもの。
性欲とか、好奇心とか。
だから、自分の欲求を自分で知ることさえ、すごく難しい。







それにしても。
昨日や今日みたいに、生々しい部分を吐き出せば吐き出すほど、
余計に居心地の悪さを感じるのはなぜなんだろう。
汚い部分を、誰かに押し付けた、という気がしてしまう。
「女の情念ここにあり」って感じで、読み手無視。
掲示板だと、もう少し気をつけてたのになあ。

そういえば最近は「日常/生活」で登録していたんだった。
こんなふうに考え続けることが私の「日常」だと言ってしまえば、それまでなんだけど。
まだ、体裁を保とうとする理性もどきが、残っているんだろうか。





一日たって、青ざめた。
なんでこんなことまで書いてるんだろう。
精神的ストリップに近い。
早く消さなくちゃ、と思いながら。
でも、同じふうに内側の反乱を抑圧している人には読んでほしいという気持ちもあって。
けっきょく思いとどまる。
すでにカウンタ回ってるし。


2001年12月17日(月)



 やさしい嘘


私が知る数少ない外国の役者のなかで、ロビン・ウィリアムズがいちばん好き。


彼主演の『(邦題)聖なる嘘つき』を見た。
ぎゅっと胸を締め付けられるような切ない映画だった。
第二次世界大戦中のユダヤ人弾圧の話であり、みんなに希望を与えるためにひょんなことから嘘をつき続けなければならなくなった主人公。
その切なさは、「ライフ・イズ・ビューティフル」を思わせたけれど、個人的にはこちらのほうが好感が持てた。
よりいっそう嘘がないような気がしたから。


終始暗いストーリーで、結末はそれなりに哀しくて不条理だったけど、そのなかで精一杯できることをやったのだという主人公の気持ちが、救いになったのだと思う。


だが、嘘は嘘だ。
命がけで守らなければ、いつかばれてしまうもの。
ひとたび持った希望が否定されたとき、より残酷な絶望が訪れる。
だから彼は、「嘘」を「本当」にする。
最後まで嘘をつき続けることで。



平和な世の中にだってあふれている、
残酷な事実をくるむ、やさしい嘘たち。
嘘をつく人の心を削って、やっと保つことのできる、重い嘘。


どちらかといえば私は、嘘なんてけっきょく実体のないまやかしだと思っていた。
希望を持たせておいて、嘘だとわかったときより一層残酷じゃないか、と非難する気持ちさえあった。


でも。
ほんの少しの間、その嘘が生きる力を与えてくれるなら、
もしかしたら、嘘は、効力のある間だけは、真実なのかもしれない。
少なくとも、追い詰められた彼が、とうとう親友に嘘だとばらしたとき、その親友は今度こそ絶望し自殺を選ぶのだけれど、遺書には少しも恨む気持ちが湧いてこない、その数日を希望を持って生きることができてよかった、とあった。
それは親友を思いやる奇麗事ではなくて。
たぶん本当に、だだっ広い絶望のどこを探しても、欠片もやさしい嘘を責める気持ちは湧いてこなかったのだと思う。


やさしくて、しかし残酷な嘘は、はたして責められるものなのか。
もしも知ってどうすることもできない残酷な事実を隠すためだったら?
いろんな告知の問題と少し重なって、揺れた。


2001年12月16日(日)



 抑圧


研究者は基本的に、対象に「自分」は選ばない。
被差別部落研究をしてる学者の論文を読んだときも、
高みから見下ろすかのような視線を、ひしひしと感じた。
もちろんそんな人ばかりではないだろうが。

ジェンダーやセクシュアリティに向かうことは、
自分も同じ戦場にあって、武器を持ち、誰かを傷つけていながら、
一方では、“殺人”を罪に問うような作業だと思う。
正統派のフェミニストが女を堕落させる女と見なすような要素をいまだ多分に持っている私にとっては、自分で自分を裁く気分でもある。




以下、とりわけ考えさせられた言葉。



セクシュアリティの近代は女性を「美へと疎外」し、反対に男性を「美から疎外」してきた。
女性は身体の囚人となり、美が強要される。男たちの目の前で、輝かしい肉体を誇示するミスたちの背後に、合わない「ガラスの靴」に自分の足を合わせるために、血を流す娘たちがいる。
そしてこの「美の強制」を「主体化」したときに、女性の「セクシュアリティの近代」の内面化は完成される。ダイエットやエステを追及する女たちは、自分の身体を最後の領土として、みずからの「主体性」を賭けている。
彼女たちはそのとき、「身体の囚人」であることから逃れられず、また逃れたいとも思わなくなっている。

(上野千鶴子)



ヒールの高い靴。
鬱陶しいストッキング。
締め付ける下着。
塗りたくったフルメイク。

すべて「武装」であり、合わないのに履き続ける「ガラスの靴」。
そんなことは、いまさら言うまでもない。
問題なのは、それらを装ったほうが、自分が楽だと思ってしまうことだ。
苦しくないはずはないのに逃れたいと思わなくなっている自分自身なのだ。

強制されているのなら、その強制から逃れることは不可能ではない。
抵抗して、抵抗しぬけば、変人と呼ばれるとしても、自分は快い状態をつくれるだろう。

だが、「男社会で望まれる女のありかた」を、女自身がすでに自分のものとして内面化しているとなれば、話が違う。
男の望みが、そのまま自分の望み、として解釈されているわけだから。
主体的に女としてのアイデンティティを持ち、追求するとして。
そうして認められたとて、その価値は女自身には還元されないのだが。
とにかく、「女は常に綺麗でいなければ」と女性自身がのたまうこと自体、明らかに自分を壊す方向へ望んで向かおうとしているわけだ。


なるほど、私も主体化した囚人だと思う。
扉に鍵がかかっていなくても、逃げようとしない囚人。


なぜ、自分の持ち物である自分の輪郭を、色を、ただ自分のものであるというその一点のみで、価値を認められないんだろう。
愛せないんだろう。
気持ちが悪いなんて、どうして思ってしまうんだろう。
外にあるすべての鏡の前で、あるはずのない「檻」を見つけて、すくんでしまうんだろう。


「性同一性障害」(「障害」という表現については不満があるが、いまのところ便宜上この表現を使うしかない気がする)関連のニュースや文献に対して、やたら敏感になる私は。
否応なく自分の内面と食い違ってゆく「自分の身体に苦しめられる」ということに共感している…らしい。
最近やっと気づいたこと。

気持ちは女なのに、ごつごつした身体と性器が気持ち悪くて手術を望む。
もしくは、気持ちは男なのに膨らむ胸が嫌で、息ができないほどにきつくさらしを巻く。
必死に、「男から見た理想的な女らしさ」を体現しようと健気に振舞う人がいて、一方では「男らしさ」を強調するためにリスキーな行動をしてみせようとする人がいる。
そういう「らしさ」に囚われた姿にいらだちつつ、一方では惹かれた。

なんとも自分本位な、共感の理由だった。



「ものごころついた時から、自分の身体を客体としての視線にさらされ、自分の身体の持ち主であることから疎外されてきた少女たち」
「自分の身体が男性にとって性的価値を持つことを学習し、そのことに傷ついたら、それを逆手に取る女たち。」(上野千鶴子)

同じなのだよね、勝利者となる女も、敗者となる女も。
男仕立ての価値基準に準拠した狭いフィールドの上で、共食いしているだけ。

そこから降りなければ。
ずっとそう思っているのに。
自ら主体化した囚人だとしたら、なにから逃れて、どこへ行けばいいのか、なおのことわからなくなる。





ふと思ったのだけど、私の性別が男だったとしたら。
つまり、逆に「美から疎外」「身体から疎外」されている側だったとしたら。
今でも悩んでいるけれど、「男らしさ」という意味で、営業に強いコミュニケーション能力などの仕事能力に、より一層深刻に悩むことになるんだろうか。
うむむ。

2001年12月15日(土)



 メールアドレス

数日前、ネットで本を購入しようとして、確認のメールがメアドに届かないという電話を受けました。
自分が打ち込むときとまったく同じアドレスを指定したのですが、エキサイトの2つのメアドとも、駄目。

で、自分でも試してみたんでした。
「rikoruru@excite.co.jp」というのが私のメールアドレスなのだけど。
これは、全部小文字で半角で、でもって、ドットでいいはずで。
何度も打ち間違えないようにして、がんばって送信するんだけど、
明らかに、このメアドには届かない。
ちなみに、unsteadyのトップにずっと前に貼り付けておいたメアドをクリックするのでも、届かないんですねー。
でも、このアドレスから以前メールを頂いたこともあるし、
いまさら入力を間違っているはずないんだけど。

なぜ。




後日。
エキサイト、トラブル続出期間だったと判明しました。
大事なメールでも、容赦なく届かないままだったみたい。
webメールだから、しょうがないのかなあ。
でも、ちょっとほかのアドレスに浮気しそう。
だって、gooやyahooのメールだと、ログインせずに新着メールを確認できたりするフリーソフトがあるんだもん。
けっこう便利そうなので、考え中。

2001年12月11日(火)



 男の子は泣かない

ボーイズ・ドント・クライ
(http://www.werde.com/movie/new/boysdontcry.htmlで映画の紹介)



こんなに後味の悪い映画は、たぶん初めてだ。

単純に、「泣けるよい映画」だろうか?

泣くと癒されるというけれど、

違う。

これは怒り?

悔しさ?

いろんなことがよけいにわからなくなった。



誰かを恋人として愛する基準って、なんだろうと思った。

性別っていうのは、どこに表記されてるものなんだろう。

外見?

戸籍?

性器の形態?

生殖の可不可?



ブランドンは恋人ラナに自分が肉体的に女だということを隠して付き合っていたのだけど、ツクリモノの性器でも、そうと知らなければ愛し合えた。
その一方で、ブランドンの性別を知ったのち、そんなの関係ないと一旦は愛情が変わらないことを誓う。
それなのに、ラナはふと、恋人の髪が洗いざらしで少女のようにも見えたとき、キスを拒む。
ブランドンの性自認がどうであれ、セックスがどうであれ、
そのとき彼女は、ふと相手が同性であると意識した。
それだけで、キスができなくなった。




ジェンダーやセクシュアリティに関する文献は、多少は読んだ。
物質的ではない、文化的な「性」(ジェンダー)を扱っているときは、その曖昧さを理解しているつもり。
でも。
性別は本質的なモノじゃないという学術的な説明はどうであれ、
直感的に自分は「男」もしくは「女」だと自認する仕組みや、もしくは自分は同性愛者/異性愛者/バイセクシャルというふうに認識するときの、本能に近いような感覚までは、机上の論理では解きほぐせなくて、なんかもう、ごちゃごちゃ。

けっきょく、なにもよくわかってないということだけはよくわかった。
それなのに論文を書こうとしているのだから、どんなふうに納得させればいいのやら。



それでも、ブランドンに関しては、まだはっきりしてる。
ブランドンは、女と知られて恨まれレイプされてなお、泣くことを拒み、弱音を吐くことを拒んだ。
それは「彼女」にとって、自分のジェンダーは「男」だったからだ。
レイプされるはずのない「男」だったからだ。
これはこれで突っ込みどころ満載なのだけど、ある意味、まだ明瞭。


問題は、ブランドンの恋人、ラナ。

ぶっちゃけた話、「好きになった人がたまたま同性だったんだからいいじゃない」みたいな括られ方(多くのサイトでそんな感想が書かれている)は、納得いかない。
実際、だからこそ、監督自身、キスを拒むあの一瞬を、描いたんだと思う。
そんな単純なものじゃないと、思う。
そんなに簡単にすべてクリアになるものじゃないと思う。

相手が肉体的にも精神的にも男であったとして、挿入しないセックスは有りだと、私は思う。そもそも、セックスレスでも、恋愛は可能だ(となんとなく思っている)。

ましてや、ブランドンは、(心の中は)男だ。
「彼女」は何度も、「自分は『男性』だが性的に障害がある」という言い方をする。
身体は、紛れもなく女と認識されるだろうモノではあるけれども、
その身体を男として恋人として認め、受け入れることに、たいした壁はないのかもしれない。
実際、ラナはたぶんある程度は受け入れた。
でも、完全にではなかったと思う。
ブランドンを少女だと意識した途端、ラナは戸惑うのだから。



心を入れるこの器って、なんなんだろう。

身体って、意識とどういうふうにつながっているのだろう。



2001年12月10日(月)



 ぼーい・みーつ・がーる?

斉藤美奈子(2000.12)『モダンガール論―女の子には出世の道が二つある』マガジンハウス をななめに読んでみた。


ちなみに、副標題の「女の子には出世の道が二つある」っていうのは、「社長になる道」と「社長夫人になる道」の二つの選択肢のこと。
著者は「欲望史観」なるものを唱えているのだけど、それは「きれいなお洋服を着たい」でも「リッチな暮らしがしたい」でも「社会の中で認められたい」でも何でもいい、自分の欲望にそって人間は動き、歴史ができるのだという見方だそうな。

なんともシンプルな。

男の子にも出世の道が二つあるんだろうか。
「社長になる道」と、「社長の愛人になる道」と。
いや、愛人という言葉の侮蔑的な響きからして、出世じゃないよな。
でも、社長の夫はたいがい影が薄いものと決まっていて、
少なくともそれを出世とか玉の輿と思う社会の目は、ないよな。
ここらへんも、逆差別的というか、なんというか。

それにしても、「夫人」という言葉はすごい。
(ほかの)夫の人って書くんだよ。
それで、他人の妻。(所有物)



もう1冊。

北原みのり(2000.8)『フェミの嫌われ方』新水社

「フェミ」っていうのは、「フェミニズム」のことだそうな。
こんなふうに略すっていうことには別の意味があるわけで、自分がその枠の外側にいるということを表す記号なんだと思われる。
…わかるんだなあ、この感情。
いじめや差別の構造って、こういうものかもしれない。



最後に1冊。
こちらは、孫引き。


『QUEER JAPAN Vol.3 特集:魅惑のブス』勁草書房

 70年代初頭に、ウーマンリブの運動をやっていた頃、小沢遼子さんが私たちのことを「一部暴力ブス集団」って命名したの。小沢遼子さんも私たち側の人だったんだけど、あの人、諧謔趣味があるから。たしかに世間一般でウーマンリブというと、「ブス女たちが騒いでいる」という言われ方はしてたんだけど。でも、実際は大違いよ。女性解放なんかをやるのは極めつきのブスだと言われていたから、本当に自分がブスだと思ってる人は、もう恐ろしがって近づいてこなかった。だいたいビラなんかまいてても、ブスは避けて通ったもんね(笑)。本物のブスには、こんなビラを受け取ったら致命的だっていう恐さがあったんじゃない。本物のブス、真性ブスになっちゃうって。(p.124-125)


いやー、面白い。
こういう偏見まみれの本音トークは好きよ。
差別の中の差別、いわゆる2重構造が見えて。
一方ではつながろうとして、一方では排除しようとする。
だから、メビウスの輪。
騙し絵の世界。

私も、今でこそ開き直ってゼミのなかで異端を走ってるけど、
ゼミに入った当時は、大人しかった。
さっきの「フェミ」の話じゃないけど、外側にいる感覚を忘れたくはなかった。男子に思いっきり気色悪がられるのは嫌だった。
ゼミという議論の場を離れたら、「フェミニズムは真性ブス女の遠吠え」っていう枠組みに逆戻りしていたから、とりあえず性格までブスに見られないように、やらしー計算をしてた。

今でも、「素の私」は計算してる。
さりげなく、逃げようとしている。
ヒジュラや半陰陽、性同一性障害などの素材を扱いながら、部外者として足元を確保することを忘れない。
「女の腐ったような男」というなにげない表現に、片方では「女」として傷つきながら、片方ではそういう男を嫌う感情がある。
(「男の腐ったような女」という言葉がないのは、男の腐ったのが正真正銘「女」だから、だ。これじゃ侮蔑表現にもなりゃしないもんね。)



2001年12月09日(日)



 冬の香り


先日、ブルガリのブルーに再会。
ジンジャー系が少し苦手で素通りしてきたはずなのに、惹かれてしまった。
冬だからあったかみのある香りがほしくなったみたい。
しかし、大学の最寄りの駅ビル内のキムラヤでは、なんと4800円。(40ml)
いまだに人気があるし、定価が5900円だからしょうがないけれど、
グリーンティを1900円で買った私としては、痛いお値段。
ただでさえ、卒論関係の書籍でお金が飛んでゆく季節なので、
ネット関連で安いものを探してみるつもり。


鼻の先が凍るようにつんとして、冬の香りがほしくなる。
甘くてあたたかいお菓子が恋しくなり、
暖房を入れた部屋でのハーゲンダッツもまた嬉しい。
いかにも冬。
時間の過ぎるのは早いなあ。
海外旅行計画も、テロで頓挫したし、卒業旅行は計画していないまま。
とうとう、冬のはじまり。


これから「ボーイズ・ドント・クライ」を借りてくる予定。
性同一性障害の女性(生物学的に)が男性として生活しているところへ、過去がばれ、女であることがばれて、恋人(女性)の身内に殺されるという、実話に基づいたお話らしい。
関連するインタビューや批評を見ているだけでも、言葉にならないイロイロが出てきて、これはやっぱり見ておかないと、と思うようになった。
救いのないストーリーらしいので気が重いけれど、卒論の糸口を見つけられるといいなあ。


2001年12月08日(土)



 フレンチネイル日和


進まないわー。
4万字(100枚)が最低ラインって、いったいどれだけ書くと埋まるんだろう。ぶひ。
私たちはゼミ2期生なのだけど、1期生の先輩たちがのっけから張り切って、基準の2倍ほど書いたらしく、先生は「4万字なんて余裕でしょ」とのたまう。
ほかのゼミと見比べてみてくださいよー、先生。(涙)

卒論って、他大学では50枚だとか80枚だとか余裕で聞くのだけど、世間の平均を知りたくなった。
知ってもどうにもならないが。
「いいものを」よりも「卒業しようね」が合言葉。


ゼミの帰り道、上野駅の本屋に立ち寄ったついでに、向かいの構内のソニプラもどきで衝動買いしてしまった。
いや、だって。
SUSIE NYの、ゴールド、ゴールドラメ、赤のミニサイズのネイル3本セット。
どれも普段縁のない色だったんだもん。
別に「限定」に惹かれたわけじゃないのよ、と言い訳。
そういえば、かれこれ半年振りにネイルカラーを買ったような気がする。
(半年前のは380円のミュークだった…)


帰宅して、パソコンに向かうのに飽き飽きしたころ。
左手にだけ、塗ってみた。
黄味肌なので、われながらゴールドのなじむこと。
シルバー系が流行ったころは、つられて買ったこともあったけど、人間、無理はいかんな。
それだけではちょっと味気なかったので、真っ赤なやつを斜めに。
さらに、ゴールドラメは反対側から斜めに、変形フレンチ。
おおっ。
なんだか左手だけパーティー用になったみたい。
でも普段着には合わないなあ、これ。
そもそも悲しいかな、私のキャラに合わないので、ふだんにはゴールドとゴールドラメだけ使おうっと。



その後、猫を触ろうとしたら、爪の色にびっくりされた。
なにか別の生き物に見えたのか、じゃれついてくる。
いつもならすぐにのど鳴らして舐めてくるのに。
むむっ、猫に嫌われるほどヤバイのか?
いいんだ、誰かに会うときは、ちゃんと落とすもん。


ネイルカラーって、香水と同じで、ふと意識したついでに、
なんとなくうれしくなるものなんだよね。
ふわって香るとき、さりげなく指が色づいてるのが目に入ったとき。
そういうのは、たぶん自分のためにするものなんだと思う。
そのぶん、剥げてると気分がめげるけど。
(まめに塗りなおさないし、落とすのが面倒でついついネイル自体を敬遠してしまう私)


「女は化粧をしてて当たり前」という男性も女性も多いけれど、
私はそうは思わない。
ノーメイクでも、しゃんとしていて素顔のステキな人はたくさんいるし。
私の友達(≠大学関係)には、おしゃれにまったく関心のなくて、すべてのお金を本や趣味につぎ込んでいるような人も多い。
そういう潔さもまたすごくかっこいいし、正直憧れる。
(自分は何をしてるんだ、って思ってしまうときもある)
もちろんスッピンも、TPOはわきまえなくちゃいけないけれどね。
ある程度の年齢を過ぎた女性にとって、「お化粧は身だしなみ」という言葉でくくられがちだけど、“義務”じゃなくて、“自分にとって心地よいかどうか”、それがいちばん大切なんだと思う。

2001年12月07日(金)



 陰陽師(≠映画版)


夢枕獏さんの「陰陽師」の語りというものを、ラジオで聴いた。

「二人語り」という不思議な形式をとっており、ヘップバーンの声でお馴染みの池田昌子さんが清明を、渋い演技をする政宗一成さんが源博雅を、演じている。
残りの地の文はふたりで分担、もしくは唱和。
ドラマに欠かせぬ効果音というものはなく、
イメージ音楽だけが、語りを時折支えている格好だ。
朗読ほど人間の味がしないわけでもなく、
かといって、臨場感というものを追求したわけでもない。
なんとも静かで、無駄なものを一切そぎ落とした語りだけに、
人間の言葉の魅力に気づかされる。

清明は、割り切れぬ部分をいとおしむようなあいまいな色気があって、なんとも、艶やか。
政宗一成さんが源博雅を演じているのも、無骨な愛嬌が魅力的で。
夢枕さんの独特な、ともすればとっつきにくいような文章が、落ち着いた声音の語りで再現されると、こんなにも印象深くなるものか、と驚いてしまう。




ある一場面から。


(ある女が、心変わりした男を恨み、呪い殺そうとしている。)


復讐のために鬼にもなろうという女だ。
うつしみで願いが成就できないとあらば、死をも賭けよう。
悲しいことだが、一度離れた人の心は二度と戻ってこぬ。
そのくらいは女自身もわかっていようさ。
何日も何十日も幾月も、毎日毎晩その女は、そのような理を持って自分自身を納得させようとしたに違いない。
しかし納得できなかった。
できなかったからこその、鬼ぞ。
誤解の上でのことなら、その誤解を解けばよい。
しかしこの場合は、そうではないとは思わんか。
救いようがないのだよ、当人の心に鬼が棲んでおるのだからな。
鬼を消したとしても、最後には当人そのものを消さねばならんことになる。

…俺にはできん。

                       夢枕獏 「陰陽師」


「そのような理を持って自分自身を納得させようと〜できなかったからこその、鬼ぞ。」

という部分に惹かれた。
この「陰陽師」はSF的な扱いをされるが、
けっして非現実的な世界ではないという気がする。
実際に呪い殺すことができるかどうかは別として、
誰にでも心にちいさな鬼が棲んでいて、それを理でどうにか抑えつけている。
薄氷を踏む、そんなイメージ。
最後まで氷が割れずに岸にたどり着く人もいれば、
ほんの少しの重さが過ぎたために、足元から崩れ落ちる人もいるのだろう。

道理を、正論を、自分に言い聞かせ、情念をねじ伏せる。
それでもねじ伏せられなかったほどの想い。
なんともおどろおどろしいけれど、
ただの絵空事、としてはとらえられない自分がいる。

2001年12月04日(火)



 ふたたびメイク話


ものすごいカバー力で某クチコミでも名高い
クレドポーボーテのファンデのサンプルをたまたま手に入れて、
興味しんしんで試してみた。
ヒッキー(という言葉は、「引きこもり」よりイタイと思う…)なので、家の中だけで。

なんかねー、毛穴という毛穴が存在しないかのようになってしまった。
それはもう、恐ろしいほど。
それがたぶん「陶器肌」の意味するところなんだろうけど。

ふと思ったことは。
毛穴が見えない、無駄毛もない、
どこもかしこもすべすべで赤ちゃんのようで、
それでいて身体だけが大人の女性だっていう存在が、
たぶん理想とされる女なんだろうな、ということ。

たいがいの男が求める理想の女は、“優しい淫乱”。
ロリータがけっして廃れないのも、そうかなって思う。
肉々しいくらいに成熟した大人の女、じゃなくて。
だけど子供のわがままさと異性への拒絶もなくて。
ただただ包み込んでくれる女。
(「いるかよ、そんなもんっ。」と毒を吐く)

そもそも、生きている以上、程度の差こそあれ、毛穴はあるのさ。
小雪さんくらい肌が綺麗だったら、どこまで近づいても毛穴が見えなさそうだけど。
ま、普通の人は、けっきょく薄化粧に見える厚化粧を探すわけで。
うーん、うわさに聞くハウスオブローゼのファンデとか?

まあ、無理してファンデを塗ることはないので、
とりあえず下地とお粉でごまかしている日々。





こういうだらだらした日常を書いてる隅っこで。
「化粧品を好きでなにが悪い?」って開き直れない自分もいる。


化粧をするのは、圧倒的に女だ。
化粧と髪型とファッションのことにしか興味がないのが女で、
経済などの社会のニュースや将来のヴィジョンに目を向けるのが男。
そういう分業が、深い根っこのところにはあって。
だから、典型的な100の質問でも、
男性向けと女性向けじゃ、質問の種類がまるで違うわけ。
確かにそういう区別に対しては、穏やかではいられない。
でも。
私も、典型的な経済オンチで。
こうして書いてるように、確かに化粧品が好き。


香水にはまりたてのころ。
ブルガリが好きで、でも甘い女らしい香りだったから、こっそり家の中だけでつけてた。
さっぱりとした、ユニセックスな香りじゃなくちゃ、
つけてはいけないような気がしていた。
いまでもさっぱり系が好きなんだけど、
その好みのなかにはたぶん、甘くて女らしいのはよくない、という意識が入り込んでいると思う。
そのぶん、メンズをつけられる人はかっこいい気がしてしまう。
スプレンダーを試したときも、なんとなくその甘さがひっかかって、
いまだにレギュラーボトルは買っていない。
かなり好きな香りなのだけど、なにか鼻につく気がして。


でも、好きなものを無理に嫌いなふりをしなくてもいいはずで。
似合わなくたって、自分が好きなら、たぶんそれでいい。
少しずつ、少しずつ。
そんなふうに思いはじめてはいる。
日記の内容も、以前より素の自分に近づいているし。


それはたぶん、いろんなひとの文章のおかげ。
洋服やお化粧、ランジェリーに香水。
あけっぴろげの恋人との話。
でも、文章のなかには生きてきた時間の厚みがあって。
なにも恥じていない、ということの潔さがある。
そういう自然体な「女」のひとの姿が、
これまでずっと抱いてきた“イロボケ”的なイメージを
粉々にしてくれたから。

無理にメンズライクなものをつけなくても、
受け入れる身体を持っていても、
それを恥じないことで、いくらでも対等になれるってことなんだろう。




なにはともあれ、卒論!!
…なのだけど。
猫をぎゅぎゅっと抱っこして、もう少し逃避。
あったかい。

2001年12月03日(月)



 雲隠れのわけ


2週間ほど前。
わがやのThinkpadがとうとうお亡くなりになりました。
突然、ほんとうに突然、ハードディスクが認識されなくなり、
作ってあったウィンドウズ起動ディスクも、これでは役に立たず、
2度とデータが戻ることはありませんでした。

修理しても、ただまっさらな時代遅れのパソコンが帰ってくるだけ。
ずいぶんお金も時間もかかりそうだったので、
卒論提出にも間に合わなくなるし、
しょうがないから貯金はたいて買い換えました。
新しいPCの賢さと速さにびっくり。
まあ、OSも98からXPに変える時期だったのかな、と思うので投資はいいんですけど。


データの消滅。

1年半のあれこれが、ぜーんぶ吹き飛んだんで。
正直、まだ実感がないくらいなんですけど、
ちょっとへこみました。

ホームページのデータも。
卒論のデータも。
いろんな人のメールアドレスと、
頻繁にやりとりしていたころの、濃ゆいメールたちも全部。

半分は自業自得なので、つべこべ言わずに気分を入れ替えなくちゃならないんですが、まだうまくいかない。

パソコンがなくなって、ぽっかりと空いた時間。
もはやパソコンなしでは文章も書けず、
そのかわり、子供のころからずっと使っている古い机の中身を
ほとんど空っぽにしました。
あとは、本。
なにはともあれ、本。
そうしたらきれいさっぱり。
とりあえず脳みそ以外は誤魔化せますかね。


過去を引きずる、なんて言葉は大げさだけど。
それなりに重たい意味のあった自分の言葉たち&もらってうれしかった誰かの言葉たちが消滅したことも、たぶん意味があることなんだろうって思います。
いい加減、前だけを見て歩けよ、ってことなのかな。


日記がこうして残って、それだけでもよかった。
そんなふうに思ってしまうあたり、
まだまだ過去にも目は向いてしまう証拠。



あ、書き忘れた。

BBS、ほうっておいたままです。
なんとなく放置してたあとは、PC故障。
なんだかなあ、というところ。

貴重な書き込みは、うれしく受け取ってます。
見てくれて、ほんとうにありがとう。

2001年12月02日(日)



 化ける


学園祭期間中は、ライブにも行けず、ほかもほとんど参加せず、
だらだらっと過ごした。
去年は合同ゼミ合宿と重なって参加しなかったし、
1,2年はサークルの端っこで地味にうごめいていただけ。
4年間、ずっとこんな感じ。

ぼけっと見てたテレビで、うちの学園祭のミスコンを見て。
あら、こんなのやってたんだ、とはじめて知った。
出場者のなかで一押しだった美人がミスに選ばれ、納得。
めちゃくちゃビューティフル。
将来どこかのアナウンサーか女優さんにでもなるかもしれないので、
名前覚えておこうと思ったり。
それにしても、ミスコン出場者のほとんどが文系学部出身なのはなぜなんだろう。
美容やファッションにかけるエネルギーと勉学にかけるエネルギーは反比例するってことなのか。
だけど、内定者懇談会で会った東大生男子だって、
中身はかなり遊びまわってる軟派なタイプが多かったので、
いまどきどこでも同じなのかなあ、と思ってみたり。

ちなみに、
「ふだんどこで遊んでんの?」なんて聞いてくる男は、苦手。
そこで千葉の奥地だとか答えても、ねえ。(笑)
そもそも私、なにを夜遊びと言うのかわからないし。
大学が赤坂の近くであろうとも、
足を踏み入れたこともない。
別にそれでいいじゃん、と思いつつも、
まるっきり無関心になれるわけでもなく、
内定者の子たちの持ってるブランド品やメイクをチェックしてしまう、
微妙なところ。




メイクって、最近はもう高校生か中学生から始めるらしいね。
私も、最初の口紅を買ったのは、中3だった。
忘れもしない、セザンヌの300円くらいのやつ。
化粧品コーナーに近づくのさえ恥ずかしいことで、
だけど、魔力みたいなものを感じて、
一度口紅というものを手にしてみたくて、
マツキヨでプラスティックの見本の色だけを頼りに買った。
見本のケースのなかに本物の口紅が入ってて、
色が試せるようになってることさえも知らなくて。
結果は、大失敗。
かなり赤みの強いピンクは、ファンデで隠すことを知らないころの汚い肌色にはまったく合わなくて、ピエロみたいだった。
ティッシュでごしごしこすって
その口紅は、机の引き出しの奥にしまいこんだ。
母に絶対に見つからないように。

そして私は、一生化粧の似合わない女なんだと思い込んだ。
思い込みの激しさは、いまも変わってないけど。


メイクにはテクニックが必要だと知ったのは、
それから何年もあとだった。
その間も、こっそり母のファンデーションを試して肌色修正を試みるも、
ファンデーションを塗ったらもっと汚くなって、へこんだ。
この汚い肌色をどうにかできる最後の望みが、
私にとって、ファンデーションというものだったので。

雑誌というものは、偉大だ。
それこそおかめみたいに真っ赤になる頬が、
コントロールカラーで消せるかもしれない、と知って
どれだけほっとしたことか。
当時としては高額の2500円を投じて、
わき目も振らず、エテュセのイエローのコントロールカラーを買った。
まじめに感動したね、あのときは。
いまじゃ、オイルフリ−のこれでは乾燥してしまうので使えないけど。
あとはマスカラ初体験のとき。
はじめてつけたとき、ああメイクしてもいいんだ、と思った。
この私にだってメイクする意味はちゃんとある、って。

私は別に肌が汚かったわけではなかったらしい。
だけどそんなことも知らずに、なんだかよくわからないけど必死でいろんなものを隠そうとしていた。
にきびがあるわけでもなく、年齢相応のもち肌で、
確かに色白ではないけれど、そこそこ肌理も整っていたらしいのに。
ほんとうに汚くて汚くてしょうがないと思っていた。
明るい色を着られなかったのは、顔色が気持ち悪いと思っていたからもある。
母や祖母にもそう言われてきたし、
ほかの子たちに囲まれて、気持ち悪い(存在が、だと思う)と言われたこともあったけど、
私がすごいと思うのは、それを自分でも信じていたことだ。
過去形、でもないけれど。


コンプレックスなんて誰にでもあるよ、と大人は言うけれど。
欠点を隠すんじゃなく、長所を生かすメイクをしようよ、と雑誌には書いてあったけど。
そんなの、なにも響いてこなかった。


氷室冴子さんが、どっかの本のあとがきで書いてた。
少女のすっぴん肌はそれだけできれいなのに、
汚い異物を塗りたくって隠してしまう。
だけど、そうした犠牲の上にする化粧こそが、
あやしくて、きれいなんだと思うって。


ガングロはもう消滅したようだけど、
ゴージャス系の、どんどん気持ち悪いくらいに濃いメイクになってゆく
年端も行かない女の子たちの気持ち、
少しわかるような気もするんだよね。

私だって、いわゆる万人受けする爽やかなメイクは大好きだけど、
そういう爽やかなナチュラルメイクが似合うのは、
はっきりいって素材を生かしてもっと綺麗になれる人で。
嫌いなところをどうにかしようといじりまくると、
どんどん濃くなってゆくのさー。
まわりからどれだけ言われても、
それはもう、彼女たちの、もしくは私の、鎧なんだよね。


ちなみに。
私はまつげが長いと言われることがあるけれど、
それはメイクをしているからであって、けっきょくは嘘。
マスカラつけて、まつげくるん、して。
嘘をついて、少し自分にプラスを増やして、
それでやっと、平気な顔をしていられるようになる。
そういう鎧。


ひそかな野望は、
誰かにまつげ長いね、と言われたら。
ありがとう、って、さらりと返してみたい。
自分の唯一強調できる場所なんだから、ちゃんと大事にしてあげたい。
だけどついつい、
「だってマスカラしてるし…」とか言い訳してしまう
小心者の自分が憎い。(笑)


2001年12月01日(土)
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