ヒトリゴト partIII
 Moritty



金曜日。キレ気味。

2003年02月28日(金)

ふと気付くともう2月も終わりで、かなりあせっている。2月中に終了予定のものがまだ終わっていない。それにしても、今週はあっという間に時間が過ぎてしまった。処理しなければいけない案件がやまほどあったこともあるけれど、火曜日にある二つの専門誌(イギリスの週刊誌と日本の新聞)に正確ではない記事を書かれてしまったことで、問い合わせが殺到してしまい、その対応に追われた。イギリスの週刊誌に載せられた記事に関しては私自信に責任があるので、自業自得なのだけど、日本の某新聞については直接インタビューに答えたわけではなかったので、どこからかの情報がまるで我々自身が言ったかのように書かれてしまった。記者も何故裏を取らなかったのかと少々むっとしたが、専門誌とはいえ正確性より注目性が大事と考えているので、彼らに言わせれば自分の仕事をしたまでなのだろう。問題の根源は、インタビューに答えた誰かにあるのだが、その誰かだって、その記事を利用して自分たちに有利なように物事を運ぼうとしているのだろうから、間違ってやったわけではなく明らかに意図的だ。

(愚痴です、ごめんなさい!)
考えてみれば本件についてはみんなハッピーみたいだ。なのに、なんで私がその後処理をしなきゃいけないの?どめ男は、そういう面倒なことは嫌いなので全く関知しようとしないし。(一体何のためにいるんだ、この人は?)結局だれも頼りにならないから自分で何とかするしかない。私なんて、安月給なのに責任ばかりを負わされるし、こんな風に戦い続けていつの間にかどんどんどんどん男っぽくなってるし。これじゃお嫁に行けない。もうっ、こんな会社やめてやるーーー。(キレ気味なんだけど、気が小さいのでキレきれない・・・。)



一杯の幸せ

2003年02月24日(月)

まるでおやじだ、と本当に思う。もう疲れてだめ、早く帰ろうと思っていたら、友人からこんな添付メールのついたお誘いメールをもらってしまい、一杯だけと思ってついつい出かけてしまった。

「蔵でしか味わえない、もろみ雫入荷しました。もろみ雫とは、蔵でしか味わう事の出来ない上槽直前の『もろみ』の味わいを楽しんでいただけるお酒です。もろみの中でも特に上質な真ん中のもろみだけを汲みだした、本当に、今の時期に蔵にいって味わえる酒、たるからすくって飲むお酒です。今までに体験したことのないすばらしい味の世界をご堪能いただきたいと思いまして、ご案内申しあげます。少量の入荷ですので品切れの際はご容赦ください。
茨城県友部 郷乃誉 黒吟もろみ雫原酒にごり」

いわゆるにごり酒のまるさではなく、やわらかな味わいなのだけど発酵したてのぴりぴり感があって、スッキリとした酸味のあるそのお酒は「今までに体験したことのないすばらしい味の世界」と言いきるだけあり、とてもおいしかった。ただ、個性が強く、あまり沢山飲むお酒ではないので、本当に一杯だけいただいた。お酒一杯で幸せになれるなんて、本当におやじだなぁ。



愛とは

2003年02月23日(日)

多忙を理由に、すっかり日記おさぼりなのだけど、あまり間を空けたくないので少しアップデートしよう。と思った。

日曜日は親戚の叔父さんの息子のコンサートだった。学生の演奏会と言っても、サントリーホールでの演奏だし、海外公演などを含めて活動範囲も広そうなのでそれなりに楽しめそうだと思い、従姉の今日子ちゃんを誘って聴きに行った。きっと、聴衆は友達や家族ばかりなのだろうね、と話していたら、案の定演奏者の友人と思われる大学生らしき若者たちとその父兄と思われるおじさん、おばさんが殆どだった。演目は、リストの交響詩「マゼッパ」、シベリウスの交響曲第5番変ホ長調op.82、そしてベルリオーズの幻想交響曲。前半はアルファ波でまくり右脳活性化のため少し気を失ったけれども、ベルリオーズの幻想交響曲は大迫力だった。オペラではないのだが、楽章が一連のストーリーのワンシーンになっていて、そのストーリーを理解してから聴くと非常に臨場感がある。ストーリーがとても衝撃的だったので、簡単に紹介しておくと:

主人公(ベルリオーズ自身がモデル)が恋に絶望して阿片自殺を計ったが死にきれず、彼の見る一連の幻想が各楽章になっている。

第1楽章 夢と情熱: 主人公の心理描写。憂愁、憧憬、熱情、諦観。

第2楽章 舞踏会: 主人公は、舞踏会で愛人の姿を垣間見る。

第3楽章 野の風景: 主人公は、野原で心の平安を得ているが、愛人を想い出し、その不実を疑って心乱される。遠雷。日没。

第4楽章 断頭台への行進:(主人公は、愛人を殺してしまった。)彼は断頭台に曳かれて行く。群集の熱狂。ギロチンの刃が落ちる直前、愛人の姿を想い出す。

第5楽章 ワルプルギスの夜の夢: 主人公は地獄に落ちた。地獄の怪物どもの呼び交わす声。彼の愛人が現われるが、下品な娼婦になり果てている。弔鐘が鳴り、彼の葬儀が始まる。地獄のロンド。

死にたくなるほど、そして殺したくなるほどの愛とは、いったいどんな感情なのか。愛とは、もっと穏やかなものであるはず。なんだかこれでは精神病のようではないか。ベルリオーズがとてもかわいそうになったけれども、この病気にかかってしまったら、それはもうどうにもならないのだ。



私の生きる道

2003年02月20日(木)

今日も夜の電話会議があった。会議は11時半頃終わって、それからお風呂に入り、洗濯をしながら今この日記を書いている。夜の1時半。一人暮らしの大きなメリットというのは、一般的常識を無視して、好きなときに好きなことができるってことだろうか。お腹が空いたらご飯を食べて、食べたくなかったら別に食べることもない。暖房だって好きな温度に設定できるし、眠くなったらいつでもどこでも寝ればいい。共同生活者がいたらこうはいかないだろう。相手の存在を気にしながら行動しなければならない。でも、これは一人暮らしのデメリットでもある。誰の行動も気にする必要がない(=誰も自分の行動を気にしない)というのは、気楽な反面寂しいことでもある。電気が切れていても誰も取り替えてくれないし、取り替えようとして落ちて頭を打って気を失っていても、誰も気付いてくれない。そんな風に考えてしまうと、時々無性に寂しくなることがある。当たり前のことをつくづく思うのだけど、人間って一人で生まれて一人で死ぬのに、一人で生きることは出来ないんだな。それだけ、生きていくということは大変なことなのかもしれない。一人で抱えるには重過ぎる荷を背負っていかなければならないから、時々誰かに寄りかかったり寄りかかられたりしないと心身ともにもたない。でも、生きることが大変だからって、死ぬことを夢見ながら生きている人はいない。明日もあさっても1年後も10年後も生きていると思いながら生きている。

最近、「死」を扱ったドラマが多い。そのひとつが草彅君が主演している『僕の生きる道』だ。草彅君演じる中村先生はスキルス性胃ガンにかかり、手術不可能で余命1年と宣告される。初めは生きる目的を失って投げ遣りになってしまうのだが、母親の言葉をきっかけに、死のその日までの時間を大切にしようと思い直し、残された貴重な時間を一生懸命に生きようと決心する。ドラマは展開も速くて面白いし、草彅君の演技も上手いので観ているけれど、ちょっとひっかかることがある。中村先生は死ぬことを受け入れて、その上で毎日を一生懸命生きようと決心する。僕に残された時間はあと10ヶ月だ、と思いながら生きている。でも、人間ってそんなに強いものだろうか。彼のような立場になることは想像を絶するけれど、もし私だったら死ぬ直前まで死を本当の意味では受け入れられないような気がする。自分の余命をカウントダウンなんて出来ない。(自ら余命を選ぶ=自殺は、余命を認識することとは別の性質のものだと思う) たとえ頭ではわかっていたとしても、奇跡が起きて治るんじゃないかとか、頑張って探せば何か良い治療方法があるんじゃないか、とかを一生懸命考えてしまうだろう。生きることがどんなに辛かったとしても、やっぱり死ぬことより生きることを考えてしまう。多分、生きている限り、希望があるからかもしれない。(でも、私は生命線がないからあぶないかもと思う今日この頃・・・)



戦争反対!

2003年02月18日(火)

同僚の百合子さんが今日オフィスに戻ってきた。百合子さんはニューヨークに知り合いが多く、一年に3、4回はニューヨークに行っているが、今回も10日間ほど休暇で遊びに行っていて昨日帰国したのた。ちょうど、ニューヨークでは反戦デモが行われていて、なんでもベトナム戦争以来の大きなデモだそうだ。南アフリカのツツ司教がはるばるニューヨークまで来て演説をしていたんだって。今回の戦争は、確かに反戦主義者のみならず、普通に軍隊を支持する人々だって疑問を感じていると思う。北朝鮮という存在を考えると、なおさらイラクを今このタイミングで攻撃する理由がよくわからない。ブッシュさん、今は21世紀。もうカウボーイの時代は終わったのよ。

と、ブッシュを非難してみたものの、反戦デモに参加もしていない私は口先だけな気もするが、実は本気で困っている。今度の4月に、東京で大きな国際会議を予定していて、現在その準備に追われているのだけど、戦争の状況次第では今やっている努力も水泡に帰してしまう可能性があるのだ。戦争が起きれば、みんな(会議の参加予定者、スピーカー等)は命の危険を冒してまではるか彼方のニッポンまでなんて来ないだろう。もし、そんなことになれば、会議はお流れになるか、タイミング次第では東京だけでなんとかやっといてね、じゃーヨロシクぅ、なんていうことになるかもしれない。まあ、お流れになったらなったでそれは楽だからいいかもしれないけれどね。でもやっぱり寂しい。不純な動機で大変恐縮ですが(でもそれだけじゃない、誓って)、戦争反対!Say NO to War!

因みに、百合子さんとどめ男の戦争も早速再開してしまった。戦争反対!



Bitters and Sweets

2003年02月16日(日)

おとといくらいからずっとひどい偏頭痛に悩まされ、かなり辛かった。今回の偏頭痛は左側のおでこの辺りだ。いつも、左側だけどその時によって後頭部だったり耳の上の辺りだったり、首の付け根のところだったり色々だ。左脳って、確か言語とか数字とか論理的な部分を司る脳で、右脳が感覚的、芸術的な部分を司る脳だったはずだ。そう言えば、最近の私はすっかり左脳的な思考に偏っている気がする。(ハイパー時は特にそうだった。)あまり芸術とかに触れていない。いい音楽を聴いたり、きれいな絵を観たり、脳がリラックスするようなこととは縁遠くなっている。だから、左脳がオーバーヒートしているのかもしれない。

今日は、朝から冷たい雨が降っていたし、もらった林檎がたくさんあったので、久しぶりにケーキでも焼こうと思いたってアップルパイを焼くことにした。お菓子作りなら左脳はあんまり使わないし、少しはリラックスできるに違いない。それに、料理作りもそうだけど、想像力を働かせられるのが楽しい。お菓子の場合、基本の分量さえ守れば、あとは工夫次第で色々なバラエティーのあるもの(味も形も)が出来上あがる。そして、大抵の人は、お菓子をみるとやさしい気持になって、食べると幸せな気持になる。私は甘いものが大好きというわけではないけれど、やっぱり甘いものがあると幸せな気分になる。小さい頃のほろ甘い記憶がよみがえるからだろうか。「ショコラ」という不思議な映画があった。古い因習に未だに縛られているフランスの小さな村に、ある日、ジュリエット・ビノシュ演じる母と小さな娘が北風と共にやって来てチョコレートショップを開く。村長は、キリスト教の断食の時期にそんなものを開くとはとんでもない、と店には行かないように村人に忠告するのだが、村人達は人目を忍んで一人、二人と村人が彼女の店に訪れる。彼女は不思議なことに、店を訪れる人の好みのチョコレートをピタリと当てて、それを食べた彼らはみんな幸せな気分になってしまう、というような話だ。この映画を観ると間違えなくチョコレートを食べたくなってしまう。チョコレート然り、甘いお菓子には、食べた人を無条件で幸せにしてしまう何か不思議な力があるような気がする。人生の苦味から一瞬でも逃避できるからか。出来上がったアップルパイは思いのほか美味しくて、頭痛も和らいでちょっとだけ幸せな気分になれた。

夜、空を見ると昼間の冷たい雨が嘘のように晴れあがっていた。ぴかぴかの月が東の空に昇っている。そうか、今日は満月だったんだ。



太田豊太郎

2003年02月13日(木)

人生そんなに甘くない。昨日は上手くいきそうに見えたことも、時間がたつと色々と大きな障害が見えてくる。でも、障害が見えたということは何をすればいいかが分かったというわけだから、それはそれで順調なのだろう。まだハイパーだったから、あまり落ち込まなかった。

今日のお昼は、叔父さんと食事をした。叔父といっても、父の従弟なので、日頃からそれほど親しくしているわけではない。昨秋、父の従兄の法事に行ったときに名刺交換したら、職場がとても近いことが分かった。親戚同士で名刺交換というのも変だけど、今まではそんな程度の付き合いだったのだ。叔父の職場は、お堀をはさんだ向かいで、私のいるオフィスの窓から叔父の会社がちょうど見える。これも縁だからと、たまにご馳走してもらうようになった。今度、その叔父の大学生の息子さんが属するオーケストラのコンサートがあるので、聴きにこないかと誘われてチケットをもらった。彼はコントラバスを演奏するそうだ。遠戚なので(又従兄弟?)、会ったこともないし親戚という感じもしないが、何となく親しみを感じて応援したくなってしまう。

話をしていて分かったのだが、何でも、その叔父の義理の曾祖父(かなり遠いけど)は森鴎外と同時期にドイツに留学していて、「舞姫」の主人公、太田豊太郎のモデルになった人物だそうだ。そんな話をしていたら、一瞬、心がベルリンに飛んで行った。もし、豊太郎のモデルが叔父の義理の曾祖父ということだとすると、彼は、頭は良くてエリートだけれど優柔不断で、いざという時に決断できずに人まかせで、挙句に自分の否を人のせいにしてしまう、あまり私の好きなタイプじゃない、かも。ごめんなさい、叔父さんの義理のひいおじいさん。



ハイパーMoritty

2003年02月12日(水)

今日はとても寒かった。ここ2、3日暖かかったこともあり、なおさら寒さを感じたのかもしれない。でも、やはり風の匂いに春が近いことを感じて、私は何だか気持ちがうきうきしてしまった。咲き始めた梅の香りのせいだろうか、それとも風の吹く方角のせいなのだろうか。冷たい風だけど、真冬の風ではなく、初冬の風でも晩秋の風でもなく、やはり2月の風だった。2月は、冬でもなく春でもない、とても不思議な月だ。この不思議な頃が私は大好き。

その不思議な風のせいなのか、今日はとてもハイパーだった。朝から仕事が山のようにあったのだけど、不思議なくらい手早く片付けてしまった。難しいと思って進めるのをためらっていた案件も、手を付けてみるとまるでうそみたいに上手くいきそうで自分でも驚いた。おかしい。だって、何もやる気がおきなくて、何をやってもすべってしまうときもあるのに、今日は一体何が違うのだろう。根拠はないけれど、何をやっても上手くいきそうな気がするのだ。そして、本当に上手く行く。そう考えると、仕事にしてもプライベートにしても、成功するか否かはつまるところ自分にあるということなのだろうか。"tip of the iceberg"という言葉が頭をよぎった。人間がその短い生涯に発揮できる能力というのは、氷山のほんの一角に過ぎない。脳細胞だって大半は使われることなく死滅していく。そんなふうに、冷たい水面下に隠れて存在すら認識されなかった能力を使えば、無理だと思って諦めていたことの殆どは実は可能なのではないか、とハイパー状態継続中の私は思うのだ。



こわい話。

2003年02月10日(月)

今日は月曜日だけど金曜日の気分。嬉しい。

ところで最近、もしかして自分には予知能力があるんじゃないかと思うことがある。「私はエスパーだ」だなんて言うことは、すごく気恥ずかしいので密かに心の中に留めておこうと思っていたのだが、今日、またその兆候があったので思い切って書いてみよう。

通勤には、会社から一応定期代をもらっているのだけど、定期にしても大して割安じゃないこと、帰りに寄り道することが多いこと、そして同じルートを行き来するのがあまり好きではないことから、私は定期を買っていない。いくつかあるルートのひとつにJRを使うルートがあるので、JR用に「タッチ&ゴー」のSUICAのイオカードを持っている。これは定期入れごとタッチしてゴー(通りぬけ)できるからとても便利。私鉄のパスネットはいちいち定期入れから出して、機械を通さないといけないから少し手間がかかる。そして、今日は久々にJRで通勤した。SUICAは便利な反面、リスクがある。十分な金額がチャージされているのに、タッチしてもエラーになってしまうことがほんのたまにだけどある。
前置きが長くなってしまったけれど、実は、私はそのエラーを事前に感知できるのだ。朝の通勤ラッシュ時、電車が到着するとサラリーマンの波がものすごい勢いで改札を抜けようとする。でも、意外とみんな礼儀正しいので改札を抜けるための行列ができる。そして、やっと次は自分の番だ、と思ってタッチする直前に、突然「あ、やばい。エラーする。」となぜか思う。でも、タッチしようと勢いがついた手の動きを止めるすべもなくタッチしてしまうと、予想通りカンコン♪カンコン♪と鳴って扉が閉まる。そして、後ろの人の舌打ちが聞こえてくる。私は、犯罪者のような気分で列を離れて、駅員さんのいるところで記録を調べてもらい、通してもらう。こんなことが、今までに何度かあった。そして、今朝もそうだった。

SUICAだけじゃない。昨年、ロフトから転落したときもそんなことがあった。階段を上る途中からとても嫌な予感がして、「私は上に上がったら落ちるな」って思ったら落ちた。4メートル近い高さから、背中から落ちたので、下手すると首の骨とか脊髄を痛めてもおかしくなかったけれど、落ちる準備が出来ていたからムチウチくらいで済んだ。友達に言わせれば、ショックのため、単に記憶がごちゃごちゃになっているためだそうだ。確かに転落したときはショックだったからそうなのかもしれないけれど、SUICAの場合は通れなかったからといってショックという程ではない。やはり、これは危機予知能力なんじゃないかと思う。ただ、もう少し早く予知してくれれば対策の立てようがあるが、それが0コンマ数秒前にしか予知できないので、たとえ危険を予知しても、それを避ける方法を考える時間すらないから、あまり意味ある能力ではない。いや、これは本当に予知能力なのか。それとも、逆に「あーなったら怖い」とか「こーなったら嫌だ」と思う気持ちが、そういう現実を引き寄せてしまっているのかもしれない。しかし、それにしてもSUICAのエラーという現実はどう念じても引き寄せられないよ。引き寄せること自体超能力じゃないか。やっぱり私はエスパーかもしれない(^^;恥)



おいしいマグロが食べたい

2003年02月08日(土)

母の体調が良かったので、久しぶりに三浦半島先端の三崎に出かけた。多少渋滞していたので、家から1時間半ほどかかってしまったが、電車なら都心からわずか1時間強で行ける。そんなに都会に近いのに、三浦半島には大根畑とキャベツ畑があたり一面に広がっていて、のどかで空気も良く、私のお気に入りの場所だ。海だって神奈川の海とは思えないほど透明度が高いし、其処此処に生える棕櫚(シュロ)や蘇鉄(ソテツ)は南国の雰囲気をかもし出している。人もさほど多くないので、夏にはのんびりと海水浴を楽しむのにも最適だ。中でもこじんまりとした荒井浜がお勧め。白い砂浜ってわけには行かないけれど、水は本当にきれい。

三崎は遠洋鮪の水揚げで有名で、港の魚市場付近は鮪料理の店が軒を連ねている。最近できたらしい「うらり」というショッピングエリアに入ってみた。焼津のフィッシュセンターが小規模で小奇麗になったようなところだった。魚屋さんや乾物問屋などが所狭しと並んでいる。3万円以上もする鮪の大トロの大きな塊が売られていたけれど、いったい誰が買うのだろう。鮪のカマもまた巨大だ。どうやって焼けばいいのだろう。鮪を使った「とろまん」もちょっと気になる。スーパーなどでは見かけないようなものがたくさんあって、意外と面白かった。

お昼は、おいしいと評判の「さくらや」で食べようと思ったのだけれど、場所が見つからなかったので、しょうがなく人がたくさん入っていそうなお店に入った。でも、マグロはいまいちだった。ただ、穴子のてんぷらがおいしかったので、総合的には「まあまあ」かな。今度はおいしいマグロを求めて絶対「さくらや」を探し出そう。



笑いの極意

2003年02月06日(木)

笑いは健康に良いらしい。笑うことによって体熱が上がって発汗し、吐き出す息や汗とともに老廃物が体外に排泄されて血液がきれいになり、白血球内のナチュラルキラー細胞(いわゆるNK細胞)の動きが活発になって病原菌を退治するそうだ。ガンだって治ってしまうらしい。「笑う門には福来る」ってやつだ。

今日、会社は違うけど同じ職種の人たちの懇親会があった。20数名くらいの集まりだったのだけど、参加者はみな個性的でとても新鮮で楽しかった。それに、外部の人と接触するのは楽しい。殆ど仕事の話はせず、それぞれ好き勝手な話をしていた。司法試験の勉強に専念するために今度会社を辞めるIさんは、僧侶の免許を持っていて、浄土真宗のお経の意味と唱え方を教えてくれた。読経する時の音程がきちんと決まっていて、それも僧侶試験にでるらしい。高校野球大好きなTさんは過去の試合をすべて記憶しているみたいで(知らない間に覚えてしまうそうだ。レインマンみたい…)何年の決勝戦は何対何で何処が勝ったとかを暗証していた。

殆どの人は普段顔を合わせる人だったのだけど、その中に始めてみるYさんがいた。Yさんは一見とても暗くて地味で垢抜けない感じの人で、隣に座ってしまったどーしよ話題に困りそう…、なんて思っていたら、実は彼はめちゃくちゃおもしろい人だった。おもしろい人と言っても色々なおもしろさがあるが、彼はウィットに富んでいる訳でもなく、ジョークを飛ばすわけでもなく、上手い駄洒落を言うわけでもない。だけど、Yさんと話をしていると、気が抜けてしまうというか、体の力がふぅっと抜けていくような感覚に陥り、その昔、箸が転がってもおかしかった頃みたいに、彼の言うことがすべておかしく聞こえて、お腹の皮が捩れるほど笑ってしまう。今、冷静になって何がおかしかったのか考えてみても、特に話の内容がスバらしく面白かったとは思えない。では、何故だろう…。Yさんは、福井出身で、どこか朴訥な感じの訛りがある。話し方はとても謙虚で腰が低い。多分、彼がずば抜けているのは話の「間」の取り方だと思う。絶妙のタイミングで、少しどもりながら、福井訛りの朴訥なトーンでツッコミを入れる。また、話をスルッと意外な方向に持っていく。その方向がまたおかしい。これって才能なのかもしれない。頭もいいのだろうな。私は間の取り方がとても苦手なので、それこそ弟子にでもなって勉強したい気分だけど、きっと無理、私は。それにしても、あんな才能を捨て置くにはもったいない。

あんまり笑いすぎたので、ちょっと腹筋が痛い。でも、おかげさまで、NK細胞も活発になっていることだろう。インフルエンザ防止対策。




百合子さん vs. どめ男

2003年02月05日(水)

今日、外出先からオフィスに戻ったら、同僚の百合子さん(仮名)と上司(どめ男としておこう)が声を荒げて口論していた。私が入ってきたため、一瞬間があったけどすぐに口論の続きを始めた。私もどめ男とはウマが合わないけれど、百合子さんは輪をかけて合わない。彼女は、9年間ニューヨークで仕事をした後、3年前東京に転勤になった。その仕事振りはまさしくニューヨーク・スタイルで、効率性と国際性を重視している。無駄なことはしない。一方のどめ男はその名の通り超ドメで、古臭い流儀で仕事をするから結構無駄(と思われること)が多い。英語とか国際的などということは大っ嫌い。そして、本人は全く自覚していないが時代遅れの超男尊女卑男である。恐らくそんなところから議論は始まったのだと思う。百合子さんは淡々と、でも強い口調で話しているけれど、どめ男は顔を真っ赤にして感情丸出しだ。最後には「君は上司の言うことが聞けないのか!俺に言われたとおりやればいいんだ!!」と怒鳴っていた。あーあ、それを言ったらおしまいだよ…。

私はそもそも、理論より感情が先行してしまう人は苦手だ。特に男性。そう言えば、初めてきちんと付き合った人がそうだった。彼はとても感情的な人で、気に入らないことがあるとすぐにキレた。時には暴力をふるった。そのときのトラウマなのかもしれない。そういう男性を見るとぞっとしてしまう。

だめ男のさらに尊敬できないところは、そんなに威張っているくせに気が小さいところだ(気が小さいから威張るのか…)。百合子さんに怒鳴り散らした後、彼女が帰ったのを見計らって、こそこそっとやって来て、私に彼が正しいことについて同意を求めようとしてきた。私はそういうのは好きではないので、適当にかわすと、今度は自分の子供の受験苦労話やら奥さんの腰痛の話を始めて同情を買おうとしてきた。百合子さんも確かに融通がきかないところもあって、悪い面もあるのだろうけれど、彼女はだれにもそんな媚は売らない。どちらが正しいのかはわからないけれど、私はやっぱり百合子さんに味方してしまう。




神様

2003年02月04日(火)

照明については、意外とうるさいほうだと思う。蛍光灯のような明るさは好きではなくて、どちらかというと白熱灯のフロアランプやスポットライトなどを部屋の隅に何個かおいた程度の明るさが好き。だから、実際天井の電気が点かなくても、それほど苦にはならないし、むしろボンヤリするときはそのほうが良かったりする。だから、というわけではないけれど、まだ切れた電球を取り替えていない。

今日は誕生日だったのだけど、ちょっとしぼんでた。オメデトウって言ってもらえるとやっぱりうれしいし、今日の日まで健康で生きてこられたことを考えればめでたいことなのだと思う。でも、何となく落ち着かないような居心地の悪さがあって、急に自分に自信がなくなってしまった。最近ずっと考えていることが頭を離れない。私はなぜここにいるのか?

何年か前の12月、ネパールで3週間を過ごしたことがある。予定は何も立てず、それこそ行き当たりばったりの旅で、縁あってそのうちの一週間、寝袋を担いでアンナプルナをトレッキングすることになった。そのあいだ、それまで出会ったことのないような、想像を超えた美しい情景に幾度となく出会った。今日、薄暗い部屋でボンヤリしていたら、その情景が昨日のことのようにはっきりとよみがえってきた。眼前に雪をたたえて聳えるヒマール。それは、神々しいという言葉が軽く聞こえてしまう程美しく、その情景を見た瞬間、経験したことのない感情がわあぁっと湧き上がって涙があふれた。空気が薄いせいだけだったのかもしれないけれど、とにかく不思議な感覚だった。その時の情景は今までも度々浮かんできたのだけど、今日は一段とはっきりと浮かんだ。つい最近読んだ「ダイヤモンドダスト」のマイクの真似ッコみたいだけど、その情景を思い浮かべるととても心が落ち着く。キリストとかアラーとか仏陀じゃない、もっと大きな力(それが神と呼ばれるならそうなのかもしれないけれど)が、確かに存在する。それを確信したあの瞬間を、今日久しぶりに思い出した。



闇から光へ

2003年02月03日(月)

家に帰って部屋の電気を点けたら、パチっと嫌な音がして、電球が切れた。とうとうこの日が来たか、という感じだったけど、何で今日なのさ。私の部屋はロフトがある関係で、結構天井が高い。天井が高くて開放感があるし、実際より広く感じるので気に入ってはいるのだが、この電球交換だけは困ってしまう。大家さんから長い梯子を借りるか、テーブルの上に椅子を載せて上海雑技団みたいに電球交換をしなければならない。けれど、去年ロフトから転落した苦い記憶があるので、雑技には恐怖感がでてきてしまった。やはり大家さんに梯子を借りなきゃだめかもしれない。あーあ、面倒。

しかし、こんな日に電気がショートするなんて、一瞬縁起悪っ、と思ってしまったけれど、闇は全ての根源、とか、闇から光へ向かう過程は光そのものよりも遥かに輝いている、とかいう話もあるので、そんなに悪い話でもないか。かなり強引だけど、物は考えよう、つかそう考えないとやってられないから、これは生きる知恵か。とりあえず、暗い部屋でパソコンというのは目に悪いから、もう寝よう。



しゃぼん玉

2003年02月02日(日)

時々、ある音楽のフレーズが頭の中をリフレインして止まらなくなることがある。それは、CMの音楽だったり、ドラマの主題歌だったり色々だけど、全く関係ない状況で無意識に口ずさんだりしてしまうので、結構わずらわしい。昨日の晩から、「しゃぼん玉」の歌が頭を離れずに困っている。しゃぼん玉とんだ 屋根までとんだ 屋根までとんで こわれて消えた、っていうあれだ。

そう言えば、小さい頃よくしゃぼん玉を飛ばして遊んだ。縁日でシャボン玉を作るプラスチックのおもちゃを買ってもらって、おばあちゃんと縁側で飛ばした。風のない日はかなり高いところまで上がっていくので、どこまで飛んでいくかと夢中になって飛ばした。しゃぼん玉の歌をおばあちゃんと一緒に歌ったのを覚えている。

つい最近、「しゃぼん玉」がとても悲しい歌だと知った。しゃぼん玉の作者は、生まれてすぐに亡くなった自分の子供を想ってこの詩を書いたのだという。そんなことを知らない私は、無邪気に歌っていたけれど、子供心になんとなく哀愁の漂う歌だとは感じていた。もちろん、当時「哀愁」などと言う言葉は知らなかったけど。確か、この歌の二番はこんなだった。「しゃぼん玉 消えた とばずに消えた 生まれてすぐに とばずに消えた」
世の中、いろんな人のいろんな思いが、いろんなかたちになっている。目に見えるものだけを見ていたら、きっと世の中のものの半分しか見てないことになるのかもしれないな。

昨晩のコロンビアの事故のニュースはショックだった。ありきたりの感想だけど、たくさんの夢がはじけてとんだような喪失感を感じた。ニュースで、亡くなった乗組員のひとり、イラン・ラモンさんの息子が、発射前にインタビューに答えている様子が流れていた。「パパがスペースシャトルに乗るの、怖くない?」「ううん。パパが怖くないんだもの、僕だって怖くないよ」なんだか泣けてしまう。




私は何故ここにいるのか。

2003年02月01日(土)

今日は何もする気が起きず、朝からぼんやりしていた。天気が割と良かったので、家でだらだらしていることに罪悪感を覚えたけれどそれも一瞬で、近所のスーパーに食料品を買いに行った以外は外に出ることもせずに雑誌やマンガを読んでいた。くだらない雑誌や昔読んだマンガを流し読みしたりしていたが、それも飽きたので買ったのに読んでいなかった南木佳士の『ダイヤモンドダスト』を読んだ。芥川賞を受賞した「ダイヤモンドダスト」を含む四つの短編集で、テーマは生と死と愛。表題の「ダイヤモンドダスト」はとても重い話なのに心が温かくなる、そんな話だった。南木佳士は信州で医者をする傍ら、小説やエッセイを書いていて、彼の書く小説の主人公はみな地味で真面目に生きる普通の人々だ。そんな彼らの日常や非日常を淡々と客観的でクールに描いている。それなのに、その言葉はとてもやさしく、暖かく、心に沁みる。それは、おそらく彼が医者として、多くの不治の病を抱えた人々やその家族と接しているからかもしれない。生と死と愛を、生身で感じているからかもしれない。

「ダイヤモンドダスト」の中で心に打つシーンはたくさんあったけれど、そのひとつは、主人公が看護士として勤める病院に末期の肺ガンで、異国の日本で家族も友人もなく、たった一人で入院しているマイク・チャンドラーというアメリカ人と主人公の会話だ。マイクの病状はかなり悪化しており、彼は自分の死が近づいていることを知っている。ある夜中に、主人公に聞いて欲しい話がある、と言って話を始める。
彼はベトナム戦争でファントムの操縦士だったが、夜間飛行中に燃料漏れを起こし、座席ごと下界の海にパラシュートで脱出する。その時、夜空を見上げて彼は思った。
「誰かこの星たちの位置をアレンジした人がいる。私はそのとき確信したのです。海に落ちてから、私の心はとても平和でした。その人の胸に抱かれて、星たちと同じ規則でアレンジされている自分を見出して、心の底から安心したのです。今、星を見ていて、あのときのやすらかな気持ちを想い出したかったのです。誰かに話すことで想い出したかったのです。」

自分がなぜここにいるのか、と思い、とても不安になることがある。きっと、その答えは「自分がここにいると決まっているから」ということなのかもしれない。なんだか、ヒトリゴトpart Iチックになってしまったかも。


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