ヒトリゴト partIII
 Moritty



久々の日記。

2003年03月26日(水)

最近とても忙しい。一日があっという間に過ぎて、気がつくと夜の9時とか10時になっている。「人生について…」とか考えている暇がない。つか普通、考えないんだろうけれど。

昨日、元先輩と電話で話していたら「Morittyは自分に厳しすぎるよ」と言われた。厳しいのはいいけど、厳しすぎるのは良くないんじゃないかって。自分としては、厳しくしているつもりは全くなくて、自分の能力を(悲しいかな)わかっているからこうなってしまうんだと思う。求めていることを達成するためには自分の能力の限界があるから、後は努力でカバーするしかないのだ。

でも、私にとって苦しみは辛いものではない。別にMなわけではない。だって、苦しみからは必ず何かが生まれる。苦しみは永遠ではなく、その果てには、喜びや達成感、そして安堵感が必ずあると思うから耐えられる。逆にいえば、苦しみなくして本当の喜びや達成感は得られないんじゃないかとすら思う。それより、私が怖いと思うのは悲しみだ。苦しみが動だとしたら、悲しみは静。それは、身体中に潮が満ちていくように染み渡って、身体は身動きできなくなる。能力や努力は何の意味もない。悲しみに対して抗うすべを私は知らない。



お父さん

2003年03月20日(木)

今日はまた夜に電話会議だったので一人会社に残っていた。会議が終わって、トイレに行こうと思って部屋をでたら真っ暗で、廊下も化粧室も電気が消えていた。スイッチを押してみても点かないので、大本の電源が切れているのだろう。電気を点けてもらうためにわざわざ警備室に行くのも面倒なので、我慢して家に帰ることにした。会社を出ると、たくさんのほろ酔い気分のサラリーマンだの学生だのがうひゃひゃと笑いながら歩いていた。そうか、明日休みなんだもんね。

やってられねーぜ、と思ってタクシーで帰ることにして、ちょうど通りかかったタクシーを止めたら、一週間前に乗ったのと同じ車だった。行き先を告げると、運転手さんに「お客さん、この前も乗られましたよね」と言われてふとミラーをみると、確かにこの間の運転手さんだ。感じのいい人だったので、何となくほっとした。運転手さんは、感じはいいのだけどちょっとおしゃべりで、今日も彼の舌は絶好調だった。戦争の話に景気の話、芸能人を乗せたときの話、稲毛と稲城を間違えた失敗談や、酔っ払いを乗せたときの対処法などをずっと話していた。普段聞けない話もあって面白かったけど、ちょっと疲れた。でも、いい人なんだと思う。ふと、興味が沸いたので聞いてみた。

「運転手さん、タクシーの仕事をしていて、良かったことってなんですか。」
「そうですねぇ…。娘がね、新宿で仕事をしているんですけど、残業をして遅くなると迎えにきてって電話くれるんですよ。そんな時、良かったって思いますよね。だって、やっぱり心配じゃないですか、夜遅いし新宿は変なやつがたくさんいるし。でも、勤務中は電話に出れないから、この前メール付の携帯電話に買い換えたんです。でも、ははっ、まだメールの読み方がわかんなくってね。いやー、苦手なんですよねぇ、こういうのは。明日、私も非番なもんだから娘に教えてもらうんですよ。」

運転手さんはとても嬉しそうで、ごく普通の、娘を持つお父さんの顔になっていた。



アジア会

2003年03月19日(水)

今日はアジア会だった。時間通り行けるかなと思ったら、案の定、会社を出ようと思ったら電話が鳴り、足止めをくってしまった。でも、1時間遅れくらいで参加することが出来た。

アジア会とは、単にアジアの料理を食べに行く会だ。必ずしもアジアについて語り合うとかではないけれど、基本的にはみんなアジア好きかもしれない。半年に一回くらいのペースで集まっている。最近、仕事にかなりはまっているので出られないかとも思ったのだけれど、気持ちが内向きになりすぎてよくないのでおいしいものを食べて元気になろうという意気込みで参加した。今日は主催のマンダリンさんが予約をしてくれた西安料理のお店に行った。最後は、西安独特の刀削麺といって包丁で切るのではなく削ってある麺でしめた。結構おいしかった。中華はラーメン以外久しぶりのような気がする。

自分のことを棚に上げて言ってしまうけど、みんな結構マニアックなので、話が面白い。そんな話を聞いていたら、中国を旅行したときの高揚感が蘇って、心臓がドキドキしてきた。やっぱり私は旅が好きなのかもしれない。八達嶺で感じた風や、盧溝橋の獅子の欄干、上海の道端ではためいていた洗濯物なんかが思い出されて、ノスタルジアみたいなのが私を襲った。暫く、現実を忘れてみたいと思った。



とうとう…

2003年03月18日(火)

戦争になりそうな気配。やれやれ…

今回の戦争は、やはりフランスの立ち回りに原因があるように思う。一般的に戦争に「No」というのは正しいと思うし、みんながアメリカになったらそれは恐ろしいことだし、アメリカを弁護する気なんて毛頭ない。日本は賛成してるけど、憲法との問題もあろうし、それはそれで議論があると思う。だけど、フランスの「敵を入れ違えている」のは論外だ。みんなでイラクを脅して、「やっちゃうぞやっちゃうぞ」といいながら、やらないで追いつめる方法だってあったはずなのに。それの手助けをするどころか、国際的に何の力もなく貢献もしていないアフリカと、無理矢理数合わせをするなんて。フランスの反アングロサクソン意識もここまでなのかと驚いた。まさか百年戦争の恨みじゃないだろうけど。(でも、ジャンヌ・ダルクが火焙りにされたのはちょっと許せないかも。)

私は基本的にフランスそしてフランス人(そしてフランスワイン)が好きなのだけど、彼らは時として恐ろしいほどジコチューになる。何年前だったか覚えていないが、タヒチ沖で核爆弾の実験をした時だってそうだった。そのとき、私はたまたまフランスの会社で働いていて、フランス人の上司と核実験の可否について話したのだが、とてもフランス人らしい意見だった。「え、何が悪いの?安全は確認しているし、中国だってやってるじゃん。誰にも迷惑はかけていないと思うけど?」といった調子だった。「安全っていうなら、フランス本土でやれば?」って喉元まででかかったけれど、クビになりたくなかったからやめた。今回だって、拒否権を利用するというのは彼らの私腹のためとしか思えない。方法論は別として世界が今どうすべきなのか、その空気を全く無視している。

なんだか無性に腹が立ってきたぞ。




Only One

2003年03月17日(月)

土曜日、テレビをダラダラと観ていたら、「DNAが解き明かす人間の真実と愛」とかいう番組をやっていた。DNAと人間の生命の不思議さを主題に、いくつかのドキュメンタリーを紹介していくというものだった。その中で、プロジェリアという病気を抱えた少女アシュリーの紹介をやっていた。プロジェリアとは、通常の10倍の速さで老化が進む病気だ。DNA的には、第一染色体長腕に原因があり、確率的には800万人に一人の難病だそうだ。アシュリーはまだ11歳だが、身体年齢は既に100歳近いという。プロジェリア患者の平均寿命が12〜13歳くらいだそうだから、彼女の寿命はあとわずかだ。でも、アシュリーはあくまでも前向きで、毎日を大切に生きている。彼女の夢は、クリスマスの聖歌隊コンサートで歌うこと。そのため、関節痛で痛む身体に鞭打って練習をしている。そして、コンサートの当日、聖歌隊の衣装を着てお気に入りのピアスをつけ、お母さんのいい匂いのするコロンを少しだけつけて、堂々と舞台に立ったアシュリーは普通の11歳の少女と変わらない。アシュリーは、自分の運命と自分自身をきちんと受け入れていた。
「生まれ変わったら、何になりたい?」
「うーん、それは難しいけれど、もしまた生まれ変わったら、また私になりたいな」
11歳の少女のこのセリフ、私には言えないと思った。私は、この歳になってもまだ自分が好きになれていない。まあ、「自分が好き」っていう人にはあまりなりたくもないんだけど…。

SMAPの「世界に一つだけの花」、結構売れてるらしい。私も歌詞がすきなので、つい口ずさんでしまう。そして、私もこんな風に、もっと自分を好きにならずとも認めてあげられるといいと思う。

♪♯♭♪♪♯♪♫

そうさ 僕らも 世界に一つだけの花 一人一人違う種を持つ 
その花を咲かせることだけに 一生懸命になればいい

小さい花や大きな花 ひとつとして同じものはないから 
NO.1にならなくてもいい もともと特別なOnly one

♪♯♭♪♪♯♪♫

そう言えば、明日は「僕生き」の最終回だから、ビデオセットしておこう。何となく気になるドラマなんだもん。



続・失意のどん底。

2003年03月13日(木)

失意のどん底からなかなか立ち直れない。今日は来月の会議のパネル・ディスカッション参加者の間で、議題・進行についての電話会議があったのだけど、私はひっちゃかめっちゃかだった。言いたいことをまるで言えなかった。自信喪失。自己嫌悪。自己存在意義不明。

火曜日にロンドンに転勤になる大手自動車会社に勤める大学時代の友人エリー(あだ名。サザンが好きだから。)の送別会があった。3年から5年の任期だそうだ。エリーとは同じ時期に留学していて、卒業旅行も一緒に行くほど仲が良かったのだが、就職してからお互い忙しくなかなか会えなくなってしまった。私は外資系というちゃらちゃらしたところに就職した一方で、彼女は立派な超優良日本企業に就職した。そして、その能力を認められて女性初の海外赴任者としてマレーシアのペナン島へ転勤になって、3年間メイド付きの優雅な生活を楽しんだ。そして、今度はまた出世してロンドンに転勤。正真正銘のバリキャリだ。でも、本人は益々嫁に行き遅れることをとても気にしていたけれど、日本にいるから誰か現れるわけじゃない。だから、イギリスに行ったら現れないわけじゃないのだ。きっと、素敵なイギリス紳士が現れるよ、そんなに頑張っているのだから。…私は仕事も私生活もダメ人間なのにねー。

自分が落ち込んでいると羨ましさもイジケもひとしおになる。ちょっとMだけど、こんなとき、水戸黄門の主題歌の2番が思い浮かぶのだ。

♪人生勇気が必要だ くじけりゃ誰かが先に行く あとから来たのに 追い越され 泣くのがいやならさあ歩け〜♪

なんて厳しい世の中なのだろう。でも、バブルは弾けたのだ。失われた10年が20年になる前に、歩きださなければ!



失意のどん底。

2003年03月10日(月)

今日は朝からいやな予感はしていたのだ。だからもっと注意すればよかったのだけれど、後悔先に立たず、久しぶりの大きな失敗をしでかしてしまった。とてもシンプルな失敗だけど、大きな失敗。流すべきではない情報を流してしまったのだ。

その、送ってはいけない情報が添付されたメールをばら撒いてしまってから数分してその事実に気がついたのだが、その瞬間は、ちょうど草むしりをしていて木の根だと思って思いっきり引き抜いたら実はミミズで、それがぐにゃりとちぎれてしまった時の感じに似ている。もう少し注意していたら絶対気付いたはずだという後悔の念と落胆、さらにとてつもない不快感とこの始末をどうしたものかという焦燥感が体中に広がった。暫くは、自分の不注意さ加減に呆れ、反省したのだけれど、そのうち、「私ばかりが忙しくて、こんなことをさせられているから失敗したのだ。ちくしょう。」という気持ちがふつふつと湧き上がり、なんと逆ギレしてしまった。なんて情けないことだろう・・・。どめ男のことを悪くなんていえないね、これじゃあ。しくしく。



かわいいベイビー

2003年03月09日(日)

今日は元同僚のKちゃんとかずよさんの家に遊びに行った。かずよさんは1月に男の子と女の子の双子の赤ちゃんを出産して、2ヶ月も経たたない先週の金曜日に既に社会復帰をしたスーパーママさんだ。

お昼頃平塚駅でKちゃんと待ち合わせてかずよさんちに行くと、男の子のほうはすやすや眠っていて、女の子はお腹がすいたらしく、かわいらしい声で泣いていた。ママがミルクをあげると、待ってましたとばかりに元気よく飲んで、飲み終わったとたんにすやすやと眠ってしまった。そうこうしているうちに今度は男の子が目を覚まし、「えーん、僕もお腹すいたよーん」とぐずり始めた。パパが急いでミルクを冷ます。双子のパパとママはとっても大変なのだなぁ。

それにしても、赤ちゃんのパワーというのはすごい。これから何十年もの間を生きていくために備わったエネルギーが体中から発散している。一緒にいると、生きるための前向きなエネルギーがひしひし伝わってきて、自分もつられて前向きになってくる。そして、穢れをしらないつぶらな瞳で見つめられて、自分もそんなときがあったことを思い出した。今ではすっかり穢れてすれっからしになってしまった自分自身を思うと、ちょっと自分がかわいそうになったりして…。大人になるって大変なんだわ。ベビーちゃん、頑張れ。



日本人嫌い

2003年03月06日(木)

今日仕事関係の人と食事に出かけたのだが、そこである人物の話題になった。私も仕事上では良く知っている人だ。その彼(仮に望月さんとしておこう)の両親は、ニューヨークでビジネスを立ち上げたため、彼はニューヨークで生まれ育った。そして米系大手金融機関に就職し、東京支店へ転勤となり、生まれて初めて日本に住むことになったそうだ。望月さんは、顔は東洋人だが英語はネイティブで、日本語は訛りがある。名前からして日本人だが、雰囲気はどちらかと言えば中国人(香港人)のように見える。どのような生い立ちの人なのかと思っていたので少し納得がいった。望月さんはとても頭が切れるし、社交的で人当たりも良い人なので私は個人的に好きだけれど、話を聞いていると会社内ではあまり好かれていないようだ。その理由というのが、なんでも彼は日本人嫌いなのだそうだ。

そんな話を聞いて、私は望月さんに興味を持ってしまった。日本人の彼が日本人嫌いになるにはそれなりの理由があるはずだ。

望月さんの両親は大手レストランチェーンを経営していて、所謂アメリカン・ドリームを実現した成功者である。その成功のお陰で現在はかなり裕福な暮らしをしているのだが、平等だなんだと言っても、結局アメリカは白人至上主義社会であり、日本人である両親が成功を収めるためには並大抵の苦労では済まなかった。彼はそんな両親をずっと見て育った。東洋人であるというだけで味わわなければいけない理不尽な辛酸に耐え忍ぶ両親を見ることが嫌でたまらなかった。彼はそんな両親を見たくないと思い、その気持ちが無意識のうちに両親に対する嫌悪感へ摩り替わってしまったのだ。しかし、外では家の辛さを振り払うかのように明るく振舞っていた。頭の回転も速く、そこそこユーモアもあったためクラスでは人気者だった。

そんな苦労ばかりの両親だったが、彼がハイスクールに入る頃には日本食ブームが幸いしてレストランの経営は順調になり、金銭的にも余裕が出てくるようになった。そして、彼は見事名門私立大学に合格し、超一流のビジネススクールでMBAを取得した後、ピカピカの学歴でウォールストリートの大手金融機関に入社することになった。しかし、そんな一流企業には彼のような優秀な人間は山ほどいる。その中で這い上がるためには、優秀さのみならず政治力、それに要領の良さや強引さ、延いてはずるさが必要になってくる。さらに、両親が突き当たった壁に彼も突き当たることになる。人種の壁だ。東洋人というだけで、信頼されない。平面的な顔つきがアメリカ人には無表情に見えてしまい、何を考えているのか分からないと不信に思われる。彼はどうすべきか悩んだ。そして、彼が取った行動は、彼自身を日本人ではないと思い込むことだった。アメリカ人の表情を真似し、思考回路を真似し、服装を真似し、発言を真似した。感情をなるべく顔に出すように努め、社交性を学び、先導して日本人を含めた他人種の悪口を言った。日本人の悪口を言うことは彼にとっては容易いことだった。自分の両親を思い浮かべれば良いだけの話だ。そして、彼はとうとうアメリカ人の上司の信頼を得ることができたが、身についてしまった習慣は日本にいる現在も抜けないのだ。

望月さんの日本人嫌いの理由をこんな風に想像してみた。わかってます。大きなお世話ですよね、ハイ。




恍惚の人

2003年03月05日(水)

最近随分暖かくなったと思ったら、ここのところまた寒い。天気も晴れたり大雨だったりで、安定しない。やはり2月は不思議な季節だ・・・と思ったら今日はもう3月じゃない!? (それも既に5日だって!)

どうも調子が悪い。身体の調子が悪いのではなくて、頭の調子が悪いのだと思う。今日なんて、お昼を食べた直後に「お腹が空いた」といって笑われてしまうし、会社からの帰りは、途中で自分がどこにいるかわからなくなって、電車を乗り過ごしてしまった。私はボケ老人になってしまったの?

もう時効だろうから書いてしまうけど、この感覚は、その昔アメリカにいたころ、ルームメートに勧められて「グラース」を吸った時の感じに似ている。タバコやアルコールより害はないんだよ、と言われて、安心感と好奇心でやってしまったのだけど、不思議な現象が起きた。今Aさんと話していると思った次の瞬間、目の前にBさんがいたり、NBAの話をしていたはずが、アメフトの話題で盛り上がっていたり、Cさんの部屋にいたはずが、良く見るとDさんの部屋だったりする。記憶がまるでモザイクのようにバラバラで、それぞれの関連性がない。軽い記憶喪失を起こしているのだろうけれど、とても恐ろしくなった。急に不安になり、とてもその感覚を楽しめる気分にはなれなかった。

当然だけど、今日はお酒を飲んだわけでもなくもちろんわけのわからない薬を飲んだわけでもないのに、意識がすぐに飛んでしまうのだ。最近の偏頭痛に原因があるのかもしれない。今度、一度頭を医者に診てもらおう、なんて真剣に考えてしまった。

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