スナックおのれ
毛。



 日常の出力。

明日がどうなるかなんてわからない、と定型文のように言われて、だから一生懸命やれだとか、毎日感謝して生きろ、とか言われる。でも、判を押したような言葉は、私には現実感があまりなくて、そうですね(年上のあなたより生き抜く確立は高いですけど)、と、とりあえずうなずいている。でも、たとえ、「明日、あなたどうにかなります、もうこれは予告ではなく宣告だし、確定した未来です」っていわれたところで、やっぱり同じ。地球最後の日、どうするって質問で、大抵の人がいつもどおり過ごすっていうやつ。おそらく普段にも「一生懸命」だとか「感謝」とかは隠れていて、たとえば、サボることに一生懸命、ゲームすることに一生懸命、感謝すら思えないほどの日常がサイコーなど、やっぱりどっかで感づきながら過ごしているんだと思う。
明日がどうなるかなんてわからない。だったら、今日も明日も同じ出力程度の自分で良い。やり残したことを数えるくらいだったら、できたことを数えてラッキーと思った方が良い。そう思う。


2019年03月27日(水)



 外野との距離感。

外野がキライだ。あちゃこちゃ言ってる割に、本人の前では笑顔の人が理解できない。人を羨ましい・ねたましいと思っているのに、自分で動かない人がわからない。運良く、私はずっと一人で仕事をして、そういう面倒なことを避けられる環境で過ごしてきた。んでもって、私と同じような仕事をしている人、特に一人でやっている人は、自分で行動する人が多いので(むしろ勝手に)、そういうストレスからは無縁だった。
久しぶりに、そういう環境のなかにいつの間にか入り込んでいたことを知り、あら驚愕。そういえば、こういう感覚ってあったわね、とびっくり。面倒くさいと思いながら、個人を心の底からキライと思うことも難しいので、距離感をどうするか、只今、思案中。で、出た結論は、いつものままで、ま、いっかー。

2019年03月26日(火)



 過去の私、過日の私、言葉の前で。

これまでで一番ショックだった言葉は、彼氏に別れ際いわれた「最初から好きじゃなかったのかもしれない」。あのときは、なんでショックなのか言葉にできず、あの人が去った後、ただ天井を眺めて思い浮かぶ単語を全部口に出してみた。
最近、それがやっとわかった。多分、私は、毎晩、あの人のところにウキウキ自転車を走らせていた自分、それを笑って迎え入れてくれたあの人、それまでとその後の時間経過を全部否定されたことがショックだったんだな。「ムリになった」とか「好きな子できた」とか、なんだったら「俺、実は結婚してるんだよね−」の方が、なんぼかマシ。今となっては、あの人が、並外れた正直者なのか希代の阿呆なのか判断しかねる。そして、この言葉を思い出すたび、胸のなかが苦くなって、もはや笑える。
過日、とあるセンセイに「俺の教えたことは全部忘れろ」といわれた。一瞬、くらくらした。意味がわからなかった。後から考えて、思い出したのは前述の彼氏の言葉。似たようなにおい。似たような苦味。似たような否定感。センセイの指導を受け止めて、自分なりに懸命にやってきたことを全部否定されたと感じた。センセイにとっては、何気ない言葉だったかもしれないけれど、とても哀しかった。うなだれた。混乱した。でも、過去の私と違って、次に怒りが出てきた。「あとから否定するようなこと教えてるんじゃないよ!」と思った。そして、私、ずいぶん図太くなったもんだな、と痛感。年齡を経て、変わっちゃったんだな、と苦笑い。ガッカリ半分、たのもしさ半分。後々、センセイとは和解したけれど、いつか絶対説教してやる!と思っている。(いや、すでに「そんな変なこと教えてきたんですか?」くらいはいっちゃったな…)

2019年03月18日(月)



 未知への期待感。

仕事の師と、私の文章は似ていない。あんまりもう思い出せないけれど、あの人の構成は緻密で丁寧で、やさしくて、人懐っこかった。今、私もある程度、仕事を重ねてきたけれど、ああはならない。私の文章は相変わらず雑で、ときどき乱暴だと反省しきり。ときにそれが、勢いに転じることもあるけれど、私は師の文章の一部でも手に入れたかった。それでも、あの頃の私になくて、師にもないものが、今の私にはある。日々の仕事のなかで、それをカタチにできると、師に作ってもらった土台がいかせた、と感じる。
今、私には1個の趣味がある。趣味というか、やりたいことというか。そのカタチが、センセイに似てきたと人にいわれた。意外だった。体格も性格も性別も違うので、まさか似るとは思わなかった。嬉しいような、えー…と腰が引けるような。友人には「あのカタチが好きだから、ならっているんでしょ?」といわれたけど、そうなりたかったわけではないと気づいて自分自身驚いた。どうやら私は、仕事のように、今の私にもセンセイにもないものになりたいと思っているらしい。ずいぶんと欲深。ずいぶんと失礼。でも、そうならなきゃ教えてもらう意味ないじゃないか。自分に生まれるかもしれない「なにか」に期待して、次またがんばる。

2019年03月10日(日)



 言葉は私。私は、こころ。

嬉しいことがあるときには、相手がどう考えているかなどおかまいなしに笑顔で自然にはなす。自分の気持にモヤッとしたものがあるときは、相手の気持ちを無駄に汲み取ろうとして、たどたどしく話す。心と顔の作用は連動していて、自分はわかりやすい方だとガッカリ。ずいぶんとまあ、一方的で身勝手だとも思う。でも、ときにそれが良い具合に作用して、相手の気持ちもパッとはらす。高そうに思えたコミュニケーションのハードルは、よじ登るものではなく、爆破するものだったのだと気づく。心の中で、わかりにくくて、ごめんなさいと謝りながら、表では適当な話ばかり。
でも、それが私。やっぱり話さないと、相手に伝わらなくて。察してほしいと思うのは、自分の身勝手と思い知る。


2019年03月06日(水)
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