|
|
■■■
■■
■ 散歩の目線
イサカもいよいよ暖かい日が一週間に二度くらい訪れるようになってきました。すると、虫やリスさん達とさきを争うように、広場では学生がフリスビーやキャッチボール、テニス、サッカーに興じ、家族連れやカップルは、近くの州立公園の森に繰り出すわけです。ほほえましい。
私も、そろそろ散歩やジョギングをしだすわけですね。腰の状態を確認するために長時間散歩をしてみました。延々と続く草原を一時間歩くとやっと林が見えてきたり。鹿にみつめられながら、さらに歩くと川にぶつかったり。なるほどね。これが冒険譚の世界な訳だ。(ちなみにこういうときにはi-podは不要だと思いませんか?)
そんなことを考えていると、そういえば日本でもよく散歩してたけど何かが違うと思ったのです。なんだろう・・・。私が楽しかった散歩といえばなんといっても杉並だが、地方にいって一番楽しかったのは、盛岡だろうか?あのうっそうと茂る森の中を歩く気分は何ともいえない。蒸し暑くて歩くのが大変でも、何かが違う。こっちが良いとか悪いとかではないのですよ。
ま、違いはたくさんあるんですけどね。土の色もちがうし、それにともなって植生もちがう。私は、環境保護と開発の関係を勉強している割には全く植物学について詳しくないので、ああー色が違うなー、とか、大学受験の時に選択科目にした地理の中で、○○気候だから、気温の変化がどうこうで、植生がこうなる、っていう暗記的なことしか思いつかないのが寂しい。
それでも、一歩一歩踏みしめながら歩くと、「あーそういえば、この前の『生物多様性』についての講義で、土の中にある目に見えない『多様性』について考えるために顕微鏡で色々覗いたんだよね・・・。私の足の下にもそんな多様性が潜んでいる訳か」なんぞ思い出して、学費を取り返した気分になる。(費用対効果の無駄としか言いようがない)
そんなこんなで、ま、日本の散歩とここでの散歩との違いに気付いたわけですよ。
それは視線。
日本の散歩だと半径一メートル範囲内の小さなことがきになってしょうがない。一本一本の木や、それこそ木の根っこが楽しい。それぞれの木に「威」があるような気がするのは、八百万の国だからだろうか?(変換していて気付いたが「異」でも良いだろうか?)霧に抱かれると眠くなりそうだし、根っこからはヌラヌラとした魂が呼びかけてきそうだ。そんな森でピクニックをしようものなら、弁当を取られかねない。
そこいくと、ここの散歩ははるか何キロ先の地平線を眺めながら歩いている。(ま、それでも「威」がある奴(木)にでくわすが、その木のウロからは、毒リンゴを食べると助けてくれるような小人か、奇妙な花粉を飛ばす妖精がでてくる気分だ。いずれも人型だ。)是非とも弁当を分け合いたい。
ま、そういうことだ。この人里離れた場所にいると、つねに世界平和とか、地球環境とかそんなことばかりで、自分の足下は見落としがちだということだよ。
2008年04月08日(火)
|
|
|