unsteady diary
riko



 やさしい嘘


私が知る数少ない外国の役者のなかで、ロビン・ウィリアムズがいちばん好き。


彼主演の『(邦題)聖なる嘘つき』を見た。
ぎゅっと胸を締め付けられるような切ない映画だった。
第二次世界大戦中のユダヤ人弾圧の話であり、みんなに希望を与えるためにひょんなことから嘘をつき続けなければならなくなった主人公。
その切なさは、「ライフ・イズ・ビューティフル」を思わせたけれど、個人的にはこちらのほうが好感が持てた。
よりいっそう嘘がないような気がしたから。


終始暗いストーリーで、結末はそれなりに哀しくて不条理だったけど、そのなかで精一杯できることをやったのだという主人公の気持ちが、救いになったのだと思う。


だが、嘘は嘘だ。
命がけで守らなければ、いつかばれてしまうもの。
ひとたび持った希望が否定されたとき、より残酷な絶望が訪れる。
だから彼は、「嘘」を「本当」にする。
最後まで嘘をつき続けることで。



平和な世の中にだってあふれている、
残酷な事実をくるむ、やさしい嘘たち。
嘘をつく人の心を削って、やっと保つことのできる、重い嘘。


どちらかといえば私は、嘘なんてけっきょく実体のないまやかしだと思っていた。
希望を持たせておいて、嘘だとわかったときより一層残酷じゃないか、と非難する気持ちさえあった。


でも。
ほんの少しの間、その嘘が生きる力を与えてくれるなら、
もしかしたら、嘘は、効力のある間だけは、真実なのかもしれない。
少なくとも、追い詰められた彼が、とうとう親友に嘘だとばらしたとき、その親友は今度こそ絶望し自殺を選ぶのだけれど、遺書には少しも恨む気持ちが湧いてこない、その数日を希望を持って生きることができてよかった、とあった。
それは親友を思いやる奇麗事ではなくて。
たぶん本当に、だだっ広い絶望のどこを探しても、欠片もやさしい嘘を責める気持ちは湧いてこなかったのだと思う。


やさしくて、しかし残酷な嘘は、はたして責められるものなのか。
もしも知ってどうすることもできない残酷な事実を隠すためだったら?
いろんな告知の問題と少し重なって、揺れた。


2001年12月16日(日)
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