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■ 抑圧
研究者は基本的に、対象に「自分」は選ばない。 被差別部落研究をしてる学者の論文を読んだときも、 高みから見下ろすかのような視線を、ひしひしと感じた。 もちろんそんな人ばかりではないだろうが。
ジェンダーやセクシュアリティに向かうことは、 自分も同じ戦場にあって、武器を持ち、誰かを傷つけていながら、 一方では、“殺人”を罪に問うような作業だと思う。 正統派のフェミニストが女を堕落させる女と見なすような要素をいまだ多分に持っている私にとっては、自分で自分を裁く気分でもある。
以下、とりわけ考えさせられた言葉。
セクシュアリティの近代は女性を「美へと疎外」し、反対に男性を「美から疎外」してきた。 女性は身体の囚人となり、美が強要される。男たちの目の前で、輝かしい肉体を誇示するミスたちの背後に、合わない「ガラスの靴」に自分の足を合わせるために、血を流す娘たちがいる。 そしてこの「美の強制」を「主体化」したときに、女性の「セクシュアリティの近代」の内面化は完成される。ダイエットやエステを追及する女たちは、自分の身体を最後の領土として、みずからの「主体性」を賭けている。 彼女たちはそのとき、「身体の囚人」であることから逃れられず、また逃れたいとも思わなくなっている。
(上野千鶴子)
ヒールの高い靴。 鬱陶しいストッキング。 締め付ける下着。 塗りたくったフルメイク。
すべて「武装」であり、合わないのに履き続ける「ガラスの靴」。 そんなことは、いまさら言うまでもない。 問題なのは、それらを装ったほうが、自分が楽だと思ってしまうことだ。 苦しくないはずはないのに逃れたいと思わなくなっている自分自身なのだ。
強制されているのなら、その強制から逃れることは不可能ではない。 抵抗して、抵抗しぬけば、変人と呼ばれるとしても、自分は快い状態をつくれるだろう。
だが、「男社会で望まれる女のありかた」を、女自身がすでに自分のものとして内面化しているとなれば、話が違う。 男の望みが、そのまま自分の望み、として解釈されているわけだから。 主体的に女としてのアイデンティティを持ち、追求するとして。 そうして認められたとて、その価値は女自身には還元されないのだが。 とにかく、「女は常に綺麗でいなければ」と女性自身がのたまうこと自体、明らかに自分を壊す方向へ望んで向かおうとしているわけだ。
なるほど、私も主体化した囚人だと思う。 扉に鍵がかかっていなくても、逃げようとしない囚人。
なぜ、自分の持ち物である自分の輪郭を、色を、ただ自分のものであるというその一点のみで、価値を認められないんだろう。 愛せないんだろう。 気持ちが悪いなんて、どうして思ってしまうんだろう。 外にあるすべての鏡の前で、あるはずのない「檻」を見つけて、すくんでしまうんだろう。
「性同一性障害」(「障害」という表現については不満があるが、いまのところ便宜上この表現を使うしかない気がする)関連のニュースや文献に対して、やたら敏感になる私は。 否応なく自分の内面と食い違ってゆく「自分の身体に苦しめられる」ということに共感している…らしい。 最近やっと気づいたこと。
気持ちは女なのに、ごつごつした身体と性器が気持ち悪くて手術を望む。 もしくは、気持ちは男なのに膨らむ胸が嫌で、息ができないほどにきつくさらしを巻く。 必死に、「男から見た理想的な女らしさ」を体現しようと健気に振舞う人がいて、一方では「男らしさ」を強調するためにリスキーな行動をしてみせようとする人がいる。 そういう「らしさ」に囚われた姿にいらだちつつ、一方では惹かれた。
なんとも自分本位な、共感の理由だった。
「ものごころついた時から、自分の身体を客体としての視線にさらされ、自分の身体の持ち主であることから疎外されてきた少女たち」 「自分の身体が男性にとって性的価値を持つことを学習し、そのことに傷ついたら、それを逆手に取る女たち。」(上野千鶴子)
同じなのだよね、勝利者となる女も、敗者となる女も。 男仕立ての価値基準に準拠した狭いフィールドの上で、共食いしているだけ。
そこから降りなければ。 ずっとそう思っているのに。 自ら主体化した囚人だとしたら、なにから逃れて、どこへ行けばいいのか、なおのことわからなくなる。
ふと思ったのだけど、私の性別が男だったとしたら。 つまり、逆に「美から疎外」「身体から疎外」されている側だったとしたら。 今でも悩んでいるけれど、「男らしさ」という意味で、営業に強いコミュニケーション能力などの仕事能力に、より一層深刻に悩むことになるんだろうか。 うむむ。
2001年12月15日(土)
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