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■ 過去/現在/未来…暗いから読みたくない人は読まないでね。
ただいま明け方の5時23分。 友人にふざけたメールを陣中見舞いに送ってみたり。 気を紛らわせてはみるけれど、 頭の中ではずっと考えずにはいられないことがあって、 開き直ってしばらく考えつづけるしかないんだろうなあと思う。
帰り道。 本屋で、棚にあったその本に吸い寄せられるように手にとった。 「鬱がよくわかる本」 とかなんとか。 ざざっと立ち読みして。 お定まりの自分が鬱かどうかを見極める項目チェックなんかがあって。 それから。 鬱は自殺に直結するから怖い、という項目があった。 以前Mさんから聞いたある患者さんの話や。 授業で精神医学のことなんかやったときのことや。 それからいろいろ。 いろんなことがただ頭を巡る。
そのときはまだ、ただ自分がどうなのかを知りたくて、読んだだけ。 結果はあまり役に立たない本だった。 だからどうしろ、というんだろう。 そう途方にくれるだけだった。
それでもいくつか印象深い言葉はあって。 たとえば「死ぬ勇気があればどんなことだって耐えられたはずだ」という言葉は 鬱の人間にとってはまるで見当違いだというくだり。 鬱状態の場合、自分の罪悪感とか、無力感を救う最後の手段であり いちばん実行しやすいのが、自殺…だから。 楽しいという感情、美味しいという感情、さまざまな欲望がなくなってしまったなら、死ぬことはなにひとつ怖くないというのだ。
以前、いじめられる側が悪いのか、そうではないのかという話を 日記に書いた。 そのときのわたしが言いたかったのは、鬱の話と同様に 「勇気があれば…」とか、「もっと頑張れば…」ということへのアンチテーゼだった。 キャパシティは人それぞれなのだ。 体力に個人差があるように、ストレスへの耐性だって個人差がある。 それは努力してどうにかなるものでもなく、 追いつめられるほど、きっともっと酷くなる。 もし、「おまえならもっとできるはずなのに…」と言われてしまったなら、 自分がどんどん弱くて汚くて、失望されるしかない存在に思えてきて きっと耐えられなくなる…。
私はいいかげんで、あまり集中力もない。 たとえば美味しいものが好きだし、本が読めなくなるとイヤだなあと思う。 …あとはなんだろう。 ああ、親友さんに会えなくなると淋しいなあ、とか。 そんなことを考えれば、適当に内圧は下がってくれる。
だけど。
死を思ったことのない人なんて、そう多くはないんじゃないかと思う。 その境にあるのはなんなんだろう。 危うさのなか、つなぎとめているものはなんなんだろう。 なんでもないことでさえ酷く疲れるけど、とりあえず生きている。 不安だけどとりあえずこうして在る。 それが崩れるときって、なにが起こるんだろう。 それがわからなくて、考えている。
一日のうちでいくつか関連することがあると、 なにか見えない力に悪戯されてるんじゃないかと思いたくなる。
今日、その本を立ち読みした後、振り切るように買った本。 そのなかにこんな言葉があった。
「過去の幸福を安全に懐かしむためには、現在もまた、別の形で幸せでなければならない――古い友人の精神科医が言っていた言葉を思い出す。 友人は、重度の鬱病患者の自殺を止められなかった。 いつもよりずっと明るい調子で、昔話を盛んにしていた患者が翌日亡くなったのだ。 その患者にとって昔に帰る方法は、窓から飛び降りることしかなかったのだ。」
…読みたくなかったかもしれないと思った。 それくらい、痛かった。
私が自分を自分らしく語ることのできるのは、 小学生か、せいぜい中学の半ばまで。 あとはただ、冬眠していたみたいに、自分はとても曖昧だ。 なので。 楽しかった頃の昔話をしながら、とてもとても苦しくなる。 思えば思うほど、自分の現在はとても灰色で それでもどうにか真っ黒くだけはしないようにと、 少しずつ白を足しているのにいっこうに追いつかなくて、 ぼけっとしてると、たちまち限りなく黒に近くなってしまう。 過去がとても輝いて見えるのは、 実はすごく残酷なことだとも思う。 だってどうあっても、過去は喪われてるのだから。
昔のわたしのなかに、今のわたしはいない。 今のわたしのなかには、少なくとも昔のわたしはいるはずで。 そう考えれば、わたしはなにも無くしていないのだと言えるのかもしれない。 だけどやっぱり、過去は懐かしむべきものではなく、 今の自分の不足感、罪悪感を悪戯に増すだけのもののような気もする。
もしかしたら、ただ。 未来なんて考えないでもよかった日々が恋しいだけかもしれない。 一日が、ただ一日のことだけで終わる。 せいぜい考えるのは明日のこと、一週間後のことくらい。 それはすごく幸せなことだといまになって思う。 きっとそういう甘えがいまわたしのなかにあるんだろう。
処理しきれない情報の多さにうんざりする。 なんでもうすこし器用に割り切ってさくさくと処理できないだろうかと思う。 それでもどうにかして、気を取り直してかかるけど、 そうできないときもあって。 ディスプレイの前でとてもとても、からっぽな自分を見つける。 ため息が耳に届いて、突如、我に返る。
2001年01月19日(金)
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