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■ 対等=双方向でありたいけれど。
自分は、すごく嫉妬深い人間だと思う。 そして我儘。 なのに、とても臆病だ。 それを押さえつけて生きているけど、 ときどきむくりと起き上がってきて、私をぎょっとさせる。
嫉妬や不安と無縁でいられるのは、 その人をほんとうに好きじゃないからだと 嫉妬するほど不安だらけの自分を、正当化しようとしてみる。 うまくはいかない。 …いくわけがない。 ちゃんとその人の本質を愛しているのなら、 心穏やかにいられるはずなのだ、と解っているから。
とても大切な友人がいる。 変な言い方だけど、その子に欲情しないことを除けば、 ほんとうに好きだと思う。 その言葉次第で、あったかくもなるし、寒くもなる。 こういうこと書くとやつは嫌がるだろうけど、メールの言葉でうっかり泣いたことさえある。
最近は片想いじゃないって確認できるようになったけど、 それはある程度、自分が素直になれたから。 けっきょくは、相手が開いてくれて、自分も開いていけて、双方向になったことを実感できたから、だ。 それまでは、嫉妬していた。ずっとずっと不安だった。 そのうえで、嫉妬してる自分を押さえつけていた。 どうやって? うーんと、自分より他の子といたほうが楽しいのは、当たり前だから、自分は友達というよりお荷物にしかならないんだから、期待するのはそもそも間違ってるって言い聞かせてた…かな。 自分を否定する材料なんて、山ほどあったしね。
彼女と長く続いているわけは、やっぱり物理的な距離だと思う。 どうしても顔を見たくなる、直接話したくなることはときどきあって、 それができないと、がちがちになりかける気がする。 そういうときは、自分のなかで悪いほうに自己完結して、きつい言葉とかを本来入るべきポケットとは別のところに入れてしまったりする。 そうやって、ひとりで傷ついて、確かめたくても怖くて確かめられないときは、 やっぱり会いたくなる。 自分が落ち着いてるときは、会わなくっても全然平気なのにね。 いまは、そういうとき。 なので、メールも滞っている。 このあいだ、彼女の家に泊まって語り尽したら、 なんだかしばらくは会わなくても元気でいられそうな気がした。
そういう関係を、他の人ともつくれたらいいのにと思う。 嫌われたらどうしよう?って相手の顔色をうかがわずに 云いたいことをぶつけられるようになりたい。
だけど、そこで問題があるの。 ふつうは、相手の嫌なところって、見えるものでしょうか? 私は、相手を好きになると、欠点ってほとんど見えないんだよね。 それはもう、ほんとにどっぷりその人の価値観にはまる。 自分にはない潔さとか、自然体さ加減とか、そういうものに惚れこんでしまう。 冷静に、対等に、よいところも悪い所も見えなくっちゃ、ほんとうの相互作用なんておきないと思うのに。 どうしたら、ぶつかれるだろう。 気持ちじたい、ぶつかってないのに。 ほんとうに、心から、いろんなことをすごいと思うのに。
でも、それじゃあ対等じゃないよね。 いつもいつも誉めてばかりじゃ、どうしようもないよね。 批判、適切な意見、そういうものは、もっと成長しないと出てこないんだろうか。
ご機嫌取りで誉めてるんじゃないの。 ほんとうよ? ほんとうなの。 そんなに私は器用じゃないもの。
でもそれじゃあ、お互いの関係で相手はちっとも成長できなくなっちゃうよね。 そういう切磋琢磨を求める人たちだから、私はとても惹かれるのに。 自分にはそれができないでいる。 ジレンマ。
感想って難しい。 湧いてくる気持ちはあるんだけど、 どうしたらいいの? 伝えたいのだけど、それはいつも、もう自分の独りよがりに尽きてしまう。
さっき話した親友さんは、文章書きだ。 彼女の文章をいくつか最初に読ませてもらったことがある。 だけど、彼女が私にくれる批判ほど、役に立つ批判は、いつもできない。 いつもいつも、圧倒されるばかりだ。 相手はもっと深いやり取りを求めているのに、それができないのは、けっこうきつい。そういう実りのあるやり取りをしたくて付き合ってるのだから、よけいに。
話をするということは、そして文章を書くということは、ほんとうに自分のなかみの薄っぺらさをさらすことだ。なにをどんなふうにどのくらい深く考えているかを、さらすことだと最近強く思う。
…怖いね。 書いたものすべてを、仕舞いこみたくなる。 それではなにも解決しないのに。
2000年11月17日(金)
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