|
|
■■■
■■
■ 存在証明=社会に認められること?
昨日、母と喧嘩ついでに就職の話をした。 時にはうっとおしくても、身近に話せる相手など他にそうはいないので、こうやって話す羽目になる。 けっきょく、私自身も、もちろん母が嫌いなわけじゃなく、むしろ仲はよいのだし、こうして依存してるわけだ。 だから、彼女を責める資格は、ほんとうは私にはない。 昨日の日記、かなり感情的になってしまったけどね。
就職のことを考えるときも、ずっと自分の中にはびこり、膨れ上がろうとしてる感情がある。
…「失敗するのが怖い。」
そう。 今よりもっとみっともなくなるのが怖い。 責任が取れない。 覚悟が決められない。 たぶん…だから動き出せないんだ。 これ以上悪化したくないから。 できるなら。 もっとなりふりかまわず生きたいのに。 見栄っ張りで、途方もなく臆病な「私」が、どこまでもまとわりついて、 私を縛り付ける。
大学受験のときのことを思い出す。 親から絶対に浪人はさせないというプレッシャーをかけられていた私は、滑り止めばかりいくつも受けようとした。 周りからは、過小評価しすぎ、悪く考えすぎと言われたが、自分の中で失敗したときの覚悟ができなくて、自分で組んだプランは安全圏ばかりを受けるものだった。もちろん、そうして選んだ大学に行きたかったのなら、別に偏差値がどうのってことは問題じゃない。だけど、自分でも行きたいとは思わないようなところを、浪人するのが怖くて選んでいたのだ。
当時通っていた塾の信頼していた先生に「なんだこれは?!」とどやされて、 「どんなことがあったっておまえなら受かるから絶対受けろ!全部受かって来い!」と押し切られて、かろうじて思いとどまったのだけど。あのとき、「自分だけで決めろ、その結果に責任をもて」と言われていたら、私の選択は絶対に変わらなかっただろう。 結果、私の悲観的予想は外れ、その先生には「だから言っただろ」と言われてしまったが、いまでもそういう後ろ向きな考え方はちっとも変わっちゃいない。
行きたくない学校に受かったって意味がないから受けないと、第一志望しか受けなかった友人が、ひそかにかっこいいなと思っていた。 自分にはできない、とも。 彼女はけっきょく失敗したが、とても生き生きとしたいことをしている。 憧れと嫉妬とが入り混じった気持ちで、彼女を見ている私がいる。
私は、道をひとつしか選択できないなら、きっと安全な道を選ぶ。 そして、後悔する。 自分の感情を無視して選択したからだ。 でも、その感情だって自信は持てないのだから、あてにはできない。 何を捨ててもそれをしたい、と胸張って言い切れるような情熱などどこにもないから。 結局。危険な賭けをして、結果的に道がなくなるよりマシ。 そう言い聞かせて前に進むだろう。 鬱々としつつも。
就職活動が近づいてきて、そのときに解決しなかった自分の弱さがまた浮き彫りになる。以前よりもっと深刻に。ツケがまわってきているのだ。
自分が自分の価値基準に従って選ぶこと。 そして相手にも選ばれること。
つまりは、自分の価値と向き合わなくちゃいけない。 いやおうなく、自分の市場価値を思い知らされるのだ。 その価値は、たしかに一面的な価値にすぎないけれど、それでも私の評価には違いはなくて、「社会から認められない=選ばれない」ことはやっぱり私を追い詰めることだろう。
ある人に薦められた中島梓の『コミュニケーション不全症候群』を読んでいると、そういう自分の強迫観念、臆病さの根っこが、見えてくる。 見えてくるのに、まだまだ直せない。 ちっともたどりつかない。 切開したいのに、刃の先さえも届かないのだ。
仮に認められなくても、自分が自分を愛してさえいれば、他人からの存在証明なんてこれっぽっちもいらないはずなのだ。 ほんとうは。 でも、「ほんとう」まではとてもとても遠い。
2000年11月16日(木)
|
|
|