unsteady diary
riko



 存在証明=社会に認められること?

昨日、母と喧嘩ついでに就職の話をした。
時にはうっとおしくても、身近に話せる相手など他にそうはいないので、こうやって話す羽目になる。
けっきょく、私自身も、もちろん母が嫌いなわけじゃなく、むしろ仲はよいのだし、こうして依存してるわけだ。
だから、彼女を責める資格は、ほんとうは私にはない。
昨日の日記、かなり感情的になってしまったけどね。


就職のことを考えるときも、ずっと自分の中にはびこり、膨れ上がろうとしてる感情がある。

…「失敗するのが怖い。」

そう。
今よりもっとみっともなくなるのが怖い。
責任が取れない。
覚悟が決められない。
たぶん…だから動き出せないんだ。
これ以上悪化したくないから。
できるなら。
もっとなりふりかまわず生きたいのに。
見栄っ張りで、途方もなく臆病な「私」が、どこまでもまとわりついて、
私を縛り付ける。

大学受験のときのことを思い出す。
親から絶対に浪人はさせないというプレッシャーをかけられていた私は、滑り止めばかりいくつも受けようとした。
周りからは、過小評価しすぎ、悪く考えすぎと言われたが、自分の中で失敗したときの覚悟ができなくて、自分で組んだプランは安全圏ばかりを受けるものだった。もちろん、そうして選んだ大学に行きたかったのなら、別に偏差値がどうのってことは問題じゃない。だけど、自分でも行きたいとは思わないようなところを、浪人するのが怖くて選んでいたのだ。

当時通っていた塾の信頼していた先生に「なんだこれは?!」とどやされて、
「どんなことがあったっておまえなら受かるから絶対受けろ!全部受かって来い!」と押し切られて、かろうじて思いとどまったのだけど。あのとき、「自分だけで決めろ、その結果に責任をもて」と言われていたら、私の選択は絶対に変わらなかっただろう。
結果、私の悲観的予想は外れ、その先生には「だから言っただろ」と言われてしまったが、いまでもそういう後ろ向きな考え方はちっとも変わっちゃいない。

行きたくない学校に受かったって意味がないから受けないと、第一志望しか受けなかった友人が、ひそかにかっこいいなと思っていた。
自分にはできない、とも。
彼女はけっきょく失敗したが、とても生き生きとしたいことをしている。
憧れと嫉妬とが入り混じった気持ちで、彼女を見ている私がいる。

私は、道をひとつしか選択できないなら、きっと安全な道を選ぶ。
そして、後悔する。
自分の感情を無視して選択したからだ。
でも、その感情だって自信は持てないのだから、あてにはできない。
何を捨ててもそれをしたい、と胸張って言い切れるような情熱などどこにもないから。
結局。危険な賭けをして、結果的に道がなくなるよりマシ。
そう言い聞かせて前に進むだろう。
鬱々としつつも。


就職活動が近づいてきて、そのときに解決しなかった自分の弱さがまた浮き彫りになる。以前よりもっと深刻に。ツケがまわってきているのだ。

自分が自分の価値基準に従って選ぶこと。
そして相手にも選ばれること。

つまりは、自分の価値と向き合わなくちゃいけない。
いやおうなく、自分の市場価値を思い知らされるのだ。
その価値は、たしかに一面的な価値にすぎないけれど、それでも私の評価には違いはなくて、「社会から認められない=選ばれない」ことはやっぱり私を追い詰めることだろう。

ある人に薦められた中島梓の『コミュニケーション不全症候群』を読んでいると、そういう自分の強迫観念、臆病さの根っこが、見えてくる。
見えてくるのに、まだまだ直せない。
ちっともたどりつかない。
切開したいのに、刃の先さえも届かないのだ。

仮に認められなくても、自分が自分を愛してさえいれば、他人からの存在証明なんてこれっぽっちもいらないはずなのだ。
ほんとうは。
でも、「ほんとう」まではとてもとても遠い。

2000年11月16日(木)
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