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「惚れたって言えよ」と李歐は美しい北京語で言った。 美貌の殺し屋(※あらすじにある李歐の枕詞)李歐が、その発音からあきらかに中国のエリート階級育ちであることを、一彰は察する。
なぜ、エリート階級出身の李歐が各国の国際的なシンジケートから追われる殺し屋となったのか。 なぜ、一彰はその発音から、李歐の出自を推察できるのか。それぞれにシリアスな過去がある。
吉田一彰の過去。彼の過去は、喪失の繰り返しのような気がする。喪失を繰り返す中、自分自身の実態までもが徐々に薄れていくようだ。阪大の学生であるが、学業には興味はなく、昼の工場のバイトと夜のクラブのボーイのバイトに身を沈めている。両親の離婚で、母と共に関西にやって来る。隣の町工場には、アジアからの外国人労働者が。外国の言葉と機械の音の中に、一彰は自分の居場所を見つける。
しかし、それも、母親が中国からの違法労働者と駆け落ちをするまでのこと。大学生になると一彰は、あの頃工場にいた外国人労働者を探しながら、彼らと接点のあるクラブでボーイのバイトをはじめていた。やがて、そのクラブで襲撃事件が起こる。その時の殺し屋が李歐。李歐とは、一彰がわずかな期間子供時代を過ごした工場で再会する。瞬時に互いに惹かれあった二人は、やがて大陸に連れ出して欲しいという、約束を交わす。
工場で再会後、李歐は密輸拳銃の横取りを計画する。計画実行の当日、時間まで退屈潰しにと、李歐の出生の話が始まる。李歐が殺し屋になった背景にあったもの、それが「下放」だった。文化大革命の最中、エリート階級出身の両親は「反革命修正主義分子」として処刑され、李歐は農村に「下放」に出される。文革で家族や家、故郷を失い、「下放」先では、紅衛兵の出現によって、生きるためにまた、その村を捨て、命がけで逃げ続ける中、仲間を失っていく。
「下放」−私が「下放」というものを知ったのは、というより、それ以前も知ってはいたのだろうけど、「下放」が何か、それを意識したのは、ほんの数年前だ。何かの世間話で、「下放」の話が出てきたが、プロレタリアートとして再教育するために、裕福なエリート階級の子どもたちが貧しい農村に養子に出されたのだと、そういうような説明を受けた。酷なことをするなあと、ぼんやりとは感じたけれど、その時は「下放」の残酷さ、悲惨さには思いも至らなかった。
それ以後、ぽつり、ぽつりと、「下放」をテーマにした映画や小説に行き当たるようになった。振り返ってみると、気づかなかった、気にも留めなかっただけで、「下放」や「文革」の狂気は虚構の世界ではあるけれど、映画でもドラマでも目にしていた。『覇王別姫』(監督:チェン・カイコー)もそうだったし、小説は読んでいないけれどドラマで見た『大地の子』(原作:山崎豊子)でも確かに、それを見ていた。
「文革」「下放」の歴史を知った後、直ぐに見たのが『シュウシュウの季節』(監督:ジョアン・チェン)だったので、震え上がるほど「下放」を恐ろしいと感じた。『バルザックと小さな中国のお針子』(著者:シージエ・ダイ)は、「下放」そのものは悲惨であり、やはり人間性を奪う恐ろしいものと感じたが、物語の結末としては決して暗くはない。
下放運動は1957年から始まり、1968年から文革末期まで、大々的に展開されたという。(※文化大革命は1960年代後半から1970年代前半まで続いている。)文化大革命については、それを検証した書物をきちんと読んだわけではなく、映画やドラマ、小説の中で主人公たちを苦しめている物事の背景としてしか触れてきていないので、余計、感情的に恐ろしい。
ハードボイルドなエンターティメント(+ロマンス)小説『李歐』を読んで、「下放」に思いを巡らせるのもどうかしているけれど。でも、そういう悲惨な歴史が李歐という魅力的な男の背後にあるのだ。もっとハードで耽美な男の世界に胸躍らせて、この世界を楽しまなければならないが、何となく、「下放」とか物語の中でうち捨てられていく「咲子」の存在とか、おおよそエンターティメントではない些事に私は興味を持ってしまった。
「下放」のことを意識した頃、わずかな期間であるけれど、私はこの『李歐』の舞台の近くに住んでいた。『李歐』はもちろん虚構の物語だけれど、住んでいた街、よく通りがかった街、好きだった賑やかな街の、闇に隠れている横顔を、見てはいけない闇に沈んだ顔を、私は垣間見てしまったのだという、興奮もあった。(シィアル)
『李歐』 著:高村薫 / 講談社文庫 1999
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管理者:お天気猫や
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