今年の、いや正確には昨年暮れからの目標として「原稿用紙千枚の小説」の執筆があった。 2010年10月。さてその進捗状況はどうか。
前進はしている。しかし完成は遙かに遠い。
言い訳としては読み込む資料が膨大になったこと。それに尽きる。 書けば書くほど必要になる。
感じるままに書くだけでは千枚は書けない。構造が必要だ。物語をがっちり支える構造。 構造の設計はできた。場面場面のスケッチも書きためた。まだ足りないけれど。 それらを組み立てていく。
その「熱」を保証するのは、どれだけ掘り下げたか、にかかる。 千枚書くにはその10倍以上の背景が必要だ。 100を背景に1を書く。 そんなイメージで作業を進めている。
完成するのか? とにかく書ききる。 お金のためでも出版するためでもない「小説」。 たぶん私家版はつくる。
読む人はいるのかどうかわからない。 とにかく書ききる。 人間として前進するために。
基本的な設定だけ書いておくと、舞台は京都。時代は第二次大戦中。
2010年10月03日(日) |
「ロンググッドバイ」 |
レイモンド・チャンドラー「ロンググッドバイ」読了。 村上春樹氏の新訳である。 この作品を以前に読んだ時と同じく、あるいはそれ以上にフィッツジェラルドの「グレートギャッビー」を感じた。 あの物語に、もし私立探偵が登場していたら…。
同じように村上氏も感じていて、というかたぶん二作を読んだことのある人は皆同じように思うんじゃないのか。 それほど二作は同じ流れというか、兄弟作品のようにすら思えた。
旧い訳で省かれていた細部もすべて訳出したそうで、それはほんとうにありがたいと思う。 おかげで「本当の作品」の姿がくっきりとした、と思う。そこまで詳しく書き込むか、というようなディテールを読めたので。
村上氏の解説もまた秀逸で、近代小説のもつ「自己意識」というやっかいな「くびき」から逃れる方法としての、英米文学の方法論にもうなづける。 ヘミングウェイから始まる、情感を徹底的にそぎ落とした文体であるとか、カット割りのようなシーンの積み重ねによって、巧妙に自己をその中に隠し混んでしまう(あるいはとけ込ましてしまう)チャンドラーの文体であるとか。
が、ぼくがこの解説に付け加えるとしたら、そのヘミングウェイのバックアップとして詩人エズラ・パウンドがいたということ。 チャンドラーの作品にはよくT.S.エリオットが登場するけれど、エリオット、そしてパウンドといった詩的直感が裏書きしていたともいえないか。 すくなくともヘミングウエイについては定説になっていると思うのだけれど。
解説によって時代背景がわかったことも収穫の一つ。レッドパージの傷はかなり深いのだということなど。
とまれ、この作品はたぶん現代小説の大きな結実の一つだと思う。ここから始まった作品たちは数多くあると思う。
ただしこのあとほかのチャンドラーの作品を読もうとは思わなかった。これがベストでオンリーワンだ。 むしろ興味はフィッツジェラルドに向かう。 より未完な、不遇な、純粋な、破滅的な書き手へ。
彼の本も何冊かあるのだけれど、光文社から出ている新訳「若者はみな悲しい」をもう一度読もうと思う。 いや全部読み直してみようかな。
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