散歩主義

2008年07月30日(水) できました。





「折りだけの8ページ小説」できました。明日送ります。



2008年07月25日(金) 京都は暑い!!!

本日の日記
こちらまで。



2008年07月20日(日) 37.4℃

外に出ると「危ない」と感じる暑さ。
しかし、午前中に時間ができたのでメルマガの取材に行く。
風があっただけマシかな。いやいやそれどころではない暑さだった。

夏休みで連休。子供も誰も歩いていない昼下がりだった。



2008年07月18日(金) 「街に、黄」

「おとなのコラム」での連載「日日好好」。
「街に、黄」掲載されました。
こちら
縦書きは
こちら



2008年07月17日(木) 山鉾巡行の日にも入道雲




祇園祭のクライマックス、山鉾巡行が行われた。
雨に降られることもなく、ちょうど梅雨明けの翌日ということもあり、真夏の日射しだった。

山田稔さんの本を集中的に読んでいる。小説とエッセイ。
昨日書いた「8ページの掌編小説」。タイトルが決まった。書いていこう。

画像は宇多野近辺から比叡山方面をみたところ。宇多野と鳴滝の境界のあたりは高台になっていて、比叡山が見える。
毎日、入道雲がもくもくもく。



2008年07月16日(水) ジムノペディの宵山





今夜は凄い数の人たちが祇園祭の鉾や山を見ながらそぞろ歩きをする宵山。
日が暮れる前から近所の女の子たちが浴衣姿で四条へ向かう。
時々男の子と一緒にいく子も。浴衣をきたらまるで別人だ。

友人から午前中、新町通りをとおったから、とメイルが送られてきた。
それが上の画像。
夜にはこの通りもたくさんの人が歩き、祇園囃子が響いていたはず。

ぼくはというと金曜日の連載を予約投稿し、サティのジムノペディを聴いている。このピアノ曲はハナも好きで、いつの間にか眠ってしまった。

で、八ページの、綴じのためのホッチキスも糸も糊も要らない小冊子を研究。
できるんです。まんなかに一部だけ切り離しをいれると。
たぶん、いちばん簡単な「本」。

住所のわかっている読者の方に無料で掌編小説か詩を書いて送ろうと思っています。
もちろん「書き下ろし」で。



2008年07月15日(火) 一万という数字





普段は朝しかつけない万歩計を一日つけていた。
夕方の時点で一万歩を超えてた。
だいたい朝の散歩で4000から5000の間で、あとは細かいものが加算されていく。
自転車のペダルを回してもカウントされる。

一気に一万歩というのは結構歩かないと無理だ。今日は北大路を二回往復する用事があったからいったようなもので、普通だとまずいかない。



2008年07月14日(月) 篤姫

NHK大河ドラマ「篤姫」の前半最大のハイライトが終わった。
NHKの大河ドラマはわりと見るほうだけれども、つまらなくなって途中で見るのをやめることもあった。
今回のは「大当たり」。

最大の理由は自分の好きな俳優が出ているから。一人は堺雅人、もう一人は瑛太くん。
堺雅人は同じく大河の「新撰組」でいいな、と思い、瑛太くんは「アンフェア」でいいと思ったんだった。

宮崎あおいさんもいいし、稲森いずみさんがとてもいい。
これだけ好きな俳優達がいるとどうしても見てしまう。
そしてなにより「ドラマ」がいい。

本棚に原作の宮尾登美子「天璋院篤姫」が以前からあって、はじまった頃はずいぶん原作と違うのでとまどってしまった。
瑛太君の役はああいう設定では全然ないし、西郷隆盛も前半から物語にあんなに頻繁には入ってこなかった。

しかしながら、大河ドラマにはよく「原作と違う」とか「時代考証がおかしい」という意見がつきものなのだけれど、あくまでも脚本を起てた「お芝居」としてみれば、意に介することもないのではないかと思う。
評価されるべきはドラマとして出来がいいか悪いか、それだけなのでは。

今回の大河は回を追うごとに堺雅人の徳川家定が抜群の存在感を示し、人気も視聴率も急上昇したとか。
彼は喜怒哀楽をすべて微笑みの顔で表現できる希有の役者です。
その家定が今日の回で亡くなってしまい、今後が少し心配になった。

というのも「篤姫」の物語は、これまで他の局でもやっていた「大奥もの」のモデルでもあり、どうしてもその「色」も多少でるのだろうけれど、今までの「大奥」と似たりよったりではまったくつまらないから。

脚本家と演出家の腕の見せ所ですね。また宮崎さんがどんな「天璋院」になるのか楽しみ。


ドラマの片方では温厚純情な小松帯刀役の瑛太君もとてもよくて、彼とか西郷、大久保などの薩摩の連中はずっと登場するので今後も期待。
勝海舟は誰がやるんだろう。後半ではとても重要な役だけれども。



2008年07月12日(土) 江國美術館




江國美術館を「読んだ。」
といっても正式には「日のあたる白い壁」という江國香織さんの画に関してのエッセイ集である。
「江國美術館」とはこの文庫本の帯の文句。

画のセレクションはもちろん江國さんで、そして江國さん独特の言い回しが練り込まれた文章がとても「読ませる。」

ぼくは「画が語り出す物語」というのが好きだし、見ていると頭の中に物語が渦巻き出す画が好きだ。

江國さんがあげている画家たちにはぼくの好きなの画家と重なる人もいた。
ゴーギャン、ホッパー、ユトリロ、マティス、オキーフ、ワイエスなどがそう。特にホッパーがあげられていたのはうれしかった。

その画家の、あまり知られていない作品(それは画家につけられている代表的な「作風」のイメージとかなりずれているものなのだけれど)もいくつか取り上げられていて、すぐにそれらも好きになった。

たとえばゴーギャンの「オレンジのある静物」。あるいは小倉遊亀「家族達」。
特に小倉さんの人物画の色遣いの新鮮さには驚いた。それに画の持つ生命力の強さとみずみずしさ!
江國さんはオキーフになぞらえていたけれど、ぼくはマティスを感じた。


画を眺め、文章を味わう。贅沢な時間を過ごせた。うれしい。


画像は文庫本。上に載っているのは集英社文庫の「ナツイチ」フェアの対象作品を一冊買うともれなくその場でもらえるストラップ。
全部で八種類あって、ぼくがもらったのは「読書をしながら寝てしまった蜂」のもの。ケータイにつけないで机の上に置いてます。



2008年07月11日(金) 御影堂

毎朝の散歩で仁和寺の御影堂まで行く。御影堂とはこの大伽藍を開いた宗派、真言宗の開祖弘法大師(空海)をまつったお堂である。「御影」とはつまり「弘法大師の姿(の影)」のことだ。

朝の散歩は老犬ハナを連れ出すことから始まる。
朝起きて掃除をして、珈琲を淹れ、遺影の前に供えてからでかける。ハナが若い頃のように歩けないのですぐにかえってくる。それから猫四匹のいる部屋の掃除を済まし、一人で出かける。それが午前7時前。

コースは龍安寺、仁和寺、妙心寺と三つのお寺をまわる。時間が許せばそれぞれの境内を一周する。時間がなければふたつ、ひとつと一周する寺の数を減らす。ただし仁和寺の御影堂だけは必ずとおる。別に信者ではないのだが、通用口のすぐ横という、ちょっとよってみたくなるし、よれる場所にお堂があるので、ついよってしまう。よるとつい、頭をさげ手を合わせてしまう。

そういう「気」の場所に踏み込んでいるのだから、当然といえば当然だろう。(と、思う)
「何も願わない。ただ手を合わせる」これは本棚にある藤原新也さんの本のタイトルだけど、最初は文字通りそんな感覚だった。それがだんだん手を合わせている時間が長くなり、何かを願うようになった。しかしそれもおこがましい気がして、今は「朝の挨拶」をしている。

お堂の下で手を合わせる。前には賽銭箱があり木の階段があり、その上のお堂の戸は開かれていて、中が見える。昨日まではまるで神社のように丸い鏡がこちらに向けておいてあるのがわかっていた。なるほど自分自身に手を合わせるのか。自身の仏性を熾すのか、と勝手に思ってもいた。しかし今朝、その向こうが見えた。

それは「影」だった。「影」だけれど、剃髪した頭と両肩の線がはっきりわかった。瞬間、弘法大師がそこにいる、と感じた。たぶん奧には木像があるのだろう。まさに「御影」が見える仕掛けのなかにようやく「入った」のだ、と思った。
何故、今まで゜見えなかったのだろう。

その影を見てから、踵を返した。今までとは心が違っていた。

仁和寺の門が開くのが七時半。龍安寺が八時までは無料で庭園を歩くことができる。妙心寺は24時間いつでも通行可能。この時間の組み合わせに距離を考え、「御影堂に七時半過ぎ」だけを目印にして歩いている。(花が咲いたりしたらそこを優先する)
今朝は龍安寺をスルーしたので6000歩弱だった。

こんな散歩道を今日のメルマガで紹介しています。画像もどうぞ。



2008年07月07日(月) 「決壊」へ

■「新潮」に連載されていた平野啓一郎「決壊」が上・下巻という体裁でリリースされた。彼の本はあっという間に売り切れる。(「京都」だからかどうかは不明)
今日も急いで近所の本屋さんにいったのだけれど売り切れていた。もっと大きな書店に行かなければいけない。

それだけ彼の本は注目されているのだろう。硬質の文体が好きな人も多いけれど、ぼくが彼の作品で好きなところは短編のスタイリッシュなところだった。スーパーリアリズムの画が見ているうちにとてつもなくシュールに見えてくるような感覚に似ている。

長編は「葬送」以来だ。「新潮」の連載では緊迫感が次第に高まり、いったいどうなるんだ、という気に何度もなった。
書く方もしんどいけれど、読む方もキツイ。だけど読み切ると何ともいえない感慨に包まれた。

よく作家の想像力が現実を先取りしていたりオーヴァー・ラップすることがあるけれど、「決壊」を読んでいた人は秋葉原の無差別殺傷事件にドキリとしたのではないだろうか。
通底するものを感じたのではないか。

雑誌の連載と「本」とではずいぶん違う。何としても「本」で読み切りたい。

だけど不思議なことがある。
これだけ売れているのにぼくの回りには彼の読者は一人もいない。
積極的に読む人もいない。以前に書いた村上春樹と同じだ。
「他者性」をこんな部分で意識するのかな。せざるをえないけれど。

時代は吉本隆明曰く「第二の敗戦」である。
バブル崩壊より酷い。働いても働いても生活は楽にならない。
収奪は徹底され、階級はゆっくりと固定化されていく。

そんな時代にネットは大きな意味を持っている。悪しき意味としても。
ネットにこうやって書いている以上、「決壊」は読まなければならない本だ。ここをどう生き抜くか。
ぼくは作品をどう書いていくのか。どう書くのか。どう書くのか。


蛇足
「幸せだとか不幸せだとか 基本的に間違ったコンセプト」
これは宇多田ヒカル「日曜日」に出てくるフレーズだけど、クールだよね。ぼくのテーゼはここに近い。


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