昨年亡くなった方の誕生日に、故人を偲んで7人が集まった。 思い出話をしていてもその隙間にぽたぽたと涙の落ちる時があって、まだついこないだのことのよう。
静まりかえった部屋に戻るとハナがひとり寝ていて、早速散歩に。 断続的に降っていた雨が上がり、街に転がる金属のどれもが洗われて、とても綺麗だった。
暮らし方のこと。 生き抜くための言葉とテンポが必要だ、とぼくはよく思います。 明るくも暗くもない、前向きでも後ろ向きでもない「立ち方」のためです。 淡々と介護ができる優しさと強さが欲しい、と願った時にそう思いました。力んでもだめ、ゆるすぎてもだめ。 そうしなければ自分も相手も潰れると思った時、悲観も楽観も邪魔でした。そんな心の波はいらなかった。波立ったら慌ててすぐに消しました。 動けなくなるからです。 心の躍動も邪魔。その後が疲れるから。ずっと続けられないから。沈みこむ心はもっと邪魔。その間に相手が死んでしまうかもしれないからです。「介護する」自分に隙をつくりたくないのです。 そんなことを考えたことだけが、今日という日でした。 ああもう一つ収穫がありました。詩を一つ書きました。紙に清書します。
日本に漫画の傑作は数々あれど、ここ数年ぼくがつかまっているのは、井上雄彦である。特に彼の「バカボンド」だ。 「スラムダンク」という名作もあるけれど、「バガボンド」は位相が違うとさえ思えるほどの迫力がある。
原因のひとつはある時期から画が面相筆で描かれるようになったこともあるだろう。なんともいえない質感が画面に流れていて、精神性の暗示や肉体の動き、スピード、バランス、存在感があるレベルを超えて表現されているように思えるのだ。
「精神性」とか「存在感」とはつまり、曰く言い難いものを画で表現しきっていることをさしている。
刀で斬る、ということはつまり「殺人剣」なのだけれどこの長編は進めば進ほど殺人という「気」から遠くなっているような気がする。 むしろ人間の修養としての剣に向かっているような。
原作は吉川英治の「宮本武蔵」だけれど、「バガボンド」はそれを大きく逸脱し、もはや井上雄彦の「宮本武蔵」となっている。(特に小次郎の設定はまったく異なり、それが実に深い味を出していはしまいか)
「バガボンド」がただならぬマンガだと、ぼくに強烈に焼き付いたのは10巻、11巻だった。柳生四高弟、柳生石舟斎との対決である。 このぎりぎりの緊張感を突き抜けた集中の極みの描写は、もはや「Trip」。「瞑想」の境地としかいいようがなかったのだ。
この作品と井上雄彦は日本の漫画史に巨大な足跡を残しているとぼくは思っている。
今、東京・上野の森美術館で井上雄彦の「最後のマンガ展」が開催中である。7月6日まで。漆黒の墨で描き出された武士の面構えを見ることができる。
ぼくのように観に行けない人は現在発売中のBRUTUS「緊急特集 井上雄彦」を読んでいただければ、その一端を知ることができる。
ところで、「バガボンド」にはネームの入っていない、顔のアップだけの画面が頻出する。あるいはストップモーションの。その顔がいい。姿がいい。それらがいかに雄弁に微細なニュアンスまで伝えていることか。 ストーリーは「ぶっ飛び」。言葉は消える。
それに対する彼のコメントも掲載されている。 ちょっとだけ引用すると 「……もともとぼくは”ストーリーなんかなくたっていいじゃないか”というところがありますし、物語展開の妙みたいなものよりも”今”を切り取るような物語、プロセスの連続でもいいんじゃないかという意識がより強くなってきています」
2008年06月18日(水) |
「裸言」での連載、二回目です。 |
「写真」#2 おひめのつめきり です。 「裸言」はこちらです。
毎週水曜日更新。あと二回で終了です。
珈琲に含まれるカフェインが脳活動を活発にすることはよく知られています。 一方、そのカフェインによる睡眠障害に対しては、医師からもわりとナイーヴというか、楽天的な見解しか聞いたことがありませんでした。 曰く「一杯程度の量ではたかがしれてますよ」という具合に。
しかし、です。 やはり睡眠障害はあるのです。夜の一杯はやめた方が良さそうです。夜更かししたい人、しなければならない人には必須ともいえるのですが…。
京都新聞のコラム「快眠ライフ」で滋賀医科大睡眠学講座教授の宮崎総一郎さんが書かれていました。
カフェインの量は次のとおり。(一杯あたり) 本格的なコーヒー…130〜150mg インスタントコーヒー…65mg 紅茶…40〜60mg コーラ…30〜50mg
記事によると 『カフェインは入眠を遅らせ、睡眠時間を減らし、中途覚醒を増やします。やや多め(400mg)にとると、睡眠中の代謝率が高まり、浅い眠りが増え、深い睡眠が減って睡眠障害となってしまいます。その効果は四時間以上持続します。』
400mgも飲まない、と思っていてもカフェインは用量依存性があって、用量が多いほど覚醒効果が強くなるため、ぼくなんかはつい何杯も飲んでしまいがちなのでした。
脳は活性化しますが、体は休んでいませんからいろんな障害が出てきます。代謝が強すぎるために下痢をしたり、血圧が高くなったり。 そうなるとそこから二次的な疾病が誘発されますよね。高血圧は血管障害に直結しますから、結局は脳を損傷してしまうんじゃないでしょうか。
ソフトとしての脳活動の活性化にカフェインはいいのですが、ハードとしての脳という臓器には睡眠がとても重要です。 このバランスでしょうね。
ぼくは朝は必ずマグカップで飲みます。早朝、最初にやることが豆を碾くことですから。お昼にもマグカップで。三時には普通のコーヒーカップで一杯。切れ目なくカフェインが補給され続けるわけで、特に三時のコーヒーがだめ押し気味ですね。前の分が消化されきらずに残っていて、そこに上積みされているような気がしてしかたがありません。
ぼくはこれまで何度か左半身が一過性ではあるものの動かなくなったことがあります。その時ドクターは脳のCTを見ながら首をひねってました。結論は睡眠不足じゃないですかといったのでした。 脱水でもこういう症状は出るのです。睡眠不足もコーヒーも脱水作用があります。喫茶店でコーヒーに水がついてくるのは「オマケ」ではないのです。
そんなこともあり、また妙な時間に耐え難い睡魔が襲ってくることもあるのです。これは睡眠が浅い証拠ですから、とりあえず三時のコーヒーをやめました。お昼のコーヒーもやめようか、と検討中です。
モノカキを「目が覚めた直後」にする癖をつけはじめているところです。コーヒーはその時だけにしようと思います。
ご存じだと思いますがアメリカンコーヒーはレギュラーコーヒーよりはるかにカフェイン量が多いです。覚醒にはいいけれどぼくは味の薄い珈琲はのみません。これからはますます飲まないとおもいます。
お茶かな。
早朝、雨が降っていたことをどれだけの人が知っているんだろうな。 昼下がりにそんなことを思った。
少し蒸し暑い午前、強い日差しの乾いた昼、爽やかな風が吹き抜けた夕方、半袖だとひんやりとする夜。 起きた時間と過ごした場所で、人によって今日という日はまったく違う日として感じられるんだろうな。
今日ほどではないにしても、毎日、刻々、同じ世界、同じ町、同じ建物に住んでいても人が受ける感覚は一つとして同じものはないんだろうけれども。
だから余計に、同じように感じる人がいるということが奇蹟のように思える。例えば風の質感だとか、黄昏の空気の色だとか。
夕方、犬と立ち尽くしていたのは風の回廊のような街でした。
2008年06月11日(水) |
「裸言」での連載が始まりました。 |
「裸言」サイトでゲスト・パーソナリティーとして連載を書かせていただくことになりました。 全四回、毎週水曜日の0時に更新されます。
「裸言」についてはページ下の「裸言−LAGON−とは」にくわしく書かれていますが、月曜から金曜まで日替わりで、執筆者が各人のスタイルにあった作品を掲載しています。 で、ゲストの担当が水曜日となっています。 原稿の長さも基準が決められていて、短くさっと読めるようになっています。
ページ下の「ゲスト・パーソナリティー」をクリックしていただくと、歴代の顔ぶれが紹介されていますが、「同志」でもあるきょこさん、ミメイさん、こうさんもおられ大変光栄に思っています。
「裸言」はこちらです。
作品は「写真」という掌編小説を四回に分けてお届けします。 来週も是非ご覧下さい。
2008年06月06日(金) |
「おとなのコラム」の連載が更新されました。 |
「おとなのコラム」の連載が更新されました。 「朝は神 昼は人間 夕されば獣に近き心悲しも 2」です。 御室八十八カ所を歩くお話です。 こちらから
こちらから。
また「おとなのコラム」のサイトがリニューアルされ、「縦書き文庫」も新しくなりました。 サイトのトップページから入ってください。 こちらからどうぞ。
昨日の「姉弟」に次いで、今日は「他人の関係」。仲がとてもいいです。
携帯で撮った画像です。 ピピとルル。 やっぱり姉弟だな。
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