散歩主義

2008年05月31日(土) 林英世さんの小説の朗読をききにいく




 朝から雨。細い雨なのだけれど切れ目なく降っていた。
 ちょうど昼過ぎから西陣へ小説の朗読を聞きに行くので思案していたらば、雨が突然上がった。

 舞台は今出川通り浄福寺通りを上がったところにある、(正確には五辻通り浄福寺通り上がる)西陣ファクトリーGarden。
その名のとおり、かつては典型的な西陣の織りか染めの町工場であったろう建物を、骨組みはそのままに中を吹き抜けにした、こぢんまりとしたスペース。20人も入れば満員だろう。
 
演者、つまり語り手は林英世さん。大阪でみずから演劇集団を主宰する女性である。

 朗読にはとても興味がある。
 それでなくても、途中まで進んでる原稿を日を変えて書き継ぐ時、たいてい冒頭から黙読する。おかしいところがわかるし、読んでしっくり来なかったらすぐに書き直す。
 (今までは時間がないと省いていたけれど、これからは必ず音読でやることに決めている。)

 これは久世光彦さんのやり方に倣ったもの。久世さんは音読をされたというけれど、ぼくはよっぽどの時でないと音読をしなかった。音読の方がいいのはわかっているけれど、他の人にしてみれば騒音なのだ。

 声をだして気がつく。それはもうしょっちゅう。気づくことはそれこそ多彩だ。

 さて演目はステージごとに変わる。
 用意されていたのは松本清張「二階」と山本周五郎「あだこ」。
 ミステリと人情噺。たしかに声によるパフォーマンスならばこの二つの系統でないとメリハリがつけにくい。
 ぼくは「あだこ」を聞いた。

 淡々と時系列をなぞる作品ならば容易に朗読にのめり込んでいけるけれど、山本作品には珍しく、時が前に行ったり元に戻ったりする。
時制の変換の時、本文なら二行あけだろうか。朗読は息を継いで意図的に間を置かれている。

「じつは」「じつは」と種明かしされていく構造は下手をすると説明的になる。
けれど、シーンの一つ一つがくっきりと描写されていて、しかもメリハリのきいた朗読だったから、リアル感を失わずに物語は進んでいった。

ただ、聞いていて山本周五郎作品ってけっこう強引だな、と感じた。
これは初めてのこと。
作品の端々に作者の頑固さうかがえるのだ。それもはっきりと。
読者をぐいっと力ずくで引っ張るポイントがある。
これは朗読を聞いたから感じたのだろうか。一人で黙読したていたら、肌に合わないところは流してしまう可能性が高いからだ。

 後半部分。登場人物の苦労は報われ、改心は行われ、一同皆笑う、という典型的な人情噺の結末へとたたみかけていく周五郎作品。
林さんの朗読も一層リズミックになって、声も晴れやかだ。
お見事。

およそ70分。2500円。価値をどう見るかはその人次第。
山本周五郎の短編を一冊読んで、ほぼ物語を憶え、林さんの肉体をつうじた「声」という表現を堪能する。
ぼくは高いとは思わない。

この公演は、京都では八回目の今回で一区切り。
林さんは東京に拠点を移される。
頑張って欲しい。

そうそう朗読といえばネット・ラジオ、ヴォイス・ブログで、湘南ラジオも無料放送していて、椎名誠さんの小説を何回かに分けて朗読していた。
そういえばぼくも「声函」を開けたままにしている。
また吹き込もうかな。

リクエストありますか?ないだろうけど。



2008年05月27日(火) 経験値

本を作っていると、いろいろなことがわかってくる。
例えば今回経験したのは、紙は同じロットナンバーでそろえた方がいい、ということだった。

そもそも印刷屋さんに頼むとお金がかかるから、徹底的にホームメイドで本を作ろうというのが前作からの考え。

だから紙も普通の文具店で買えるものにした。
私家本マニアの過激な方はコピー用紙でつくるけれど、これはさすがにできないのでしっかりとした両面印刷の紙にした。
一包み250枚。コクヨ製。で、今回は分量があるので二冊つくると端数が出る。その端数の紙とと新しい包みを開けて紙を足すとサイズが微妙に違うのだ。

表記されているサイズは一緒だけれど、実際は0.2ミリから0.3ミリ違う。これは触るとすぐにわかる。
174ページ+猫+献辞だから、いちどに88枚使う。それが二冊で176枚。だからつくるたびに74枚の端数が出る。

それを溜めていってサイズがぴたりとあう端数の紙が幸運にもあればそれで一冊つくる。あわないモノを繋いで身内用につくったりもする。それ以外はデッドストック。
なんたる非効率。

やはり紙問屋と親しくなるべきだ、とつくづく思い知った。
同じロットで同じサイズの紙を大量に仕入れること。
最近は個人のために小口でも対応してくれる店がネツト上にもある。
研究研究。


さらに。
ブログやメルマガをテキストに、それを推敲し編み直してつくるから画像もふんだんにいれたい。
画像を沢山入れたら、印刷屋さんではとても高くつく。そもそもやってくれない。
今回編み出した無線綴じの改良版は、例えば間に印画紙を入れても大丈夫なのだ。完全にばらばらで印刷するから、4や8の倍数でなくてもかまわない。人を捜さなくてもいい。
プリンターに印刷用紙選択があるから、高画質の印刷も可能。そのページだけ独立させてもいいのだ。

今考えているのはキャノンのA3まで印刷できるプリンター。
ほとんどプロのカメラマンが使いそうなプリンターだけど、あれなら表紙カバーが印刷できる。
うーむ。貯金しなければ…。

糊付け製本のテクニックはマスターしたので、次は表紙の布ばりをしてみたい。タイのバティックだとかタイシルクを貼り付けたらどんな本になるだろうと想像しているところです。

それと最も大切なこと。
最低100冊つくってから発売すること。とてもじゃないけど追いつかない。



2008年05月26日(月) セレンディピティ

珈琲を買いにいった帰りに、北大路を上り詰めたところの本屋さんで、
ある新刊を探したけれど見あたらず、かわりに以前から気になっていた外山滋比古「思考の整理学」(ちくま文庫)を発見。購入する。
帰って読んでみたら、これはよい本にあたった、と嬉しくなる。

と、いうような出来事を「セレンディピティ」といいます。。
脳科学がちょっとしたブームで「セレンディピティー」という言葉もよく使われるけれど、その語源まで明らかにし、意味を「平明」にしたのが本書。しかも1983年に。今から25年前ですよ。

ちなみに言葉の出発点は「セイロンの三王子」という童話。18世紀のイギリスに流布していたそうです。

三王子はよくものをなくし、そのたびに捜し物をするのだけれど、狙うものはいっこうに探し出さないのに、まったく予期しないものを掘り出す名人だった、というお話。

この話から文人で政治家のホレス・ウォルポールという人が「セレンディピティ」という人造語をつくったのです。

セイロンは現在スリランカだけれど、当時はセレンディップとよばれていて、セレンディピティとはつまり「セイロン性」ぐらいの感覚でつくられた言葉なのです。

意味するところは
「目的としていなかった副次的に得られる研究成果」

ノーベル賞はおおくの「セレンディピティ」によって発見された研究成果に贈られていますよね。

茂木健一郎さんの本などでよく語られるこの意味するところは知っていましたが、語源までは知りませんでした。
ここまで知ると専門用語ヅラした「セレンディピティ」がぐっと日常まで降りてきます。言葉をモノにできます。

茂木さんと並び、ぼくがよく読んでいる高次脳障害の権威である築山節さんの生活習慣に関する主張と同じモノもこの外山さんの本に出てきます。
25年前ですよ。名著です。

で、特筆すべきは文章が平明簡潔であること。これほどシンプルでわかりやすく、かつ知的レベルの高いエッセイにはほとほと感心する次第であります。くどいですが名著です。

で、外山さんの本をレジにもっていく途中、ふと金原ひとみさんの「アッシュベイビー」(集英社文庫)が目に入り、これも購入。
ぼくの回りにはこの人の読者は皆無です。
(タトゥとピアスの世界なんてなんですのんそれ。関係ないよ)

ぼくは「蛇にピアス」を読んで、この人の姿勢に共鳴しましたね。
「ゴザンス」に感想文を投稿したぐらい。

肉体のとらえ方が斬新なんです。心のとらえ方も鋭い。

ぼくの書いているモノを読んでいる方たちから見れば、作風はまったく違うとおもわれると思います。
作風は違うけれど、作品の底の底に流れているスピリットのようなモノが、たぶん、好きなんですね。似ているのかもしれない。

すらすら読めるし、刺激を受けます。
とりあえず今の自分の小説のゴールを意識することもできます。(もちろんそれも変わっていきます)

それは金原さんではなくて多和田葉子さんの「旅をする裸の眼」のラストシーン。あのシーンを読んだ時の感覚を、あれと同じスピリットを自分で描き出せれば、とよく思うのですよ。
金原さんを読んで、自分に気づくというか、自分がどちらを向いているか暴かれるという感覚です。

とまあこのように探し出そうとしていた本がなくて、ここまでの経験をするのはやはり日常の「セレンディピティ」なのです。

ちなみに探していた本は
「人類が消えた世界」アラン・ワイズマン。
これはこれで絶対に読みます。




2008年05月25日(日) きっといいことなんだ

先週から「書くこと」に対して、いろいろとあがいている。
何が足りないのか、生活で直すべきところはどこなのか。
時間の使い方、体の健康状態など自分を覗き込んで観察していた。

時々こういうことが起きる。
生活の模様替え。

パソコンから要らないと判断したファイルを全部捨てた。
「書くこと」「画像」それだけにしぼる。

そうしつつ、ノートとか資料も全部パソコンに放り込もうとも思う。
ビジネスでは当たり前だけど、例えば新聞や雑誌の「切り抜き」は全部スキャンして放り込む。スクラップブックだと場所をとるし、置き場を忘れてしまうから。


幸い現在のパソコンは容量もいけてるので、大丈夫。来月からは光になるし、ネットからの情報整理をきちんとやろうと思う。
マメにファイルを作って、マメにディスクにバックアップをとって。

あとはサブにノートを使ってどこでも書けるようにしよう。

生活が「きりきり」しだしたら修正。
あたりまえのことだけども。



2008年05月22日(木) 励ましてくれたもの  励ましてくれているもの

「街函」を沢山作らなければならなくなったことと、連載中の小説の執筆ともう一つの連載の準備とで、きりきりきりとしておりました。

精神の平静さとがむしゃらさと、横着さと緻密さのバランスが綱渡りの日々。急にとてつもない不安感に襲われたり。不安定です。

もっと淡々とやればいいとは、わかっているのですが、突き詰めようとしては自分を見失いそうになります。
そんな時に、励ましてくれているものたちです。



●「物語の役割」小川洋子(ちくまプリマー新書)

ミメイさんに教えてもらった本。読んでいる途中からもっとはやく読みたかった、と悔やみました。
「創作」に向かう姿が率直に語られています。アタマでこねくり回してもろくなものは生まれないこと。
「言葉は常に遅れてやってくるもの」ということや、「観察すること」の重要さなど教えられる点や共感するところがほとんどです。
なんども読み返しています。特に「リンデンバウム通りの双子」を作り上げていく部分は何度も。

●Heart Station/宇多田ヒカル

国民的歌姫の国民的大ヒットアルバム。
「Stay Gold」「Prisoner Of Love 」をはじめ、彼女の代表曲になるであろう曲が目白押し。
深夜に作業をする人には是非ともおすすめしたいアルバムでもあります。
ただ聞き込むと一時間はあっというまに飛んでしまうから、要注意。
「Fight The Blues」は応援歌としてもベスト。
「笑う門には福来たる」のです。
メンタルタフネスが大事だよっ、と歌ってくれます。



●原田芳雄 Golden best

Hikkiのアルバムとは一見正反対の、こてこてのブルースアルバム。実は孤独な人のことを、孤独に人となり、孤独な人に向けて歌っているという点でよく似ているアルバム。
高音の声に少々疲れたら、このドスのきいた声はよく効きます。

まったくそうだよなあ、と呟きながらいつのまにか眠る時に聴きます。
「Color Me Right」「鏡の中のMagician」を繰り返し聞いています。



2008年05月16日(金) 尖展 2008




京都、滋賀の日本画家のグループ「尖」の展覧会に行ってきました。
今年で14回目になります。
運良く竹林柚宇子さんも会場におられ、ほんとに久しぶりにお話しすることができました。

作品のことや本のことなどいろいろと…。

今回も場所は京都市美術館。メンバーはいつもの尖のメンバー13名と招待作家がお二人。

京都市美術館は天井が高く広いので、それを活かした巨大な作品が多かったです。
大きさを存分に意識した作品(意識させられた作品)もあり、意匠として楽しんだものもあり、たくらみを推理し、色を味わい、心に湧き上がる思いを眺め、様々な楽しみ方をさせてもらいました。

この展覧会は毎年観ているので、作家の方それぞれの消息を確かめ、肉体と精神の汗と苦闘と、画に立ち向かうコンセントレーションを想像し感じることが、ぼくにとっての鑑賞の基本となっています。

表現活動の「持続」を感じることは、力強い励ましとなるのです。
画と文章と、形は違いますが。

18日まで続きます。入場無料。
午前九時から午後五時まで。京都市美術館本館1階です。
特に明日とあさっては午後二時からギャラリートークがあります。



2008年05月13日(火) 雨の降る夜

夕方から雨が降り始め、今もまだ降っています。
ネットで六月からの連載が決まり、その準備をつめているところです。
掲載が始まったら告知します。

神経を研いだ状態にしています。やるべきことをやる。
それだけのためですが。



2008年05月12日(月) 日頃の行い!!ちゃん、ちゃんっ。




京都という街は大学が多い。
数なら東京が多いに決まっているんだけれど、街の広さや人口の割からいくととても多いと思う。

 おかげで市や府の図書館よりも大学図書館の方が、市や府のホールよりも大学のホールの方が立派だ。

 街には多くの学生が住み、多くの「センセイたち」も住む。
だから古道具や古本が結構街にあふれている。
運がよければ、ただで手に入る。

「もう必要ないし(卒業やし)、読まへんから(使わへんから)これやるよ」というパターンである。
また、あふれる本を整理し、古本屋に頼んでも二束三文にしかならないなら読みたい人にあげよう、と家の前に並べる「センセイ」や「ガクセイ」や「インセイ」もいる。
 で、「ご自由にお持ち帰り下さい」という張り紙とともに本(や古道具)が並ぶのだ。3月、4月は大学の近所で結構多い。

 我が家も大学のすぐ近くなので、いろいろなものが街に「落ちて」いて、学生諸君がリヤカーでそんな戦利品を運んでいるのををよく見かける。

 今日はいい日だった。
涼しい風の吹く路地に、女子学生と男子学生が本を胸一杯に抱え、路上を舐めるように見つめていた。
 おお!!本だわさな。「ご自由にお持ち帰り下さい」だ!!!
 駐車スペースにブルーシートがしかれ、そこに本がどっさり並んでいた。自転車を止め、物色の輪に加わる。

 すでにいくらかの本は持ち去られている様子。しかしまだ分厚い本がごろごろあるぞよ。

 画像が戦利品。
●ディラン・トーマス「詩」
●ポー全集3…全集のうち詩だけを集めたもの。
●稲垣足穂作品集…おもだった全作品がおさめられている。
●林静一「儚夢」…画集
●フェルメールの世界/小林頼子

 新刊で買えば総額でたぶん一万円ぐらい。ディラン・トーマスとかポーの全集は手に入りにくいはず。林さんの画集も貴重。これがタダ。

 このほかにも梅棹さんの本も多数。たぶん「センセイ」の書棚が整理されたのだろうと推察する。

 夜、家に帰ってから本を眺めていると文庫本主義者がやって来た。
「道に本があったんやけど」というのでディラン・トーマスの本を見せて、にやりとしてやった。
「ふーん、ええのんをもろたんやな」という彼女の戦利品は
●「道頓堀の雨に別れて以来なり」上・中・下/田辺聖子
分厚い文庫本が三冊だ。

 たぶん明日の朝になれば一冊も残っていまい。幸運だった。
 ありがたやありがたや。
 これも日頃の…。

ちなみに画像に一緒に写っているのは「Heart Station/宇多田ヒカル」。
彼女の音楽はずっと聴いているけれど、ぼくの中ではこれが彼女のベストです。
 個人的には「歴史的名盤」とさえ。最近、こればかり聴いてます。



2008年05月10日(土) 時間の使い方/ねじまき鳥

モノを書く時間について考えてみた。

人間の集中できる時間はそんなに長くない。
質のよい時間を作るには、二時間ぐらいで休憩してまた二時間ぐらいのペースがいいようなきがする。

ただ、本を読みたいのに読めないほど体が疲れていたり、書かねばと思ってもまったく動けなくなっていたりする。

そのあたりの自分に対するマネージメントのあり方に、もう少し繊細さを意識しようと思う。
体力を上手に使おうということなんだけど。

できるだけ早く寝て、三時起きというのを実験してみようとおもいます。
うまい具合だったら続けます。

でも実際は細切れの時間にどれだけ集中できるか。もうそこに尽きるような気もするんですが。


『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』(岩波書店)
をもう一度読み返してみて、「物語」に向かう気がまた強くなりました。

特に河合さんの「物語」に関しての言及はとても重要かつ貴重なものです。ノートに抜き書きして何度も読み返しています。
書くことに意識的になれそうです。

そして「ねじまき鳥」をもう一度読み返そうと思いました。特に第三部ですね。



2008年05月09日(金) 村上春樹インタヴュー(下)/ブヴァリア、ブヴァルディア

京都新聞の集中連載も今日が最後。
昨日の感想として、「日本軍」「オウム」にまっすぐ繋がるのは「連合赤軍」と書いたら、まさにそれに類似することが村上さんの口から語られていました。

そう、小説家村上春樹も団塊の世代なんです。

記事を読んでいて、団塊の世代として、ここまで誠実に自らの世代を背負っていこうとしている人なんだ、と知りました。

ほとんどの「団塊の世代」が自己弁護、自己陶酔、あるいは忘却。
あるいは昔を懐かしみ、今の若い奴は…と語る。

むろん、そうではない人も知っています。
そんな人たちと村上さんとに共通する言葉も語られていました。
「おとしまえをつける」という言葉です。
その言葉を見つけた時「村上春樹」という物語を村上春樹が生きていくんだなと、そのことに意識的でありつづけようとしているのだなと感じました。
いやわれわれ、案外意識していないんじゃないですかね。

さて「物語」こそ人を救う力がある、というテーゼ。
注意すべきは小説や詩ではない、ということ。
「物語」です。
(これはあとでも触れる河合隼雄さんとの対談のなかで、もっとくっきりと語られています。しかしそのことが「小説が死んだ」という主張に結びつくわけではありません)

村上さんがめざしている「総合小説」とは、いろいろな人の物語が並行して語られ、それが束になっていくように思いました。
当然「三人称でなければ書けません」となります。

三回に分けられたインタヴュー。昨日から併読をすべく本棚から『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』(岩波書店)を取り出しました。

このインタヴューの「骨」の部分とさらに詳しい村上氏の「考え方」はすべてこの対談に書いてあります。あるいはこの対談の延長線上で、現在村上氏はものを考えています。すくなくともぼくにはそう思えました。

この対談がいかに村上春樹という小説家にとって大切なものだったか、ということでしょう。

昨日の感想で、ポール・オースターの方がよりシンクロニシティに対してオープンであるように書きましたが、シンクロに対してもっとオープンかつラディカルで説得力のある発言を河合隼雄さんがなさっていることに驚きました。

だから魂の底に降りていくことにたじろぐことはない。
自分で自分の小説がどうなるのかわからなくてもいい。
小説の中で説明不能なことがおきてもいい。

ただ…ただ問題は「身体性」を帯びているかどうか。
頭でっかちのシンクロはあり得ない。
そういう小説はつまらないし、支持されない。
それはわかります。具体的な考えと行動の中にこそそれは立ち現れ、そして共感される。
そして共時性こそが何かを前進させているのだ、ということです。


さてさて、春樹さんの新作のポイントは「恐怖」だそうです。
ほら「シンクロ」を感じている人、いるでしょう。


■「おとなのコラム」の連載、更新されました。

「ブヴァリア、ブヴァルディア」です。

縦書きはこちら



2008年05月08日(木) 村上春樹インタヴュー(中)/小学生の詩/オンシジウム

■村上春樹インタヴューの「中」が京都新聞に掲載されました。
「物語を書くということは自らの魂の奥底にまで降りていくこと。そこは真っ暗な世界。生も死も不確かで混沌としている。言葉もなければ善悪の基準もない」
というのが「上」での結論でした。

で、今回はその「物語」は有益であると同時にとても危険である」という指摘から始まりました。魂の奧底の暗闇から抜け出せなくなってしまう、ということへの問題意識です。

その端的な例として「オウム」が語られます。
彼らを見つめながら、何故そうなるのか、何故抜けられないのか、どうやってオープンな世界に戻ってくるのか。
それを考えたのが「アンダーグラウンド」という作品であった、と。

そして教祖に言われるがままにサリンを撒く姿が、太平洋戦争の日本兵の姿とたぶるのだ、とも。

インタヴューにちらちら「日本軍」あるいは「日本人」の、あえて特殊な心性ともいえるような「ありさま」への言及が見えてくるようで、次作は…と余計な想像をしてしまいます。

結局、村上さんは「アンダーグラウンド」の仕事を通して「普通」の人の声が束になった時の説得力を信頼する、といいきれる地点に到達したのでした。
だからこそ、「普通の人」が戦争に引きずり込まれない社会を、と。

これを読んでふと思ったのは、ポール・オースターがアメリカ全土から「本当の話」ばかりを集めた仕事のこと。
オースターなりの「アンダーグラウンド」によく似たスタンスのあり方のように感じました。

オースターの方が村上さんよりも大胆にシンクロニシティーについて肯定的に語り、それにのっていこうとしている姿勢のように思います。

そしてもう一つは、今公開されている連合赤軍の映画のこと。警察側からの視点ではなく、連合赤軍の側から語られるストーリーの映画。
どちらが問題提起の質としてぼくに迫ってくるかというと、むろん赤軍側からのストーリーなのです。
それはそうでしょう。
何故「12人もの人間がリンチによって殺されなければならないのか」。

この問いかけこそ「オウム」にまっすぐ結びつくし、図らずも彼らが「軍」を名乗った時、彼らの精神の何かが崩れていったのではないか、と考えるのです。

今でも、1972年のまだ寒かった春、遺体が山で次々と発見されたという二ユースを聴いた時のショックは忘れられません。
歳が比較的近かったということもあるでしょう。
(赤軍が去ったあとの京都の大学については、現在訴追されている元外務省分析官、佐藤優さんの高畠氏についての文章(「新潮」に連載中)に詳しいです。
佐藤さんもぼくと同じく「全共闘から若干遅れて京都で学生になった」方です。)

「光函」という作品の冒頭に、そのニュースを聴いたあとの自分を登場させました。偶然ではありません。何もかも虚しいという気分からぼくはここまで何とか生きてきた気がします。

「上官の命令に逆らえない日本人」「暗闇から戻ってこれなくなった日本人」「そうなりがちな日本人」…。
「普通のひと」たちはいつもはオープンで、まったくそうではないのに!!
「普通のひと」たちは時としてとてつもなく残虐になる。かと思えば突然、虫も殺さぬほど優しくもなる。この謎。

謎というより、そういうものだとしたら、「生きる側」につくには。「生かす側」につくには、と考えています。

作品にしたいのもそこです。構想をずっと練っています。
長編小説。
時代は鎌倉初期、舞台は京都。登場人物。そこまでは考えています。

■今年いちばんの詩にであいました。
新聞の「少年少女の作品」に載っていた小学5年生の詩。
書き写すことは出来ないけれど題名は「わたし知ってんねん」といいます。

この柔らかさ。リズム感。いやあ子供は天才ですね。
かなわないな。

他の子たちの「大人のような」作品は全然おもしろくないんですがね。

この作品の率直さ、しなやかな言葉の使い方、京都言葉の使い方。
勉強になります。
はっとさせられました。

■裏のおうちから花の終わった蘭だけど育ててみはる、と声がかかり、一も二もなくいただきました。
蘭を株分けしていっぱいになってしまったとのこと。
いただいたのはどうやらオンシジウムのようです。

蘭は薔薇以上に手がかかり、今までデンドロヴュウム、胡蝶蘭をそれぞれ咲かせましたが、長続きしませんでした。
温度と光と湿度の管理にかなりの繊細さが要求されます。

挑んでみます。

■「街函」が一度に10冊も注文が来ました。忙しくなります。



2008年05月05日(月) 愛犬ハナに頬を寄せる。

雨降り。
ここ二日ほど30℃を越えていたからちょうどいいんじゃないか。
うちの前で観光客がノイバラの写真を撮っていく。
毎日数人いる。
風と雨で花は散り始め、今週いっぱいでなくなると思う。

連載の原稿、一応フィニッシュ。一息つく。
最後の言葉を何度も変えた。

India Arieを聴く。

もうしばらくしたらあるサイトにアップする原稿を整理。書き足す。
時々、愛犬ハナに頬を寄せる。

だいじょぶかい。眠たいねえ。



2008年05月03日(土) 久しぶりに

早朝、龍安寺の庭園をぐるっとひとまわり。

午前中、法然院近くの、年に数日しか中に入れないお寺にゆき、ここ数年来、ぼんやりといつか書ければいいなと思っていた人々のお墓に手を合わせてきました。

午後、それをどう形にするかを考える。

夜、小説を数行前進させる。

現在、leadとして聴いているのは
”Go Slow”Spalha Swa
アルバム”In the Distance”からこれだけを聴いています。



2008年05月01日(木) 自分の羽根で、と呟きながら

短い小説を続けて書いている時、突然、何も見えなくなる時がある。
何も書けなくなるのだ。
内容についての反問はしょっちゅうなのだけれど、この場合はそれ以前の問題なのだ。
見失ってしまう感覚である。

書いている自分を励ましたい時に江國さんを読む。
それは、こう書いてもいいんだという確認に似ている。江國さんの伸びやかさ、切れ味の良さに半ば伝染したような自分にしてしまう。

しかし直面している事態はそれでは救えない。
それ以前の、何から手をつけていいやら、となってしまっている時だ。
そんな時は庄野潤三さんの「自分の羽根」を読む。

庄野さんは、デヴュー前後、サラリーマンとして仕事をこなしながら小説を書いていて、その経験から文学を志す「働く者」への激励ともいえるメッセージをエッセイに書いていてくれたのだ。

とにかく細切れになる時間。家族が休んだ頃に一人起きだして机に向かう。つきあいも断り、机に向かう。それでも時間がない。考えがまとまらない。
それでも「下手な考え休むに似たり」と思いを決め、
とにかく最初の一行を書き出すことだ、と自分を叱咤する。

そんな姿が「自分の羽根」(講談社文芸文庫)というエッセイ集には書かれている。
なんどもその文章に励まされた。
最近、そのくだりをよく読み返す。

すらすらと書けていけるうちはいいのだけれど、「黙り込む」=「紙の上に書かない」でいると危ない。

例えば脳に関する専門家の意見もそんなに変わらない。
茂木健一郎さんも築山節さんもアウトプットの重要性という点では共通している。細切れの時間に集中せよ、という点も。

何かをひねり出そうとする時、歩いたり書いたり読んだり、とにかく脳を動かし続けていく。
とにかく何でもするとにかく「出す」。

2000年の頃からネット上にとにかく書き続けてきて、脳というのは変化し続けていないと厭になってしまうんだということが、最近とてもよくわかる。
躊躇せずに思ったことを紙に書き出し、パソコンに打ち込み、そこから組み立てていくことだとなんども自分に言い聞かせる。


だけど、それだけでも駄目なのだ。書けなきゃそれまでなのだ。
自分を前進させる意志。人に伝えたいという意志。
それがいつも試されている。

とどのつまり「自分の羽根」で飛ぶしかないという認識に戻る。
小説は、なにか奉らなければならないようなものではない。
背伸びをして何かになったつもりで書くようなものでもない。
自分の羽根で飛ぶこと。
自分の身の回りから立ち上げていくこと。「身の回り」とは実際に見えたことだけではない。読んだこと、想像したこと、聴いたこと、あらゆる経験から立ち上げていく。

誰の羽根でもない。
江國さんのでもない。庄野さんのでもない。
自分の羽根でしか自分は飛べないのだ。


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