散歩主義

2007年04月30日(月) Tシャツの日





今日は夏日になった。お昼前ぐらいからTシャツで過ごした。
今年になって初めて。
ハナの散歩も素足にサンダル。おとといなら考えられないことだ。

当然のことだけれど、ずいぶん軽い。気楽。
ふんふんふーん、てな感じ。

朝のうちは爽やかだったので、長袖のTシャツでコルナゴに乗り、西本願寺と蹴上に行った。
帰ってきたときは、すでに暑くなっていて、そこで半袖に切り替えたというわけである。

街をゆく人も観光客も半袖の人が多かった。

「下流志向」内田樹、「壊れる日本人」柳田邦男を読む。
「壊れる日本人」で紹介されている「ケセン語訳新約聖書」というのがとてもおもしろい。

「ケセン語」というのは、岩手県の三陸海岸最南部、気仙地方(宮城県気仙沼付近と隣接した地域)の方言である。
日本語訳を方言に直したものではない。ギリシャ語に直接あたり、それに即した意味の「ケセン語」を採用するという方法をとっている。
その言葉が硬い文体の聖書よりもはるかに「ぐっ」ときた。

「ぐっ」とくる、というのは言葉が(たぶんその「意味」が)からだに飛び込んでくる。と、いうか皮膚感覚に近いような理解が得られる感覚があるのだった。

例えば普通の新約聖書のなかの「マタイによる福音書」にある
<心貧しき人は幸いである。天の国はその人たちのものである>

<頼りなぐ、望みなぐ、心細い人ァ 幸(すあわ)せだ。神様の懐に抱かさんのァその人達(ひとたづ)だァ>
となる。

ぼくは東北人ではないけれど、後者の方が「ぐっ」とくるのだった。

もう一つ考えたこと。
ネットもテレビもラジオも何もない日を一日つくること。
たぶんたいそう退屈するだろう。
植物の手入れをするか、ひたすら本を読むか、ロードレーサーに乗るかすれば時間はあっという間に過ぎるだろうけれど、
水撒きを終えても、本を閉じてからも、レーサーを降りてからもそれを続けること。
週に一回でいいからやってみる。
考えることと生活の細部を見つめること。それが大きな理由。
一人の部屋にひきこもっているわけではないし、他者との関わりもあるし、難しいとおもうけれど、方針として。


そうそう、ノイバラが満開になりました。
五月は薔薇の季節です。



2007年04月28日(土) 学べ、努力せよ。

連休がはじまった。
本を数冊読んでいる。
「下流志向」内田樹(講談社)、「いま私たちがかんがえるべきこと」橋本治(新潮文庫)、「人生の鍛錬」…小林秀雄の言葉…新潮社編(新潮新書)

特に内田さんの本の内容には揺さぶられ、驚愕した。
「学ばない子供たち」「働かない若者たち」を梃子に「ただいま現在」の日本社会を解析して見せてくれている。

いわゆる「落ちこぼれ」ではなく、「努力して学ばないようにしている」子供たち。「自己決定の詐術にはまった」若者たちの姿が浮き彫りにされている。

彼らは「勘違い」したままなのだと思う。
あるいはある程度の年齢の方でもいるかもしれない。
簡単に言えば、彼らは「時間」を完全に忘れているのだとおもう。


努力が報われない時代のようで、少しの入力の差が時間が経過すればするほど大きな出力の差となる時代なのだ。

自己決定、自己責任が声高に叫ばれるなか、自立と孤立をはき違えたままに立ち往生していく若者たち。
勘違いした「自分探し」はどこにも行き着かない。

実は橋本さんの本を読んでいると、似ていると感じる部分がでてくるのだけれど、いまはまだうまく説明できないでいる。

努力を信じろ。
学ぶことを信じろ。
シンプルにいえばそういうことだ。
「そういうこと」とはきちんと生きていくために日々繰り返される
「第一歩」のことだとぼくは思っている。

以上、読書の途中経過。
何度でも読みたい本である。



2007年04月27日(金) 第13回「尖」展にいく




京滋の日本画の俊英たち23人の集団「尖」の展覧会に足を運んだ。
場所は岡崎の京都市美術館。

隣ではエルミタージュ美術館展を開催中で、ゴーギャン、ピカソはじめさまざまな名画を見ることができる。
そちらにはまた日を改めていくことにして、現在進行形の画家たちの作品を拝見した。

ここ数年、グループ尖の展覧会はほとんど見ているから、会員の名前も全部覚えてしまったし、画風も
最近のモチーフがなんなのかもだいたい分かかっている。

それでもなお、いやだからこそだろうかこのグループのメンバーたちが
前進していることが分かる。
なにより「画を描く」ということに意識的であることの痕跡が見える。

このことは大事だと思う。
大傑作一つがぽつねんと飾られているのではない。
前よりはるかに、空間を意識させられ、画面の要素の一つ一つを意識させられ、
「その外」を意識させられる。
それってどういうことだろう、と考えた。

それは、この美術館のこの一画に
「尖」として一つの運動体のような「画廊」を成立させているんじゃないか、と思い至った。
歴史に残る大傑作が鎮座する隣の大展覧会とはまた別の位相なのだ。

天井が高く、ゆったりとしたスペースが確保できる市立美術館ならではの展開を楽しませていただいた。

画の優劣はぼくには判定不可能である。する気もない。
何かを感じるか感じないか、だけである。
今回もすべての画に何かを感じることが出来た。
感じさせようとする「手つき」が見えもした。そういう「手つき」が見えるのがぼくは好きなのだ。

畏友、竹林柚宇子さんの画は
最近のモチーフの展開バージョン。ぼくはひそかに「糸電話シリーズ」と呼んでいるのだけれど、
ほんとうに「糸」が使われていた!
感応することをもとめ、そして待っているような画でした。よかった。

帰りがけに代表の山本俊夫さんと短くお話をすることが出来た。
今年、「尖」は東京でも展覧会を開催するとのこと。

詳細はこちら
尖ブログまで。

今回の展覧会は29日まで。
入場無料。

先人に学ぶ勉強会を積み重ね、展覧会も確実に開催していく。
あくまで画に対して前のめりな姿勢を崩さない「尖」にはこれからも注目していく。



2007年04月26日(木) 宗教的人間

明日の午前五時発送のメールマガジンと専用ブログの準備を済ます。
最近そのことを知った友人から、結構なストレスやね、といわれた。
だから準備を済ませたときの気分はいいものだよ、と答えた。

ここ二日ほど、車谷長吉「贋世捨人」の毒気に当てられてしまっていた。
凄まじい物語であり、凄まじき方である。
初出が三年前。三年が過ぎたからといって車谷長吉という人物がこの生き方を背負って立っていることに変わりはない。
「抜き身」で生きている人である。
物語に妙な触り方をするとさっと鮮血が噴き出しそうである。

到底、頷けぬ数々の文章があった。酷いと思った。惨いと思った。
それをもって糾弾する人もいるだろう。

しかしぼくは、この「私小説の極北」の手触りを大事にしたい。
なぜならこの小説は「対峙」してくれているからだ。
この小説に向かい合うときの自分の気持ちを大切にしたい。
強い反発と共感がないまぜになった感情がぼくにある。

なんて悲しい人なんだ。なんという因業なんだ、とおもう。
その気持が小説を通り抜けて
小説を書こうとする自分に対して刃を向けてくる。

だからぼくはぼくの過ちに否が応でも気づかされる。
自分の駄目さ加減を徹底的に突きつけられる。
だからぼくはこの本を大切にしたいと思う。

昔、友人に、おれは論理の人間としていきていくが、おまえはたぶん宗教的な人間として生きていくだろうといわれたことがある。

そうなっているな、と感じ始めた。
そういうようにしないと生きてこれなかった、というのが正直なところである。

論理的であることと宗教的であることは矛盾しない。
矛盾させてはいけない、とも思う。

「宗教的人間」という言葉がはからずも「贋世捨人」にも現れて、このことを思ったのだった。
「宗教的人間」と指されたのは車谷さんの弟さんであった。



2007年04月23日(月) 散歩道では

イチョウが新芽を吹き、藤の花が咲き、芍薬や牡丹の季節になりつつあります。そんな道すがら文庫本を三冊、買いました。
車谷長吉「贋世捨人」、小川洋子「ブラフマンの埋葬」、橋本治「いま私たちが考えるべきこと」。
傾向がバラバラに見えますが、読みたい本を並べたらこうなりました。

週末のメルマガにも少し書きますが「ベニシアのハーブ便り」も昨日から読んでいます。

こういう読書が、結局「ぼく」なのでしょう。
そして昨年の新潮12月号を引っ張り出し、車谷さんの畸編小説を読み直しました。

今日から金曜日の畸編小説を書き始めます。




2007年04月22日(日) 新しい道

詩や小説を発表する場所として、自らの「本」の制作を中心にすることにした。
有名な詩誌や文芸誌、雑誌に掲載されることは、全国に作品が流通することを意味するから確かに捨てがたい。
だから小説に関しては投稿を繰り返していくと思う。ほとんど投稿した経験がないから。
しかし詩に関しては、自らの「本」が中心になる。

ともすれば投稿が目的になってしまいがちで、作品をまとめるという観点が逃げていくのだ。
投稿には「よりかからず」、もうそろそろ独り立ちしてもいいだろう、いや独り立ちしなければならない、という判断だ。
ついでに本名を消すかどうか検討中。



2007年04月21日(土) 穏やかだけれど

急に暑くなりました。
季節の変わりようが、ずいぶん強引になったような気がします。
数年前からそんなふうに感じています。

Tシャツ姿で植物をいじっていても平気です。
自転車で走るには、また長袖の方がいいけれど、それもTシャツです。

佐藤正午「小説の読み書き」(岩波新書)「ありのすさび」(光文社文庫)を読み終えました。
語り口が柔らかいというか、視線が「見下ろし」でないというか、わかりやすい文章でした。エッセイの内容にも共感するところが多かったです。

具体的に何が、と問われると長くなるのですが、
例えば「人はものを「書く」ということはしていない。正確には「書き直して」いるのだ」という認識や、
「小説を書くのに男はまったく役に立たない」ということなど、です。


彼の短編小説集を発注しました。
その後、彼のホームページで、彼自身の自信作が「取扱注意」という作品だと発見。
最初のを読み切ったらそちらに進もうと思います。


佐藤さんを通じて野呂邦暢という作家にも行き当たりました。
読んでみようと思います。



2007年04月17日(火) とほほ加減

佐藤正午「ありのすさび」を読む。
途中から川上弘美「あるようなないような」も併読する。

小説家の自身を語るエッセイはおもしろい。
この二人は、「とほほ」の加減で似ているような気がする。

「とほほ」と感じてしまう行動のありようが、まあたくさんあること。
おもわず微笑んだり、苦笑したり。

そしてふたりともsolitudeでもある。
それは二人に限らず、小説家、いや創造に関わる人すべてがそうなのであろうとおもう。



2007年04月16日(月) 読み書きは静かなうちに熱を持つ

友人の文庫本主義者が文庫本を持ってやってきた。
まあ、四の五の言わずにこの啖呵をお読みよ、というから渡された文庫の、開かれたページの前後を読む。

それは
『これで晴れて新撰組も天下のどん百姓や』という「輪違屋糸里」(浅田次郎・著)の糸里の啖呵だった。
糸里の目の前には刃が突きつけられていて、それを握りしめているのは土方歳三である。

この小説は新撰組の芹沢鴨暗殺と花街島原の太夫殺しが絡み合っているのだけれど、いきなり手渡されてその前後数ページだけ読んだだけで、その息づかいに感心した。

いとさと、かっこいいね。
映画で上戸彩さんがやるんだよ。これ。
ほほお。
これ読んだら壬生義士伝も読まなあかんねえ。

といって彼女はいきなり本屋へいってしまった。
しばらくして帰ってきた彼女は、これおもろそうやったから、といって文庫本を一冊渡してくれた。つまり読めよ、とうことである。

帯に書いてある言葉、あんたといっしょやんか。はははは、と笑う。

本は佐藤正午さんの「ありのすさび」。エッセイ集だ。ふうん、といって読み出したらおもしろい。
佐藤さんの本は岩波新書の「小説の読み書き」を持っていて、まだ読んでいなかったから二冊を同時に読み出した。

たぶん「小説の読み書き」の方が先に読み終えると思う。「ありのすさび」はボリュームもあるから、もう少し先まで時間がかかるかな。

佐藤さんとぼくは年齢が一つ違うだけだ。
だからこの小説家のありようが分かり、かつ、モノカキの参考になるだろうという彼女の配慮だろう、と、素直に感謝した。

さてそのモノカキは、ノート1ページ分だけ進んだ。
静かな風景だけを書きたい。
それは小説にはならないのかもしれないけれど。



2007年04月14日(土) 向日性

自分に向日性のようなものが芽生えたのは、自転車ロードレーサーを乗り回していたときだった。
ある日、光の中へ飛び込んでいく感覚にとらわれ、魅了されてしまったのだ。それ以来、それが味わいたくて何度も、似たシチュエイションを選んで走っている。

車でもバイクでも感じることだけれど、自分の脚で回転しながら飛び込んでいく感覚は独特のものだろう。
あるいはジョガーのかたもこんな感覚を味わうのかもしない。

ぼくと父は同じ趣味はなかったけれど、脚を使って光をめざすという点では似ていたかもしれない、と最近思う。
父は登山が大好きだった。それもかなりのマニアだったから。

だから、というわけではないけれど光を感じる画家が好きだ。
(しかし、色彩を操る人はみな光を見つめる人なのだろうと思うけれども。)

ぼくが好きなのはフェルメール、マティス、ワイエス、モネなどだ。


それを眺めながら、言葉が流れてくるのを待っている。



2007年04月13日(金) 夜に激しい雨が

夜の九時過ぎから激しい雨が降り出した。
今日は辻という辻に警察官が鋼鉄の「非常線」を置いて立っていた。
三時間から四時間。

うちの薔薇たちが五月の開花に向けて成長中。
特に年に一度だけ咲くものには気を遣う。
ナニワノイバラが去年以上の蕾を付けた。楽しみ。
ピエール・ド・ロンサールも順調。



2007年04月12日(木) 動物/植物

 吉行淳之介さんの小説には「細胞」や「漿液」という言葉が頻出する。
 そのことに関してエッセイでご自身で何度か分析されるのだけれども、自分の存在の「態」を突き詰めた末の「リアルな抽象」として、そう表現されたようにぼくは思う。

 吉行さんはホモサピエンスであるわけだから、当然、肉対を構成するのは動物の細胞なのだけれど、ご自身で「植物的」である、という。

 「植物的な細胞」とはどういうものか。もちろん感覚の世界である。しかしその感覚が生き方を創り出し、肯定し、前へ進めている。

 さてどういうものか。
 吉行作品を振り返ってみると、透明なのだ。あるいは透明であろうとする「態度」。静的である。孤独である。そして「涼しい」。

「涼しい」というのは荒川洋治さんの吉行作品に対する表現を借りているけれど、まさにそのとおりだと思う。

 吉行さんが、「植物」的細胞として共鳴しうるといった絵画がパウル・クレーであり、音楽がドビュッシーだ。

 クレーの絵は何度も見た。
 植物的特性をもうひとつ加えるとしたら「明快」であろう。
 ドビュシーは「版画」を聴いた。
 ぼくにどう響いたかあまり記憶がない。
 はたしてぼくは「植物的」であるか。
 どうも動物と植物とは可変のようでもある。

 ぼくはバッハを聴く。バッハは鉱物だ。
 「鉱物的」…。
 もう少しドビュッシーを聴いてみようとおもう。

 
 



2007年04月11日(水) 染井吉野が散り始める

 大学の周りのマンホールすべてに封印がはられ、さらにその周辺の町内に警察官の姿が目立ちだした。
中国の要人がこの大学に来るのだ。そんな警戒はほとんどみたことがないから、その目撃の話を聞いても、隣近所の誰もが最初、なんのことかわからなかった。

 そもそも町と大学とは混然としておらず、町よりも後から、旧い野球場跡を造成し、山裾を切り開いた大学は町からは切り離されたように存在している。だから熱心な散歩者ぐらいしか、封印されたマンホールの存在は知らなかったのだが。

 熱心な散歩者、或いはジョガーはテロリストに間違われるかもしれない。いやたぶん怪しまれているのだろう。すでに。
 ぼくのような犬を連れた散歩者もそうだろう。

 昼間の気温は本当に上昇しているのだろうか。部屋の中は冷え冷えとしている。
朝晩はいまだに冷え込んでいる。コートはさすがに着ないけれど、セーターは着ている。何故だか欧米系の外国人の方たちはすぐにTシャツ姿で歩くのだが、寒くないのかな。血圧が高いのだろうか。

吉行淳之介さんのちくま文庫からでているエッセイ集の3を読む。
「姿勢」を思い出したいときには。必ず吉行さんを読む。



2007年04月10日(火) フィッシュマンズを聴きながら

フィッシュマンズのベストアルバム「空中」を流しっぱなしにして、原稿を書く。
やっぱりいいな。好きだな。

このままだと朝起きられなくなるから、打ち止め。
明日には、原稿仕上げよう。

もちろん明日もフィシュマンズを流しっぱなし。



2007年04月09日(月) ちゃちゃ、三歳になりました。

四匹の猫のうち、末っ子にあたる「ちゃちゃ」が三歳になりました。
ちゃちゃ、三歳になりました。



2007年04月07日(土) うすく寒い

花曇り。相変わらず薄ら寒い。
昼過ぎには雨がぽつぽつと降ってきた。
一時、小康状態だったけれど
夜にはまた降り出したようだ。
車の飛沫を上げる音が聞こえる。

夜桜見物の人たちには意地悪な雨だ。

早いところではそろそろ散り出してもいる。
うちのあたり、洛北はまだまだこれから咲いていくのだが。

来週のメルマガの原稿を書き始める。
再び家の付近から。
小説のことも考えはじめる。詩も書いてみる。

john williamsのギターを聴く。
去年の四月はもっと暖かだった。





2007年04月06日(金) 御室桜




我が家の御室桜が咲きました。
品名は「旭山」です。



2007年04月05日(木) うなぎぱい

築年数がかなりたった家には、様々な場所に傷みが発生する。
とうとう水道管がやられた。

水道検針員の方が、使用水量の異常な増加と小刻みに動き続けるメーターとを示して、メーターより家側のどこかで漏水している恐れがあると教えてくれた。

早速、京都市指定の業者さんに依頼。
パイプ内の水の流れる音を聴くための金属でできた巨大な聴診器をはじめ、特有の道具を抱えて職人さんが登場。
まだ朝の早い時間である。

結局、トイレの外のコンクリートを打った「犬走り」の下と判明、塩ビの管と鉄管との継ぎ手のところから漏れていた。
後数年でも水回りは全部やり直されたらよろし、と職人さんはいう。

それを聴いたのは夕方。
その間、ぼくは家にいなかった。職人さんは一日中かかりっぱなしだったわけだ。
管を探すためにコンクリートを割り、数カ所土を掘り、いくつか管を切って水を止めては、噴き出している箇所を推理し、三カ所目に
聴診器で探り当てたのだ。

管を交換し、土を埋め戻し、割った部分をモルタルで仕上げる。
そこまで一人でやってしまった。

今日も京都はとても寒く、職人さんも寒そうだ。
大急ぎで珈琲を淹れ、何故か「うなぎぱい」を添えてねぎらう。
おいしそうにのんで、食べてくれた。

明日も寒いんかなあ。
そんな話を最後にした。

ごくろうさまでした。



2007年04月04日(水) チェリー


毎朝、ラジオをかけて、それを聴きながら掃除をする。
午前五時から六時半までのプログラムだ。
ぼくは、番組が始まる前に起き出して、コーヒーを挽き、ドリップしながら一日をはじめている。
ラジオは最後まで聴いていない。掃除が終わると、愛犬ハナと散歩に行くからだ。

まだ寒かった冬のある朝、スピッツの「ロビンソン」がかかりおもわず聴き入ってしまった。
すーっと心の中に入ってきたのだ。
寒い朝の空気を震わせるのにふさわしい歌だと思った。

スピッツはずいぶん年下の友人である女の子が熱烈なファンで、
彼女の影響で聴いたことがある程度だったんだけれど、
その日から、ぼくもCDを買いに行き、このバンドを聴き出したたのだった。

おまけにその朝のことがきっかけになって「朝のロビンソン」というとても短い小説もできて、
メルマガで配信した。

今朝、ハナと散歩から帰ってきたら、ちょうど番組最後の曲が流れていた。
スピッツの「チェリー」だった。
この曲は何度も聴いていたけれど、またしても聴き入ってしまった。

このナイーヴな歌詞をいい年をした男が聴き入るというと、笑われるかもしれないけれど
朝にぴったりなのだ。

朝食を食べながら、それが何故なのだろうと考えていた。
窓の外にはたくさんの鳥たちが啼いていて、その声に意識が向いた瞬間、これだ、と感じた。

マサムネ君の声は、鳥なんだ。
ヒヨドリとかヒバリの系統じゃなくて、ウグイスなどの澄んだ高い声の系統。

スピッツのファンの人には怒られそうだけど、ぼくはこの直感が気に入ってる。

朝にぴったりのはずだ。



2007年04月03日(火) 情熱+

NHK「プロフェッショナル」
今日出ていた鹿島先生、かっこよかった。

プロフェッショナルとは。

前提として「情熱」。
情熱だけじゃダメで「スキル」。
そして研究し、立ち止まらないで
常に現在進行形である人。


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