散歩主義

2004年07月31日(土) 重慶

今夜、日本サッカー史上、決して忘れられない試合がありました。

場所は中国・重慶。アジアカップの決勝トーナメント、準々決勝、対ヨルダン戦です。
ヨルダンはこの大会の台風の目。誰もが目を疑うほどの強さを見せつけて決勝トーナメントへ進出してきました。特徴は徹底的な守備の強さと玉ぎわの強さ。

日本がこの大会、これまで戦った相手の中で最強の相手でしょう。
体ごとぶつけてくるようなコンタクトの強さに日本選手は何人も倒されていました。反則をまったく怖れていない。これにはイエローカードが累積しないという、この大会独特のルールが影響していますが。

そして、なんといっても会場全体が「反日の砦」と化していること。日本がボールを持つと大ブーイング、そして「ヨルダン、ヨルダン」の大合唱。

ここで冷静さを失ったり、かの国の国民感情を非難するのは愚。
と、いうことをたぶん選手も日本人もサッカーというスポーツをとおして学んでいるなと強く感じました。
日本は成長している、と。

重慶という土地が先の大戦で日本軍によって占領されたのは歴史的事実として動かせません。故に「反日感情が高い」、と。それも致し方ないでしょう。
それを全て引き受けてピッチに立つ選手たちに拍手を送ります。

「スポーツに政治を持ちこむな」ジーコ監督は中国政府に対して正式に抗議したといいます。

ブーイングや妨害は当たり前。そんなことは経験済み。もっと厳しいアウェイを経験しているから。
ジーコが言ったのは、日本人の観客を入れないことと、国歌にブーイングを続けること。それをやめろ、と。よその国ではありえないことでした。
実際、チームは有形無形のプレッシャーを浴び続けています。

しかし、やはりそうではないんだと言いつづけることが大事だし、さらにそういう立場のときは勝つしかないんです。
その勝利の重みと凄み。

はっきりいって、日本は敗戦寸前でした。運までにも見放されて。PK戦で負けたと誰もが思ったでしょう。何故勝てたのか。
勝つことを諦めなかったからです。誰一人あきらめなかった。

ヨルダンは「勝った」と思った。その差です。
日本が勝った時のスタジアム全体を包んだ落胆のうめき。
それが忘れられません。
こんなタフなステージでも日本人は戦えるようになっている。それも爺さんたちの世代の起こした戦争という愚までを引っ張り出されてもなお、クールに、自分たちらしく。
ぐっ、ときました。

今日のピッチに立った選手たちをぼくは誇りに思います。
この勝利だけでもこの大会での価値はありました。日本は大きく成長したと思います。

「ジーコ・ジャパン」。あまりに「日本的」であるが故にその欠陥も指摘されるところですが、それゆえの強さ、タフネスさをいよいよ身につけてきましたね。
次はバーレーン戦。そして向こうのプロックでは中国と韓国が勝ち上がってきています。




2004年07月30日(金) PC不調/そして台風がやって来る





どうもパソコンが不調です。
一番困るのは、文章入力途中でフリーズすること。
昨日、ここに書くべきことは、結局ノートに書きました。

いまも少し怖いかな。

あまり長時間打つのは避けたいので、ノートに書く時間がその分増えると思います。
PCに打つ時は一気に行かないと。

なんとかバーストする前に手を打っておきたいです。


そんなこんなを言っている間に台風がじわりと速くなったとか。今、夜の11時過ぎですがものすごい風が吹いています。
鉢植えのレモンを軒の下まで移動させました。

まったく逆からやって来る台風。なんと「熱風の比叡おろし」をはじめて体験しました。
明日は雨でしょうね。

いつか書こうと思っていた「マタイ受難曲」の感想を書いてアップしたところです。この二日間「マタイ」漬けだったので、ニーナ・シモンを聴きました。
ブルースの女王でもあった彼女は、しかし小さい頃からピアノを習い、大のクラシックファンでもありました。そう、みなさんの予想通り、彼女も「バッハ弾き」であったのです
ところでこの「バッハ弾き」といういい方は、江國香織さんの作品からいただいております。



2004年07月28日(水) がんばれゴザンス!!

いつもお世話になっている、インターネット・ライティング・スペース、ゴザンスのシステムサーバーが大トラブルに陥っています。

テーマ記事投稿、800字小説、ことばあそびなどの企画への参加から、CDや本のレヴュー、コラム、詩、小説などを、2002年末からずっと投稿してきました。
その投稿数が187を数えていると思います。

記事を投稿すると、メインのページに最新記事として掲載され、区切りごとにピックアップされたものは、そのメインページに大きく掲載されます。また、同時に登録しているかたのもとへメルマガの形で届けられるというシステムです。

そのまえからネツトで書くことは始めていましたが、そのレンジが一気に開いたのもゴザンスに投稿してからだと思います。
「婦人公論」の井坂さんへの投稿とゴザンスの記事の投稿がぼくを鍛えてきているのです。

「光函」という本もゴザンスがあればこその作品です。
ゴザンスがなければ日の目を見ることはなかったでしょう。

「書き手」の自由裁量を最大限許してくれる、あくまで「書き手」の側にたってのスペースづくりには、常々頭が下がる思いでした。

システムの全面復旧まで、どーんと構えてますからね。
頑張れゴザンス!!



2004年07月27日(火) よーく考えよー時間は大事だよ



うーう、うーううううー♪

ツール・ド・フランス観戦に当てていた時間がもどってきたおかげで、ゴザンスのテーマと800字をアップすることができました。
ほんとに隙間の2時間、3時間がいかに貴重か、ということですね。
ツールの分、モノカキの時間が後ろに回っていたため、寝不足も甚だしかったのですが、これも解消…とはいかなくて、慢性的に寝不足です。

明日から長島有さんの「パラレル」を読みます。かなり期待しています。
それと「温かい雨」の新しい部分を書き継いで行きます。
方法論的なヒントが掴めたので、これから…。髪の毛一本ほどのヒントですけれど。

時間は大事ですね。
ほんとに…。




2004年07月26日(月) ツール閉幕の日にパンターニを思う




ツール・ド・フランスが閉幕しました。
この間、この日記で何度か取り上げてきましたけれど、今年はこれでお終い。
ツール観戦の時間が音楽、読書、シッピツに振り向けられます。寝不足も大幅に解消されるかも??

一般の新聞やニュースでも取り上げられたので、ご存知の方も多いでしょう。
ランス・アームストロング前人未到の6連覇。
2位クレーデン、3位バッソ、山岳賞ヴィランク、スプリント賞マキュアン、新人賞カルプテス。
ぼくの好きなヤン・ウルリッヒは総合4位。そして最優秀チームがウルリッヒとクレーデンの所属するドイツのT−mobile。
これでウルリッヒはこれまで参加した全てのツールで表彰台に立ったことになります。これも偉業だとぼくは思いますけどね。

まぁ勝敗はともかく、全力を出し切った後の顔は素晴らしいですね。
みな輝いていました。

ランスは現在34歳。来年走るかどうかはわからないといっています。一番輝いている時に身を退くというのもひとつのスタイルだと思いますが…。

実は同じ年齢で天才といわれた男がいました。その名をマルコ・パンターニというイタリア人。
ヒルクライムに関してはこの男を超える人間はまず出てこないでしょう。
絶頂時にはジロ・デ・イタリア、ツール・ド・フランスをともに制覇するという「ダブル・ツール」もやってのけました。

スキンへッドにバンダナという風貌。そして感覚で走るタイプ。スピードメーターも心拍計もつけない。そんな彼が絶頂期にドーピングに引っかかり、そこから躓き始め、さらになんどか事故にもあい、ゆっくりと駄目になっていくのはわかっていました。だけど自転車で走る以外に何もないような男だから、きっと出てくると思っていたんです。またフラッシュのようなアタックを見せてくれると。
しかし、そんな彼が今年の2月にホテルで薬物中毒で亡くなりました。

生存率2%といわれた癌を克服し、さらにそこから6年連続してツールを制覇したアームストロング。彼が癌と戦っている頃。アルプスをそれこそ跳ぶように走っていたのがマルコ・パンターニでした。
その後もアームストロングとの名勝負をいくつか残しながらも、不調が続きいつしか走れなくなっていったのでした。
うちには昔からのツールのビデオが残っているので、往年の姿を見ることができます。本当に速い。まさに天才としか言いようがない。

ウルリッヒは彼らから4歳年下です。ドイツの生んだやはり天才レーサーとして彗星のようにデヴューしながら、同期にアームストロングやパンターニがいたため、ツールを制覇したのは一度だけ。万年2位といわれつづけています。(それも実はすごいことなんですが)それでもアタックすることを止めない。
それに対してアームストロングは絶対に負けない。

そしてただひとり消えていったパンターニ。
あまりに寂しいです。
彼がホテルの一室でコカインや精神安定剤の錠剤のカラに埋まるようにして発見されたのは、バレンタイン・デイでした。

シャンペンを持つアームストロング。
実はこのあとウルリッヒと長かったツールを振りかえるように、走りながら談笑するシーンが見られました。

マルコ、あんたは一番レースには向いていない人間だったのかも知れないな。
二人を見ながら、ついそんなことを思っていました。



2004年07月25日(日) bass on top

今日の題名に意味はありません。

●ツール・ド・フランスは個人タイムトライアルが終り、いよいよ現地時間の今頃、パリに凱旋していると思います。

なんのトラブルも起きなければ、ランス・アームストロングの史上初の6連覇が達成されるでしょう。
まさに「超人」。これ以上の成績を残せる人は二度と出てこないのではないでしょうか。

●京都新聞、日曜の読書特集のレヴューはたいてい目を通すのですが、今回のはおもしろい記事がありました。
江國香織さんの長編小説「思いわずらうことなく愉しく生きよ」のレヴューを詩人の井坂洋子さんが書かれていたのです。「好意的」というと少し違うかな…。井坂さんらしい評でした。うん、やはり好意的、かな。

●長島有さんの「パラレル」を何度も読もうと思っています。
●詩に関しては、井坂洋子、高橋睦郎ご両人の詩集を全部読破すること。まだ僅かだけれど読めていないものがあるから。

●音楽は「マタイ受難曲」J.Sバッハ が次のリストに入っています。
古楽器で聴きたいですね。韓伽耶さんのCDも検討中なんですが彼女のベートーベンはまだCD化されていないようですね。

●書くことの中身を検討中。中島義道さんの文庫をテキストにしながら考える訓練を続けています。



2004年07月24日(土) 悲哀とは

今、とても読みたい本が二つあります。

ひとつは西田幾多郎の「善の研究」。
哲学書だから手におえるかどうかわからないけれど、生きている間には、読んでおきたい本です。
ぼくの散歩コースにたまたま彼の墓所があったことが始まり。おや、こんなところに彼のお墓があるのか、というところから彼のことを調べはじめて次のような言葉を見つけたんです。

『哲学は存在の驚きでも、知への疑いでもなく、哲学の動機は人生の悲哀でなければならない』

この実に文学的な言辞にはっとしたんですね。

彼は西洋哲学を学びながらも、魂の救済を求める内的な関心へと、それは彼にとって禅なのですが、そこへ踏みこんでいかれた。
彼の墓所は彼が参禅したお寺にあるのです。

実際に彼の人生はこれでもかというぐらいに降りかかる不幸を振り払うように続いていきます。その行きついた末に書かれた「善の研究」。
岩波文庫の不滅のベストセラーを読んでみたいと思います。
まったくの文学的な動機でありますが。

もうひとつは長島有さんの「パラレル」。
これはなんとしても読みたいです。
立ち読みの段階で、泣きそうになりました。

ぼくの泣く本というのは、なんてことない普通の事が書かれた本が多いから、世間さまとは「ずれ」ていると思うけど
これはいいです。

ところで、西田幾多郎の有名な一言を書いておきます。

…善とは一言にていえば人格の実現である。これを内よりみれば、真摯なる要求の満足、すなわち意識統一であって、その極は自他相忘れ、主客相没するというところに至らねばならぬ。
外に現れたる事実として見れば、小は個人性の発揮より、進んで人類一般の統一的発達に至ってその頂点に達するのである…

これは実は「パラレル」にも通底ていしていることだとぼくは思うのですけれどね。「括り」が大きいとか小さいとかじゃなく。



2004年07月23日(金) ツール・ド・フランス アルプス・ステージ


ああ、ウルリッヒ…





ツールは日本時間の今夜、第18ステージ(フランス語では18エタップといいます)が行なわれ、アルプスを後にします。
残りは後2つ。

アルプスでの個人山岳タイムトライアルでもランス・アームストロングは圧倒的に強かったです。相撲でいえば昔の「北の湖」みたいな強さ。
そこまでやるかよ、という強さ。

続く昨日の長い長いアルプス縦断のエタップでも優勝。ゴール前で本能剥き出しの表情をした彼が猛禽類に見えました。

ウルリッヒもよくやっていますが、次元が違いますね。
アームストロング、バッソ、クレーデン、ウルリッヒの順位。たぶんこのままパリに凱旋するでしょう。

各ステージには現在のパートナー、シェリル・クロウが現れて、熱い視線を投げかけています。このことでだいぶがっかりしたファンも多いのでは。
(クロウはアメリカのシンガーです)
特に癌からの生還を果たした彼と家族との絆の深さを、有名な彼の闘病記で知っているものとしては複雑な気持ちになります。

まあ、前人未到の6連覇は確実。
レースの興味はほとんどありません。
全員、事故なくパリにつきますように。それだけですね。

もうすぐツール観戦に費やした時間が戻ってきます。



2004年07月22日(木) 書くことの励み




ここのところ短文を作ることが多く、詩の方はあまりアップしてきませんでした。
なかなかひとつを作り上げることができないのと、婦人公論のフォーラムでの選を待っていることが原因です。
(選者は詩人の井坂洋子さん)

毎月1度の発表です。しかも締切などの時間の制約が無いので、いつどう掲載されるかわかりません。
したがって選ばれた作品を、あとからアップすることになります。
選ばれなかったものについては、とてもアップはできないな、と。
見なおすと、たいていそのような「できばえ」ですね。

もちろんそれ以外の応募していない作品もあり、それはそれで随時アップはしています。

今回の発表が、今日発売の婦人公論8月7日号にありました。
入選、「選外」佳作とにぼくの名前が掲載されていないので選評をしっかり読もうとしたら、そこにぼくの作品対する評価が書かれてありました。他の人たちの名前も佳作となっていないので、これは誤植!?と思ったのですが、結局、「佳作」ということがわかりました。
入選、佳作、選外佳作の3段階の評価のようです。


作品中にも「版画」という言葉を入れましたが、井坂さんからは「言葉による彫刻」という言葉をいただきました。
高い評価をしていただき、今後の励みになります。

実はテーマとして「版画」を考えていて、ゴザンスに提出した「こきん」という短い文章にもその一端が含まれていたと思います。
で、今回評価していただいた「踏切」という作品もそのひとつです。

難しいけれど面白いテーマです。
これからも取り組んでいきます。次の作品集には複数のテーマが同時に並行しています。作り上げる段階でそのこともお知らせできれば、と思っています。

ちなみに「踏切」はこちらです。

詩 「踏切」  へ  


それと、応募する詩はすべて原稿用紙に書きますから、ずいぶんPCの画面上とは違います。縦書きだと思って読んでくださいませ。



2004年07月21日(水) ウルリッヒの意地


屋根の上から比叡山。おーい、うるりっひー!!と叫んではいません。




昨日、書いた事が通じたように、ツールのアルプス初日でウルリッヒが単騎でアタックしました。リスク覚悟の勝負です。

最後はアームストロングらの先頭集団に吸収されたものの、同じチームのクローデンとともにゴール。3位でした。
その結果、彼の順位も一位まで5分30秒差の五位に上がりました。クローデンは3位です。

ウルリッヒのアタックで一気にレースが活性化し、実力者だけが残りました。おもしろくなってきましたね。今日は山岳個人タイムトライアル。
さらに頑張って欲しいです。

もうアームストロングの強いのは充分わかったから、一人でも勇気あるアタックをするものに声援を送りたいです。
できることならクローデンとウルリッヒが、アームストロングにしがみついている2位のイバン・バッソを上回って欲しいです。

まさにこれぞ「男」。リスク覚悟の勝負。最後は届かなかったけれどかなり追いつめました。
それにレースはパリまで。まだまだ続きます。

日本もフランスもサイクルレースのジャーナリズムはウルリッヒに拍手喝采のようです。強い選手に金魚の糞のようについてまわる「上位狙い」の連中を蹴散らしたウルリッヒ。
うーん、惚れなおしました。
がんばれー。



2004年07月20日(火) 耳の癖


        PIPIです。

昨日、「高瀬川」のレヴューに「in a sentomental mood」の感想やデータもおりまぜて書きました。
当然PCの横には「高瀬川」が置いてあり、部屋にはデューク・エリントンとジョン・コルトレーンの音楽が流れていたんです。

今日、このようになるだろうということは、書いている時からわかっていました。
…コルトレーンから離れられなくなるのです。

これはもう一種の「癖」のようなものでしょうね。彼のテナーのブレスと自分の吐息がたぶん深いところで「同調」しているのでしょう。延々と聴きつづけてしまいます。

だからコルトレーンを聴く時は用心しているんです。エリントンとのデュオですらそうなんですから、彼のカルテットのものだったりしたら、なかなか止まりません。

同じくピアニストとのデュオとして、あのセロニアス・モンクとのデュオもあります。これはなかなか繰り返しては聴けません。
だから…。評価が真っ二つに分かれている作品ではあります。…つまり…。

今、部屋に流れているのは「Ballad」。心にしみ入る傑作です。
さすがにこれを聴いたら赦してもらえそうです。

マイルスではこれはないんです。あるのはコルトレーンとウエス・モンゴメリー。
ロックだとジミ・ヘンドリックスかな。

バンブー茂のMATATABIは寝る前にもう1度…。
そして、作品を進めなければ…。





2004年07月19日(月) 夏の日陰

朝早く、そろそろ陽射しが強まりだしたころ、ニ階の窓から隣家の屋根の下に猫の脚がみえました。
猫は「アタマ隠してシリ隠さず」っていうけれど、ほんとにそうです。
うちの猫たちも隠れたつもりで尻尾が見えていたりすることがしょつちゅう。

この「脚」の持ち主は外猫の「のぞみ」くん。毎朝5時前にはご飯を食べにきます。生まれたのがうちの外に置いた箱の中だったから、うちのまわりから離れません。




ほとんど「うち」の猫です。

お昼前まで、ここから動きませんでした。



2004年07月18日(日) ツール・ド・フランス前半戦




キース・ジャレットの「ステアケイス」のなかでも、特に美しい曲だと思っている「hourglass」を聴きながら書いています。

今年のツールもピレネー・ステージを終了しました。前半戦の最大の難関、文字通りの「山場」ピレネーを越えました。

今年の最大の特徴は、6連覇を狙うランス・アームストロングと彼のチーム、USポスタルの圧倒的な強さ。溜息が出るというよりも、いやになるぐらい強いです。

それとランスのライバルと目されたメンバーがことごとく不調だということ。
タイラー・ハミルトンは今日、リタイアしたし、イバン・マヨは前半の落車が響いて、全く戦意喪失。今日もリタイア寸前でした。

応援していたウルリッヒもいまひとつ調子が出ず、7分30秒遅れの総合8位につけているのが精一杯。

かわりにまったくのノーマークだった若手の頑張りが目立ちます。いまだに総合1位のマイヨ・ジョーヌを死守しているボクスラー、CSCのエース、イバン・バッソ、本来はウルリッヒのアシストだったクローデンなど。

それにしても連日200km近くを走り、今日などは峠を9つこえて、最後は標高2000mを超える山頂ゴール。
力を振り絞るその姿に、毎年、心ここにあらずとなってしまうのですよ。
もう10年以上夏といえばツール・ド・フランスという状態が続いています。

これから南仏でステージ二つ。それから後半の山場、アルプス・ステージに突入していきます。たぶんここで「予定通り」ランスがマイヨを着てそのままパリのシャンゼリゼに凱旋するでしょう。

だけど、せめて一度でいい。
…意地を見せてくれ、ウルリッヒ!!



2004年07月17日(土) 高瀬川



今日は祇園祭のクライマックス、山鉾巡行の日です。
雨じゃなくてよかった。初の外人さんによる某町内代表も無事、「くじ改め」を勤めはりました。裃がなかなか似合ってはりましたよ。

さて、バンブー茂の新譜を堪能したあとは、自分の作業。今日は読書です。「一月物語」に続いて「高瀬川」を読んでいます。平野啓一郎さんの短篇集です。
少し驚いたのは最初の「清水」のモチーフに「光」がでてきた場面。目線がぼくと似ているところがあったので。かなりシュールな短篇なのだけれどぼくには長い散文詩のように読みました。

今続いて「高瀬川」を読んでいます。若き小説家と女性編集者とがラブホテルで過ごす一夜の話。
ここでは京都の地名が次々と登場するし、ジャズのコルトレーン、マイルスについても語られていて、これにも少しどきり。ただし、それはディテールの一つであって、テーマは「性」です。

その次に「追憶」という詩があり、最期の「氷塊」は本文がニ段組で、上と下で違う主人公の物語が進行していきます。そして両者が途中で「交わる」場面も出てきます。じっくりと読んでみます。

ちなみにこの本はハードカヴァー。次に読まれるのを待っている最新短篇集もハードガヴァー。

(「文庫じゃないんだから、何遍も時間かけて読まなあかんよ」と「文庫本主義者」からいわれてます。)

それにしても平野さんの表現にこれほど、すっと入って行けるとは思っていませんでした。
そのあたりも考えてみたいです。
最初にイメージしていたのとはずいぶん違います。もっと難解なのかなと思っていましたけれど。
月並みないい方ですけれど、読んでみないとわかりませんね。

次の短篇集「滴り落ちる時計たちの波紋」にはゴザンスの800字顔負けの作品も入っています。(数えたら約430字でした)
パソコンの画面のように左から右の横書きで、ページの繰りかたは縦書きという作品も。
文章のスタイルから構成までとても刺激されています。

そのあと、江國香織さんの編による「ただならぬ午睡」に収められている吉行淳之介さんの作品を読みました。「謎」という小品。
気分が少し変わりました。

アタマの中で言葉が渦を巻いています。



2004年07月16日(金) MATATABI/バンブー茂




 「バンブー茂」の新しいミニアルバムがリリースされました。
タイトルは「MATATABI」。つまり「またたび」。猫が狂おしく悶えてしまう植物のことです。
うちの猫たちも「またたび」の匂いが漂っただけで落ち着きがなくなります。それといっしょ。
…やはり癖になりそうです。

 以前から彼らの曲を創る能力の高さを感じていたのですが、今回さらにメンバーの個性が前面に出てきたような気がします。
 「バンブー茂」とは、卍屋タケコ、サカサイツトム、山昌平の三人のメンバー。タケコさんが作詞でサカサイさん、山さん、のふたりが作曲。タケコさんの言葉、つまり詞がすべての根底にあって、それもぼくは好きなんだけれど、言葉を載せるサウンドプロダクトが今回はとても際立っています。

 タケコさんの詞は、一貫して「生きていることのリアルさ」を求めていて、「夢」「幻」ではないことを願ったり、逆説的に「夢」「幻」でもかまわないけれど手にしている「リアルさ」を信じると言い聞かせたり。それがとても切なくて、まっすぐなものだから息が時々詰ります。切なくて美しい。
 この特筆すべきタケコ・ワールド。聴けば聴くほど…matatabi…。
彼女の京都へのこだわりもいい実を結んでいるのではないでしょうか。ジャケットには京都の町での彼女のショツトがあって、それを見ながらいろいろと考えてみました。

 東京を拠点にする彼らが京都でライブを数多くこなしファンを増やしていることと、タケコさんが京都に興味をもちつづけていることのあいだには、たぶん街と人を見る視線の「同調」があると思うのです。
 よく京都に来て、何か懐かしい感じがするという方が多いのは、京都市内が空襲に遭わず、大正から昭和初期の下町や建物が残っているからだとぼくは思っています。もうだいぶ減ってきましたけれどね。それでも街の基本的な構造は変わっていないわけで、多くの人は「崩れかかった自由さ」に惹かれるのかもしれません。
 そして、京都の下町風情もたしかに朽ちてきているのだけれど、潰れまいとして突っ張りまくっているわけでもないのです。

 唐突かもしれないけれど、正岡子規を想います。
 病床の正岡子規がその最期の「仰臥慢録」に記した事。もはや治癒の不可能な病の中で、子規は人間の強さを、最期まで病気に負けまいとして闘う事にではなく、どんなぼろぼろの「形」になっても生きている事の素晴らしさ、どんなふうになっても美を見つけることのできる自由さに発見したのでした。
 西陣の朽ちた家を改造して住む若きアーティストたちや、古い路次での生活がいまだに息づく街、京都。観光名所ではなく、生きている現場のありようはまさにそんな子規の精神に似たものを感じるのです。早晩、京都の下町もさらに様変わりしていくでしょう。ゆっくりと瓦解していく、そんな京都の下町にクタケコさんも惹かれたのかな、と思い至るときがあります。 彼女の歌詞に「生と紙一重の死」という部分が時々、吐息のような言葉になっていて、はっとすることがあるからなんですが。

 サウンドは、とにかく感じたのがエナジーに満ちていること。たぶん「書きこも」うと思ったら、もっときちきちに詰められるんだろうけれど、敢えてそれをはずし、繊細さとエナジーのバランスをリミット一杯でとっているように感じました。
 胸いっぱいの音と声…。
 またギミックがないということは、このバンドの質の高さを証明しているわけで、今後ますます楽しみなバンドなのです。
もともとバンブーとの初めての出会いで、ぼくをノックアウトしたサカサイ氏のギターは、今回もニュアンスたっぷりのギターワークです。いいですよ。

ところで
サカサイさんのところの愛猫・銀ニくんもジャケットに登場。これで全国に知られました。
山さんはスリムになって、キーボードプレイヤーとしての側面が忙しくなるのでは。もちろんドラムスも好調。
パッケージがまたいいです。漆器に盛った白梅の和菓子のようです。白が映えていて、とてもおいしくて、ちょっと苦くて。そんな内容にリンクするような秀逸なデザインです。

 「バンブー茂」。まだ聴いたことのない方、ラジオなんかでかかったら聞き耳を立ててみてはいかがでしょうか。

■ CD「MATATABI」・バンブー茂  (music front)



2004年07月15日(木) 緑の手



■今日は祇園祭の宵々山です。夕方には浴衣姿の若い女の子たちが四条を目指してバスの停留所にたくさんいました。

我が家の知り合い筋から、チマキがふたつ。ひとつは「月鉾」。もうひとつは「大船鉾」です。チマキは茅の葉。昔から茅の輪をくぐると無病といわれ、厄除けに京都の家では、このチマキを玄関の上に留めておきます。玄関を通れば、そのたびに厄除けになるからです。
毎年、つけていますよ。

■テレビでイングリッシュ・ガーデンのあれこれを見て、自分の植栽に生かせるヒントを探していました。チェルシー・フラワー・ショウに来ていた人たちの顔の、なんと平和なことか。いわゆるイングリッシュ・ガーデンのイメージを作り上げた(いかにもごく自然に植物が咲いているように見せる「構成」を持つ庭園)ガートルード・ジーキルや素晴らしい庭園を作り上げた詩人のヴィタの庭の素晴らしさ。そして江戸の頃からイギリスに影響を与えていた和の植物など。

特に意を新にしたのは「ホワイト・ガーデン」づくりです。これはヴィタの庭が参考になりました。白のバリエーションなのです。それを浮きあがらせる緑との組み合わせ。
白薔薇のアーチはやっぱりいいですね。
もっと緑に触れていたいです。

■ 夜の散歩から帰ると、CDショップから連絡が入っていて、「バンブー茂」の新譜が入ったとのこと。明日とりに行きます。どうも彼らのライブにいくのが難しくなってきました。そのぶんCDをききましょう。






2004年07月14日(水) 夏に歌えば

ほとんど身動きが取れない状態で、はて夏になにができるか考えて見ました。
旅行はおろか、まとまった取材も駄目。土曜も日曜も関係なし。自由時間はとれても、長くて1時間という生活の中でなにができるか、ということ。

それは現在の日常がそのまま繰り返されることを意味します。引きこもりではなくて、家に人がいなければならない状態がずっと続くから。

なにかを創造することが、閉塞感から自らを救い出すのだとしたら、やはり「今いる場所」で何かをこさえるしかないですね。観察と想像。そして創造。

ふと歌を歌うというのもいいかもしれないと思いました。「夏の間」という子供のころから慣れ親しんだ「区切り」の刷り込みを逆手にとってなにかをマスターするのなら、そうなにか一曲。

ぼくの同世代で、最近がんばってるのは「クレイジーケンバンド」だから、彼らの歌を一曲マスターするとかね。
こんな状態だからカラオケにいくなんてまったくの不可能なんだけれど、どうせ鼻歌だし。歌えるのはエーちゃん。90年代の矢沢永吉の歌ならたいてい歌えます。

彼の曲で一番好きなのは「東京」。やしきたかじんの「東京」も名曲だけど、矢沢版「東京」もいいです。

「金魚」だとなんとか歌えてると思うから、一度声に出して歌ってみようかな。

あー、そんなこと書いてたら「ヤザワ」聴きたくなってきた。「エニイタイムウーマン」「サムバディズナイト」…。
それぐらい歌わな 元気でえへんよ。
それでのうても暑いんやしね。

よし、もう一曲なにか歌えるようになろう。「ヨコハマフォギーナイト」なんていいなぁ。



2004年07月13日(火) 「蝶」という作品

ゴザンスの「800字」に「蝶」という作品をアップしました。
何かを書かなければ、という思いを強く込めて数日。出てきたシーンは「蝶」でした。

あとは一気に。

今回の「後押し」はキース・ジャレットの「ステアケイス」。そのディスク1のほうをずっと聴きながら書いてました。

800字ですから、当然かなりの部分を削ります。
それでも、ビルの窓に反射する光を浴びながら、月鉾の「三日月」に飛んでいく蝶の姿を書ければ、と思いました。

字数制限なしのテーマ。今回は「夏の計画」ですが、どうするか迷っています。
「温かい雨」の#7を書き上げてしまうほうが先かな、とも。
両方書けば良いんですけれど。

毎日少しでも前進、と必ずファイルをあけるのですが、こちらはなかなか進みません。スローな物語ですから、こちらもスローな態度で書けばいいのですが、スローな文学は、結構、落とし穴がありがち。
だけどまぁ、とにかく向き合いましょう。
ではでは。



2004年07月12日(月) 百日紅が咲く頃


ここ二、三日で、街の百日紅が一気に開花しました。
近畿地方は明日にでも梅雨明けだそうです。

ここのところ読書が増えています。平野啓一郎さんの短篇集は明日届く予定。その前に江國香織さんを読みます。平野さんと江國さんだと作風がまったく違います。
その二人を連続して読むと、その違いがわかって、実はいいのですよ。

そのあとも江國さんの編集した恋愛小説のアンソロジーがあります。これは吉行淳之介さんが入っているので、絶対に読みます。
その次に、高橋源一郎さんを読もうか、と。何かお勧めがあれば教えてください。

音楽は…「バンブー茂」の新譜がでますが、どうも最近、彼ら以外のロックやポップスに手が伸びません。
例えば、今聴いているのはキース・ジャレットの「ステアケイス」。このアルバムではそれこそ信じられないほど美しいメロディーが聴けます。全編ピアノインプロヴィゼーション。

よく言われることですが、名盤「ケルン・コンサート」の演奏時、ピアノは最悪の状態で、キースは中音域を専ら弾くしかなかったとか。(だからこそ歴史的な名演が生まれたという逆説もあります。)
この「ステアケイス」では、CDを聴いていてもとにかくピアノの状態が素晴らしいのがわかります。キースの手は鍵盤の上を自由自在に踊っていますね。長い演奏で(2枚組)えぐるように音を叩きつける部分もありますが、ただただ素晴らしいの一言。

あとはどうしてもバッハを聴いています…。

バッハ、キース・ジャレット…。ウォンさんのピアノもよく聴きます。
あとCDで聴きたいのは韓伽耶さんのピアノ。

と、そんなこんなを読み、聴きしているわけですから、次は「書き」ですね。
少し元気が出たのは、書きあぐねているところを江國さんの本に助けられたこと。
「温かい雨」を書き継ぐ作業が始まりました。



2004年07月11日(日) 晴れた日にツールを見る。




時間が無くて見ることができなかったツール・ド・フランスの6エタップ、7エタップのビデオを見ました。
今年のヨーロッパの中部は低温と天候不順のようですね。ほとんど嵐の中を走ったり、最高気温が20℃まで届かない日を走ったりしています。
暑さの続く日本から見れば、感覚がだいぶずれる「7月」です。

そんな天気のせいなのか今年のツールは落車がとにかく多すぎますね。世界のトッププロがまるでアマチュアみたいに落車します。
選手たちはコースレイアウトのいい加減さに怒っているようですが。つまりは、200人近い選手が殺到するゴールを何故、街の真中に、しか道を狭めて作るのか?ということです。

これはまさにそのとおりで、観客サービスも良いけれど、パリのシャンゼリゼならともかく、田舎町の狭いコーナーに突入すれば必然的に落車は増えます。
ましてヨーロッパの道は荒れていますから。

それとパンクがものすごく多い。これにはタイヤメーカーは赤面してるんじゃないかな。どうもフランスの某メーカーのものが怪しいとぼくは睨んでいるんですが。

10エタップからはそろそろ山岳に近づいていきます。たぶん決定的な差がつきだすのはそのあたりからでしょう。
応援しているウルリッヒ君、風邪ひいてしまいました。そのわりには上位につけていますけれど。

ランス・アームストロングはただただ強い、の一言。チームも絶好調のようですね。

総合トップにはフランス選手がたっているため、フランスのプレスや国民は大喝采を送っています。山岳が始まったら……。さてどうでしょうか。



2004年07月10日(土) 「一月物語」




梅雨明けのような激しい雨が降り、家の中でずっと読書。
「一月物語」(いちげつものがたり)・平野啓一郎を読了。

時は明治30年。場所は奈良・十津川村周辺の熊野。知っている場所だし、去年ゴザンスに書いたことのある「怖い話」の舞台と同じだからすぐにイメージはできました。

妖しい女、青年詩人、謎の僧、それに長い語り部として登場する旅館の女将。それだけの限られた登場人物。
一貫している蛇のイメージ、熊野の自然、川の流れ、アゲハチョウ、そして月。それらを含めた圧倒的で制御不能、かつ不可解な自然の強大な力。

細かなシーンのひとつひとつが美しく、強烈な印象を残します。だから魅入られたように前へ前へと読み進みます。この物語にはそんな強い駆動力が備わっていました。

「道成寺」のようにも読めます。ただし男女の立場が逆転していますが。
そうだとしても、舞台といい展開といい、まさに「能」の「娘道成寺」を思わせます。

そして、平野啓一郎という作家の考えかたが主人公の青年詩人の言葉として何度か登場します。例えばこんな台詞

『真に生きていると感ずる為には、漸々と日々を積み重ね、しかしてその果てに得られる所のものを期するというのではなく、何かしら瞬間の超越、持続しない、一個の純粋な昂揚を、一撃の下に、生活の全てを打ち破って顧みぬような苛烈な衝動を体験せねばならなかった』

主人公はこの台詞そのままに、熊野の山の中に死んでいきます。屍すら見つからない。このくだりはこの作家の基本的な考えかたとして受け取りました。そして、確かにこのように願い、生きることもあるのだろうとは思います。

そのように生きて、そのように死んでいく。そこに美を見ようとする。
「道行き」とはそういうものだと思います。

一方、その場にじっと立ち尽くすことで見えてくるものを書く文学もあるのだけれど、どこか違うのでしょう。
実は「どう生きるか」と模索しながら書き始める文学と「どう生きたか」と終わりから逆算する文学がある気がしています。

自分の中に平野さんの作品に響く部分があることに気のついた読書体験でした。
一つ一つのシーンは素晴らしく、「擬古典体」と呼ばれる文章も抜群のキレを見せています。



2004年07月09日(金) 新しい読書




今日から新しい「文庫本」を読み始めました。
1冊は「一月物語」・平野啓一郎さん、もう一冊は「蕭々館日録」・久世光彦さん。
久世さんの本はいろいろと読ませていただいていますが、今回、文庫で読むことができるようになったので、早速、手にした次第。

平野さんの本は初めてです。エッセイや新聞のコラムはよく読んでいるのに、意外といえば意外です。あの独特の文体は、しかし、嵌ると癖になりそうです。
平野さんのような文体では、ぼくには絶対に書けないから逆に小説の構造がよく見えます。語り口に対して距離がどうしてもできますから。
平野さんの文体をご存知の方ならおわかりになるかも。

ほんとうは平野さんの短篇集にものすごく興味があって、それを是非とも読みたいのですが、いかんせん本屋さんにはこの1冊しかありませんでした。
結局、ネットで注文しました。「高瀬川」と「滴り落ちる時計たちの波紋」のニ冊。

これらの短篇集から現代に焦点を絞った作品に彼はシフトしています。
そのありようにとても興味があるんです。短篇と詩…。
是非とも読みたいです。

そういえばかつて車谷長吉さんが平野さんとご自身との共通点を書いておられました。ふたりとも森鴎外を書き写して文体を作り上げられたのでした。
ぼくには想像もできないことですが。



2004年07月08日(木) 信じることに向かう意志 …保坂さんの続き…




昨日の続きです。
(耳の中ではビートルズのアビィ・ロードがなってます。)

昨日書かなかったことに次のようなくだりがありました。

考えること、意志を持つこと、さらに…。
「書いたものをどれだけ冷たく突き放して、ちょっとでも駄目だと思ったら破棄できるかどうか。
コンサートで演奏するピアニストが練習をしていないと思う人は、まさかいないでしょう。小説も日頃の修練と心構えで書くんです」

これですよ、これ。って、わかりきったことなんだけれど、ほんとにわかってんのか、と。それ以前のところでぐらぐらしがちなんです。

それがたぶん保坂さんの言う「受験生根性」。
「試験にとおり、入ってから進歩するという受験生根性は捨てること。
小説に関しては周りは進歩させてくれない」と。

それもわかっていること。の、はず。だけど自分の原稿に幻想を、つい抱くことも、ないとはいえない。

そんな視点じゃ駄目なんだ。
いつまでたってもしんどいだけだと思う。
そして、とにかく信じることを書きつづけることなんだ。

そんなこんなをぐるぐる考えながら
「温かい雨 #6」を書きました。
よろしかったら読んでください。



2004年07月07日(水) 創作の流儀 保坂さん編

京都新聞の不定期連載のコラムに「創作の流儀」というのがあって、これまでもさまざまな作家の方が登場してこられました。
今回はその5回目…。
おおなんと、保坂和志さんではありませんか!!

保坂さんの著作は文庫本を中心にほとんど揃っています。で、ぼくのまわりでは圧倒的に評価が高い。ぼくが村上春樹氏を読んでたりしたら、「そんなん読まんとこっちを読め」と言われることが多かったし、今でもそうです。
まぁ「そんなん」と言われてもね…。その「こっち」がたいてい保坂さんの本でした。

その人たちがぼくに保坂さんをすすめる理由は要約するとただ一つ。
「この人は、まともやで」

そんな得がたい友人たちのおかげで、ぼくは保坂さんの著作を読み進めて来たのです。最近は「書きあぐねている人のための小説入門」が話題になり、よく売れています。今回の記事もその「書きあぐ」をベースにした取材構成の形をとっていました。

ぼくにしてみれば「書きあぐ」をはずしても、関係なく読めたし、響いてきたメッセージでした。
「  」でくくられた保坂さんの言葉を全部書きだしてもいいんですが、またうるさい人もいるかな…。でも、例えばこんな言葉

「小説家になるというのは、ただ自分の信じる方向に突き進むドン・キホーテになること。サンチョ・パンサみたいにそれを批判して狂気を検証し、冷笑的だというのが世間一般では知的と思われるけれど、その部分で止まっていたら小説は絶対に書けない。どこに向かうかよくわからなくても、向かう意志がない限り書けない」

小説をとおしてなにかを考えるのが保坂さんにとっての小説であるという言葉以上に、小説を書くことに対するポジティブな言葉をぼくは思いつかないです。
「思う」ことを止めて「考え」続けているからです。

とにかく徹頭徹尾、小説の事を考え続ける事。それしかないですね。
考えては書き、書いては考える。その繰り返し。

で、わざわざ別の囲いを作って作家志望の方への具体的なアドバイスが二点。
「外国の小説を読む」
「いろんな国の、いろんな時代の小説を読むと、題材にはこんなに広がりがあるということがわかる。そうやって『小説とはなにか』を考えることが、デビュー後の何十年かを支える」
「長い小説を読む」
「長いものを読む態勢で、自分の小説も腰を据えて書けるように、自然となっていきます」

「きちんとさせるまではとどまろうという気持ちがあり、自分の書いている小説の世界にどれだけ長い時間いられるかが、小説家の資質です」

で、前述の友人がくしくも今日、言っていたのが「読む本がなくなったからなにか長いのでも読もうかな」…。
まったくこの人が作家になったらどうだろうと思うんだけれど、この人が見こんでいるのがぼくだというところが、なんとも…。

長いの、というと反射的に「カラ兄」が出ますね。「カラマーゾフの兄弟」。
これは何回か挫折しています。ほかに長編小説はないかな。ロシアとアメリカだけじゃつまんないし。ヨーロッパの長編小説を探したい気分です。

ところで詩人というのも、そういう存在です。徹頭徹尾、詩のことしか考えない。
海外の詩を読んで見たいとも思っています。
ただ、ぼくの興味は絵画や音楽のほうへと向いていて、絵画や音楽のように言葉を使う。そのことを考え続けたいです。何故そうなのか、ということも考えています。題材を普通の生活のなかからとリだしつづけながら。

いずれにしても、
「何かを考えるために言葉を使うわけだから、今まである言葉をつかうと、今まである考えになってしまう。それでは不十分だと思うから、小説は文章の型を使わずに、自分で考えながら書く」
わけなのだ。「小説」のところを「詩」と置き換えても、充分に了解できる言葉です。

書くことばかり考えているわけですが、もっと自分を本当の意味で信じたいですね。



2004年07月06日(火) キキ




今日、壁紙の一部を張り替えました。
なんせ猫が4匹。しかもいちばん若いのは生後3ヶ月。先輩猫のまねをして壁紙のちょうどコーナーになっているところでガリガリするもんだから。

猫というのは犬のように躾はできないと思っているので、こちらが策をめぐらせます。今回は小さな長方形の、壁紙に開いた穴をカバーできるぐらいの薄い板に壁紙をはり、それを壁に「アタマが飛ぶ釘」で貼りつけました。
まあ、なんとかうまくいったかな。

ちび猫チャチャはキキになついて、いつもくっついて寝ています。だけど人間の子供といっしょで、突然、悪気なく、キキのアタマを小さな手でぺしっと叩きます。
キキはいつも、されるがまま。ずいぶん成長したと思います。

キキも我が家に向かい入れられたときは、先住のピピとルルに甘えて同じような事をしていました。特にルルがちょうど今のキキのような役目をして、遊び相手になってやっていたのでした。

猫たちもうまくやっていけそうです。少し落ちついてきました。
一安心です。



2004年07月05日(月) 不思議な街



今更ながら、京都という街は不思議な街だと思う。
それは散歩してみればすぐにわかる。
できるだけ迷路のようになっている、下町というか細い路地を選んで入りこめば、そこらじゅうに謎が転がっている。

そんな道を歩きながら、「ある人」の塑像を考える。
物語の主人公。カップルである。

今回ばかりはモーツァルトの有名な言葉を励ましとして使わせてもらう。

…生きることは美しい。人生は幸福の予感のうちに始まる…


「幸福な予感」と呟きながら古い街を歩いていくと、ひょいと首を上げて、古の魂たちがなにか言ってくれそうだ。
内側に閉塞していると、誰も、なにも、しゃべってはくれない。

蓮の花について考えています。それまでに主人公たちにもいろいろとやってもらわなくては。

画像は「こきん」という作品にでてきた旧ニ条城の石垣を復元したもの。御所の南西にあります。実際に掘り起こしたものを使ってあります。もともと庭石だとか縁石だとすぐにわかるものもあり、ひょっとしたら御地蔵さんの光背では、というのもあります。

信長という人物のエネルギーは凄まじいものがあったのでしょうね。



2004年07月04日(日) 初めて今年の蝉の声を聴く

■今日も暑く、いったい梅雨はどうなったんだろうと思うような一日でした。
また梅雨空は戻ってくると言うけれど…。

今朝、犬の散歩の途中、公園のにある相当古い椎の樹から、蝉の声が聞こえてきました。今年、初めての蝉の声です。
蝉が鳴き出すと梅雨明けです。一匹だけですけれど、まるで夏のファンファーレのように鳴いた蝉でした。

昼過ぎから空は一転、曇天模様。たぶん台風の影響なのでしょう。雨も降ると思います。ふと気がつくと町内の樹で蝉が鳴き始めていました。


■昨日から始まったツール・ド・フランス。ことしもランス・アームストロングは強いです。
まだ始まったばかりです。これからしばらく平坦なコースが続き、次の見せ場はタイムトライアルかな。
今年のコースは山岳に強い選手向きだとぼくは思います。
特に後半のアルプス・ステージにきつい個人山岳タイムトライアルがありますからね。
贔屓のウルリッヒ君、トップから20秒ぐらいの遅れ。まぁ、こんなのは差のうちにはいりません。あすから連日200km近いレースの連続ですから。

蝉、ツール、そして祇園祭…いつもの夏が来ました。



2004年07月03日(土) 「便り」




法金剛院で蓮を見た日、嬉しいメールをいただきました。
拙著「光函」についての感想のメールです。その方の御名前はここでは出せませんが、とてもうれしかったです。

その方のお気に入りは「便り」という作品です。この作品には何人もの方からいろいろとご感想をいただきました。
作品について作者がなにか説明をするのは止めておきますが、「揺れ」をなんとか書こうとしていた事を思い出しました。

「光函」という作品が、自分の中でかけがえのないマイルストーン(里程標)となっています。
今後の作品を書いていく上で、いつも自ら開く本であることは間違いありません。

「光函」の原稿を書いていたテンションと流れが、今の自分の作品を支えているとも思います。

「光函」をだして、ほんとうによかったです。



2004年07月02日(金)

今日は少し違う書き方でこの日記を書きます。
先ほど送られてきたあるメルマガの最終号をここに貼り付け、それを読みながら
書きこんで見ようと思うのです。最後にその号を消していく…というやりかたです。

それはスピリチュアルなメルマガでした。書いている方はピアニストです。
(昨日かいたウォンさんではありません。)
ぼくは彼のサイトでピアノを試聴し、その場で購入を決めました。揺さぶられるものがあったからです。
(ある時期から、ぼくは、自らへの新しい試みと判断したとき、まったく躊躇しなくなっています。)
そして、彼のCDは素晴らしく、いまでもよく聴きます。

完全にスピリチュアルであることに、真正面から宣言し取り組んでいる方はめずらしく、それがホンモノであるかどうかということを、値踏みされることも承知の上でまっすぐに立とうとしている、それが直感でわかりました。

かれは今回   <月が満ちる時>  と述べてメルマガを閉じる言葉を始めました。 <僕はあなた達、全てを知っている>  とも。

精神的な気づきも、目指すものへの眼差しも、ぼくはまだまだ、というよりもまったくできていないと思っています。
彼のようなスピリチュアルな「役割」を担って生まれてきたような人とは、さまざまな職業の方のなかに、またあらゆる場所で出会いました。
その誰もが  <君のことは知っていたよ>  ていわんばかりでした。

<同じ心、同じ魂を持つ仲間です。>
そうなのでしょうね。
同じ光を見上げていた 同じところに郷愁を抱く…「魂」たち。
感覚でわかります。

彼は見も知らぬ、遠く離れた存在同士が言葉を交わせる素晴らしさを語り、そしてその段階は終わりを告げた、と結んでいました。
 月が満ちたのです。

新しい流れが彼には見えたのでしょう。感謝の言葉とともに彼はヴァーチャル空間を後にします。

リアルな「時」をもつべき流れがやって来ている。そんな気がしています。
それはぼくの場合、たぶんいまやっていることです。それは「書くこと」です。

彼の決意の波動がぼくの周りで渦を巻いています。素晴らしい、いつまでも続くような励ましとして。

みんなそれぞれ孤独な存在ではあるけれど、ふかいところで同じ根を持つ魂として在る。そう思うことの強さを感じています。


 





2004年07月01日(木) たましいのトポス



ピアニスト、ウォン・ウインツァンさんの新譜、「たましいのトポス」がリリースされました。
ウォンさんのピアノはずっと聴きつづけてきています。最近、キース・ジャレットやリヒテルの旧譜を熱心に聴き続けてきて、そのサイクルの最後にウォンさんのピアノを聴いた、とそのように感じています。

今回のアルバムはライブ録音の2枚組。おなじみの曲もあるけれど、断然、いいのはピアノ・インプロヴィゼーション。クラシック音楽の隆盛期、ピアノの演奏はソロが当たり前だったように。この楽器への興味はソロ演奏での、しかも即興での音楽に行き付いている様にも思えます。

全国ツアーの中から、選び取られた演奏は、それぞれが生き物のように生々しく呼吸しています。

ウォンさんのサイトのレヴューに書きこんだ記事を下に貼りつけておきます。

***********************

「たましいのトポス」を聴いて

 ウォンさんの「たましいのトポス」を聴きました。
 ぼくはピアノという楽器が好きで、いろいろなミュージシャンのソロピアノのCDを、クラシックからジャズ、アンビエントなものまで聴いてきましたけれど、これほど、たおやかで、懐かしく、温かな気持ちになれた音楽はありませんでした。もちろんウォンさんの音楽も数々のCDで聴き、ライブでも聴きましたが、これまで聴いた中でのベストです。

 特にライブ録音というところに、注目しています。というのもソロピアノのコンサートにでかけて、聴いているうちに、ピアノのコンディション、ホールの場所(土地)、ピアノの位置、オーディエンス、その日の天気、そしてピアニストのコンディションと姿勢。それらが一体となって音楽が創られている、と感じるのです。インプロヴィゼーションはもちろんすでに聴いたことのある楽曲においてさえそうです。 その渾然一体となったピアノ1台をめぐる状況こそが、まさにトポスといえるのかもしれないなと思うことがあります。みんなそこにいるのです。
 今回のCDでは、ピアニスト、ウォンさんはその中央にいて、「その魂」に忠実であるような演奏でありました。それが深く深くしみこんで来ます。激しく打ちます。優しく抱きしめてくれます。盤が変わっても途中で聴くことをやめることができませんでした。

 小説「パリ左岸のピアノ工房」(T.E.カーハート著)にこんな台詞があります。
…一語ずつに解体できる書物がないように、一音ずつに分解できる音楽なぞ存在しない…

 ぼくはこの台詞が大きなんです。音楽全体に向けた言葉なのでしょうけれど、今回の「たましいのトポス」を聴いてさらにその感を強く抱きました。…だからこそトポスなのだ、と。

 そして分解不能、再現不能の、ピアノを核としたひとつながりの経験の蓄積としてのトポス(=在りか)。その場固有の在り方でありながら、世界と繋がり、世界へ飛翔する音楽。そしてそのベース(=トポス)。
 ぼくはこのトポスに連なるもでありたいです。

 素晴らしい音楽をありがとうございました。


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