散歩主義

2004年05月31日(月) 紫陽花の頃



■近畿地方の梅雨入りは来週まで持ち越しだそうです。その代りというのも変ですが、凄い雨が降りました。
それに合わせたように町内の紫陽花も一斉に咲き出しました。

紫陽花は、他の花が昂揚感をもたらすのと違って、沈静、あるいは覚醒に近い感覚を覚えます。この感覚は緑の葉に対して感じることが多いのですが。
訳はともかく、ぼくはその感覚が好きです。そして、これほど雨に似合いの花もないと思います。

紫陽花の葉の緑も、雨に濡れると発光したかのような鮮やかさがあって、ほうっておくといつまでも眺めています。

■夜に入ってバッハのカンタータを聴いています。バッハはミサ曲B#をラ・プティット・バンドで捜しています。次に聴きこむのはこれになりそうです。
もしくはクイケン・アンサンブルの「音楽の捧げもの」ですね。

クラシックはバッハを主に聴き続けていますが、ほかの人たちのももちろん聴きます。そちらでの課題はモーツァルトの40番、41番は誰のもので聴くか、ですね。そのまえにバッハですけれど。

■もっとクリアな状態でいたいので、瞑想の技術をさらに習得中。我流です。我流なんだけヒントがシンクロしてやってくるという、ありがたい現象も起きています。縁があれば妙心寺なんかに参禅したいものですが、宗教色よりもアスリート色の強い瞑想。まぁ「バガボンド」とか、格闘技の選手やミュージシャンに近いかも。ミュージシャンでも多いですよ、瞑想される方。かつてはビートルズのジョンやジョージが有名でしたが、最近はとても多いんじゃないかな。広言しているのはマドンナとかかな。この人は瞑想をやりだしてから音楽が変わりましたね。

文芸関係ではどうでしょう。執筆活動そのものが禅や瞑想の要素を孕んではいますけれど。かつての夏目漱石などのような顕著な例はないでしょうか。

玄侑宗久さんのような、現職の禅宗のご住職の作家の方もおられますが、普通の生活の中に瞑想をとり入れていそうな人はいますね。ばななさんとか…あるいは村上春樹氏であれば走ることが瞑想のようだし、実を言うとぼくにはサーフィンこそ瞑想だと思うところもあって、どうも肉体をいじる傾向が強いです。

酒も呑まない、旅もしない。ほとんど出かけない。
というのもすでに全部やり尽くしているからかな、と思う時もあります。
どこにもいかなくても宇宙につながることはできます。
植物がお手本を見せてくれていますからね。



2004年05月30日(日) 階段づくり




今日は玄関の階段づくり。もともと段差を緩くするために作ったのですが、今の段差で、ジャンがまず上れなくなったのと、老人にも厳しくなってきたので、さらに緩やかにしました。

プロの大工さんでは無いので仕上げはこんなものでしょう。使ったのは園芸用の木製プレートです。それを組み合わせたり、脚をつけたりで何とか完成。これで少し楽になると思います。

音楽はマイルスのモンタレーライブのハイライト盤か、古いものですがマイルス・アヘッドを検討中。あとクラシック。

海外のジャズマンでぼくが唯一握手をしてもらったのは彼なんです。(ゴザンスに荒神橋のシアンクレールでの話を書きました)
そんな縁もあるし、大好きですから、全て集めていくつもりです。
だいぶ揃えていますが、まだまだこれから。未発表テイクも出てきたりしますからね。

50年代、60年代は出尽くしている感がありますが、ライブやセッションの多かった80年代はまだこれから出てくるかもしれません。

ヘビメタ・マイルス、ポップ・マイルス、そんなふうにも捉えられる、ほんとに自由自在の人です。



2004年05月29日(土) cloudy

蒸し暑い日です。日本海側から雨が降ってくるようなので、もう舞鶴では降っているかもしれません。

昨日からゴザンスの800字を書いていて、自分が今、どのように書きたいのかという視点から書いた三つと、読んでいる人が、くすりと笑ってくれると嬉しいな、というのとを書きました。いっぺんに出そうか迷っています。

よく「自分のため」に書くといいますが、「人に読んでもらって、反応してもらう」ことを考えて書く、というのもあると思うのです。その考えることで自分らしさが出るのではと思う時もあります。

今、とっているメルマガの某編集者の方は断然、後者をすすめています。それがプロだ、と。
確かに他者のために書く、という視点が、ともすれば読者におもねるように言われますが、読者がいなければ本として成立しないのも事実です。

今読んでいる詩人は、亡くなって69年後に全詩集が出たかたです。その詩がわたしを揺さぶっています。彼女は「なんのため」に書いたのか。
たぶん、なんのためにでもないのでしょう。

詩を書くことが生きることになった人。それが詩人です。
いつか彼女の詩を紹介します。アメリカの女性です。



2004年05月26日(水) 長い夕暮れ




夏至を中心として、その前後は一年で一番昼が長い季節。
長い夕暮れが好きです。
今日は7時前でもまだ明るく、散歩していて少し汗ばむぐらいの気温。通りを歩く人たちの体が「開いている」と感じました。

何もかもが無防備にさらりと、まとっているものを一枚取り去ったような雰囲気が漂っていて、そんなときに吹いてくる風は、とても魅惑的です。
風にたゆたうのが、たまらなく気持ちいい。そんな夕暮れでした。

画像はチャチャです。体重が約600g。ドライフードを食べ出したので体重も加速をつけて増えていくでしょう。
動きが素早くて、事故に注意が必要な時期です。

今日はポップミュージックが聴きたくなったので、EBTGを聴いています。
明日から、モノカキモードの精度を上げていきます。
毎日、なにかしら考え、なにかしら書きつけてはいますが、まだ「仕込み」。そろそろアウトプットの線描でもできればと思っています。



2004年05月25日(火) N‘s jazz house  vol.4

今日紹介するのは「シエスタ」マイルス・ディヴィス&マーカス・ミラー(ワーナー)です。






 約40分の音の万華鏡。スパニッシュ・モードの音宇宙。
映画「シエスタ」のサウンド・トラックであるけれど、そこから離れてマイルス・ディヴィスの響き渡るトランペットに耳を澄ましているだけで、たち現れてくる「風景」があります。

 マイルスが病から何度めかの「奇跡」と呼ばれる復活を果たしたのが1981年。そしてこの作品が87年。亡くなったのが91年…。いかにマイルスが前だけを向いて疾走していたかが、今となって痛感できる1枚でもあります。
 マイルスと「スペイン」の関係はアレンジャー、ギル・エヴァンスと組んでの作品群の中で何度も取り上げられました。とりわけ「スケッチ・オブ・スペイン」における、アランフェスの隙のないアレンジと演奏はマイルスのある一面を代表する作品になっています。このアルバムにはそのギル・エヴァンスに捧げる、という一文も銘記され、80年代のマイルスを支えたアレンジャー、コンポーザーにしてベーシストのマーカス・ミラーが、ギルとはまた別の、あじわいぶかいオリジナル曲とアレンジに腕を振るいました。彼の曲がずらりと並んでいます。

 「湧き水の透明感の持つ緊迫感」をイメージしていただけますか。
 あるいは「やわらかな透徹さ」。「静かで深い自由」。「声を失う官能」なども。
影の濃さが光の強さを語る音です。
 マイルスはもちろんジャズのトランペットの第一人者ですが、このアルバムをジャズのイディオムで語ることには無理があるかもしれません。いや、もしジャズが「自由」の表現の謂いだとしたら、ジャズそのものともいえますが…。

 延々と続く、スパニッシュで透明な音は、哀愁に満ちたモードを語りつづけ、その裏にある官能を瞬間、煌かせては消えていきます。バスクラリネットとトランペットの絡み合いの絶妙さと、シンセサイザーの実に効果的な暗示があります。どの高さから地上を見ているか、あるいは街角のれほどに暗い影に潜んでいるか、そのような暗示。そして2曲に織り交ぜられたスパニッシュ・ギターの内省的な音の透明な寂寥感。

 映画もさほど注目されなかったといいます。そしてマイルスのこの音楽もほとんど注目されていませんでした。しかし、今、聴いても色褪せていないどころか、輝きを増しているような気すらします。
 パーソネルはトランペットのマイルス・ディヴィス。その他のインストゥルメンツはすべてマーカス・ミラー。二曲だけのギターは、一方がジョン・スコフィールド、もう一方がアール・クルーです。マイルスと絶妙に絡むバスクラリネットをジェイムス・ウォーカーがになっています。

「シエスタ」とは「午睡」という意味ですが、なんとも官能と神秘の夢に満ちたシエスタであることか。美しさに浸りきってはいかがでしょうか。




2004年05月24日(月) 今日のよき日に


石榴の花




嬉しいことが二つ。

ひとつめはチャチャが初めて自分の口で、離乳食を食べ出したこと。
(なかなか離乳しなくて、今でも半々の状態なのですが。)

離乳食はドライフードを水でふやかしたもの。これを潰し、小さな木のへらにつけ、口を開けて上顎に擦りつけるようにして食べさせます。ぼくはこれが苦手でけっこう時間をとっていたんです。

昼の時間、チャチャを隔離してある「廊下」にぺたんとしゃがみこみ、ボックスからチャチャをだし、同じことをやろうとしたら、手に落ちてしまったんです。
するとごく自然にチャチャがぼくの手のひらのフードを食べだしたのです。
口に出さずに(やった!!)と呟いて、腿の上にチャチャを乗せて、手のひらにフードをつぎつぎと載せていきました。すると全部食べたんです。

一度、小さなお皿に載せましたが、お皿ではダメ。全部、ぼくの手のひらから食べました。大きな前進でした。

二つ目は
マイルス・ディヴィスのサントラが到着したこと。映画はマリー・ランバート監督(女性)の「シエスタ」。
録音が1987年。マイルスが亡くなったのが1991年です。この頃のマイルスは絶好調だったようですね。マーカス・ミラーとのコラボレーションが抜群の冴えを見せています。2004年の今でも、まったく色褪せていないし、斬新さと美しさはいつまでも聴くたびに感じると思います。

映画もサントラも全く評価されていないようですが、…傑作です。

ジョン・スコフィールドとアール・クルーのギターも素晴らしい。
レヴューにまとめることができればいいんですが。



2004年05月23日(日) 薔薇と石榴




朝から薔薇の摘み取り。
一番花はすべて終わりました。また黄色から二番花の蕾が膨らんできています。
画像はフロリバンダ種の「オクタヴィアヒル」です。
部屋に戻ってマイケル・ブレッカーの「テイル・オブ・ハドソン」をききながら、いろんなサイトの詩を読みました。
ひとれぞれだけど、言葉が「切れている」と感じました。

ジャンとハナとを横目で見ながら、(静かに寝ている)久しぶりに静かな時間が持てました。

昨日は散歩で石榴の花を発見。今日は定家蔓を発見しました。
今日、ミメイさんのブログにいったら「花占い」が紹介されていて、なんとなくそちらに行って、ぼくの誕生日をみてみたら、なんと「石榴の花」でした。

「花占い」

それによれば「美」の追求者であるようですね。ただし、相思相愛の人とでなければそれは花開かない、と。うううううむぅ。
もう一つの占いによる適した職業が「音楽家・小説家」。いまごろそんなこと言われても…。だけど、まあ、ポジテイヴに受けとめますよ。せっかくだから。
両方足したら「恋愛小説家」になるんですけどね。


ところでチャチャはますます元気です。今、サイトのトップページに写真を出していますが、あれよりもさらに眼が治っています。体重は550g。微増。
焦点は離乳になってきました。あと2週間でなんとか…。
もうひと頑張りです。

犬、猫、仔猫に介護と、自由にどこかに出かけることが不可能な状態が続きます。そんなこともあってネットで全部、そろえてしまいそう。
実際、本やCDはその方が確実だし、結果的に速い。最近は送料のサービスもいろいろとあって、負担が少なくなりました。

パソコンでもオーディオでもネットのオークションでいいのが手に入るらしいし、ちょっと研究しようかな。あと楽器をひそかに狙っています。
管楽器にしようと思っていたんだけど、練習場所がない。家では無理だし…。
そんなこといってたらなんにもできないから、何かやらねば、と思ってます。
やっぱりベースかな…。「占い」にもあるわけだし…。

「あんたのやることは書くことしかありえへん」と文庫本主義者はいうのですが…。



2004年05月22日(土) 「声」

「気づき」はいきなりやってくるもの。
書いていることの「イリュージョン」が浮かんできます。

立ち尽くして
なにも考えずに 天井を眺めていて 自分を覗き込むように
もう少し「開こう」かと呟いたり…。

たぶん ぼくは「声」をつかみかけているんだと思います。
そして、なにかはずせる障害なら 躊躇なくはずして踏み込んでいけばいいと。

今、アタマの中で時々ある人と会話しています。

都市の裏町、ジャズスポット、アル中、ヤク中、ネオン、いかさま師、ミュージシャン、喧嘩、傷、嘘、、、、そんな坩堝にいたころ。ぼくは学校に行かず、肉体労働をしていました。
その頃の経験が決定的にぼくをつくっています。

その時であった人に、尋ねています。もう亡くなって10年が過ぎています。
とにかく、来る日も来る日もその人の所でジャズを聴いてました。
詩を渡し読んでもらい、ジャズを論じ、酒を呑み、、厳しく優しい女(ひと)でした。
「これでいいかな」とひとこと。

昨日ぐらいから、晩年のマイルス・デイヴィスを集中的に聴いています。
「マン・ウィズ・ザ・ホーン」を聴くやいなや「ダメッ!」と言った人でした。

だけど、どう。最後のマイルスはジャズ本来の生々しさに立ちかえっていたんじゃないのかな。そう、尋ねてみたい。
最後まで「生きてるジャズ」にこだわり続けた。だから、ジャンルとしての「ジャズ」を飛び越えてしまった。そうじゃないか、と。

いま、普通のCDショップでソニーからワーナーに移って以降の晩年のマイルスを置いている店は本当に少ない。
ぼくは逆にそのころのマイルスばかりを集めて聴いている。もう、昔のものは覚えてしまっているというのもあるけれど。

<アタマの中でマイルスを鳴らせ!昔の音としてでなく、今の音として>
そんな声が聞える。

晩年、80年代のマイルスはとにかくライブにつぐライブを徹底的にこなしていた。ジョン・スコフィールドもロベン・フォードもそのメンバーのなかにいたんだ。
それをもう一度聞きたいと思う。モントルーのライブ。

それともう一つのサントラを聴く。実は視覚の人でもあったマイルスのヴィジュアルと音の関係をダイレクトに聴き取りたい。
「死刑台のエレベーター」「ディンゴ」は素晴らしいし、もう一つのサントラの到着を今、待っている。



2004年05月21日(金) 生きること




最近、肩凝りがひどい。「凝り」というか、肩から右腕全体が痺れてくる。
左は大丈夫かというとそうでもなくて、こちらは肩甲骨のあたりがジーンと痺れる。

パソコンの影響もある。年齢からくるものもある。
年齢といえば、昨日本を読んでいて、小さな活字がとても読みづらくなった。眼鏡の調整をしなければ、と思っていたら先輩が「これを使ってみろ」と老眼鏡を渡してくれた。

先輩のは度数がきついものだったんで、字が倍ぐらいになって見える。驚きだった。いつのまにかこんなところにまで老いは来ていた。

いよいよ時間が限られた、と思う。残された時間はわずか。とにかくきちんと生きなければ。集中する時間をたいせつにしなくては。時間を消耗したくない。

生きるとは飼われるように生きることではない。犬や猫だって飼うというより、ともに暮らしているという感覚のほうが強い。

その猫。
チャチャは体重が相変わらず微増。自力で排泄ができるようになりました。眼もかなりよくなって、綺麗な眼になりました。
一安心です。



2004年05月20日(木) やすらかに、エルビン・ジョーンズ。




エルビン・ジョーンズが亡くなった。
ジャズ・ドラムの巨星が逝った。
最強のジョン・コルトレーンのコンボを支えた強靭なリズムは、CDできけるけれど、あのライブで見せる柔軟で閃きに溢れたプレイはもうみることができない。

奥さんが日本人という事もあるからか、日本でのちいさなクラブ等でのセッションやライブは多かったんじゃないかな。京都でもかつては毎年、ライブがあったように思う。

とまれ、コルトレーンの重要な演奏のバックにはかならず彼がいた。マッコイ・タイナーのピアノとエルビン・ジヨーンズのドラムスは不変だった。もうマッコイしか残っていない。

人は老いていく。だから、こんな日がくるのは当然なのだけれど、感慨に襲われています。
きょうは彼の残した音楽に耳を傾けつづけましょう。



2004年05月19日(水) あたらしい本と音楽

頼んでいた本が到着。村上春樹さんの久々の作品についての意見や小説への考え方が読めました。

今、アメリカでハルキ・ムラカミを読んで、ムラカミのような小説家が登場しつつあると言います。
彼のいう「小説という制度の解体」や「うなぎ説」。もういちどしっかり読んでおかなきゃ。

春樹さんはもちろんジャズが大好きなんだけど、「海辺のカフカ」のメイキングのような話の中で、「いちばん新しい音楽も聴くんだ」と書いておられた。

「カフカ」のとき、それはラディオヘッドだったのかな。このロックバンドはアメリカの若手ジャズマンにも人気で、ぼくの好きなブラッド・メルドーもアルバムで取り上げているほど。

ぼくはロックというのはここのところ全然聴いてなくて、ラディオヘッドも一枚だけあるけど全然聴かない。
だけど、今日、ロベン・フォードのギターを聴いて、久々に、おおロックもやええやんか、と思いましたね。ロックの「新しいCD」を聴いていいと思ったのは、ほんとうに久しぶりです。

彼はマイルス・デイヴィスのバンドにジョンスコなんかと一緒にいた時期があるから、ぼくの中ではジャズマンなんだけど、ジャズもブルースもロックも内包したギター。ゴりっとしていてかっこいいです。

さて、夜になって冒頭で紹介した本をもう一度アタマから読みなおしています。
「村上春樹が」といっても全体の九分の一。ここに登場するあと8人は全部アメリカの作家です。スチュアート・タイベックやシリ・ハストウェットの話が特に刺激的でした。

大事なことを述べているけれど、あとからもっと丁寧に読もうと思うのが、リチャード・パワーズとポール・オースター。
CDが2枚ついています。(ただし、村上春樹氏は入っていません)
ある意味で、現在のアメリカを代表する8人の作家の翻訳者が作者のもとへ赴いてのインタヴューです。

読後、何か書かずにはいられなくなる本。ぼくはそうでしたけれど。


「ナイン・インタヴューズ/柴田元幸と9人の作家たち」
柴田元幸・著
(アルク)



2004年05月18日(火) 「さびしさ丈けがいつも新鮮だ」





猫についての文章。
もちろん保坂和志さんのをいちばん読んだかもしれないけれど、今日は江國香織さんの文章に胸をつかれた。
題はそのまま「猫」。
「いくつもの週末」というエッセイ集に収録されている。この文庫も読みやすいんだけれど、包含しているテーマはけっこう重い。
重いというか、大人でなければわからない。「子供」には理解できないだろうなと思う。

江國さんは一匹の野良猫と仲がいい。夜の散歩とかコンクリートの塀の上で煙草をくゆらせたり、一杯やったりしているときに、そいつが足許にくる。
この猫の描写がとても好きだ。
書き写したぐらい。

その夜の散歩の終わりかけ、猫におやすみをいうころに「さびしさ丈けがいつも新鮮だ」という台詞が江國さんの脳裏に浮かぶ。
金子光晴の言葉である。

ぼくも野良との付合いは長い。だから連中の賢さも弱さも狡さも、目撃してきた。で、やはり別れは「さびしい」。そしてそれだけはいつでも新鮮だ。
しっちゅう傷ばかり負っていると、傷の痛さに投げやりになることはある。或いは麻痺する。だけど「さびしさ」というのはいつも生々しく「さびしい」。
いつまでも「さびしい」。

さて、チャチャは体重520g。微増。離乳作戦も少しづつ前進。残された難題は便の排泄がヘタクソというか、少なすぎるということぐらい。
食が細いからかもしれないけれど。6月のキキの誕生日ぐらいに予防接種。そして、いよいよ三匹の先輩とのご対面という予定です。



2004年05月17日(月) 雨上がり

やっと雨が上がりました。
明日まで天気は持ちそうです。その間に薔薇の花柄の整理をしなければ。長雨で開き切った花がうなだれて、酷いのは折れています。そういうのをばっさばっさと切っていきます。ほっておくと木全体に悪い影響を与えますから。
長雨と日照不足が続くと、野菜の方も心配です。しし唐は花が咲きました。

猫のチャチャ。体重がやっと500g近くまできました。いちおう体重は毎日増えています。これが減り出すとまずいんです。今月一杯は隔離して、「かかりきり」状態が続きます。

犬たちは相変わらず。ジャンが歳を取ったことばかり気にしてましたが、ハナも、もういい年なんですよね。大型犬よりも老いるスピードが遅いので見逃していましたが、ハナも歳をとりました。昨晩は久しぶりにぼくにくっついて寝ました。その横にはジャンがずでーんと寝ています。

テレビやCDを切っておくと、このあたりはほんとに静かになる街です。特に朝は。鳥の声を今朝は久しぶりに聴きました。

生活もモノカキもマイペースで静かにやっていきます。



2004年05月16日(日) 激しい雨

もう梅雨のような天気。昨日に引き続き読書と執筆と犬と猫と薔薇とにあけくれました。

久世さんの本は、最初「聖なる春」を読もうと思ったのですが、ネットで頼むよりほか手がなくて、とにかく今すぐ読めるものとして目の前にあったのが「謎の母」だったのです。
今日もそれを途中まで。昭和の敗戦直後の感覚。読んでいるとあまりに「びしゃびしゃ」になるんじゃないかと心配してたんですが、もうどっぷりと濡れてしまいました。
なんともいえない感慨に襲われること数度。小説のスタイルとして、文体として「久世美学」というものがあるとして、それがとてもよくわかる。「よくわかる」というのは、ほんとうに「わかる」ということです。文章さえしっかりと読みこんでいけば。

「ジャズ」のほうは語り手不明のまま、話はまるで綴れ織りのような状態に突入。繰り返されるテーマと変奏にくらくらしています。

同時並行で「占い」をテーマにしたちいさな作品の草稿を書きました。これからつめていきます。

その隙間に鶴見俊輔さんの「限界芸術論」を再読。大学のとき以来です。

朝から久しぶりにモーツァルトのピアノソナタを聴き、昼にはラジオから山下達郎の「2000tの雨」を久しぶりに聴き、夜に「バンブー茂」を聴き、今、EBTGを聴いています。

これから手紙を3通かきます。



2004年05月15日(土) あたらしい読書と執筆




今日から久世光彦さんの「謎の母」の文庫を読み始めました。併読でまだ読んでいなかったトニ・モリスンの「ジャズ」もスタート。
トニ・モリスンのセレクションが早川書房から出ていて、この「ジャズ」は未読だったのです。

「謎の母」は太宰です。登場人物もなぞらえてあるし、文体も「太宰」のように読めますね。だから敗戦の2年後の設定で、主人公=語り手は女の子。久世さんが若い女性にどう語らせていくのか、とても興味深く読んでいます。
細かな風景の描写に、詩が潜んでいて、溜息をつくことしきりです。
ちなみに、解説は川上弘美さん。これもいまから楽しみにしています。

トニ・モリスンはアメリカの黒人女性作家。ノーベル賞受賞作家です。「ジャズ」という小説は音楽の「ジャズ」を書いた小説ではありません。だから、そう思って読む人は途惑うでしょう。だけど「ジャズ」です。
ものすごく込み入った文章とリズム、速くて激しいシーンの変化…。たぶん、これは感想文の形で書きます。

で、発注した本もあって、これはとても大事な本だと思っています。これも感想文のような形でゴザンスにアップできればいいのですが、これには自信がありません。扱っている人たちがすごいもので。

詩は婦人公論の井坂洋子さんのフォーラムに投稿を続けていますが、「ユリイカ」でも選評をやっておられるので、「ユリイカ」への投稿も検討中。なんせフォロワーですからね。

ゴザンスにアップした「温かい雨」の加筆訂正も始めました。最初にやることはプリントアウト。余白にどんどん書いていきます。
なんとか時間を作って法金剛院へ行きたいのですが、なかなかいけません。

薔薇がとても綺麗に咲いてくれました。これから冬まで長い息継ぎのように花を咲かせてくれます。

外は雨です。
葵祭りで疾走した馬。引き手の男の子に頭を撫ぜられて静かにしていました。眼がとても綺麗だった。



2004年05月14日(金) 光と風




気温も高くなく、爽やかな風の吹きぬける一日でした。
もちろん、光も溢れていて。

光の表現のしかたで、マネは水面を鱗のように描くことで光を現しました。点描に似ていますが違います。光が粒であるという認識ではあるのですが。

風の表現だと、ワイエスです。この人は布や髪の流れる様子の精密なデッサンで風を表現しました。

二次元の画布に光や風を表現した画家たちは、眼には見えないものを、いかに感じさせるか研究を重ねたのですね。
実のところそれはやはり、「見たまま」なのだとぼくは思います。

但し書きも能書きも要らない。見たままを描く。正確に言えば「見えたように描く」ことを追求したのだと思うのです。思いこみや見当を全部はずして、裸の事象に「ほんとうに」触れだのだと。

言葉もまたそうだと思います。「見たまま」の積み重ねが、やはりとても説得力を持つような気がします。
だから「見たまま」をどれだけ素直に受け取れるか、それがやはり出発点です。あらかじめ色をつけない。
どんな眼を自分に装備するか、ですね。



2004年05月13日(木) like the deserts miss the rain




多くのベストアルバムはあるけれど、EBTGのこのアルバムは本当に凄かった。
簡単にアコースティックとエレクトロニクスは二分法のように好き嫌いが語られることが多いけれど、これだけ柔軟に組みあわせて素晴らしい音楽を作ることができるんだ。

あらゆるミックスをやりなおし、sideBの優れた作品、アンセムなどを収録。
芯になっているのは、イギリス(アメリカも)・アンダーグラウンドシーンにおけるエレクトロニクス・ダンス・ミュージック。これにもともとの彼らの素養である、ジャズとボサノヴァがミックスされていく。

「活きている闇」。まさにそう。特に9曲目は凄かった。狂いそう。

like the deserts miss the rain、雨を恋する砂漠のように。

このフレーズは10曲目のmissingのなかのワンフレーズ。
EBTGがベンの大病による2年のブランクから復活した時、つまり第2期の最初のアルバム「Amplified Heart」に収録されていたのがオリジナルで、このアルバムではNYハウスの「ハネ音職人」、トッド・テリーによるミックス。とにかくダンサブル!!

ただ、このアルバムの最初の曲を聴いてアタマに閃いたのは「バンブー茂」だった。声の質や音の出し方は違うけれど、テイストが似ているんですよ。なんだろうなんだろうと考えて、そう、まるで絵を描くような感覚というか、イマジネーションをかきたててくる音のあり方がよく似ているんだな、と。

新しい覚醒に近い感覚です。



2004年05月12日(水) あたらしい家族

外でなんとか世話を続けてきた仔猫のチャチャ、いろいろと家族内で検討した結果、家の中で飼う事になりました。事情はいろいろありますが、もう家の中で引き取るしかないだろう、と。

母猫は帰ってこないし、帰ってきたとしても育てるのは、もう無理。仔猫は着実に親離れしていっているし。それとこの子はこれまで見てきたどの仔猫よりも弱い。
と、いうことでチャチャが4匹目の「うち猫」となりました。まだ、予防接種がまだなので、ほかの3匹からは隔離しています。
体重は400g。だいぶ大きくなったので、ぼくの睡眠不足も少しましになるでしょう。すくなくとも5時間おき、という体制からは解放されました。といっても、面倒はずっと見ます。犬と猫との暮らしは、淡々と、そしてどこにも動かずに続いていきます。




人間も動物も、生きている時間は限られています。できることも。
ともにくらすもののために全力でいきます。



2004年05月11日(火) 原稿

たぶん、今のぼくにとって原稿はなによりも大切なものだ。
けちをつけられるとか、馬鹿にされるとかには聴く耳もあるし、受け容れる。
それで前進することができもするから。

ただ、どうしても許せないことがある。
それは自分の書いた原稿がないがしろにされたときだ。
受け取ったのか、捨てたのか、どこにあるのの、ないのか。
原稿はぼくの手を離れると編集者の下へ行くわけだから、こちらはじっと待っているしかない。

待っていても、限界がある。
書いたことのある人ならその気持ちはわかるはずだ。

請われて原稿を送り、そのような目にあって、大手の出版社にも抗議したこともある。いくら謝られても、いまだに不信感は拭えない。

ひとりでいくら原稿を書いても、それだけでは多くの人に読んではもらえない。
必ず編集者の存在が必要なのだ。

だけど原稿をないがしろにされたという感覚だけは、たぶん死ぬまで忘れないだろう。



2004年05月10日(月) 豪雨の中の薔薇




昨日からの雨、いったん上がって昼過ぎからまた激しく降り続きました。
夜に入って、雷がなっています。
ちょうど開花中の薔薇が雨に打たれていました。終わりかけの花は、花びらを散らしていますが、それ以外の花たちはしっかりと形を崩しません。

今年は花数が多い気がします。白と赤が重なり合ったりしていて、なかなかいい感じです。




昨晩のうちに、投稿の詩をまとめて今日送りました。最近書いている詩は、今までとは少し違ってきている気がします。
「物言い」はますますなくなってきています。

話は変わりますが、雨も人を変性意識へ導く力を持っていますね。きょう、それをまたしても実感しました。「またしても」というのは、雨の日に呆けたように「無」になることが昔から多かったもので。
なんにも考えていない状態。
ただ、今日は目の前で薔薇がいつまでも滲んでいました。美しかった。





2004年05月09日(日) Everything but the girl




Everything but the girl、「ふつうの女のこ」という意味のこのイギリスのデュオを聞き出したのは、もう20年も前になります。

トレイシー・ソーンとベン・ワツト。
ジャズとボサ・ノヴァに強く影響されたポップ/ロックでデヴュー。紫煙の霞むようななんともムーディーなデヴューはとても新鮮でした。
そのデヴュー・アルバム「EDEN」はいまだに輝きを失っていません。

その後、スタイルは変遷を重ね、シャーデっぽかったり、アコースティックに大きく振れたり、そしてベンが免疫不全で死線をさまよう大病に罹り、そして治癒してから、デヴュー当時のアコースティカルな音楽のファンが度肝を抜かれるような、路線の転換を果たします。それはクラブ・ミュージックへの接近でした。ドラムンベースの多用という形で。

それが今に至るわけですが、「その後」を完全に否定しているファンは多いです。
ぼくなんはずっと聞いているほうで、そういうファンも多いです。たしかにこないだ書いた、Temperamentalなんかはもろに「クラブ」ですから途惑うのは仕方ないとしても、よく聴けば芯は一緒。相変わらずのメロディーと声です。アコースティックとエレクトロニクスの融合はうまくいっていると思いますが、こればっかりは好みですから。

大切なのは歌。スタイルの幅はほとんどフリーハンドにしておく、といった感じでしょうか。
そして詞がとてもいいのも支持する理由の一つです。

心象風景をスケッチしていく感覚。実を言うと海外の詩で、いちばんピンとくるのは、「その後」のEBTGです。

去年にベスト盤がリリースされましたが、これもまたとてもいいんです。
普通のベスト盤、というよりもアルバム一つを作り直したような感じです。

紙の上の詩のスタイルに、ぼくはこのベンとトレイシーのやりかたをちょっぴり援用しようかな、と思っています。
街を描くのに使えないかな、と。紙の上からメロディーが聞えたら、いちばんなんですけれどね。



2004年05月08日(土) トレイシーの声が欲しくて

モノを書いていて、どうしてもリズムが欲しくなる時があります。それと特定の音のコード。Cminorとか…が欲しくなったり。
そうこうしているうちにアタマの中でメロディーが響きだしたりするのです。

昨日の画像に映っていた、Everything but the girlのtemperamentalというアルバムもそんな経緯で引っ張り出してきたアルバムでした。

EBTGといえば初期のジャズとトラディショナルのミックスのような感覚の音楽に人気があって、このtemperamentalのような、極端な打ち込みを多用した音楽になると、離れたファンが結構多いのではないかなと思います。

ぼくはこのデュオのメロディーとトレイシー・ソーンの声が好きで、ずっと聴き続けています。ベン・ワットが大病のために痩せぎすの身体になってから、今のようなスタイルになったのだけれど、むしろぼくは今の音の方がいいと思ったりする時があるんです。

それはメロディーが相変わらず美しいことと、トレイシーの声がそのままだから。

彼らの曲は詞がとても重要だということも好きな理由です。
「温かい雨」という作品を書いていて、「二人で生きる」という視点をおいたとき、彼ら二人のコンビネーションや詞の内容がとても励ましになりました。


彼らの音楽のバックグラウンドは深く、広くて、イギリスのバンドであるにもかかわらずアメリカのソウル界で実は高い評価を得ているらしいですよ。



2004年05月07日(金) 温かい雨




「温かい雨」という短文を書きました。
これでいちおう完成していますけれど、もう一つ章を加えたいと思っています。植物がらみでさらに章が増えるかもしれません。
70歳の女性と40歳代の男性のお話です。

「成熟した女性の美しさ」
よく若さこそが美しさの代名詞のようにいう男性が多いですが、年齢とともに成熟していく美しさがわからないと言うことは、悲しむべきことだと思います。

若くて綺麗なのはあたりまえ。歳とともに加わっていく、趣味や懐の深さ。知恵と知識。経験と磨きこまれた直観。学ぶべきことは多いと思います。
全てのかたが、というわけではありませんが。

連休前に必ず仕上げようと思っていて、ぐたぐたと完成できませんでした。
なんとかアップできて、ほっとしています。

画像はテーブルの上。こんな風にして書いています。いちばん手前にあるCDが最後の後押しをしてくれた音楽。EBTGです。



2004年05月06日(木) 満月

キリンとチャチャの2匹の仔猫のことです。
キリンは今朝、早くに亡くなりました。最初から厳しいのはわかっていたのですが、ここまでよく頑張ったと思います。

少し、厭だなと思うのは、今まで多くの仔猫を見てきて、触ったり様子だけでその仔猫がどうなるか、だいたいわかるようになってしまったということ。
なんだか…。

もう一匹のチャチャは元気です。体も大きくなりつつあって、眼もぱっちり。なかなかのべっぴんさかであります。
あと1ヶ月は一匹での暮らしになります。

薔薇はプライド・オブ・イングランドが咲き始めました。



2004年05月04日(火) 左脳




♯1
今日は激しい雨降り。それでも午後からは止み間も出きてきて、その時を逃さず犬たちの散歩に出かけました。
画像はレインコートを着たハナ。
人が使う赤いビニールエプロンのSサイズを使っているのですが。
わかりますか?

♯2
外で授乳中のキリンと茶々ですが、キリンの具合が悪いです。眼は開いてきたのですが、からだが弱いのと、人間のやること為す事すべて拒絶する性格。そのくせタオルに包んで抱いてあげるとじっとして嬉しそうに喉を鳴らしているのですが…。
本能的なものなのでしょうか。たぶん、病気なんだと思います。
一方の茶々は目はくっきりとしてきて、食欲も旺盛。離乳もまじかです。

#3
新しい「短文」ニ題を制作中です。ひとつは今回のゴザンスのテーマ、「私たち結婚しました」にあわせたものにしようとしています。ただ、時間的に間に合わないかもしれません。もうひとつ書いているのも植物が登場する予定です。

♯4
今月も心太日記を書かないといけないんですが、今回はまったくなにを書くか決まりません。時間もないのでいろいろと頭をひねっているところです。

♯5
作品を作るのに、右脳の働きはとても大事です。直観やイメージする部分として。だけど、左脳も使わないとコンスタントに仕事はできません。論理と言語の左脳。
右脳がともすれば情感に流れやすいのにくらべ、理詰めで組み立てていく「明晰さ」が求められる時もあるのです。
今、その力を引き出したいですね。



2004年05月01日(土) 緑の翳




絶好の散歩日より。ちかくのケヤキの林のなかを犬と歩きました。イチョウ並木の下も。葉を透かして光が降ってくるものだから、緑色の空気の中を歩いているようでした。

薔薇はゴールデンバニーが開花しました。上の画像がそうですが、ランドラよりも濃い黄色です。
ちび猫たちの世話が粛々と続いています。今日初めて獣医さんに連れていきました。眼を母親からのウィルスにやられている以外は健康。目薬をもらいました。
少し睡眠不足。仕方ないです。それでもゆっくりと、しっかりしてきていますから、そのことが支えです。
その事をいったら、高村薫さんによく似た獣医さんがうんうんと大きく頷いておられました。きっちり続けていくことが肝心ですね。

音楽は昨日に引き続き、波多野睦美さんのアルフォンシーナを聴いたり、バッハをかけたり。今はカンタータを聴いています。
ぼくはバッハの交響曲は2番と3番ばかり聴いていて、1番をあまり聴いてないんです。これも課題です。

ゴザンスの800字を書きました。ちょっとホラーっぽいかも。
「駅の階段で」という指定があるのですが、これは京都に住んでいる人なら誰でも京都駅の171段の大階段を思いおこすはずです。これは階段ですが、それだけではありません。コンコースへ直接いくものとは違いますし…。これは作品の中に書いています。

あの階段が埋め尽された光景はすごいです。ちょっと日本離れしているというか…。


 < 過去  INDEX  未来 >


にしはら ただし [MAIL] [HOMEPAGE]