散歩主義

2004年04月30日(金) 静かに、音楽が始まるよ

出会いはいつどこであるのか、ほんとうにわかりません。
人と、風景と、犬と、猫と、花と、絵画と、そして音楽と、そして…。
これまでの人生でもあった様々な出会い。日々刻々、わたしは世界と出会いつづけているのかもしれないし、私自身と出会いつづけているのかもしれません。すべてがいまとなっては大切な事と思えます。

わたしがゴザンスで書いた作品を読んだ方から教えられた音楽と今日、出会いました。とても素晴らしい、静かで深い音楽との出会いです。

居ずまいを思わず正さなくては、と思いました。
わたしはこの人の歌を最初に聴いて、まず部屋の掃除をやりなおし、机の上を拭き、薔薇に水をやり、背筋を伸ばして忘れた事はないか考えて、それからもう一度聴き始めました。

声は柔らかく、芯に静けさを秘めています。それは侵しがたい透明さを持っていて、わたしはその声にふさわしい「わたし」でいることがたぶんわたしを幸福にする、そう直観し、ゆっくりと紅茶を入れました。そしてもう一度、最初から聴きなおし。

けして派手でもセンセーショナルでもありません。むしろ凛とした声は緑の光と静寂が似合いです。

声の後で奏でられているのはギターとリュートです。ストイックな音の構成が音楽を引き立てます。

タイトルとなっているアルフォンシーナとはアルゼンチンの女流詩人。海に自ら消えていった詩人は詩を残していきました。その詩を組みこんでアルゼンチンの作曲家と詩人が「アルフォンシーナと海」をつくりました。フォルクローレです。
続いてタンゴのビアソラから二曲。なんとシンプルで味わいぶかいタンゴであることか。

アルゼンチンの美しい歌が続き、ブラジルの歌、そしてラヴェル。プーランクのシャンソン「愛の小径」。ヴェルレーヌの詩につけた三曲。
そして最後に日本の小さな歌曲がふたつ。ともに武満徹作曲で、一方は武満さん自身の作詞。もう一方は谷川俊太郎さんの詩。

アルゼンチンの詩人の消えた砂浜から歌は始まり、最後に日本にたどり着きます。
「わたしは愛だけを抱いていく」ということばの元へ。

彼女の声は、古い透明なガラスのようでもあり。青いまっすぐな炎のようでもあります。声はメゾソプラノ。
孤独を思い、愛をおもうでしょう。光と影が風にさざめく柳の木の下の、揺れる薔薇にみとれてしまうように。

もし誰かがやってきたのなら、並んで何も言わずに静かに聴きたい音楽。
あるいは一人だけで聴けば「わたし」に出会える稀有な音楽です。


参照CD  「アルフォンシーナと海」(ワーナー)     
      歌         波多野睦美
      ギター・リュート  つのだたかし



2004年04月29日(木) 五月の薔薇




いよいよ薔薇の季節到来。
今日は気温も上がりまちのあちこちで薔薇の咲いている姿を目撃します。
我が家もランドラが開花。ほかの薔薇もスタンバイしています。綻びかけているのが今年からの新顔、ゴールデンバニー。その次はたぶんピエール・ド・ロンサール。プライド・オブ・イングリッシュ、ホワイトマスターピース、プリンセスモナコ、……と続いていくようです。






”ローズ・ド・メ”
フランスではそういって、五月の象徴のように薔薇をたたえます。ところでその名前そのままの薔薇があります。
うちの近所でもコンクリートブロックに這わせておられるお宅があって、今日、そんぽの途中でパチリ。ピンクのつるパラなんですが、病気に強いし花数も多いで
す。たぶん原種に近いのだと思います。

薔薇に限らず花は柔らかさと優しさを人に与えてくれるように思えます。
花をふかく感じて、深く観て、作品が書ければと思います。
上賀茂の大田神社の菖蒲をみたいですね。それと今年は葵の花を見たいです。
見て、そして今サイトにアップしてある「葵の花」をさらによいものにしていければと思っています。
夏は法金剛院の蓮を必ず見たいですし。

花に集中する時間を作りたいです。物語がこぼれてくるはずですから。きっと。

それと「光函」関連で、あるアーティストを初めて知ることになりました。明日その人の声と「対面」します。
必ずや感想を書きます。揺さぶられる予感がしています。

今日聴いている音楽はポルトガルのマドレデウス。いくつもある中の「AINDA」というサントラを久しぶりに聴いています。
ヴィム・ベンダースの「リスボン物語」のサントラです。

このグループの音楽も日溜りを何度となく感じさせてくれました。例えばこのアルバムだったら「ミラージュ」という曲が好きです。



2004年04月28日(水) 300冊の「光函」

ゴザンスのメールマガジンで、「光函」の売れ行きについての記事が掲載されました。編集部によればオンデマンドの文芸系の本としては発売直後の売れ行きとしては上々だとか。

ただこれが全員、読者になっていただけるかというとまさにこれからの努力にかかっているわけで、日々精進するしかありません。

今日の「光函」のあった風景は…
「黄緑のシャツ」のなかでほんの少しだけれどモデルとしてイメージさせてもらった、ご夫婦で営業されている珈琲の焙煎屋さん。
ふたりともにこにこ笑ってくれました。こちらは恐縮至極。
あの話にでてくる少年のような晶子さんのモデルが奥さんなのでした。

本を作るにはお金が要ります。今回は企画が認められたために本を作ることができました。お金がなくても、どんな本を作るのかというイメージと原稿づくりはどんどん進めていきます。いつどういう形で本となるのかわかりませんから。

そのまえに書くことが「life」になっていたいと思います。
「life」。つまり生活であり、命であるわけです。

いまも小さく書きためながら、作品たちが生まれていきます。器用なほうではないので、ゆっくりとです。自然に。だけどたゆまないで。

今回の本づくりで感じた事を大切にしていきたいですね。常に人とともにある作品を作りつづけていきたいと思っています。



2004年04月27日(火) 「これはイイ!!」

たぶん生まれて初めての事でしょうね。
本屋さんで、商品としてのぼくの本を手にとってもらい、ぱらぱらと立ち読みして
「これはイイな」と呟いて買ってくれた人がいたということ。

「光函」は当初、企画そのものが「100人の読む本」として100冊は最低、「売れる」というのが条件でした。
ある夜、妙心寺の闇の中を散歩していて、「そんな企画があるなら出せよ」と傍らから強く背中を押され企画書を送ったのでした。

そして制作、販売と来たわけです。実は書店での売上はほとんど期待できないと思っていたのですが、昔から付合いのある本屋さんには置いてもらったのです。

本屋さんが驚いてわざわざ連絡してくれました。

うれしいです。
本当にだしてよかったです。

最初から、100冊売る以上に100人の読者をつくる、ということをテーマにしようと決めていました。
背中を強く押してくれた方は「ファンをいかにつくるかやな」という言い方をされます。

少しづつ少しづつ、まったくの未知の読者からのメールが届き出し、そのたびに勇気を貰っています。
PCの前でひたすら頭を下げています。
ありがたいです。ほんとうに。

だから書きます。
書いていきますよ。

今日、本の末尾のURLをごらんになってサイトを覗かれたのなら、是非ほかの作品も読んでやってくださいませ。

これからもよろしくお願いいたします。



2004年04月26日(月) 雨が降り始めました。




夜の10時前です。ちび猫たちにミルクをやりおえてきました。
茶々は順調。キリンは予断を許しません。
毎朝、毎昼、毎夜が勝負です。

帰ってきて、バッハをかけて、散歩主義を書いています。
バッハはトッカータとフーガです。

ところで、子猫たちの面倒を見ると身体や顔がちくちくと熱くなるんです。たぶん血圧も上がっているのかな。だけど不思議と疲れません。
毎日会うごとに強く大きく綺麗になっていく、というのもありますけれど、キリンのように、はらはらしながら世話をしていても、力を貰っているのはこちらです。
頑張る姿が力をくれます。

雨が降り始めました。対策はできているので大丈夫です。
母猫のキシはどこにいるのかなぁ。きっとどこか、雨のあたらないところで体を休めているのでしょう。
調子が戻ったらまた帰ってきて、ご飯を食べて欲しいですね。
その時、元気に大きくなった子供たちがいるといいんですけれどね。
猫の親離れ子離れははやいので、であっても知らん顔というのも結構あるんですけれど。

さてと自分のモノカキについても、動かしていかないと…。
ひとつ完成しそうなものがあるんですけれど、もっと「詩」に近寄っていこうと思うのでたぶんアタマから書き直しになります。

もう一つは背後でバッハが鳴り響いている作品。バッハでなく、「声」でいいんですけれど、今、注文している音楽(声)が届いてからさらに深めていければと思っています。
詩はやっとひとつ自分の気に入りを、婦人公論に送りました。

そうそう、「光函」の置かれている風景のいろいろ。
京都のある焼肉屋さんには平積みされておいてある、と聴きました。
うれしいですねー。
竜安寺の、とある食堂の本棚にもおいてあります。
百万遍の本屋さんにもあります。

京都のそこここに「光函」が散らばっていっています。

あ、そうそう薔薇が咲きました。
今年のいちばんは黄色のランドラでした。ほかの薔薇もみんなたくさん蕾をつけています。ただ、今年はうどんこ病が流行りそうですね。気温が高すぎる気がします。




2004年04月25日(日) ふたたび猫ミルク




以前書きました、外猫の一匹が産んだ子猫。またしても育児放棄されました。
ぎりぎりまでは母猫の帰りを待ったのですが、このままでは全員、死んでしまうと判断して、生存している2匹をなんとか一人立ちできるまで面倒を見ることにしました。

一応、扉のついたケージの中にフリースを詰め、それを古いテレビ台の下にいれ、両脇に湯たんぽを置いています。そのセットを物干しに作りました。
雨風はしのげます。
朝から昼、夜、寝る前とミルクをあげ、排泄をします。
一匹は目も開き、元気ですが、もう一匹は微妙。弱すぎますね。だけど少しミルクを飲むようになったのでかすかに希望は持てます。

今回のこと、それとキキやピピ、ルルの時のこともミックスして、800字の「天使」という作品にしました。
下記がそうです。

連休はどこにもいけませんね。それでなくても無理なのにダメを押された恰好です。

やっと静かになって、PCに向かっています。
背後ではバッハのオルガンがなっています。
今日聴いているのはコラール前奏曲「イエスよ、いまぞ汝御空より降り来たりて」BWV650。オルガンはカール・リヒターです。
これから幻想曲とフーガを聴きます。では、800字をどうぞ。

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【800】天使

「では家族会議を始めます」
 朝食のあと、母がきっぱりと言った。少し含み笑い。もう結論は出ていたから。
「キシの子供が、また見放されました。ついては我が家で育てるかどうか意見が聴き
たいんだけど」
「生命は大事です」赤ペンを競馬新聞に走らせながらと父が言う。
「そうよね。じゃあ決定。とにかく生かしましょう」
 わたしの意見なんて、聴くまでもないというふうに私の眼を見ながら母はいった。

 我が家では、ある日、勝手口に迷いこんできた野良猫の世話を見始めたのを皮きり
に今では合計7匹の野良猫の面倒を見ている。その中のキシという雌猫はこれが四回
目の出産だった。
 そしてこの猫の悪い癖は生まれて一週間ぐらいで養育を放棄する事だ。そしてほと
ぼりが冷めたころに戻ってくる。
 今回も3匹を物干しに用意してある野良猫用の箱の中に連れてきた。最初は自分で
面倒を見ていたが、一週間を過ぎてから、様子がおかしくなり始め、箱から姿を消し
て三日目になる。
 もうすぐ五月の連休だったけれど、父はもう今年は家にいると宣言していたし、わ
たしももう覚悟は決めていた。とにかく生後約3週間ぐらい、つきっきりで面倒を見
なければならない。殺すわけにはいかないのだ。
 私と母はタオルやら脱脂綿や猫ミルクの用意を始め、父は万馬券を誓いながら自室
へと消えていった。

 野良猫たちの遊園地と化したベランダに出て、古い猫ハウスを光の中に出す。昨晩
もいれておいた湯たんぽを回収すると、横に茶色の縞と黒の縞の赤ちゃんがしがみつ
くようにいた。抱き取ったとたんにぎゃあぎゃあ泣く。目の上が汚れていて濡れた脱
脂綿で静かに拭いていった。かさぶたのような盛りあがりがとれ、黄色い膿が拭えた
その時、目が開いた。
…ようこそ、この世へ…
 お腹をさすり排泄させ、それからミルクをやる。月曜日には獣医さんに連れていこ
う。
 我が家の連休が潰れるのは3年連続。理由は同じである。

*************************************

●800字です。御題は「五月の連休」に、「遊園地」で、「赤ちゃん」が、
です。
ほぼノンフィクションに近い状況です。今、私の立場がまさに赤ちゃん猫飼育係です。
当分、どこへもいけません。今回は外猫ですけれども。




2004年04月24日(土) NASCENTE




「ナセント」。
古いバラード。マイケル・ブレッカーの「ニアネス・オブ・ユー/バラード・ブック」のなかでこればかり繰り返し聴いてます。
ほかにもハンコックの曲とか、クルト・ワイルの曲もあるけれどこの曲がいちばん好きです。実はほかの曲はあまり聴きません。
この曲のためだけに買ったようなものですから。

マイナーの切々としたメロディーの、だけど小走りに駆け抜けようとする曲。

この曲のパーソネルは
マイケル・ブレッカー…テナー・サックス
パット・メセニー…ギター
ハービー・ハンコック…ピアノ
チャーリー・へイデン…ベース
ジャック・ディジョネット…ドラムス

ジャズには様々な側面やシーンがあるけれど、ある意味で最高峰の組み合わせの一つだと思います。

エモーショナルなこぼれゆくもの。音を破って、指の隙間からこぼれていくきらきらした水のようなもの。それが染み入ってきます。
ディジョネツトの繊細きわまりないシンバルワークにじっと耳を傾けていると、心のなかに湧きあがるものがありますね。

ハンコックのピアノも澄んでいるし…。やはり水…。

昔、ジャズを聴くことに関しての先輩として20歳ぐらい年上の人がいたんだけれど、彼とジャズって結局ラッパだよね、と語り合った事を思い出しました。
ふたりともジャズ・ピアノが大好きなんだけれど、ジャズという表現フォームは煎じ詰めたらやっぱりラッパかな、なんていってたんです。もう20年以上前の話。

抜群のテナーとかアルト、あるいはトランペットを聴くたびにその時の言葉を思い出します。その時はふたりでジェリー・マリガンやブラウニーを聴いていたのかな。
今、多分彼のキャリアの中でも絶頂を迎えているであろうマイケル・ブレッカーのテナー・サックス。一聴の価値ありです。

「ナセント」。いい曲です。
是非、夜に。



2004年04月23日(金) 変性あるいは…。

夜に入り気温がどんどん下がっていきます。
あまりの天候の急変は、身体に意識できないほどのストレスを与えて、それは精神状態にも波及するように思えます。

軽い変性意識が生まれるのかもしれません。寒さはそういうものを運んでくる気がします。体験から言っているんですけれど。

一種の「魔」。

若い頃ならそんな自覚もないままに、キモチイイことに突入していったのかな。そしていろんなことを散らかして…。だいなしにして…。まれに詩が書けてと、そんな事ばかりしてた気がします。



…。
今夜は寒さの中で外の猫たちにふたたび湯たんぽの補強をしました。
うちのなかの犬と猫はもう眠っていて、めずらしくハナがずっと布団の上にいます。

…。
気がつくといつでも変性意識に飛びこめる自分になっていました。ずっとシラフのまま。…。

疲れたのと神経がぴりぴりしているから、きょうはヘヴィーな音楽に沈みます。
ではでは。



2004年04月22日(木) 即興詩 真夏の て 麒麟の白い四角の電光の

真夏のような日の夜は散歩もTシャツだけで風を孕み街を擦りぬける肩に麒麟の刺青が浮かんでいて。

賑やかな高校生や大学生の間を縫って歩いている足の速い夜の散歩ものは皆中年の男女 で麒麟の顔をして。

桟敷も屋台も人もかけらも無くなった桜!あああ平野神社の境内は静まる闇に戻っていて
そのいちばん奥で実は沙羅双樹がゆっくりと蕾を膨らませているのを誰もまだ知らなく て

のんびりとした柳、柳、柳よ泣いておくれでないかい willowうううう の流れる夜の下に帰るべき家の無い観光客のふりをした哀しい男がいて。

その顔はあたりまえのようにぼくにそっくりだから首を輪傾げて挨拶をするんだごきげんようと言って
馬鹿俺はおまえだというから暴走族がはやくもあらわれパトカーと夜に消えていって

ああ夜風は体に悪いから きみの毒は完成するだろう 虎にさえ食べられない猛毒の身体なのだ ニンゲン て  

美しい手はここから遠い 遥かに遠い
そうだろう麒麟








2004年04月21日(水) 「散歩」について

気温はずいぶん上がったけれど、空気が乾燥していて気持ちのいい一日でした。
ただ朝は寒くて、朝の散歩でいった藤棚は一斉に花が開いていたけれどスモークがかかったように見えました。なんだろう、まるで朝露が靄になったような。

今日は婦人公論の発売日で、詩フォーラムのある号。
今回は全く期待していなかったのだけれど、佳作になっていました。
「光函」の最後の段階のころに、まるで出すことが「〆切り」のような気持ちで出した作品です。

自分で決めた事だからなんとしても毎月最低一篇は投稿することと、もういちど徹底したのかな。一度、投稿が間に合わなかったので。

まだまだコンスタントにいいものが書けないですね。時間がかかる。
だけど今回の作品ももう一度原稿を読んで、そこからさらに新しいものへと書いても行けるし、これを書いたから次も書けているとも思うのです。

「推敲」という言葉はもともとは中国の詩の為に生まれた言葉です。詩こそ推敲を追及すべきものだと思ってます。

というわけで今回の佳作「散歩」は自分の中では、長い一つの作品のパーツを作ったように捉えています。

今回の選評で井坂さんは「マンネリ」に陥らないために、自分の手法を少し変えてみることをすすめています。「補修工事」と言ういい方をされていました。
ぼくも、そしてたぶん多くの詩を作る人も自らのスタイルは常に可変する状態にしておきたいと思っています。
常にフレッシュないきもののように。多義性を捨てないというか。

先月送った詩のほうがいいものが書けたと思っていますが、こればかりはわかりません。また、来月の22日まで待たなければ。

そのあいだにも主にゴザンス上に書いたものは発表していきたいと思っています。
詩「散歩」はこちらです。

blog WalkxWalk 詩・散歩へ



2004年04月20日(火) 春は変転の季節

この前は「夏日」になったというのに、明日の朝、京都と滋賀には霜注意報が出ました。最低気温は今朝よりも10℃下がって7℃だとか。
若い芽が枯れないか心配です。
薔薇も開きかかって止まっています。今日の昼過ぎから気温がどんどん下がっていくのが実感できました。

藤の花は咲き、ツツジは満開。だけど震えるような寒さの朝。
これにはさらにおまけがついていて、昼はなんと27℃まで温度が上がるというのです。
身体のリズムや体調が狂う方もでてくるでしょうね。
慌てて毛布を用意しました。

ここのところゴザンスのテーマを書いて、今、800字に取り組んでいるので読書がちょっととまっています。
そのぶん音楽を聴いています。

伊藤君子「フォロー・ミー」、バンブー茂「クロール」、、、
来週はたぶんブラッド・メルドーの事ばかり書くと思います。
ジャズ・ピアノのたぶん今、ぼくがいちばん好きな人じゃないかな。レヴューが書けるまで聴きこんでいようと思います。

それとぼくの趣味のメインストリートの一つ「ソウル」。こっちはカーティス・メイフィールドを聴きなおそうかなと思ってます。
この人は、評価されている以上に重要な人かもしれません。

じっくり取り組んでいる執筆作品があって、この作品は自分を律してくる性格を持っているから、大切に書きたいのですがいまだにその背後に流れる音楽が決まりません。最初はバッハから始まったのですが、もっと柔らかにしたいんですけれど。
ひょっとしたら無音で書くかもしれません。

今、暫定的に伊藤さんの「フォロー・ミー」をリピートにして何度も聴いています。

春はなにもかにもが移り変わりが激しく、ただ季節の沸点をめざすベクトルだけは変わってはいなくて、自分を見失わないように。
そのことに気をつけています。

野良の子猫、日々、その安全を確めてはほっとしてます。
冷静に、慌てずに、いらいらせずに、とにかくできる最善の事をする。
ほとんど呪文のようです。

さっき、湯たんぽを、猫が火傷しないようにタオルで包んで、寝ているぐるりに配置してきました。母猫も暖まらなければいけないし。

ぼくも風邪なんかひかないようにしなくては。
ではでは。



2004年04月19日(月) 野良猫の夜

外猫の一匹が子猫を産んだことは以前かいたと思うのですが、激しい雨の今日、母猫が引越しを決行。全部で3匹いたことがわかったのはいいんですが、一匹が取り残されてしまったのです。

またしても猫ミルクを買いに行き、やれやれまた増えるのかな、などと思って湯たんぽにお湯を入れ、ベランダに出て黒いトラの子猫をタオルでだいてやりました。
みゃあみゃあなくんですよね。だけど猫ミルクをいやがるのです。
キキもルルもピピも食いつくように呑んだのに、と思っていたら母さん猫が帰ってきました。

はーーー。
一安心。
だけどこんどは連れていかずにずっと横にいるだけ。
どうも時々帰ってきてたみたいなんですね。二つの場所をいったりきたり。

だから、子猫の周りを暖かくして、人間は退散しました。
明日は雨も上がり気温も上昇するみたい。夏日になるとか。
母猫と子猫たちが一緒になればいいんですが。

生後一週間ぐらい。眼は開きかかっていてとても大きな子です。

沈着冷静を心がける日々が続きます。

ま、ピレネーの捨て犬!!!をはじめ、犬3頭、猫5匹と暮らしている人もいるらしいので、うーん、集まる所に集まるというか。
…。



2004年04月18日(日) 落葉の季節




春はまた落葉に季節でもあります。
常緑樹の古い葉が、はえかわりで落ちて行くのがいまごろです。
だから楠などの常緑樹の下は落ち葉がすごいです。

イチョウの新しい葉が出始め、藤の花が咲き始めていますね。
藤こそ日本の花だという説があります。
確かに歴史的に見るとそうなんですよね。
今、日本の花といえば桜ですが、平安時代には梅がそうでした。それからさらに昔になると藤の花がでてきます。神社の由来や神話の世界に藤が登場するんです。
京都だと「才の神」関係で藤が出てきます。

近所の児童公園に藤棚があって、今年も咲き始めました。
まだちらほらなので綺麗に咲いてから画像はアップしようと思います。
今日の画像は名前をどうしても思い出せない樹、房になった小さな花のような実のようなものがたくさんできるんです。
これが実は公園にたくさん植えてあるんです。
確か一度、名前を確認したんだけど忘れてしまいました。

来週には薔薇が開花していくと思います。そのつど、画像を載せていきます。
それにしても早いな。
ほんとに今年はおかしいです。花が早すぎる…。

今日の京都は29℃にまでなりました。

そうそう、昨日書きましたニセアカシアの話、ゴザンスにアップしました。
「朝の匂いのする手紙」というタイトルです。
読んでみてください。
「朝の匂いのする手紙」へ



2004年04月17日(土) ニセアカシアの花




今日は、一日ゴザンスのテーマに沿った執筆をしていました。
月に2回、「テーマ」「800字」「ことばあそび」のみっつの課題があるののです。ほとんど全て書いていこうとしています。「光函」の発刊前後は書けませんでしたけれど、また書きはじめています。

「テーマ」はエッセイ。「800字」は小説。「ことばあそび」は詩。と便宜上決めていますが、「テーマ」で小説を書くこともあり、また「800字」がそのまま作品に直結している場合もあります。

「テーマ」はもちろん編集部で決められ、「800字」ではいつ、どこで、誰がという語句の指定があります。「ことばあそび」は句のアタマの言葉が指定されます。
いつの頃からか、この課題に挑む集中に魅力を覚え、むしろ脳をフル回転する事で思いもしなかった副産物が生まれてきました。「光函」の短文の多くはそうやって生まれました。

楽か苦しいかというと、我を忘れるように書いているんだから苦ではないです。楽とも言いきれませんけれどね。

自分の裁量で書くことはまた別に考えるとして、与えられる課題を縁にして、どんどん深化して行けばいいかな、と思っています。

今日はひさしぶりに「テーマ」で短い創作話を書きました。
月曜までにアップできればと思っています。
「ニセアカシアの花」がでてきます。この花もぼくにとっては忘れられない花ですね。アップをお楽しみに。

音楽はバンブー茂をまたまたよく聞いています。タケコさんの歌が無性に聞きたくなって…。聞けば聞いたでサカサイさんのギターに聞き惚れてしまうんですけどね。だけどやっぱりタケコさんはいいです。



2004年04月16日(金) 葉桜の日




彼女の著作にあったタイトルである。
ちょうど今ごろだ。

あまりに突然の死を聞かされた
電車堤の葉桜が、ただ哀しいばかりだ。


ただ彼女の魂の 安らかならんことを。

合掌



2004年04月15日(木) N‘s jazz house  vol.3


今日、紹介するのは
John Scofield/QUIET(Verve POCJ1343)

現在のジャズ・ギターのたぶん両巨頭と言えばパット・メセニーとこのジョン・スコフィールド(あとは全てジョンスコと記述)だと思います。
ジャズ・ギターといえば故ウエス・モンゴメリーがいちばんなのにはかわりは無いのですが、ここのところ圧倒的にパット・メセニーを聴いてきたんです。だけど曲づくりやサウンドづくりではジョンスコの方が好きです。

それはこの”QUIET”ではっきりしめされていて、こういう音はパットでは出せない。パット・メセニーは良くも悪くも、ソロでもグループでも、その演奏があまりに劇的なんです。大作主義、コンセプチュアルに過ぎる面もあるかも知れません。それはそれで美的な特性でもあって、パットのよいところでもあるのですが、
QUIETにおけるジョンスコのような音は出せないと思います。

このQUIETでは全編ナイロン・ストリングのアコースティック・ギターを弾いています。ギター、ベース、ドラムのトリオを基本にそこにホーンのアンサンブルが加わるんですけど、その編曲が抜群に渋い。ギル・エヴァンスの編曲手法に倣っているという指摘もありますが、よろしいんじやないですか。いいですよ。

どういう曲かというと、内省的で水彩画のような趣のある音。アコースティック・ギターを金属的には絶対響かせない。うーん、感覚的にいうと「木漏れ日」とか「穏やかな小さな川の流れと風」というイメージですね。

そうブラスセクションが「木管楽器」という文字通りのイメージでとても温かい音を出しているのも特徴的。
リズミックなパートでもアンプりファイドされている印象がとても薄い。自然な躍動感なんですよ。

そのブラス隊にはウェイン・ショーター、ランディ・フレッカーという大御所がいるものの、ぼくがいちばん気に入っているのはフレンチホルン二台とバスクラリネットの音。低音部が分厚くてそのぶんとても落ち着いた曲にしあがっているのです。

ジョンスコが全編でアコースティック・ギターを弾いているのはこれだけだと思いますが、彼の作品の中でこれがいちばん好きです。
QUIETというタイトルは、お嬢さんが名付け親だそうで、確かにそのイメージそのままのアルバムです。

ところで、ジョンスコとパットは仲がよくて、お互い認め合っています。二人でデュオのアルバムも出しているし。違いを認め合いお互いの道を追求する二人。いいですねぇ。



2004年04月14日(水) 胡蝶蘭の部屋で



昼過ぎまで雨が降っていました。
少し寒いくらい。

ところでいま、部屋の中に胡蝶蘭があります。
とてつもなくゴージャスな花。蘭にも、はまると逃れられない魔力があって
部屋中、蘭だらけにしている人や、わざわざ蘭のための硝子の温室を作る人もいます。

なぜここにあるのかはちょっとワケありで、秘密です。
それにしても花として、ひとつの完成形をしていますね。
微細にして大胆。そしてあからさま…。

花は、どんな花でもすべて「完成形」であり、優劣はないのです。
あるのはそのフォームの違い。蘭の花はそのあるフォームの究極のようにも思えるのです。
下から見るとまるで絹のような花弁。そしてその中央部の微細な部分が外から見える開放性。温かな土地の樹の上に生えるという出自からも
艶やかさがうかがえます。
この花が濃い緑の滴りのなかに存在を主張するのならこうなるのでしょうね。

艶やかさの完成形とでもいいましょうか。

とても巨大な鉢で、手に余ってここに回って来たというところなんですけれど、これほどの胡蝶蘭をまともに部屋において見るのは初めてのことです。

蘭がよく記念や贈答に使われるのは花もちがとてもいいからで、実際、もう結構な日数になるのだけれどびくともしません。

もともとが熱帯の樹の上に育つものなので、乾燥気味でそだてるようです。水をやりすぎるとすぐに根ぐされをおこすみたいですね。
蘭系列の花だとデンドロヴュームも育てていて、これは何かのお祝いにもらったのを株分けしてずっと続いているもの。
デンドロヴュームは強くて、寒さにも結構耐えます。今年も花をつけてくれました。

蘭のある部屋で、きょうも「光函」の追加発注。次々と読んでくれる方からの反応があり、そのなかには、あ、こういうの書く人なんですね、というものもありました。
それは、ネット上ではなくぼくという人物を知っている方からで、そういうことを聞くたびに、自分の足元が「モノカキ」として固まっていく気がするのです。

誇らしくもあり、武者震いする怖さもあり、とにかく「自覚」というものを徹底して思い知らされます。「書くんだ」ということの。
ひとりでも読んで好きになってくれる人がいるのならば、その人のためにも全力で書いていかねばと思うのです。

感想をいただきながら、自分のためだけではもうありえないな、と思いました。
「書く」ことの足場をこの際、がっちりと固めさせてもらえそうです。

画像は上が胡蝶蘭。下がデンドロヴュームです。




2004年04月13日(火) 季節最後の椿


今日は遅れに遅れて、ほんとに今頃どうしたんだといいたくなるような時期に椿が咲きました。
もう京都市内のソメイヨシノはほとんど散り、椿も盛りを過ぎ、木蓮の花もとっくに消えて、ツツジが咲き出している今頃にぽつんと絞りの花が咲きました。
ひとつだけ。

今年は椿の生育が悪くて花は無理だと思っていたんですけれど、樹は頑張ってなんとか一つ咲かせました。偉いな。

一方、薔薇はすべてに蕾が出てふくらみだしています。5月になる前に咲くかもしれないです。

今年は花の咲いている期間がとても短いようです。すべての花が大急ぎで咲いては散っていきます。なんだか違和感がありますね。
そんなときに、おっとりと花を咲かせた我が椿がなんだかかわいらしく思えます。

短い話を二つ、同時進行で書いています。少しだけ先が見えてきました。
書きながら考えています。とにかく毎日一行でもいいから前進させること。それがノルマです。もう少ししたら最低2枚にしようと思います。

「魚子薔薇」のときにノルマを課すのが有効だったので今回もやって見ます。ぐちゃぐちゃいわずに書く。自然とそうなりますから。



2004年04月12日(月) 「光函」の反響

はやくもツツジの蕾がが綻び始めました。今日も暖かです。

外猫に子猫が加わりました。まだ数はわかりませんけれどニ匹は確認。
お母さんがしっかり育てています。
今年の冬は一匹亡くなりました。また新しい命が加わったというわけです。

昨日の晩はチェーホフの短篇を読みました。なんと活き活きとした作品であることか。
小説をこういうふうに読ませてくれるのかと、感嘆。

ところで今日、ちらっとだけ見たんだけれど公園でくつろいでいる人が多いんですよね。日中、あんなにいるとは思わなかった。
いちど、公園や大学のキャンパスで書いたらどう、といわれたことがあったけれどやったことがないです。

作家や詩人のなかには喫茶店とか、お気に入りの店で書く人が結構います。おもしろいのはファミレスって人が結構いること。午前中とか、空いているのかな。
ぼくの知ってる人でミスタードーナッツで書いたり読んだりする人がいました。
24時間でやってたころかな。夜のあいだ、ずっといたそうです。

あとクラシック専門の喫茶店の窓辺という人もいましたね。ぼくは喫茶店にほんと、もう何年いってないだろう…。
もし喫茶店で書くのなら小ぶりのノートを持って何事か書くのだろうなぁ。
アタマがその方が動くのなら。
ぼくは独りの部屋以外で書いたことはありません。

「光函」の追加発注分が到着。
これからはゆっくりとしたペースの販売になります。

夜になって某割烹のご主人から感想のメールが。いろいろと好きな作品を上げてくれて、そのなかで「橋」が好きだと。
嬉しいです。
ありがとうございます。

それと前に書いた校長先生からも。学校で読んだかたには「スミス、空なの?」の評判が良いぞ、と。

今準備している作品たち。
きちんとした形でまた、みなさまにお届けできればと思っています。
その気持ちを強く持ちました。
それにしても竹林さんの表紙はほんとに評判がいいです。
ほんとに、ますます感謝しております。



2004年04月11日(日) 残韻…尖展へゆく



昨日に引き続いて、暑いくらいの陽気でした。朝のうちに用事を済ませて、コルナゴで京都市美術館の別館へ。若手日本画家のグループ尖の展覧会の、今日が最終日です。「尖」には「光函」の表紙絵を描いてくださった竹林柚宇子さんも参加されていて、今回の展覧会にも出品されているとのことでした。

もう岡崎界隈の桜は散り出していて、桜吹雪のなか京都会館の裏にある「別館」へコルナゴを滑りこませました。二階へ上がると受付に二人の方が。署名をもとめられてさらさらと書いたら、目の前の人が竹林さんでした。

思えば表紙絵を描いていただいて、初めてお会いすることができました。
なんだかとりとめなくしゃべってしまって、すみません。
初めてなんだけど初めてじゃないような不思議な気持ち。

竹林さんの作品は「残韻」というタイトル。見た瞬間、ん??。
画面に近寄って見ると一度描かれた背景を全部こそげ落してあります。その上に二人の男女が透けて立っている絵。右上には白い月があって画面全体は月の光に覆われています。

その時、竹林さんがやってこられて立ち話を少し。背景は朽ちた街並みだったそうなのだけれど、説明的なものをはずしたくて削ったとのこと。削ったからこその味というか「気」は十分出ていて、まさに「残韻」。仮に月がなくて、二人の人物だけでもその意味はわかります。「削れた背景が透けて見える人物」、それだけで響いてきます。目線が二人に集中しますからね。

それと竹林さんの作品は建具風のしつらえが特徴的なのだけれど、「絵のこちら側」「見る場と人も巻きこんだ場の中の絵」というのを、やはり考えられていることがわかりました。以前からそれは感じていたことでもあって、とても面白い。全面展開なさるにはやはり個展かな、とも思いました。

二人で絵を前にして、モノを創る話をしばし。いろいろと話したけれど、「考える」ということはとても大事なこと、というような結論だったと思います。

好きな小説の話をしたり…。やっぱり頑張っている人と話すとこちらもふつふつと湧きあがるものがありますね。

「活きた話」を、またできるように、がんばります。



2004年04月10日(土) N‘s jazz house  vol.2


今日はフィニアス・ニューボーン・ジュニアのNewborn Touchです。
”The Newborn Touch”
Phineas Newborn Jr.Trio

これはぼくがジャズを聞き始めたときに結構かかっていたかな。
データをあげておくと、録音は1964年、ロサンゼルス。
この人のピアノも一度聴いたら忘れられなくて、最初に聞いてからずーーっと忘れたことがない。癖があるといえばあるし、『手が四つあるのかと思わせる』ほどのテクニシャンでもあるんだけれど、歌っているんですよ、ピアノが。

わざわざニューボーン・タッチというぐらいユニークなんだけれど、とても音が強いんです。くっきりしているというか。
そして、このアルバムは選曲がとてもいい。たぶん彼の代表曲でもあるんだろうけれど一曲目の「A Walkin‘ thing」(ベニー・カーター作)は、ほんとに音が立っていて、歩きたくなる曲。
アート・ペッパー作の痺れるように素敵なバラード「Diane」。ほかにもオーネット・コールマン、カール・パーキンス、バーニー・ケッセルなんかのいい曲ばかり。

ぼくの好きになる曲の基準は、口笛で吹けそうなぐらいメロディーがいかしているということ。
明るい印象。陰影がはっきりしている気持ちよさがあって、それは9曲目のような変拍子の曲に際立っています。
歯切れがいいんですよ。

昨日のレイ・ブライアントと共通して好きなところは細かな「歌」のニュアンスがいかしてるってところです。



2004年04月09日(金) N‘s jazz house  vol.1


たまにはこういうのを書いてもいいかなと思って不定期に書いていきます。
連続するかもしれないし、全然続かないかもしれません。お気に入りのジャズのCDを紹介しいきます。

かなり個性的というか、他のレヴューではまず書く人もいないだろうというようなのものが多くなるかもしれません。何故かというとぼくが読んだ事ないからなんですけど。別にひねくれてるわけじゃなくて、ほんとになごんだCDたちなのです。

今日とりあげるのはレイ・ブライアント・トリオ。
ray bryant trio (prestige7098)
1957年の録音。彼もマイルスのコンボに所属したことがあってそれは1955年のMiles Davis Quintet/Sextet。
マイルスのチームに入るということは、その時代のナンバーワンの若手という称号でもあったりするんだけれど、彼がニューヨークのマイルスに呼ばれたのが24歳のとき。その才能は確かで、2年後のこのトリオの演奏もいいです。

ジャズピアノにどんなものを求めるかにもよるけれど、レッド・ガーランドの華麗さややウィントン・ケリーのような天才肌のところは少し欠けるけれど、このひとは歌心溢れる選曲とプレイをしてくれる。
堅実で繊細なタッチ。ハートウォーミングなプレイは大好きです。

特に好きなのは1曲目と6曲目。5曲目もいい。7曲目はクリフォード・ブラウン作の有名な曲で、快調なテンポで演ってます。
アート・ブレイキーはレイのプレイを評して
『彼は美しいよ。ギターとハープシコードのあいだにあるような音を出すんだ』
といってます。
彼のフェバリットはアート・テイタムとテディ・ウイルソン。確かに彼らの演奏から学んだのだろうけれど、彼のブルース・フィーリングがいいんです。
ごりごりの、ではなくて、ほんとにセンスがいいといいたくなる音です。




2004年04月08日(木) 薔薇の蕾

季節はすすみ、今年はとにかく忙しく、花見はおろかどこにも動けないうちに桜は散りはじめました。まあ、御室の桜と八重桜はまだ先ですが。
それにしても大阪造幣局の「通りぬけ」がもう始まるし、うちの近所ではなんともうツツジが咲き始めています。
ちょっと早すぎませんかね。

だから花といえば自分の育てているものばかりを見ているわけなのですが、とうとう薔薇に蕾がつきました。こうなるのを毎年待っているのです。
今年は黄色のランドラから、プリンセス・モナコもつきそうです。ホワイトマスターピースと新しいゴールデンバニー、クライミングのロンサールはまだです。
これから日々、膨らんでくるのを見るのが楽しみになります。

ところで
「光函」を発刊してからぼくのウェブサイトのカウンターが一気に進むようになりました。だいたいうちのカウンターも短時間に同じところから何度出入りしてもカウントしないものですから、だいたい訪れてくれた数はわかります。
夜中から朝にかけて一気に100近く動いたのは久しぶりのことでした。
本にアドレスが記載されているのもあるのでしょうね。

今日、やってみたことは集中のための「弛緩」。ゆるめるんです。
焦点だけイメージしてあとは緩めるように意識して…。アイデアや詩を書きつけています。ときどきやるやりかたです。

「光函」の著者購入分はほとんど無くなってしまいました。ぼくの背中を押してくれた方は、もうこれ以上はいい、と。むしろ抑えろといいます。
やるべきは次の作品集の作品を書くことだと。
文庫本主義者もそうですが、エージェントが二人ついているような感じですね。
ありがたいことです。

詩が一つできました。投稿するぶんです。今回はなかなかできませんでした。
ずっとこだわって書きなおしていたものは棚上げ。「短文」にします。
もう一つの方を婦人公論に送ることになりました。

詩集を読もうと思って物色中。
小説は…笑ってしまったのは江國さんの「すいかの匂い」のあとがき。川上弘美さんが書いておられるんですが、(「江國さんのひみつ」というタイトル)これがまったくそのとおりで、一番最後のところで楽しくさわやかに?笑えました。
新潮文庫です。
それから、たぶんCDを買うんだろうと思います。ブラッド・メルドーの三枚目かケアリ・レイチェルの新しいの。まだ先ですけれど。

バッハ漬けからなんとか脱出したところです。アコースティック・ソウルを小さい音で聴いてます。
インドのポップスが聞きたいな。



2004年04月07日(水) 意識

今日も「光函」の発送作業に追われました。
ざわざわとしたなか、文庫本主義者登場。
「次のテーマはどうするのか」というのです。
決まっていないけれどもう書きはじめているというと、こんなのはどうかという提案がありました。

それがおもわず「あっ!」と言ってしまうテーマだったので、そちらに大きくシフトを置こうとしています。意識をそちらに向けようと。

「光」の次はこれしかないよ、というんですけれどね。
難しいです。とても難しい。だけどおもしろい。
ぼくは「それ」について、昔からこだわっているところがあります。だけど、切り口が全然違う。むしろ、制約をつけることで言葉の力のポテンシャルをいっぱいに引き出すことができるかもしれない。そんな取り組みかたになりそうなテーマです。

つぎの作品のために、過去の作品をこれからざっと見ようと思っています。「芽」の出ているものはないか、と。
たぶんほとんど無いと思いますけれど。

もちろん詩から始めます。言葉を腑分けしていく作業をしなければならないでしょう。
ただ、「光」同様にとても身近で、幅の広いテーマですから取り組み方によってとても面白いものができると思います。

今日から始動です。
テーマはアップしていく作品から推理してください。
すでにブログに書いた「魚子薔薇」にもそのテーマが潜んでいるし、「リルウィン」にも潜んでいます。たぶんそのテーマに沿って大きく書きなおすことになると思いますけれど。

あとは本を読むこと。じつはある女性作家の新しい本の手法を参考にしたくて注文しようとしています。うーん、本当にやりだしたら誰だか書きましょう。
途中で撤収することもあるので、今は秘密です。
だけどそのやりかたの片鱗は「光函」にも顕れています。

とまれ、テーマは決まりました。また眠れない夜がやってくるでしょう。
にもかかわらずわくわくするというのは、いったいどうなってるんでしょうね、
このアタマ。
そして散歩がますます重要になっていくとおもいます。



2004年04月06日(火) 「光函」に書評をいただきました。

今日は「光函」に、とても素晴らしい書評をいただきました。

田川ミメイさんの書評へ

この散歩主義でも何度も登場している「ミメイさん」が書いてくださいました。
ミメイさんはゴザンスのライター仲間であり、はっきり言ってゴザンスで小説や詩を書いているライターたちの数歩先を行っておられます。
ぼくにしてもミメイさんの背中を見ながらここまできたという気がしています。
ゴザンスから「溺レルアナタ」が刊行されたときは我がコトのように興奮しました。素晴らしい本ですよ。

今日、ミメイさんが書評の中で引いておられた平出隆さんの「境目」論。とても刺激を受けました。
詩のような小説、小説のような詩、散文のような小説、随筆のような詩、、、、典型的な詩ではない表現を平出さんはなさっているわけですね。

ぼくの場合、始まりはいつも詩です。しかし、行間の飛躍であるとか、比喩の多用などによって「表現したいこと」のかたちが変わってしまいそうなときは、躊躇せず形を変えます。
その逆もあります。形を決め、その中に落とし込む作業をすることで、表現そのものの輪郭がくっきりする場合です。

何よりも優先するものがあるのです。それは表現のなかの「イノチ」です。
ただそこにある「イノチ」を忠実に告げること。そのことに専心したいのです。
だから制作態度に規制はかけません。
そこから詩というイノチが浮かび上がってくるのなら…。
まだはっきりと告知できませんが、今月の心太日記にもそのことを書きました。

ミメイさんの書評をいただいて思うことは、さらにきちんと苦しんで作品を書こうということです。
手を休めるのが、正直、怖いです。
このままもう何も書けなくなるんじゃないか、そんな恐怖に駆られるときがあります。
で、そんなことを感じるときは、何も書いていないときなんですよ。

もっと大きな視点に立って、自分を俯瞰すればいいのでしょうけれど、まだまだ修行の身ですね。
手が止まっていてもスクリプトを考えたり、詩的衝動に捕まるようにしてみたりということをくりかえしています。

自分を捨てる。そのことを忘れないように。



2004年04月05日(月) A Day In The Life…「光函」覚書…

2004年4月1日、拙著「光函」を出版することができました。
この場を借りて、この著作の制作に力を尽くしていただいたすべての方に御礼申し上げます。
また御買い上げいただいたすべての方に、感謝いたします。

今日も何人かの方に「光函」を送ることができました。具体的な作品名をあげての感想もいただきはじめました。普段ネットなどにはあまり触れておられない方たちからの感想もケータイからいただいたり、口頭でいただいたりしています。
嬉しいです。

ネットに書いてきた作品たち、それに先立つ30年前からの作品を「紙の本」とするアイデアは、ゴザンスにライターとして参加してからずっと持ちつづけていましたが、それをさらに2000年からネットで書き始めた作品の中に絞って考えてみたのは企画「100人の読む本」に参加を決めるだいぶ前からです。ですからどんな形にしろ「本」を作ろうとは決めていました。
そしてすべての作品を俯瞰してみたのです。

すると、ある時期から自分の関心が自然と「光」へと向かっていることに気がつきました。それは本書の「あとがき」にも書いた、京都・嵯峨野の鹿王院というお寺の縁側で、まったくの独りで佇んでいたときに感じた「光がある」という感覚を覚えてからです。目には見えないけれど「ある」と実感できるもの。そのような光にそれから特に注意を払うようになりました。

宗教的なシンボルとかではなしに、むしろ画家のような態度で光を見ていたと思います。まるでスケッチをするように。すると、生活の中に光は溢れていたのですね。画家の光への態度も参考にしました。フェルメールやワイエス、バルデュスなど。
そうして、生活からそういうモノを一つ一つ拾って作品を作っていきました。
日の出から夜の月まで、人工の灯りも含め、街と人と植物と猫と犬と…みな光のなかにいたのです。

この本を作り出すときに、その流れを強調すべく一日の朝から夜までを記す形にするように配置を考えました。しかし、コンセプトというものが作品のよい部分を削ってしまわないように、あえてその並びを書かず、厳密にもしないで、読んだ方に感じていただけるようにしました。

で、ここに至るまで、ゴザンスに書く作品も、ほとんどが婦人公論への投稿作品(入選作品)である詩もすべて「光」を意識して書きつづけました。
その作業は「光函」を作っている最中まで続き、最後に「便り」という作品をこの「光函」のために書き、そしてそれを全部書きなおして作品は揃いました。
「便り」以外のオリジンはほとんどネット上で読めますが、詩のいくつか以外はすべてリライトされています。形を変えるほど書きなおしたものもあります。正直に言って、紙の上になって初めて見えてきた欠陥もありました。

ところで、素敵な表紙絵を描いていただいた竹林さんとはネット上でお互いの作品を知りあったのでした。
竹林さんはぼくの作品をネット上で読みつづけてくれていて、ぼくは竹林さんの作品を高島屋での若手の展覧会や新鋭選抜展などに観に行っていました。
一度もお会いしたことはありません。
会っていない、ということでしたらゴザンスの杉本さんとも一度もお会いしたことはありません。すべてメールの交換だけです。
「光函」はネットだけで生み出された作品です。
ネットそのものが「光函」なのかもしれませんね。

また、ぼくはモノを書く時に音楽をかけっぱなしにする癖があって、「光函」のリライトとか作品を集めだとした段階ではビートルズの「A Day In The Life」をウエス・モンゴメリーのギターで聴き続けていました。
作品の流れを強く意識づけるためもあって…。

ところが初校が始まるころから、ぼくの背後や頭の上からは音楽が消え、紙の上のペンの音、パソコンのキーボードの音だけになりました。
まったくの無音。
モノを書く自分が「Life」になった瞬間だと感じています。

そして今日はコンビニの店長さん(彼女も貴重な読者です)から、「わたしは『缶詰』がすきやなぁ」と言われました。嬉しかった…。
夜の通り流れ出る店の灯りを見ていて、お店が彼女の「光函」のように思えましたね。
そして、今、こうやってPCの前でキーを打っていると、PCもまた「光函」なんだなと思います。
画家たちのキャンバス同様の。

最後にもう一度、編集制作にかかわって下さった皆様とゴザンスのライターのみなさんににお礼を申し上げたいです。
あらゆる意味において、皆さんがいなければこの本はできませんでした。
本当にありがとうございました。

そして、この本を手にとられたかたが、ひとりでも光を感じられますように、
願っています。


西原正WebSite
http://www2.ocn.ne.jp/~waltz







2004年04月04日(日) ぼくは典型的なO型です

朝から雨で、ずいぶん寒くなりました。
今日、お花見だった人は大変だったんじゃないかな。
雨の中の桜を散歩がてら見て歩くのも、なかなかいいものですけれど
桜の下での宴となると、ちょっと辛かったかもしれませんね。

今年はあまり桜を見に行ってません。
忙しくてほとんどどこにも行けないというのが現状。
犬の散歩の時にいちばんゆっくり見ています。

街ではちょうど今、桜、椿、雪柳なんかが咲いていて、チューリップやパンジー、ビオラなんかが家庭のプランターで咲いていますね。
これからツツジがさいてそれから石楠花、夾竹桃と夏の花まで意外と早いです。

その前に5月には待ちかねた薔薇が咲きます。
我が家の薔薇は今のところまったく順調。虫もまだ大丈夫だし葉の艶もいいです。
今年から白と黄を中心にしていくことにしました。で、ハイブリッド四季咲きもさらに5月に加える予定です。ピンクと赤を白と黄色で囲ってしまおうという狙いです。

と、増やし出すとキリが無いというのも事実。今ある薔薇を大切にするのが基本であることには変わらないんです。あれもこれもといっていたら際限が無いですからね。

薔薇も大事ですが、「モノカキ」も大事です。「書き溜めろよ」といろんな人から言われています。
「光函」はいってみればこれまで書いてきたバックボーンがあるから出せたと思うのです。
それからまだ先にいくにはやはり書くしか無いのですが、微妙な言い方になりますが、思い切って「書ききって」いかなければ、と胆に銘じています。
「あたためる」とか「だしおしみ」とか途中で止めるのはどうも性格にあっていないようなんですね。
そうしたものはたぶん全部ボツになってるし、自分の調子もおかしくなってくるんです。最近気がつきました。

イチローのこととか松井のことを書いた事がありますが、性格のタイプとしたらイチローじゃなくて松井のタイプに属する気がします。
その方が自分の力が出せると思うんですよね。
「まず自分」じゃなくて「まず他人」なんです。依存するというのではなくて、置かれた環境の中で自分は(実は作品の登場人物も)どう動くべきか、それを最初に考えた方が力が出る(書ききれる)タイプというか。

だから創造力のキレという点だったら、鮮やかさよりも粘り。閃きよりも反復。どちらがどうというのではなく、あくまでも自分のタイプとして、結局、それが自分を(作品を)活かしているのではないかなと思うときが多いのです。
だけど閃きと鮮やかさにはあこがれますねー。

典型的なO型です。
松井秀喜、中田英寿なんかといっしょです。だから彼らの練習方法が自分にもあっているのかなと推理して(このへんはA型っぽいかな)よく彼らのやり方を読んだり聞いたりしますけれど、彼らに共通しているのは「反復」なんですよね。

それと血液型を超えた性格として大事にしたいのは集中力です。ほんとに切実に大事だと思います。
で、集中するには「捨てる」という作業が欠かせないんです。モノも意識も行動も。
実はこれ、O型が苦手とするところなんだと思います。だから、「捨てる」とか「欲しがらない」ということをしょっちゅう意識してます。
さっきの薔薇の話でもそう。気をつけないと収拾がつかなくなっちゃうから。油断しているとO型の悪いところが出るんです。

と、まるで自分に言い聞かせるような日記になりました。
明日も「光函」をそれこそ「投函」しに行ってきます。
手元にある冊数がずいぶん少なくなりました。



2004年04月03日(土) クラシックのツボ

滅多にクラシック音楽は聴かないようにしています。「ようにしている」というのはツボにはまると動けなくなる怖れがあるから。
実は過去にも何度かあって、そのたびにクラシック音楽以外は何も聴けなくなったのです。

なんというか、ツボにはまるんですよ。いったんそうなったら朝から晩までクラシック。流しっぱなしです。
ベートーベン、モーツァルト、マーラー、シューベルト、ショパン、ブラームス、ドビュッシーなどなど…。それはちょっと自分でもヤバイなぁと思うぐらい、見事にはまります。

で、唯一溺れてもかまわないと自分に許していたのがバッハです。それでもそれほど聴かないようにしてはいたんですけれど。
バッハで一番聴いてきたのは「無伴奏チェロ」です。

最近、その許していたバッハに自ら飛び込み、溺れています。
大事にしていたCDがあって、もうブログのWalkxWalkには感想めいたものを書いていますが、「14canons」と「交響曲2番、3番」のはいったもの。

マルボロ・フェスティバルの40回記念のオーケスラのメンバーによるものです。
なんといっても指揮をチェリスト、パブロ・カザルスがやっているのが素晴らしい。
つい最近、モノを書くまえとか精神状態の調整に、突然これを聴きたいというものすごい欲求が押し寄せてきて、以来ずっと聴いています。

バッハが何故好きなのかなんて分析もしませんが、モーツァルトが好きな人がいるようにぼくはバッハが好きなんです。

ツボにはまって聴く時はもう耳にタコどころか、聴くのがいやになるまで止めません。
いやになったらビートルズからゆっくりと「戻っていく」という感じです。

今日も「光函」の発送作業をしているときも、ゴザンスの800字を書いているときもずっと流しっぱなしでした。

ところでその「光函」、おかげさまでいろんな方に読んでいただいています。
送るたびに問題はこれからだな、と思います。いかに読みつづけていただけるか。ひとりでもそういう人を増やしていけるか、次の作品について考え、かつ書いている日々が続きます。

突然のバッハへの欲求が、ぼくの中の何かの変化なのか自分でもこれから見極めていきたいですね。
なにかが変わったのかな……。



2004年04月02日(金) 「スミス」という猫

ゴザンスのSさんと「光函」をとにかくコンパクトにしようと練り上げた成果を、家で発送の準備をしていてつくづく思いました。
冊子郵便で送れるのです。角7号封筒でぴたりの大きさ。定型外の郵便物だけど、たぶん本を送るにはこれが一番安いやりかただとと思います。

今日はそのSさんからネット販売ページができた旨の通知をいただき、ほっと一段落した気になりました。

さて、昨日から続々と手渡したり送ったりしているのですが、感想第1号もいただきました。
ぼくがネットで書いていることは知ってはいたけれど、しっかり作品を読んだことはなかったとおっしゃる、某私立高校の校長先生です。ご近所です。

開口一番「詩はさっぱりわからない」。
そもそも家の人が婦人公論に入選しているぼくの詩を発見なさってから知っていたというかたです。
「しかし、短篇はええよ。ぼくはこういうのが好きやね」
「うん、あの『スミス』っていう猫の話が一番ええと思う。他の短篇も面白いのがおおかった」
かなり緊張しましたが、あり難い感想をいただきました。
なんだか手前味噌みたいですが、初めての方にそう言って頂けるとほんとに嬉しいです。

「『スミス』空なの?」はゴザンスに書き下ろした超短篇小説です。それをみなおしてリライトしたものが「光函」に収録されています。

と、いうことで学校にも何冊か持って行かれました。

ご近所というと、犬の散歩で出会う方が1冊購入されました。いまごろジャンやハナが出てくるページをご覧になっているかな。

「光函」を読んで「スミス」のファンが増えてくれるといいな、そう思っています。

ふー、なんだか「こわばり」がここにきて、すとんとなくなった気がします。

あとはみんなによんでもらおう!!!








2004年04月01日(木) 完成した「光函」

作品集「光函」が完成した。
本になって手元にきた。
やはりうれしい。その反面、怖くもある。

文庫本主義者や夜の散歩仲間などが次々とやって来ては本を持っていく。
よく一緒に夜の禅寺を散歩する人は手にとって5分としないうちに誤植を発見した…。
彼は実は「校正」にかけてはほとんどプロである。そういう仕事をしてきたから。

文庫本主義者のお姉さんも持っていった。
予約してくれた人、表紙絵を描いて下さった竹林さんにメールを送る。
その間もいろんな人が持っていく。明日は送らなければならない人がいる。
忙しくなりそうだ。

一段落して、こわごわと自分の本をみる。
ぼくの中では原稿が全部あがった時点でフィニッシュだったから、淡々としたものだったのだけれど、みるのが怖くもある。。
表紙を見ているだけだと、うれしくなるのだが。

これが出発。
ここからさらに前に進みたい。

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書店販売はありません。


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