朝はまだ冷たいのだけれど、昼のひなたはとても暖かで、京都の桜もだいぶ咲きそろってきたようです。 今日見てきた人の話では八坂神社や円山公園は満開にちかいそうです。 ただ、鴨川はまだ。うちの近所もまだまだこれからです。三分咲きぐらいですね。
ずっとてこずっている詩があって、それがなんとかカタチになってきました。 それとゴザンスの「ことばあそび」と「テーマ」を書きました。ここのところ800字しか書いていなかったので、ひさしぶりです。 とにかくカタチにまとめたいのと、集中力を奮い起こすためにも精一杯書きました。
本は小川洋子さんの「偶然の祝福」を読んでいます。うーーん、これは…。 以前の日記で井坂洋子、小川洋子、多和田葉子の「三ようこ」の「根源的ネガティヴィティ」という言葉をかきましたけど、まさにそんな感じですね。
「博士の愛した数式」よりも以前の2000年の作品です。 「失踪者の王国」の冒頭の絨毯屋のくらがりとか、「盗作」の少年が潜む部屋の隅とか。小川さんが依拠している地点というのがくっきりとしています。 出発点といえるかもしれません。 モノを書く主人公の姿も頻繁に登場しますし。
この本の連作短篇に比べれば「博士の愛した数式」はあきらかに「前に進んでいる」と思います。いろんな意味で。作品そのものの向かうところがきっぱりとしてきたところなどが。
いま、「キリコさんの失敗」を読んでいるところです。この人の作品というのは何気なく読み出しても吸い込まれていくようなところがあって、好きなんだけど油断できない、という感触でいます。おもしろいということなんですけどね。 魔法のようなところがあるんですよ。
さて音楽はバッハを聴いてます。 今書き進めようとしている掌編を伴奏(伴奏)してくれる音楽を探していて、どうやらバッハ、かなというところです。 無伴奏チェロを今晩聴いてみようと思います。2種類あるんですが、とりあえずヨーヨーマのほうから。
明日の朝は寒いようです。犬ともども気をつけなくては。
ではでは。
2004年03月30日(火) |
雨のなか「へぇー」と言ってたりして |
終日、雨ふりでした。 雨の日はモノを考えるにはいい日なのかもしれません。 作品のこと、いろいろとメモをとったりしてました。
そんなこんなをしていて、たまたま今週号の週刊現代を発見。 著名人が人生の中で忘れられない唄をインタヴューで答える形式の、連載「私の好きな唄」というシリーズがあって それが今週は江國香織さんでした。最近はもう「江國づくし」の感でしたからね、これが「とどめ」かなと思って読みました。
ロッド・スチュアート。 これは作品を読んでいる人ならわかりますね。中学から好きなのだそうな。
童謡。 これも作品中にいろんな歌があらわれて、登場人物が「ひらがな」で歌うので、わかります。今回は「よーくたの歌」 「よーくたずねてくれたねー」という歌。
四季 ヴィバルディですね。これは小学校の給食の時間にかかっていたそうな。給食がいやだったので覚えているとのこと。ちなみに図工もいやだったと。原因はともに「遅かったから」
で、江國さんがファンである二人の歌手 ジュリーと世良公則。(へぇー)
洋楽では シンディ・ローパのDROVE ALL NIGHTと CCR(ひぇー懐かしい)のプラウド・メアリ シェールもお好きだそうな。
「20代の私のテーマソング」として 中島みゆきの「野ウサギのように」(へぇー)
ちょっと意外だったのは長渕剛の「泣いてチンピラ」。(へぇーへぇー) 一押しの唄は歌詞も載るのですが、それがこの唄でした。 「泣いて泣いて泣いてチンピラになりてー」とそういう気分になるときに歌うんだとか。
生まれて初めてチークタイムで好きな男の人と踊ったのがエアロスミスのAngel。 締めはやっぱりロッド・スチュアートで、江國さんは本当に好きなんですね。
江國さんの選んだ唄、他にも家でなっていた唄とかも紹介されているんですけれど、やっぱり「おんなのひと」が選んだ「唄」だなー、と思いました。
そういえばぼくも「この5枚」をまだ書いてなかったような…。人生の節目節目にどんな音楽があったか書いてみようかな。
そうそう、男性読者が大幅に増加しているという彼女の新作「スイート リトル ライズ」が3月下旬に幻冬社から刊行されるそうです。
ぼくが本格的に詩作に戻るというか、ひょっとしたら初めて詩のことをまともにかんがえだしたのは、1994年のころからです。
それまでも詩は書いていました。それはホームページにアップしてあるとおりです。だけど、なにかが今とは違うんですよね。それまでは自然発生的に書いていたのです。だから、考え抜くという作業が半端だったのかもしれません。今だって途上という意識ではありますけれど。
何が一番違うのかつくづく考えて見ると詩に今ほど「一途」ではなかったんじゃないかと思うのです。 昔はとにかく音楽だったんです。何をおいてもまず音楽。今は書くことです。そして読むこと。書く事を常に意識しています。それが大きく違う点です。
ここ2、3日のあいだにまた詩を書くことについて、さまざまな情報がシンクロしてきて少し戦慄を覚えるほどです。
いろいろとあるなかで、金子光晴のことを書いておきます。 ずっと以前から彼の詩は読んできました。だけどひょっとしたら読み方も半端だったのではと思い、本棚から彼の詩集を引っ張り出してきました。 そうしようと思ったのは今読んでいる江國香織さんが、エッセイで彼の詩のことについて書かれていたんですね。 それがぼくの好きな詩集と一致したものだから。「若葉のうた」という詩集です。(『若葉』とは金子さんのお孫さんの名前です) それで再読してみました。
やはり昔とは受ける感覚が違います。言葉の一つ一つから受ける「モノ」が違います。なんだろう、もっと深く詩のなかに分け入って耳を澄ましている、或いは眼を凝らしていることができる。そして聞こえ、見える、そんな感覚です。 ぼくの一番好きな詩を書き出しておきましょう。
花びら
空宙にちりおちる花びらよ。この手のひらにとまれ。 とまったその花びらは、ながめてゐるまにまたどこかへ 風にはこばれて飛ぶ。
愛情はうつろふもの。いのちもたまゆら。また、いかなる所有も、 身辺に堰かれて しばらく止まるだけで、時がくるのを待って、淙々と水音をたてて走り去る。
『若葉』よ。その新しい血にも、出発があり、どこかしらないがゆく先がある。 父も 母も 祖父母も不安げに見送るが、そのゆく先はわからない。 たとひ 幼女の頭脳が、むづかしい代数問題を解かうとしてゐるにしても、 ちりぎわの変化の法則はさがしあてられそうもない。
花よ。できるだけ大胆に、かおりたかく咲け。そして、聡明であれ。 だが それよりももっと嫋やかであれ。
思えば「たまゆら」ということばも金子さんの詩で学んだことだし、 「嫋やかであれ(たおやかであれ)」という願いの意を思ったのもこの詩でした。 女へんに「弱」いと書いて、「たおやか」。源氏物語にも出てきますが、柔らかで、しなやかであれという願い。 「弱い女」という字を使いながら、その内実の自由さと「強さ」を金子さんは知っていたのでしょう。 「たおやかなもの」は強いです。何故強いかというと、命を肯定する側にいるからです。 みかけではありません。
今や、彼が最晩年、マスコミからあまりあり難くない称号をさずけられたことなぞ、霧散しているのではないでしょうかね。そもそも知っている人も少なくなってきているし。 権力への、あるいは権力志向への徹底的な反骨というものは、じつに女性をつうじてのみ表現されたように思えるところがあります。 そして彼の命の中から生まれた詩だけが残っている。残りつづけている。 再読してそんな思いがしたのでした。 金子光晴の詩をいい時に読んだと思っています。
ところで江國さんの金子評は
『金子光晴という人は、潔い人だな』でした。
最初の方で「詩に一途」と書きましたが、それは「イノチに一途」ということだと最近、考えています。
参考・「金子光晴」 ちくま日本文学全集009 筑摩書房 (これは文庫サイズの日本文学全集。寝る前に、旅の御供によろしいですよ) ・「泣かない子供」 江國香織 角川文庫
ここのところ何度も書いてはためらい、前に進まなかった作品が少しづつ前に動き出しました。やっと…という気分です。 書くことはもっとシンプルだったと思い出したのでした。 素敵な話になればと思っています。
それと毎月書いている「心太日記」もそろそろ書き始めようと思っています。 詩のこととか暮らしのことについてのはなしです。
詩のことについて、また考え始めています。 ぼくの書くみじかな物語。ほとんど小説に近いけれど、ぼくは詩を書いている感覚で書いています。飛躍と比喩はないし「物言い」もないけれど詩のつもりです。 そんな詩のスタイルの話ではなくて、詩に込めるものについての話が書ければと思っています。
それともう一つ決めたことがあって、それは生活をシンプルにする事。 3年以上使っていないものは容赦なく捨てる事からはじめます。 もともと物を持たない人だったんですけどね…。いつのまにかぶくぶくといろんなものに埋もれて暮らしています。 財産とかじゃなくて、無駄なもの。服でも本でもCDでも。あるいは自分の書いたものとか。
そういうモノばかり膨れると集中できなくなってくるので…。 モノカキがモノに振り回されちゃしゃれにもなりませんから。
時間の使い方もチェックします。、いろんな意味で無駄なところをバッサリと切ります。本当に大事なことはなんなのか、よくよく考えて。 人間が極端ですから、必要ないことは適度にやるとかじゃなくて、やらない。片付けるのではなくて捨てる。そういう作業です。
書くものがよくなればそれでいいんです。 それで他の方たちと、尊重しあいながら暮らしていくことが目標。 いまできていないわけでは無いんですが、まだまだ不十分だと思ってますので。
月曜からリニューアルです。
風邪をひきました。そしてあっという間に治りました。 自分でも信じられないぐらい治るのが早かった。 まる一日、かな。 こんなのは初めて。たいてい5日ぐらいはかかるから。
ひとつは体がとても敏感に反応したこと。 だから手当てがとても早かったこと。それでこんなに早く治ったんだと思います。
アタマがずきずきして関節が痛み出して…あ、やられたと感じてから、うまく対処できたと思います。 あ、もうひとつ。早く寝たということも。 ついでにもう一つ、風邪をひいて座禅を組むというのを初めてやったこと。 座禅は仏教式の我流です。
つらつら考えて見ると、結局パランスが悪いと崩れていくという、あたりまえのことだったんですけれどね。
一日だけウンウン唸っている間に、ぼくの本棚から「センセイの鞄」を奪っていった文庫本主義者(単行本はぼくのものを持っていくのです)が、これはおもしろいね、と告げにきました。で、この人のお姉さんも久しぶりにやって来て、この人は本と歌舞伎にうるさい人なんですが、京極さんの「巷説」がとても面白い、と告げて帰っていきました。
このような人たちが拙著「光函」を読む、目に見える相手です。ツワモノなんですよね。
風邪が治っていくというのを体感していた午後、出版契約書のはいった郵便物が到着。いよいよ出版です。
来週はこのことで忙しくなると思います。 バランスを崩さないようにしなければ。 いろいろとやることが増えます。 きちんとやらなければ…。
2004年03月25日(木) |
「落下する夕方」を読んで |
1996年、江國香織作品です。 多分どの本でも読み終えたあとには、独特の沈黙があって、読者は物語の余韻を味 わうことと思いますが、この本の読後の「静けさ」はぼくにとって忘れられないもの の一つとなりました。 読後すぐにスピリチュアルな声が無性に聴きたくなって、幾人かの女性歌手の歌を (例えばニーナ・シモンのような)をかけたのも、それはそう、この魂は即刻、癒や され「なければならない」という切羽詰った気持ちがあったからだと思います。 「この魂」とは自殺した華子という登場人物の魂と、そして彼女にかかわったすべ ての魂たちのことです。 あとがきに作者自身が書いています。 「冷静で、明晰で、しずかで、あかるくて、絶望している」 まさにその感情を撫ぜるようにして聴きました。
「引っ越そうと思う」という言葉で始まり、「引っ越そうと思うの」という言葉で 終わる小説です。 人生を時間のスパンで見るならばほとんど瞬間に近い出会いと別れの話でしょう。 しかしその比重はブラックホールのようでもあり、けっしてふさがることの無い傷と もいえる出来事の物語。 華子という女性にかかわった人間たちの、魅了され、振り回され、怒り、呆れ、憎 み、愛した物語。
その心の動きが克明に、丁寧に、具体的な肉体の所作や振舞い、たとえばしぐさや 眼の位置、飲み物や食べ物、音楽から寝相まで、くっきりと記述されます。物語の終 盤近く、彼女の死によって物語が巨視的になりはじめると、その効果なのか、ああ 「魂」というのはこういうものなのだなと感じることができました。
あらゆる言葉、感情、肉体、思考そしてそれぞれに貼りついた風景と時間。その一 瞬一瞬にも見え、なおかつ不可分であるそれらの総体もまたそうだ、と。だから見な がらにして、見渡すことは不可能であり、ただ感じるものであるということを。
そして、その魂が「逃げる」という選択をしたときの、自由と悲惨。しなやかさと エゴ。それはイノセントであることの暴力と美しさでもあり、そして嫉妬と憧れを引 きずっていきます。それは風景を巻きこんで沈んでいく落日に似て、総体としてのみ 感じることのできる「さみしさ」と「解放」のないまぜになった人生の完結でもあり ました。
途中から「あ、この人は死ぬな」と感じました。そう思ってしまう自分をさみしい と思いつつ、華子の死を受け入れることに難渋する主人公に感情移入していきました。 魅力溢れる華子。翻弄される男と女たち。そういうかれら全員の心を感じとるよう にしながら。
主人公(梨香)は華子の死のディテールを徹底的に思い描き、そして彼女の魂の葬 送を彼女なりにやり遂げ、「漠然としたさみしさと寒々しい自由」を自分に受け入れ ます。主人公は現実のこちら側にいよう、と決めたのでした。 「それでもたぶん、生きている人のほうが強いですよ」 半分は嘘だった。
それはまさに 「しずかで、明晰で、絶望している」地点からの一歩として決めた のでしょう。
死と生は平等である。そんな読後感を抱きました。どちらかがどちらかを責めるこ とはできない、と。ただ、ぼくもまた現実の生死を少なからず見つめてきて、「現実 のこちら側」を選び続けている人間です。二項対立ではない視点にたたなければ手に 入れられない「明晰さと冷静さ」。だからこそ導かれる温かい視点。それによって 死を、生をそして他者を思えれば。そんな気持ちでいます。
ディテールの楽しみもまた格別のものがあります。特に歌に関してはものすごく 楽しい小説です。そのぶん哀しみも「いただかねばならない」塩梅になりましたが。 そのさわやかで抜群の文章力とそつのない構成に感嘆しつつ、実に重いテーマにしば し考えをめぐらすことができました。 まるで落下する夕方をみつめているように。
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読み始めはハービーハンコックを聴いていましたが、途中からニーナ・シモンを聴かずにはいられなくなりました。
How long must I wanderや Just like a woman。
それと爆音のようなロックもききたいですね。 本作にはチャー、ピンク・クラウドといった懐かしい音が登場しますが、ぼくはスピード・グルー&シンキという横浜のスーパートリオを思いました。ルイズルイス加部と陳信輝のベースとギター…。 遠い70年代ですが…。
さて、江國さんものも一段落かと。 このまま小川洋子さんへ進むか、それとも久しぶりに男の一人称を読むか。 たぶん、どちらも読むと思いますけれど。 江國さんだって「流しのしたの骨」をもう一度読もうかと思っています。
2004年03月24日(水) |
「試み」はありえない |
恋愛でもそうだけれど、仕事でも作品でも挫折ばかり繰り返していて 自分に愛想が尽きる事はないだろうか。
人生の先達の言葉にヒントをもらい、はっとすることがある。
煎じ詰めれば簡単な事なのだ
『人生に『試み』はありえない』ということ。 答えはつねにでつづけているということ。
そう考える事ができるのと、できないのとでは人生そのものが全然違ってくる。 結果がどうこうではなく。
「試しにやってみる」ということでは何もできない。 最初から「やる」のだ。だから失敗しても立ちあがる事ができる。 「試し」は何回でも繰り返す事ができる。そして、そうしてるうちに死ぬ。
恋愛のゴールはどこか。 二人が付き合い始めた瞬間がゴールだ。 詩を書くことのゴールはどこか。 詩を書いた瞬間がゴールだ。
どのようにゴールを生きるかが問題。 それがゴールだから全力を尽くす。 前提はない。 条件もない。
どんなへんてこりんな状況でも好きなものは好きだし、どんなにいびつでも書いたものは作品なんだ。 誰のために生きているのか。 いや、誰が生きているのか。 自分なのか「世間のための自分」なのか。
覚醒していること。 もう「試し」ている時間はない。
「神様のボート」読了。そのまま「落下する夕方」を読み始める。 引越しの話が終わったと思ったら、次の本の1行目が
「引越そうと思う」
おもわず溜息。そしてにんまり。 江國さんの文庫は山盛りでているのだけれど、文庫本主義者がさらに追加で購入。ほとんどあるんじゃないかな。
その人のすすめもあって「速読」に挑戦中。 できない事はないけれど、味あわなきゃという気持ちが強過ぎたのかな。引っかかったら何度でも読めば良いやと思って、かつてないスピードで読み進めています。
今日も小説家の話が出て、遅筆の人はだめだよというんですよ。プロならどんどん書かなきゃとも。江國さん、ばななさん、などなど女性作家はすごいのに、男は寡作だよね、と。
ミステリだとかハードボイルド系でぼくが強烈に引かれている男性作家のことを書いた事はなかったですね。 もちろん外国だとダントツでローレンス・ブロック。で、国内だと梁石日なんです。強烈です。ただのハードボイルドじゃない。
いつかきちんと感想文を書きたいと思っていますけれど。 彼もそんなに多くは書いていない。たぶん一つ一つが長いからかもしれない。だけど書くことが止まっているわけじゃない。
文さん(文庫本主義者では言いにくいので、これからは「文さん」とします)は、遅筆だとかいって遊びほうけてるような人のはいやだ、というのですが…。 コンスタントに作品を書きつづける人こそプロだ、と言いたいみたい。
「あんたもぐだぐたいってないで、とにかく書くこと!」と一喝されました。
ちなみに文さんが他に購入してきたのはジョン・ル・カレ(これは全部読んでいるようです)と高村薫さんの「リビエラを撃て」。高村さんはどんな人なのか一度読んでみるとのこと。
本を読み出すと、本を読む時間と自分の原稿を書く時間とをどう調整するかですよね。時間は限られてますから。寝る前の1時間と起きる前の30分でもけっこう前に進みそうなので、そういうふうに「決めて」みます。
ところで読めばよむほど江國さんは「うまい」と感心ばかりしています。 ひさしぶりにロッド・スチュアートを聴きたくなりました。聴いたらたぶん15年ぶりぐらいだけど。
それ以外では相変わらずピアノ・トリオ聴いてます。今日はウィントン・ケリーとレイ・ブライアント。もうじきホレス・シルバーを聴きはじめます。
2004年03月22日(月) |
雨の日にお伝えすること |
一日中雨でした。 「神様のボート」まだ読んでます。いつまで読んでるんだという外野からの声もあるのでピッチ上げますけど。だいぶ哀しさの輪郭が見えてきました。 「明晰で、絶望している」しかし…。という小説。 「しかし」の先が読む人によって違うのでしょうけれど。
「光函」の正式な価格をお伝えしておきます。 消費税込みで1,000円ちょうどです。 ゴザンスのネオブックプロジェクトの最低価格。最初からそれを狙っていました。 だからページ数も表紙など入れてちょうど100ページです。 作品は絞り込んでいます。
この本の制作にあたって、知人で短歌をやっているかたの自費出版の本を見せていただきました。同じ程度のページ数で3000円でした。 素晴らしく立派な分厚い表紙にはタイトルの文字だけです。
それを見てから、とにかく一番安くしたくなったのでした。 表紙は日本画家の方が書き下ろしてくださいました。 このことにはとても感謝しています。 初校の段階ですべての原稿を読んでいただいて、感じるままに描いてもらいました。とても誇りに思っています。
積み残した作品はたくさんあります。ネオブックがこの先、どういう展開をなさっていくのかわかりません。PDFによるオンデマンド出版ではなくなるかもしれません。だけど制作費が倍以上になっても続けて欲しいとは思っています。 次は自分から本を創っていくことができればと思っていますので。
そのための作品、というスタンスで、今はモノを書いています。 書くために自分自身の状態を以前にも増して注意しています。 ふかく自分を見ています。 まだまだ、ではあるものの、少しづつカタチはできてきています。
朝から読書です。「神様のボート」。 綺麗なんだけど哀しくもある小説。草子、葉子の物語は続いていきます…。
そうこうしているうちにこないだ貸した「偶然の祝福」が帰ってきました。 この人は読書スピードがものすごいのです。「偶然の祝福」ぐらいの文庫本だと合間あいまに読んでも一日で読了してしまう。 感想は「いい。だけど終わり方が不思議」というもの。「川上さんは小川さんが好きなんだねー」とも。川上さんとは川上弘美さんのこと。 「ミメイさんも小川さんタイプかな」。ミメイさんとは田川ミメイさんのこと。
そんな事を聞きながら、詩を書かねばいけないなと思い、メモを見なおしたり、「寝かして」おいたりしたものを見ました。 でも、まだ無理ですね。
詩はペンを持っていて現れることはないんです。アタマのなかに現れる。 それをメモしておくわけです。 あとはその組み立て。昨日のレオナルドじゃないけれど数学的な要素も必要かも。 俳句も短歌も「数字」が要素としてありますよね。
どう見せるかということです。
音楽はフォロー・ミーやジュピターのような曲が「ずうん」と重く感じると、ピアノを聴きます。ジャズ・ピアノ。ここのところレイ・ブラウンのピアノをよく聴きます。1950年代後半のもの。こんど余裕ができたらホレス・シルバーの旧盤を揃えようかと思ってます。この人のピアノも渋いですよ。
春とはいえまだ寒いです。明日は雨だとか。 詩が書けるといいのですが。
午前のアタマのすっきりしている時間に、「神様のボート」の続きを読みました。 とても気持ちが「冷静に」昂揚して、ゴザンスの800字のメモにとりかかりました。それからスケッチしてみて、原稿用紙に書き、それをPCで清書して投稿。
文庫本主義者は江國さんの作品を読むと、生活のディテールにとても活き活きした眼が通い始めて、何かをしたくなるんだといいます。料理でも、珈琲一つを淹れるのでもこだわりたくなる、と。作品を読んでこんな気になるんだから、江國さんという人はとても「まとも」なんだなんて言います。
ぼくは「神様のポート」のような作品を読むと、生活だとか文章を書く態度なことに「丁寧さ」が加わります。これも不思議なことですが、そうなる事をとても楽しく思っています。ありがたいとさえ。
昨日の江國さんに関する話の続きを今日も少し。 「落下する夕方」(昨日、『夕日』と書きましたが『夕方』が正解です。すみません)のあとがきに作者ご本人が自身の事を書かれていたのです。
…わたしは冷静なものが大好きです。冷静で、明晰で、しずかで、あかるくて絶望しているものが好きです…
で、この人は夕方が好きなんだよね。と文庫本主義者は完全にファンになったようです。今、「主義者」は小川洋子さんの「偶然の祝福」を読んでいますが、江國さんのほうが明るいから好きだといっています。
今、レオナルド・ダ・ヴィンチのとても面白い番組をやっています。 素晴らしい…言葉がありません。
一日はやく、婦人公論の4月7日号が届きました。 「詩フォーラム」のある号です。今回は選に絡んでいないので、井坂さんの選評をじっくりと読みました。今回はとても基本的な指摘がされていて、ぼくも自分の足元を見なおした次第です。
いわく「『物言い』に注意」 どういうことかというと、ある佳作を例にとり、詩にはけして書いてはいけない「物言い」がある、とおっしゃる。 例の詩で作者は「感謝」という言葉を使っています。で、本当に感謝していたとしても素直に書けばよいというわけではないのだ、と。詩は基本的に表現の文芸なので、手紙等の決まり文句、日常生活でのありふれた言いまわしは極力避けてくださいということでした。
ぼくに異論はありません。むしろ、一番気をつける点でもあります。 異論を唱える人もいるでしょうし、最近の歌詞なんかは『物言い』だらけだと思う人もいるでしょう。 いずれにしても詩は井坂さんの指摘されるような「文芸」です。
「そうじゃない」という立場があるとしても別にだからどう、とは思いません。詩を書く本人が詩をどう捉えているのか、ですから。 井坂さんはこうおっしゃります。
日常とは別の次元で詩は成り立っています。たとえ、そこをなぞって書いていたとしても、です。 何を書いても自由なのですが、それは日常生活や身辺に縛られないと言う意味の自由なのですね。 どんな作りものでもOKですが、ただし、単に作ればいい、嘘をつけばいいというものではなく、現実認識の深さが、その詩に投影されていることが条件です。
このことを押さえておくことはとても重要だと思います。詩が日常に埋没していく危険に自覚的であれ、というようにぼくは受けとめた次第です。
井坂さんは国語の教師のご経験もおありだから、なんだか井坂先生の詩の講義を毎回受けているようですね。
ところで今読んでいるのは詩ではなくて小説です。 最初、「号泣する準備はできていた」を読んでいたのですが、知人の文庫本主義者から江國さんならこれを読んだか、といわれ 未読の「神様のボート」にチェンジさせられました。それを読み進めています。文庫本主義者にとって、江國作品の、今のところのベストだとか。 今、「落下する夕日」を主義者は読んでいて、この人はうまい、と感心することしきりです。 そのことでちょっと話し合ったんですが、「品がある」んだという結論に達しました。それこそ『物言い』が極力少ない。つまり詩のような小説。で、ストーリーに「それはないだろう」というところがない。いや、ほんとに。 実にまっとうに「変な人」や「狂ったこと」が、しかもきれいに語られていくんです。
「神様のポート」もかなり狂った話ですけれど、読ませるのですよ。破綻なく、綺麗に読ませます。さすが、というべきでしょうね。 で、このような作品の書き方にはいつもヒントと励ましをもらっている気がします。
小説はもう一つ、今日、婦人公論と一緒に届いた文庫本「偶然の祝福」。小川洋子さんです。「博士の愛した数式」以来ファンになっておりまして、連作短篇集というのにひかれて購入しました。 実は文庫本主義者が小川さんを未読のようなので、へへこれは勝ったぜと思っていたのですが、今日、テーブルの上に乗っている同書を発見。パラパラと読んで「よさそうじゃん」。 持って帰りました…。うううう。
はやいとこ江國さんを読んでしまわねば。
暑いぐらいだった昨日からうってかわって朝から昼に向かってどんどん気温が下がっていきました。夜からの雨は止まずに降り続け、昼過ぎにやっと陽射しが出てきました。それでももう、真冬のような寒さはありません。もう春です。
東京や静岡、また九州のほうでも桜の開花宣言がありました。京都では基準木のソメイヨシノはまだ咲いていない様です。早咲きのものは街中でどんどん咲いていますが。 沈丁花も咲いています。ほのかな香りが散歩の途中、漂っています。
昨晩、今回「光函」を出すことについて、背中を強く押してくれた方と定例の散歩をしました。その時、いつも出る話題なのですが、いかにファンを作るかだよ、という話になりました。
「光函」クラスの本を3ヶ月か半年に1冊ぐらい出したらどうかといわれて、あっとおもったのでした。そういう方法もあるな、と。 ページ数をきっちり100ページに限定して、定価1000円までの小さな本を立て続けに出していくのです。
無論、制作のお金は持ち出しになりますが、そうやって次ぎに買っていただける人を作っていってはどうか、と。
その方とは最低、一年に1冊のペースで出そうか、とは言っているのですが、オファーがない限りは自分で作り自分で売るしかないのは確かです。
あの吉行淳之介氏をして、自分の本は700人の読者がいてくれたらそれでいいんだ、と。それ以上理解者がいるというのが信じられないし、だいたい万以上売れるというのが理解できないと言わしめた本の売上。(綿矢さんの本は100万部を超えましたね。吉行さんの本もだいたい万を超える売上をしていたのですが)
実際に、ぼくの本を固定して読んでくれる人が例えば100人いるとしたら、それはそれでもうすごいことだと思うのです。それだけの人たちから支持されるということは。
今回はだから、本は200部ぐらいは最初から売れるけれど、それよりもファンをつくれよ、と。 結論としてはファンを作るには、やはりいいものを書くしかないのですね。
またねじをきりりと締めなおしたのでした。
ちなみに彼は、「光函」の中の短文というか超短篇が好みです。 一方、知人の文庫本主義者は詩が好み。 どちらも書いていかねば。
今日、「光函」のサンプルが到着しました。 重大な欠陥はありませんでした。
だけど、これからが最後の詰め。 最後が見えて、気が緩むところだけれどここをこらえてがんばってリリースにこぎつけたいと思います。
本そのものは四六版といってとても小ぶりの本。文庫本を一回り大きくしたぐらい。で、価格を一番下に設定したかったので表紙も入れてちょうど100ページ。 オンデマンドはやはり割高になるし、値段にこだわりたかったのです。
ですからとてもかわいらしい本です。自分でいうのもなんですけれどね。
表紙は日本画家の竹林柚宇子さんに描いてもらいました。 滋賀県にお住まいですが、京都、滋賀の若手の先鋭として注目され続けておられる方です。今回、表紙絵の制作を快諾してくださいました。 ひたすら感謝しております。
ぼくの今回の原稿を読んで、そのイメージで描いていただきました。 この表紙絵はぼくの宝です。みなさんにも是非見ていただきたいと思っています。
「光函」の販売のページはもうすぐ出来上がると思います。 今回は書店での販売はありません。(京都の一部の書店でのみ販売)すべてネット販売です。 そちらのURLなどがわかり次第また告知させていただきます。
2004年03月15日(月) |
「光函」いよいよ発売まじか。 |
少し精神的に疲れてしまって 書くことも停滞気味。 ジャズ喫茶のようにジャズピアノを立て続けに聴いてもぴんとこなくて ソロギターを聴いてすっと落ち着きました。
ギターはパット・メセニーの静かなソロギター。 もちろんアコースティック・ギターです。
今日一番ぴんときたのは「We had a sister」という曲。 アルバムは「パット・メセニー・トリオ99→00」。
メセニーにはグループとソロの各名義のアルバムがあるけれど、トリオというのは珍しいのです。とてもジャズに寄った内容で、ギタートリオでジョン・コルトレーンのジャイアント・ステップをやってもいます。
とおしてずっと聴いて、それから「We had a sister」にフォーカスしてリピートして聞いています。
いつも「くくり」の大きな作品のメセニーですが、ぼくは彼の作品ではアコースティックのソロが好きです。 やっと落ち着きました。
小説が2行前進。
文庫本を注文しました。小川洋子さんの「偶然の祝福」。犬が登場するんです。連作短篇集です。
今読んでいる本はできれば書評というか、感想文を書こうと思っています。 海外の作品。短篇集です。
さてと、モンクとコルトレーンでも聴こうかな。
と、以上が昼のあいまにぱらぱと書いていた草稿で、夜になってゴザンスからビッグニュースがきていました。 いよいよ作品集の「光函」のサンプルが発送されたとのこと。 たぶん、内容のチェックは大丈夫だと思います。 一番気がかりなのは、わざわざ描いていただいた表紙絵の色。 綺麗に出ていたくれたらいいんですが…。
発売日が決まり次第、またここにも書きます。
命を懸けてやる いや、やっているうちにそうなっていくことが解かる 命を削りながらやるものなんだろう といわれ そうかもしれないと思う
だけど どう生きても肉体の命は削れていく ただ激しく生きるとそれを実感するときがある というだけ
ものを書くということは、一種の憑依かとおうときもある。 あとで 自分の書いたものを見て とても自分が書いたとは思えない ほとんどそうだ 熱病なのかもしれない 書き終ればひとつ山を越えていくような
いくら「自分」といってもそれは「自分」じゃない 何かを懸命に翻訳でもしているかのようだ 作品は自分じゃないけれど「それ」を選んだのは自分だ
作品と作者は別だからなんでもできる という じゃあ「それ」を選んだのは誰なんだろう
書くべき事柄は偏在している 誰かが言ったように 神は偏在する
意識する… 集中する… それができるのか というよりも 結ばれることができるのかどうか
欲というなら大欲だ どこまでも自分から離れていくこと 命をさしだすこと
そして楽しむこと
さらに前へ
朝の散歩の途中でも、鴉がゴミをあさっていたり、 児童公園にひらりと舞い降りたりしていると、今までにない緊張感が 漂う。
彼らの血の中にウィルスが潜んでいるとして、いつそれが人間に牙をむくかわからない状況だから。 何も起きないかもしれない。あるいは大変なことになるかもしれない。 インフルエンザウィルスの突然変異の方向までは人間には予測不可能だから。
ただ、人間の側からの積極的な方策としてはとにかく免疫系を鍛えること。 「今までになかった人類」になることぐらいしか逃げ道は無い。 しかし免疫系について誰も言及しない。
ウィルスの進化に手出しができないのならば、自らを変えるしかない。変えるというよりも強化するということ。 生きかたを変えるあるいは文明全体を見直すことまで視野に入ってくるのではないだろうか。
それで駄目ならば仕方が無いとおもう。人類の歴史はウイルスとの戦いの歴史でもあるのだから。
そんなことを考えながら鴉を見ていました。 一瞬、シュールな感覚になりながら。
2004年03月12日(金) |
「あいしていると誠実に目で語れ」 |
Charaさんの曲です。 この人のキャリアも長いです。
この人の明確なターニングポイントはあの映画でした。 YEN TOWN BAND。 あれから彼女の歌は肉体そのものが響きだしたという気がしています。 呟きと吐息とリズム。
「あいしていると誠実に目で語れ」がはいっている「STRANGE FRUITS」というアルバムも個人的な想いに溢れていて、彼女の独白を聞いているような 気持ちになります。旧作ですが古さはみじんも感じさせません。 シンプルなロック。
ぼくのなかでのCharaさんのベストは「Junior Sweet」なんだけれど、例の2枚組のライブも凄くいいし、昔のベストものなんか、Tシャツをつくろうかと想うぐらい今でも聞きます。「Chara The Best」。
で、この「STRANGE FRUITE」も凄いのです。実はこれがぼくのベストかもしれません。。 彼女の曲は子供の視点と自分の視点とのダブル・ミーニングじゃないかと思うものが多いんです。 これは自分の愛すべき子供の立場から創ってみた曲じゃないのかなと思うことがあるんですね。
「あいしていると誠実に目で語れ」の主人公を幼児として聴くと、ぞくりとするほどまっすぐに迫ってきます。まるで胎内から響き始まるような曲。 これにつづく「話して尊いその未来のこと」はそのヘヴィネスな演奏も含めて、歌詞が凄まじくつきぬけています。 彼女が「あいにきて…」と呼びかけるのは胎内の子供です。
ジャケットの裏が鏡になっているのも面白い。 で、それを「STRANGE FRUITE」といってしまう感性…。男にはないですね。
Charaという人も一貫して愛にひたむきなんです。 聞きつづけていきたいアーティストの一人です。
マイルス・デイヴィスの「スケッチ・オブ・スペイン」をさっきからずっと聴いています。 伊藤君子さんの「フォロー・ミー」が映画「イノセント」の主題歌になっていることを知ってから、伊藤ヴァージョンとは別にマイルスのヴァージョンを聴いています。
つまり両方ともモチーフは同じ。20世紀のスペインを代表する作曲家ホアン・ロドリーゴの作品、「アランフェス協奏曲」の第2楽章(アダージョ)なのです。 有名な曲です。
伊藤さんの「アランフェス」はスティーブ・ガッドのアドバイスもあってのアレンジ。一方のマイルスは天才アレンジャー、ギル・エヴァンスと組んでの作品。 比べることは位相が違うのでできませんけれど、哀切きわまりない情感をそれぞれが見事に表現しているということです。
ジャズではマイルスのほかにギタリストのジム・ホールの有名な「アランフェス」があります。日本では村治佳織さんのギターが最近では有名ですね。
アランフェスというのはマドリードにある町の名前で、かつてスペイン国王の離宮のあった場所。ロドリーゴはここを散策していて曲を発想したといいます。 第3楽章まであるうち、この切なく哀しいメロディーの第2楽章から作り上げていったと。
「イノセント」のサイトでは伊藤さんのインタヴューも聴けますが、掘り下げ方がさすがです。 日本語になおすとこんな感じです。
輝く海を渡って こちらの世界へ ついてきなさい わたしたちが知っている世界の彼岸が 待っています 夢見ていた世界が 思い描いていた喜びが 彼方に
ただ愛だけがわかる狂気にしたがって ついてきなさい 歓びの夜たちの絶頂を登りつめ 荒廃したすべての時間と涙を超えて 光へ、光へと はいってきなさい
高く、そして遠い世界へ ついてきなさい そこでは我等の内なる旋律のすべてが 空に満ちているのです
ああ輝く沈黙よ 常軌を失えた心こそ自由! 世界が変転を繰り返すうちに 変転し 変転し 落ちていくうちに
意訳はぼくがしてみました。 …怖い曲ですね。
で、さっきから聴いているマイルス=ギルのヴァージョンは切なさとともに闇が見えてきます。黒いのです。ギラリと輝いたり熱風のようにうねったり、乾ききった大地のように、ひそやかな夜の舞踏のように。 サウンドの万華鏡です。
伊藤さんの歌う英語詩はむしろロドリーゴのほうに深く寄り添っている気がしますね。 荒廃した帝国の残像…。 愛だけがわかる狂気… 訳していて背筋がゾクリとしました。
もう少し奥まで進んでみます。 帰り道を確保しながら…。
いきなり暖かくなりました。 殆どの人がセーターだけで歩いていました。 もう、凍えるような寒さにはならないようです。 だけど、さすがに夜になると冷やりとしています。 今日は夜の散歩はなし。 「サカタのタネ」の園芸通信やカタログを見てます。
薔薇の真っ赤な新芽がどんどん出てきています。 また花の季節が始まります。 桜の蕾も膨らんできています。今年は早いかもしれません。
静かな夜です。
2004年03月09日(火) |
21世紀を前にぼくは何を考えていたのだろう |
春が近いです。多分明日は20℃近くまで気温が上がるでしょう。 ところで…。 もし、瞑想や祈りによって何か気づきのきっかけのようなものが宇宙から贈り物のように届くのだとしたら 今日はその日だったと思います。
ゴザンスのテーマや800字で自分の高校の卒業のころのことを無造作に組みたてたり、思い出して書いたりしていたのもきっかけかもしれません。
過去のこと。それもそんなに遠くない。犬たちと暮らしだした頃からなんですが…。 そのころ、なぜかぼくはニューエイジ系のありとあらゆる本を殆ど読み尽くしてしまった時期がありました。山のような量を。
で、ある日からぱたりと読むのが停まりました。まったく読む気持ちが失せて、小説や詩のほうへ戻っていきました。理由は不明。 読みたいように読む、というのが主義でしたからね。
そのころからいまだに読んでいるのは、パウロ・コレーリョとマルロ・モーガンのふたりです。だけどあのころ読み飛ばしていて、精査して読んでいない本があったのですね。それが21世紀が始まってから読むべくサインが送られてきした。
べつに怪しい交信しているわけじゃないですよ。シンクロに気がつくんです。あ、これはあの本のことだってね。 それで読みなおしたのが政木さんの呼吸法の本でした。瞑想といってもいいですね。
もう1冊が、今日閃いた本。突然、川上弘美さんの「センセイの鞄」を読み返したくなって、本棚を探していたら読んだ覚えのないカバーをかけた本があって、これは…とおもって手に取ったんです。 それこそ読み飛ばしてきちんと読んでいなかった本でした。天外伺郎さん。「宇宙の根っこにつながる生き方」。
ふっと思ったのは、やっとこの本を「ほんとに」読めるとこまで来たんだという直感でした。
何度もほのめかしていますけれど、ぼくは瞑想をします。我流からいろいろと。政木さんの呼吸法もあるし、歩くことも書くことも瞑想であり、その延長と言えます。 だからといってぼくの作品がニューエイジ系か、というと全然そんなことは無いんですけれどね。
天外さんというかたは、もちろんペンネームで、実は世界初のCDをフィリップスと共同で開発したり、ロボットのアイボをこの世に送り出したソニーの重役さんです。
ゆっくりと読みはじめ、ああそうだったと思い出しました。21世紀が始まる前、ぼくはどう生きようとしていたのか。 まさに「宇宙の根っこにつながる生き方」です。
宇宙とは愛です。そして表現の根っこには「感動」こそ必要だ、と。 ジョン・レノンも言ってましたけれどね。
それから川上さんの「鞄」をあっという間に再読して、またこの本に帰ってきました。物理学の専門的なはなしもありますが、いまなら理解できます。 この本が出たのが1997年。6年たっての再読は、この本が孕んでいるものの大きさを再認識させました。自分が詩をまた書き始めた理由も無意識の後押しがあってのことなのだということも。
根っこは「感動」。それを思い出したんです。 政木流だけでなく、天外流の瞑想のやり方も丁寧に紹介されています。 瞑想だとか言って大金を巻き上げるセミナーなんか、駄目です。この本や政木さんの本で十分。
瞑想の「魔境」についてもフォローしてあります。「魔境」とは瞑想中に鬼やら悪魔やら、はては菩薩やら仏やらが出てくるというもの。これはヤバイです。 道元は「正法眼蔵」で「仏に会えば仏を突き殺せ」と書いているほど。 オウムのような錯覚におちいるからです。自分が仏だとか言っちゃ駄目なんです。所詮、生身の人間。それ以上でも以下でも無いんだから。
宇宙とつながって生きるための瞑想なのですから。
ついでに悪乗りして、1999年のころのCDを探して、acoのabsolute egoを発見。これの「バラード」は結構聴いたななどと思いながら聴いています。 それにしても「アブソリュート・エゴ」とは、なんと正直な…。白熱して蒸散させてしまいたかったのかな…エゴを。
夜もふけてきて きょうのシンクロの後押しをしてくれた無意識のすべてに感謝しています。 また元気に生きていけそう。
ありがとう。
またしても確認してませんが、たぶん今日が満月でしょう。 あとで月齢を調べます。 今日の月は東の空に現れたときが凄かった。赤い月だったんです。 昨晩は冴え冴えとした白い光を放つ月でした。
今日はプレスティッジというレーベルの旧いジャズばかり聴いてます。 特に2枚を繰り返し。ひとつは「ガーランド・オブ・レッド」レッド・ガーランド・トリオ。もうひとつはレイ・ブライアント・トリオ。ともにピアノトリオです。レイ・ブライアントの方はトリオ名がタイトルになっています。
美しく洒落たテクニシャン、レッド・ガーランドとメロディをとても大事にするレイ・ブライアント。ブルージィというかマイナーを多用するレイ・ブライアントのほうが好きです。
詩のためのメモがなかなか溜まりません。モチーフはあって、それを煮込んでいるところです。いちおう原稿用紙には書きつけてはいますが…。
きょうは伊藤君子さんの「Follow me」も聴きました。やはりさすがですね。 うまいです。これは原曲がアランフェス交響曲。マイルス・ディヴィスもとりあげたスペインの曲です。作詞はこれから調べますが、いい歌になっていました。 あるアニメーション映画の主題歌です。
さてとまた原稿用紙とにらめっこ、始めます。 早く寝てみようかな…。
ではでは。
確認してませんけどたぶん満月でしょう。 凄い月がどんっと東の空に上がった下を、夜の散歩をしました。
こういう晩はやばいな、と思っていたら案の定外猫たちが不穏な動き。 ケンカやさかったり暴れるんですよね。 今これを書いている時点では、我が家の屋根から去ったみたいですが、ついさっきまで大暴れしていました。 猫が暴れるとそれを聞いてうちの犬たちが吠えまくるという、地獄のような騒ぎだったのです。
今日はとにかく寒かった。とてもとても寒かったですね。天気予報では明日の昼ぐらいから気温は上がりだし、火曜日ぐらいには一気に春の陽気になるとか。 そろそろ寒いのにも飽きてきました。
そうそう、今年の薔薇の新顔がやってきました。黄色の薔薇です。名前はゴールデンバニー。なんだかトっぽい名前だけど、最後までつるのピースとどちらにするか迷いました。久しぶりにオーソドックスなハイブリッドティーもいいかな、と。
四季咲きです。5月ごろの開花です。そのころに画像をアップしますね。 暖かくなるといいろいろと庭弄りが忙しくなります。今年は花いっぱいにする予定。もうとにかくいっぱいにするのです。 一度やってみたかったんです。どんな気持ちになるのかな…楽しみ。
さあがんばるぞぉ。
植物園の温室に行きました。 外はみぞれ交じりの寒空。一歩中に入ると気温は20℃を超えています。 あまりの気温差に一瞬、トリップ。そして筋肉がゆっくりとこわばりを捨てていくのが実感できました。 知らず知らずのうちに冬のなかで硬くなっていたのですね。
温室内では、ありとあらゆる熱帯の植物が花をつけ、植物は濃い緑の息を吐いているように思えました。 お目当ては「無憂樹」。 仏教の三大聖木の一つです。三大聖木とは涅槃に入った沙羅双樹、悟りをひらいた菩提樹、そしてその下で産まれたという無憂樹。
麻耶夫人がこの木の下で釈迦を安産で産んだためにこの名前がつきました。 その花が満開だというので、用事の隙間を縫いかけつけ、なんとか見ることができました。 橙色の小さな花が毬のように集まって咲いています。 熱帯特有の肉厚の緑の大きな葉の下は微妙な影をつくつていて、立ち止まってじっとしていると動き難くなる不思議な樹でした。
いつも慌しいのですが、今日も時間がなくて目に焼き付けるようにして帰ってきました。デジカメの画像を貼っておきます。
温室内を、それでもゆっくりと一周しました。ゆっくりとならざるを得ない空気が漂っているのです。 他の観覧のひとたちもかみ締めるように、確めるようにゆっくりと歩いています。 密集した植物たちの「気」が、このうえなく優しかった…。
外に出るとまだみぞれ。それでも家の帰りつく途中から一気に晴れあがり、水たまりに反射する光を浴びながらの帰路も楽しめました。 植物から放射されているもの。今、いろいろと感じた事を思い出しています。
時々どうしても聴きたくなる音楽があります。 生理的に欲しい、というぐらいに。 今日はピアノ・インプロヴィゼーションでした。
それからオウムの「告白」というセミドキュメントのドラマを見て それから今日発売の婦人公論の気になる記事をチェック。 今回はフォーラムは短歌の号なので、自分の作品を気にしなくていいぶん、楽です。
記事のひとつは 立原啓之さんとフジ子・ヘミングさんの対談。フジ子さんの相変わらずの率直な言葉を堪能しました。 立原さんはスピリチュアル・カウンセラーとして婦人公論にもエッセイの連載を書いておられます。フジ子さんは言わずと知れたクラシックのピアニスト。 魂と恋と音楽と …。お話は延々と続きそうです。
もう一つの記事は 羽田圭介くんと島本理生さんの対談。これも短いけれど面白かった。ただいま売りだし中の新進気鋭の二人。 羽田君は明治大学付属明治高校3年。4月からは明治大学に進学します。17歳で文藝賞受賞。綿矢りささんと同じレコードホルダーです。 受賞作の「黒冷水」は底意地の悪いというか悪意の塊のような話の小説なんだけれど、作者はガクラン姿ののとても爽やかな青年。
島本さんは立教大学1年。今年の芥川賞の候補にもなった「生まれる森」の作者。 その前にも「リトル・バイ・リトル」が候補になりましたね。 島本さんの作品は未読。だけどこの対談読んでたら作品を読みたくなりました。 実は、ひそかに作品を書くときに念じる、というか思うことがぼくと同じだったんです。 これは読まねば。
ふたりとも波に乗っているというのが、よくわかります。書くことについての意欲が素晴らしい。そしてなんといっても読書が好き。 つまりは綿矢、金原だけじゃないんですよね。若いチカラは。
二人の強みは「若さゆえの弱点」を知っているということだとも思いました。「経験とネタではかなわない」という言葉を使っていましたが。 ずっと書きつづけて欲しいと思います。
どちらかというと島本さんの作品が気になりますね。 どんな小説を書いているんだろう。早く読んでみたいです。
書く刺激をもらえた対談でした。
2004年03月04日(木) |
サイダーハウスルール |
自分を信じること 信じるに足る自分であること 自分を抱きしめること そして 忘れること
物語は静かに始まり いつか強度を増そうとする 静かな眼をもっていること そして 眠ること
なすべきをなし 事実から眼をそらさない 幸福を計画すること そして 去ること
あらかじめ奪われており 逃げることも死ぬことも愛の手のうちにあって 蒼いエナジーであること そして 愛を継ぐこと
今日のBSのアカデミー賞特集は「恋におちたシェイクスピア」。 ディテールがとてもよくできているのと、俳優陣が抜群の映画でした。これも何回か見ました。 シェイクスピアがいいし、ケントもいい。恋はやっぱり永遠のテーマですね。
今日は雛祭り。 晩はちらし寿しでした。
江國さんの「号泣…」、ノートに感想を書きながら読んでます。さすがに芥川賞の二人とは違います。江國さんを読んでいると、若い二人のよさも幼さも逆によくわかります。物語の孕んでいるものも違うし…。
それと並行してぼつぼつ書き始めているものも少し進みました。 「魚子薔薇」の時はプロットも決めないで、初めて1日最低2枚というノルマで書くということだけを決めて、書いてみました。
今回のはタイトルもモチーフも決めずに書きはじめています。それでも物語は動いていくのかどうか実験しているのですが…。動いていくのですね。
まるっきりのインプロヴィゼーション感覚というよりも、ジャズのモード奏法に倣った書き方ではじめたのがブログの「I‘m getting sentimental over you」 もう少しモードに徹底してみようと思います。
「始めは海だった…」 シェイクスピアのように書き始める瞬間。あの醍醐味はモノカキでなければ味わえませんね。映画を見ていてつくづくそう思いました。
そろそろペンのインクが切れそう。替え芯を仕入れに行かねば。 今聞いている音楽は「Someday my prince will come」 マイルスです。
ではでは。
2004年03月02日(火) |
フィラデルディフィア |
アカデミー賞の季節に合わせて、BSで過去の受賞作の公開が一挙に始まりました。 今日の放映は「フィラデルフィア」。 とにかく、ぼくにとってこの作品は数ある受賞作のなかでベスト1なのです。
なんといってもトム・ハンクスの鬼気迫る演技が凄い。そしてデンゼル・ワシントンも素晴らしい演技をしています。
エイズと死…。死の間際に「準備はできたよ」と語りかけるハンクス演じるアンドリューの顔を、食い入るように見ました。 最初見た時は、とても見ていられなかったのだけれど、2回目からはハンクスの渾身の演技を逃すまいとしています。今日もじっと見ていました。
エイズに対する偏見を打ち砕く人の「良心」。相手を信頼するということの素晴らしさ。美しい家庭の絆、仲間の心。 そして死を見つめる人間…。フォーカスすべきポイントはいくつもあります。
ところで、この映画は音楽が素晴らしい。後半、死期を悟ったアンドリューがパーティーの後、デンゼル・ワシントン演じる弁護士にオペラを聴かせるシーンがあるのですが、このアリアがもう、とんでもなく突き刺すように響きます。
マリア・カラス!!
この人の声は、ほんとうに凄いですね。
2004年03月01日(月) |
BAG‘S GROOVE |
1954年のマイルス・デイヴィスの大傑作。 ジャズの歴史の中ではハード・バップが本格的に動きだしたのはこのアルバムからと言っていいでしょう。
メンツが凄い。マイルス、ミルト・ジャクソン、セロニアス・モンク、パーシー・ヒース、ケニー・クラーク。というセットと マイルス、ソニー・ロリンズ、ホレス・シルヴァー、パーシー・ヒース、ケニー・クラークというセット。
あまりにも有名な盤で、これもジャズ喫茶の定番でした。だけどこのあとクール、モード奏法、そしてエレクトリック・マイルスとすすんでいくと、カインド・オブ・ブルーだとかラウンド・アバウト・ミッドナイトなんかばかりが聴かれ、このバグズも含めたプレスティッジ時代のものは家で聴くくらいでした。
いろんなスタイルがあるけれど、バップやハード・バップのころも「ジャズ」の生命は躍動してます。ひょっとしたら一番…。
1954年というのはぼくが生まれた歳です。その年、ニューヨークにはジャズの若き俊英たちが集結していて、新しいことをやろうとしていたわけです。 それが後から聴けるというのも、なんだか面白い。
昔のLP盤では裏ジャケットにMiles Davis & Modern Jazz Giantsとクレジットがされていました。 ほんとに全員が後のモダンジャズのビッグ・ネームばかり。マイルスがそれを仕切ってるわけです。
マイルスのペットも柔らかくよく歌っているし、若きロリンズのテナーもカッコイイ。 なによりあのモンクがそのまま「偏屈モンク元気一杯」というのがいいですね。 ホレス・シルヴァーのピアノもいいですよ。
全曲いいんだけれど、ソニー・ロリンズのオリジナルが3曲取り上げられていて、そこでの全員の演奏が特に好きです。 と、マイルス三昧の夜であります。
さっきまで江國香織さんの「号泣する準備はできていた」を読んでいました。次に感想文を書きたいのはこの作品です。
一つだいたい20ページ前後の短篇がずらり。 ぼくはこの方の作品を時として散文詩として読むのです。だから、ここで一行アキと架空の線を引いて、連を繋げるようにして読んでいきます。 さっき読み終えたのも最後までそうやって読みました。
文章が皮膚感として感じられるような、そんな気になるひとです。 ぼくが短い文章の作品を書く時、そのスケールとか収め方など、とても勉強になってもいます。
詩のメモもいくつか。掌編のメモもいくつか書きました。 多分この後、マイルスのオール・ブルースを聴きます。どうしても最後は…。
ではでは。
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