みかんの日記
みかん



 冷めつつも

大学進学を踏まえた方法は他にもあっただろうに…
今思うと諦めが早いというか…
それほど熱意が深くなかったのか。

いや、
ハープという楽器そのもの、
その音楽にはとても深く愛情は持っていたのだが…

その先の道を早くも諦めてしまっていた。


音大への道も
アルバイトで夜の弾き語りやテレビ番組にちょいと出るんですよ、と
当時の芸大の学生さんだった人から聞いた親が
やめた方がいいと判断し断ち切られる。

その道に真剣に進んでいる人達に対しては
全く以て失礼な話だし考え方が極端すぎる。

しかしながら今なら反論出来るが
当時は親にそう言われたら言い返す事は出来なかった。


どうしよう…と途方に暮れる。

2010年07月26日(月)



 進路を考える

中学時代の自分の頭の中では
音大に進みたいと思っていた。

親もそれを認めていてくれた。

専攻はハープと考え熱心に習って通っていたが
自分のアンサンブルで演奏活動されるのが目的の先生であって
こちらが考えていた趣旨と違っていた。

中野サンプラザでのコンサートと
箱根の彫刻の森美術館でのサマーキャンプ&コンサートには参加した。

秋には毎年イスラエルやヨーロッパを演奏旅行していて、
学校を休んで参加するお友達も多くいたが
自分の学校では許されず、頓挫。

この辺りから
大学入学とはかけ離れたハープを習う情熱が冷めていく。


2010年07月25日(日)



 聖堂という場所

放課後よく聖堂に立ち寄った。

外から上がる石段には
何故か割れ目に骨が埋め込まれてあるから
踏んではいけない、などとまことしやかに言われていて
慎重に気を付けて登ったものだ。

地下には倉庫のような場所があり
「カタコンベ」と呼んでいた。

カタコンベは地下の墓所の意味だが
お墓ではなかったと思う(^-^;

一度だけ、
シスター方やお友達と何かの用事で入った事があったが
たくさんの聖像が置かれてあり、
薄暗い場所で気味が悪かった。


2010年07月16日(金)



 転ぶ

思えば
昔からそそっかしい子だった。


中学生後半の頃、
休み時間にドッジボールで遊んでいて

…?

はて、
そんな年頃にドッジボールしていたか?(^-^;

いや、確かに中学生だった。
コンクリートの地面で思い切り転ぶ。
足を怪我した。


診療所に行きなさい、と言われて
連れられて行く。


この広い学校…
診療所まであったと知ったのはその時。

ちゃんと厳めしい先生と看護婦さんがいて、
待合室には普通の人達がたくさん待っていた。

今思えば不思議な光景。

あの待っていた人達は一般の住民だったのか?
それとも学校関係者だったのか?



幼稚園から短大まであり、
修道院とホームと乳児院もあった広い敷地。


その後、聖堂(『おみどう』と呼んでいた)でも転んだ。
大理石の床に思い切り足をぶつけた。

その時も診療所のお世話になった。


しかし、幸いにも
今まで骨折した事が一度もない。


骨太に産んでくれ育ててくれた親に感謝♪

2010年07月15日(木)



 勧める(笑)

ギター部の顧問はシスターだった。

まだ、若い20代半ばのそのシスターは
瞳が大きく、鈴のような声を持ち美しかった。
それがちょっと妬ましいと思うくらい。

後に自分の大学の先輩となる。


「フォーク聖歌」なるものをアルペジオで演奏して聞かせてくれたが、
生意気盛りの我々はクスリと笑うだけ。

全く受け入れる気持ちはなかった。

そればかりか
自分の好きなビートルズのアルバムを…
赤の二枚組を持参して
是非彼等の音楽を聴いてくださいと貸した。

うら若き修道女を困らせた小生意気な娘だった(笑)



あのアルバムをシスターは聴いたのだろうか?
だとしたら
どんな思いで聴いたのだろう。


今度また会う機会があったら聞いてみたい。


約一年前の同窓会にいらして
活動の一つとして
時々夜の歌舞伎町を一人で回っているのよと
笑顔で仰ったのを聞いて

大層心配してしまった。



そんな…危ないのに…

シスター、やめたほうがいいですよ、と
言いかけた自分が何だか可笑しかった(笑)


2010年07月14日(水)



 ビートルズに触れる

GAROのセカンドアルバムに
邦訳してあるビートルズのナンバーが二曲入っている。

私のビートルズとの出会いはそこだった。

美しいハーモニーの"BECAUSE"を知り、
オリジナルを聴きたいと
"ABBEY ROAD"を購入。

その素晴らしさに一気にはまってしまった。

その後、GAROは歌謡界に染まったグループとなってしまい、
オリジナリティが失われ気持ちが離れてしまう。


その音楽は勿論のこと、
ビートルズのメンバーの自由な生き方に憧れを抱いた。

いい子でいなければならない、
当時の自分では出来ないものを彼らに見て
自分自身も自由な気持ちになれた。


彼等の映画の三本立は
親から見に行くのを辛うじて許され、
友達と出掛けては
朝から夕方まで足が棒になりながらも
立ち見で見続けた。


"LET IT BE"
"A HARD DAY'S NIGHT"
"HELP"の三本は
私の青春の大切な大切な思い出である。


"ABBEY ROAD"はレコードがすりきれ、
二枚目を買った。

一枚目のジャケットは部屋の壁に飾った。


2010年07月12日(月)



 祖母

母方の実家は学校と同じ駅にあった。

時々立ち寄ったり
そのまま父に迎えに来てもらったりしたものだ。

祖母は小さい頃から泊まりに行った私を
厳しい中にもとても可愛がってくれた。

祖母の懐かしい匂いは今も覚えている。



2010年07月09日(金)



 左利き

生まれつき左利きの私。

ちなみに母も弟も左利き。

字を書くのだけは
幼稚園の頃から習字を習い直された。

あとはほぼ左。

ギターは普通の持ち方。
絵を描くのは左。
定規で線を引くのは左。
左手で消しゴムで消しながら書くことが出来る(笑)


ピアノは初め左手の方を強く弾いてしまい
先生にさんざん直される。

今も困るのは改札口。
つい左手でパスを出してしまうので
タッチする際に身体を捻る形になる。


同い年の従姉妹のいる意地悪な叔母から
「ぎっちょ」と言われるのがとても嫌だった。

これは差別用語だ。

2010年07月08日(木)



 水色の世界

この曲を聴く度に習いに通った道を思い出す。


駅から商店街を歩き
目立たない路地を右に曲がると緩やかな坂道。

両側は鬱蒼とした樹が繁っていた。
まるで樹のトンネルのような道を歩き続けると道が開ける。
高台からのそこは遥か下に電車が走る線路が見渡せる。

左に曲がると尖り屋根のレトロな洋館が。


路地の近くに小さな可愛いレコード店があった。

ここで地球はメリーゴーランド/水色の世界のシングルを買った。


週に一度のレッスンの他に、
日曜日のアンサンブルの練習にも参加するようになる。

2010年07月07日(水)



 ハープを習う

前からハープに触れてみたい、
習ってみたい、と夢みたいな事を言っていた私。

母がとあるピアノの先生の紹介でハープの先生と巡り合うこととなり
この時期、習い始めた。

ハープは銀座十字屋にあると聞き、
早速アイリッシュハープを購入。
製作は国産の青山ハープ。

週に一度、下校帰りにそのままレッスンに通った。

その先生はハープだけのアンサンブルもなさっていて
そこに早く入って一緒に弾きたい、というのが
当時の目標だった。


こうして
「水色の世界」を演奏する夢も実現したのである。


2010年07月06日(火)



 親心に抗う

どうしても好きになれないその先生は
私をお嫁さんにほしいと親に話したらしい。
私が大学を卒業するまで待つ、とも。

有能な男性だから両親からみれば
願ってもない話だったのだろう。
年の差は13。

しかし当時、まだ夢見る中学2年の私にはそんな話は全く解らない次元の事。
降ってわいた災難だった。
月刊りぼんの陸奥A子さんの漫画に出てくる
メガネをかけたアイビールックの背の高い男の子に憧れ、
マークさんの長いサラサラの髪と甘い声に胸ときめかせていた当時の自分。


例え親の意向とはいえ、
いい子でいたいとはいえ、
ビジュアル的にも受付けられない…。
話す共通の話題もあるわけがない。

これだけは言うことを聞きたくなかった。


敢えて親から何も言われなかったけれど
その目論見は明らかだった。



家族旅行に一緒に来た先生とも
殆ど口を聞かず、心を開かなかった。

私が大人の態度でその時を楽しく過ごしていれば
今はまた違う人生を歩んでいたかもしれない。

でもあの独特の…取り繕った雰囲気の中で
とてもいつもの自分にはなれなかった。

嫌なものは嫌だった。

帰ってから親からは怒られた。
怒られても嫌なものは嫌。


その後程なく先生は結婚された。
立派な家柄の奥様を迎えられた。


その後も活躍され、
NTTのS藤会長の弁護も勤められた。
拘置所から釈放された際にテレビで映っていた。

ご結婚後も父とは交流があり、
たまに家に立ち寄られた。


最後に会ったのは
長女を産んで里帰りしていた時。
娘の顔を見て帰っていった。

年賀状は毎年戴いている。


2010年07月05日(月)



 苦手科目

英語は好きという程度で特に得意ではなかった。
中学二年生の頃、シスターから姪御さんに英語を習わないかとお誘いを受けて習い始める。

一緒に習ったお友達は気が付けば皆優秀な人ばかりだった。

週に一度、制服のまま電車を何度も乗り換えて英語を一緒に習いに行くのに
一番の楽しみはお茶の時間だった。

British Englishを教えて下さる先生のお宅のお茶の時間は
お勉強の後にとても美味しいケーキや和菓子を出して下さり、
今日は何だろうね、と話しながら通ったものだ。

お菓子だけでなく英語に関心を深く抱き
自宅の近くの英会話の教室にも通い、
英語に対しての向学心に燃えた。


その一方、理数系はどうも苦手で
(とはいえ人並みの点数は採れていたのだが)
ずっと家庭教師の先生に習う。


最初に小学4年生に習った先生は弁護士になっていた。

直接私と関わりはなかったけれど
父としばしば出掛けて飲みに行ったり
その帰りに立ち寄ったりしていた。

そのうちに家族旅行にもついてくることになる。

2010年07月04日(日)



 電車通学

朝、学校まで車で送って貰うと20分、
電車で通うと約一時間かかった。

他に路線バスと電車という方法もあり、
小学生の頃はこのルートで通った。

電車通学には今でいう○京線、
昔でいう赤○線を利用していたが
これが朝は大変だった。

乗るルートはとても空いているが
終点の目的地で降りると凄い人数の乗客が待ち構えていて、
殺気だって雪崩れ込む。

のんびり降りようなどとしていると
押し込まれてしまい、
外に出られない事になってしまうのだ(^-^;


乗り換えのホームでは
沿線に○鮮学校があり、
朝のホームに先輩方にオス!オス!とご挨拶するリーゼントのお兄さん達が並んでいた。

えらく長〜い学ランがひらめくと
裏地は赤や紫の緞子で虎や竜などの刺繍が施されてあり、
思わず息を呑んだ(^-^;

たまに○士舘の生徒と決闘をしていたのも恐ろしく、
なるべく目を合わさないように通りすぎた。



そんな当時の自分の姿は

背中までの三つ編みに
片手に焦げ茶色の学生鞄を、
もう一方にはギターケースを下げていた時も(笑)

よく持ち歩いて通ったものだ♪

黒いジャンパースカートとブレザーの制服が鴉のようで嫌だったが
卒業してみると、
思ったよりいい感じに見えた(^-^)

帰り道は仲良しのお友達と少しでも一緒に居たくて
いつものルートで帰らず全く違う電車に乗り、
かなりの回り道をして帰ったことが屡々あった(笑)


週二回の家庭教師の先生が見える自宅に帰るのがちょっと気が重い時はよく回り道をして
待たせたものだった(^-^;

今考えると大変申し訳なかったが
自分に出来るささやかな抵抗でもあった。

2010年07月03日(土)



 朝は父と

話が前後するが
小学校に編入当時、
通学は近くの上級生のお姉さんが一緒にお父さんの車で送って戴き
登校していた。


間もなく、
父が朝の散歩代わりにと
送ってくれるようになった。

父を独り占め出来るそのひとときは
自分にとってとても嬉しい時間だった。

ラジオの音楽を聴いたり、学校の話をしたり
私の話を静かに聞いてくれた。
私にとって父は優しい癒してくれる存在だった。


電車で通学した時ももちろんあったが
高校卒業まで朝の父との時間は続いた。

高校三年間の皆勤賞は
父にも同時にあげたいものと思い
心からありがとうと感謝した。


2010年07月02日(金)



 従姉妹がいる

中学と高校は校庭で朝礼がある時など
一緒に行われていた。

高校生のお姉さんがいるお友達が
お姉さんのクラスにGAROの○ー○さんの従姉妹がいるんだよと教えてくれた。


どんな人なのか、興味津々♪

その日から…
高校生のその人を何とはなしに目で探すようになる。


あの人よ!

ある日、朝礼で集まった時に教えて貰ったその人は

スラッとした背の高い、
色白で目の大きな髪が自然にウェーブのかかった人だった。

「エキゾチック」という言葉がぴったりと合う人だった。

自分と同じ制服を着ているのが
奇妙な違和感を抱いてしまうような…
そんな人だった。

2010年07月01日(木)
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