みかんの日記
みかん



 手術

3ヶ月が過ぎて
弟は手術を受けた。


それまで母は半病人のように
睡眠不足と戦いながら弟を看続けた。


手術室に入るとき
目を合わせて声をかけた際に
「クゥン…」と声を出したのが今も忘れられない。


手術後
弟はすっかり健康になった。

姉から見てもとても可愛い弟だった(^-^)

よくだっこしたりおんぶしたり遊んであげた。

ようやく
我儘な一人っ子から
「お姉さん」としての姿が板に付いてきた。

2010年05月27日(木)



 泣かせてはダメ

弟は小さく生まれただけでなく持病があった。

正常の新生児の体重になれば手術が出来
健康になるとのこと。


それまでは
なるべく泣かさないようにとお医者様に言われ
両親は呆然とする。


赤ちゃんは泣くもの。

泣かない赤ちゃんなんていない。

しかし、標準体重になるまで泣かさないようにしなくてはならない。


退院し帰宅してから
母は1日じゅう昼も夜も抱っこして弟を見ていた。
ずっとずっと。

大変そうだった。


さすがに分別はある年齢になっていたので
仕方ない事だと納得していたが…


寂しい気持ちはあった。

2010年05月26日(水)



 そして

両親の長年の念願叶い、
私が四年生になって母に赤ちゃんが出来た。

今度こそは流産も早産もないようにと
家で安静にして横になる日々。

家事は全て家政婦さんがおこなった。

それでも8ヶ月の早産となり、
生まれた体重は1800g。
減った体重は1200gだった。

保育器に入った小さな痩せた血色の悪い赤ちゃん。

それが弟だった。


弟は日曜日の夜に生まれた。


当時は日曜日の夜は
子供にとってゴールデンタイム。

いなかっぺ大将から始まり
サザエさん、
アタックNo.1
サインはV
と8時まで目白押しの楽しい時間。


それが私には大きな事だった。
殊にバレーボールの2番組は見逃せなかった。

ビデオのないこの頃に番組を見られなかったというのは
最新の話題についていけない…
友達の輪に入れないという気持ちもあった。


あぁ、私は何というわからんちんだったのか…。


朝から分娩室に入っていた母の苦悩も解らず
テレビが見たいと言い張った。

潜在的に
間もなく生まれてくるであろう命よりも自分の方にに気を引こうという
最後のあがきでもあった。

果たして
仕方なく家に一旦帰ることになった最中に
弟は産声を上げたのだった。


弟よ、ごめん。


アタックNo.1の方が僕より大事だったんだね、と
後年言われたが…



その時は正にそうだった。

ごめんなさいね(^-^;

2010年05月24日(月)



 姉さん

一人っ子である自分が
「姉さんになる」ということは
ある意味不安だった。

何度となくお姉さんになるのよ、と言われ
母が入院し、悲しみのうちに帰宅し…


しばらく一人っ子のまま
何不自由なく育った。



2010年05月23日(日)



 引っ越し

同じ区内ではあったが
借り工場から自分の家と印刷所が出来て引っ越したのは
間もなく5歳になる時期だったかと思う。

相変わらず留守がちな父だったが、
新しい家での新しい生活は自分にとって新鮮な風を起こしてくれた。

扁桃腺が腫れるのは次第になくなり、
元気に幼稚園のお友達と遊ぶようになる。
ピアノも時々練習イヤとすねる事もあったが
楽しく続けていた。


小学校に上がった頃になって
憑き物が落ちたように父が家庭的になる。

家の中が明るくなり
一人っ子の自分中心の毎日は
本当に心地よいものだった。

有頂天でさえあった。


2010年05月22日(土)



 目のあるもの

自分のものなら大丈夫だったが

小さい頃
目のあるものが怖かった。


他所のお宅のお人形、ぬいぐるみなど


遊ぶ?と渡されると
…固まった(^-^;


目が合うのが怖かったのか?
動き出すような気がして怖かったのか
覚えていないけれど

怖かった(笑)



2010年05月21日(金)



 空白の日々

それからの自分の記憶の中で
両親の修羅場なるものはない。


あったとしても消えてしまっている。


私が一度だけ見た2人の男の子は女性の子供で
父は血は繋がっていなかったものの
男の子の可愛さに心を奪われたらしい。

その後数年間は母と2人の、
或いは遊びに来てくれた叔母や伯父と迎えた、
もしくは祖母の家で迎えたお正月。


幼稚園の合奏でアコーディオンを弾き
そういう発表会には父も一緒に見に来てくれて

頑張ったご褒美に
発表会の後、
ディズニーの「101匹わんちゃん」のロードショーを見せてくれた。

クルエラが怖かったけれど…
嬉しかった(笑)



2010年05月20日(木)



 頼みの綱

母は私を父なし子にしたくないが…
と数年悩んだ挙げ句

実家が家を建て直す際に
貯めていたかなりのまとまったお金を母親に渡した。


自分達の部屋を作ってもらうという条件の下に。


…しかしながら
果たして建て上がった家に私達の部屋はなかった。


まだ結婚していなかったが
母の弟の嫁となる実家に差し障りがある、と言われ
世間体を理由に唯一の頼みの綱を母は失う。


帰り道…絶望の余り

電車に飛び込もうとして

正気に戻したのは私の呼び掛けた声だった。



2010年05月19日(水)



 自分の出来ること

両親が一緒にいるときは険悪な雰囲気になる。

そういう時はどうしたらいいか…

小さな子どもだったけれど
子ども心で
どうするといいかと考えていたのだろう。

笑いをもたらしたい、
いい子になって喜ばせたい。

おどけて笑わせ、険悪な雰囲気を和ませたり
オルガンを頑張って練習し誉めてもらう。

それが自分を認めてもらえること…


無意識のうちにそう考え
行動していた。

2010年05月17日(月)



 知らない街

扉が開くと
そこには私が知らない父の姿があった。

胡散臭げに布団から起き上がり沈黙が。



部屋の隅には男の子が2人。
自分より年上の五歳くらいの子と
同い年くらいの子。
鉄腕アトムの絵本を見せてくれる。


一緒に遊んでいいの…?

ただならぬ雰囲気。


知らない女性は泣き崩れる母を冷たく見つめ


気が付けば知らない街を母と2人で歩いていた。


知らない街は知らないままがよかった。

それは私にとっても
母にとっても。

子供心に
これは大変な1日だったのだと言わなくても解っていた。



私が見た修羅場。



2010年05月16日(日)



 暗い家

若い住み込みのお兄さん達やお電話のお姉さんが居て
出入りが多く賑やかな我が家だった。

しまいには父方の叔母まで住むようになった。

母はおさんどんと仕事の手伝いに明け暮れ
父と語らう時間もなくなり
父は接待で外に行く時間が増え…

家に居ないことが多くなった。

この頃私は三歳。


不安定な家庭の状況を避けるようにか、
母方の伯父や叔母が何かと一緒に出かけて
あちこち遊びに連れていってくれたり、
祖母の家に何日も泊まりに行ったりした。


楽しいけれど
心の片隅ではいつも寂しさが冷たい固まりになって刺さっていた。


父方の親族に母が相談しても
羽振りのいい父のところに嫁に行った腹いせか
全く力にならず、
かえってお前が悪いからだと母はなじられた。


父は男の子が欲しかった。
何回も子供が出来ても
身体を大切に安静に出来ない環境で
流産、早産して死亡を何度も繰り返す。


「男の子が欲しい」と父が願うことは
子供ながらに
自分は望まれていないという劣等感、絶望感を
常に感じていた。

お前が一番。
一番大切。


父からそう言われることがどれだけ自分が望んでいた事か。

2010年05月04日(火)
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