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■ 胡瓜の味の沁みるは(闇リリカル)
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冷たいキッチンの床にぺたりと座り込み あたしは胡瓜を齧り続ける 部屋から漏れる薄明かり イチゴチョコとセブンスターの混じった匂い 深夜バラエティーの安っぽい笑い声 そのすべてに頑なに背を向けて ぼんやり胡瓜を齧り続ける 緑が口いっぱいに広がり 黒が心の底まで染み渡り 白が脳を隅々まで冒す あたしは無彩色の瞳に赤い扉を映し ひたすら胡瓜を齧り続ける 握り締めた左手に食い込む薬指の爪 ベッドの上に散らばる大量のお菓子 来週の金曜日が提出期限のレポート もはやそんなものどうでもよくなって 無心で胡瓜を齧り続ける 2週間前に買った鎮痛薬の白い箱 キャップをなくした小さな剃刀 大好きなうさぎの絵柄の体重計 脆いガラスの壁に入った罅を確かめながら 最後に小さく残った胡瓜をひと齧り
今日食べたものが脳裏にフラッシュバック 朝起きてからさっきまでの十何時間のうちに 口に入れたものが一瞬でまぶたの裏を走る チョコレートが喉を焦がし 海鮮ドリアが舌を焼き 鶏になみなみ注いだポン酢が胃を燃やした 心まで灼き尽くしてしまえたらよかったのだ 何が悲しくてあんなに必死になっていたのだろう 何が 悲しくて
あたしは 何を 欲していたのだろう
レバーを乱暴に下ろして全部洗い流す 涙でうっすら滲む視界 遠く近くに届く微かな耳鳴り しばらく止まる気配のない咳き込み なにもかも消えてしまえと小さく世界を呪う 午前2時の日常未満なできごとに あたしはまたひとつため息をつく
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ひさしぶりに聞いた受話器越しの母の声 もっとずっと話していたいと思ったことなど 帰ってあなたに会いたいと思ったことなど これまで一度でもあっただろうか 丸く尖った声に懐かしさと安堵を覚え 毎回繰り返す同じ小言をうれしく感じ そしてあたしはいつになく素直に受け答えができた いつから忘れていたのだろう 力を抜いて話をするというあたりまえの振る舞いを いつから隠していたのだろう 煙草も剃刀も化粧水も錠剤も携帯電話も過食嘔吐も あなたにだけは決して言うまいと 絶対に 言えまいと
そして気がついたのはごくごくささやかな事実 あたしはあなたをずっと避けていて どこかでおかしな意地を張っていて まっすぐにやさしくなれずにいたのだけれど それが間違っているのだということ ほんとうはあなたをずっと好きでいたのだということ それに気づいたのがどうして今なのか それだけが わからないでいる
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足りないものは物でもお金でもなく 抱きしめてくれる人のあたたかい腕 メールの返事も電話もいらないから あたしを安心させてくれるきみの温度をください あのとき僅かに繋がれた指と指をもっと絡めてしまえばよかった あのとき一瞬だけ触れた手を握り締めてしまえばよかった あのときほんの軽く肩を引き寄せられたのに任せて その胸に身を預けてしまえばよかった
想えば想うほど切なさは増すばかり あたしはまた少し弱くなったことを認めざるを得ない 明かりを落とした浴室に詩集を持ち込んで読み耽り 千年の昔も変わらぬ恋歌に思いを馳せ 携帯の受信履歴を何度も見ては交互に笑顔とため息 幸せなことだよとあの人は言う かわいらしいですよとあの子は笑う たしかに今のあたしは幸せかもしれない でも嘘をついてまで隠したくないのは
きみに会えないことが たまらなくさみしいのだという気持ち
きみへの気持ちにもっと素直になれればいい 誰よりもきみを好きでいるのだと 何よりも愛しくて仕方ないのだと そしてもっとずっと やさしく柔らかく愛したいのだと その想いを ふわりと浮かべるように伝えられたらいい
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2004年11月26日(金)
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