あまおと、あまあし
あまおと、あまあし
 note「魚」 2002年05月30日(木)

観察者である魚は、その鱗に世界の情報を記述してゆく。
海と同義である宇宙を回遊しつづける彼らは、閉じることの出来ない眼を持って自動的記録器官として存在しているのだ。
基本的に魚は魚であり、どんなに小さな個体であろうと、あるいは巨大な個体であろうと、その意識は群として均質化され共有されている。
鱗に蓄積された情報は、全ての個体で共通であり、決して個に特化することは無い。
魚から学べることは一種類。それが、世界の有り様である。

ちなみにこれは余談になるが、眼を閉じることを覚えた魚がいる。
これは世界から与えられた役割に反乱し、成功した数少ない個体であり、彼らは魚でありながら魚ではない。
つまり、この瞼を閉じる魚の鱗をいくら調べたところで、世界の秘密を知ることはできないのだ。
もし諸君らが世界の何らかの事象を調べねばならぬ事態に陥ったとしても、この瞼を持つ魚に手を出すのは。まったくの徒労に終わることは覚えておいて欲しい。

探すならば、記録を蓄積しつづけることに耐え切れず、語り始めた魚だ。
彼は<歌うもの>あるいは<南の魚>と呼ばれる。
各世代に多くて一個体しか出現しない、稀なる魚の王、織り手にその文様を指示する工房主。
称えられる言葉は文献に数多く残されているが、その姿、声、好む海は明らかではない。
一説には南の果ての海とも、あるいは界と界の間の虚空の玉座とも、あるいは人の姿をとり大地を放浪しているとも言われる。
彼を見出すことの困難さを語ることは、先人の文献を紐解けば容易い。
故に私はここで、一つだけ記しておこう。
史実を鑑みれば、魚は求める人間のもとへ現れている、と。
かの偉大なる蓮華の王、界を滅ぼした流浪の剣士、真実全てを心に秘め眠りについた赤毛の母、彼らはみな<南の魚>とめぐり合う幸運を得ているのだ。
君に彼らに互すだけの理由があり、かつ求め続ける情熱があるならば、魚の王はいずこからか泳ぎ来て、君に真実を告げるであろう。


 ユグドラシル 2002年05月28日(火)

探すな
娘達よ探すな

その手にした果実の甘い蜜が
厚い樹皮の下の導管を伝わり吸い上げられた水と
輝く太陽の交接で生み出だされる過程を想像するな
若葉がどれほど透き通っていようとも
花がどれほど芳しかろうとも
実りがどれほど豊かでも

娘達よ
愛でるのは美しく明るく楽しげなものばかりで良いではないか
くちづけ踊り歌い戯れ抱き合い眠れば良いではないか
白い踵を踏みおろし野を駆けていれば
世界は全てお前達のために用意されたもので
お前達がすべきことは笑い声を上げ幸福を誇示することだけだ

探すな
娘たちよ探すな
震える胸の鼓動を誰かに伝えるために
見交わす眼差しとたどたどしい指先の愛撫以外の方法を
身体の表現は確かに陳腐だが
罪深さとは無縁の瞬間の誠実さに溢れている

娘達よ
果樹の根はただ漆黒の暗闇の底へと穿たれ
樹皮の下に陽光が差し込むことは無い
大地の底にあるのは喜びなどではなく
捨てられ積みあげられ省みられることのない残骸だ
躯から吸い上げられた水などに惑わされ
不実な言葉など覚えるな

娘達よ
世界の喜びを語ろうとするな

暗く伸びる根に刺し貫かれた
俺の躯など探そうとするな


 雨に似て 2002年05月26日(日)

煙は真っ直ぐに空へと昇っていました
きっと迷いもしなかったのでしょう
貴女のことだから
トンビが輪を描いていても

緑はまぶしいものと
決め付けていたのは
うつむくことが無かったからで
射抜かれた影を見つけて
めしいたような気持ちになったのです
いまさら
いまさら

本当に今更
思い出してしまって
晴れ渡る日の木陰を貴方と訪れたことを
あれも今日のように
雨の気配の無い日でしたね
山吹を摘む貴方の指は
泉の底の魚のようで
泳ぎださないようにと
必死に握り締めたのです

いつか
真っ直ぐに駆け上りたいけれど
貴方のように迷わずに
ゆけるでしょうか
泳ぎだしてしまった貴方を追って
木陰の暗さを思い出した私に
せめて
鳶のようにゆるゆるとでも

盲いた目を無理やり空へ向け
雨が降らないかと
祈らせてください
少しだけ
少しだけ
雨が降らないかと

雨を









 幻肢(夏の木立) 2002年05月25日(土)

ないはずの場所が痛む
<幻肢>と
夢ばかりを追う私の
幼い脳が生み出した
それは

(痛い)
四辻を過ぎて振り返る
初夏の木陰は目眩がするほど濃い

(痛い)
蝉たちの声に耳を占領される
鳴く為だけに生きる命

祈るために合わせる
歩くために繋ぐ
そんな手は
持ち合わせてはいないはずなのに
迷う
木陰の涼しさよりも
日差しの熱よりも
無いはずの手の
痛み


痛みが確かすぎて

忘れそうになる
足はきちんとあるのに

むこうの四辻のその先の
今は見えないその角まで

手などなくても
……なくても歩けるから




 つれづれ「あれは星じゃない」 2002年05月23日(木)

引っ越してから、未だにカーテンをしないままの部屋で寝ている。
だから、夜の明るさがよくわかる。
満月の夜は明るい。
けれど新月の夜でも、晴れてさえいれば星明りがある。
子供の頃住んでいた田舎は、本当に街灯もない未舗装の道ばかりで、日が暮れてから星明りを頼りに、帰路を辿ったこともあった。
懐中電灯を消して、夜の世界に立って物の形が見えてくるのを、息を潜めて待つ。
それは、心躍る遊び。
少しづつ、夜の生き物になっていく悦び。

  ※    ※    ※

まだ小学校にあがるまえの事だ。
東京から来た従兄弟たちと、祖母の家に泊まった。
その時、5つ年上の従兄が大泣きをしたのだ。
夜、多分花火でもした時だったと思う。身も世もない泣きっぷりで、大人びた都会の少年だった彼には、まるで似つかわしくなかった。
なだめる大人たちに彼が言ったのが、タイトルの言葉。
「あんなの、星じゃない。あれ、何?」
満天の星空、だった。
田舎育ちの私には、まるで珍しくもない、降ってきそうな星。

都会の空は明るすぎて……と落ちをつけることもできるのだけれど。
思い出すたびに、不思議な気持ちになる。

親戚一同が盆と正月に祖母の家にあつまるのは、年中行事になっていて、件の従兄殿はその日までにもう20回ちかく、その田舎を訪れていたはずである。
花火をするのも、その年が初めてだったわけではない。
庭先にテントを張って、子供達だけでキャンプなんて遊びもしていた。
蛍を見に行ったりもした。
彼は、何度も見ているのだ。田舎の夜空を。
でありながら、あの日、彼ははじめて「見た」のだろう。
星の輝く空を。
そしてそれは、幼い私にとってもショックな出来事だった。
見慣れすぎていてなんとも思わなかったその星空を、突然否定されたのだ。
あれは、星じゃない。
星じゃない。
………じゃあ、あれは何?


すぐ周囲に存在していながら、見ていないものは案外たくさんあるのだろうと思う。
子供の頃は見ていたのに、今は忘れてしまっているものもあるのだろう。
美しいものも、醜いものも。
網戸越しに伝わる庭の気配に、意識をこらしてながら。
そんな事を思う。
星月夜の晩には。





 幻肢(夏の遺失物) 2002年05月22日(水)


夏祭り
人ごみにまぎれないようにと
娘の手を強く握って
ひいた

何時の間に俺は
落としてきちまったんだろう
右腕を
娘を
確かに汗ばんでいた手のひらは
遅れがちな娘の重みは
いったい何処へ

よちよち歩きの娘
生まれたての乳臭い娘
おろしたての制服に照れていた娘
マスカラが上手くつけられないと鏡ばかり睨んでいた娘

………どの娘?

花火が上がる
田舎の空は暗いから
花火は都会よりも輝きがつよい
空は明るく燃えて
足元は暗い
きっと都会よりも暗くて
落し物を見つけることは難しい

落っことされた娘は
俺を呼んでいるだろうか
おとうさん
おとうさんどこへいったの
おとうさんおとうさんおとうさん
腕が
娘の重みにたわむ
おとうさんどこへいったの
おとうさん
おとうさん
耳元に確かに娘の息遣いがして
ああ
呼ばれているのだ
父親である俺が呼ばれているのだ
おとうさん
耳元をくすぐるのは風ではなくて
娘の必死な息遣いだ
おとうさん
おとうさん
おとうさん

おとうさん

祭りを締めくくるナイアガラの輝きが
隣にいる女の横顔を照らし出す
白い頬はうつくしく唇は固く結ばれたままで
俺は
一体何処で
娘を落っことして来たのだろう
花火が終わる
輝きが消え女の顔もまた闇に溶ける
帰りはじめた人の流れの中
探さなくては
娘を
右腕を


 カナンの土 2002年05月19日(日)


 土を耕す農夫達よ
 その鋤を止めろ
 黒々と眠る大地を
 掘り起こすな

 土の底に眠るのは
 何も生命の種ばかりではない
 埋めねばならなかった
 幾つもの過去が
 骨のような顔をして
 ほら
 起き上がりそうになっている

 農夫よ
 埋められ
 踏みつけられ
 忘れられる事を望んだ過去に
 何かを語らせることを望むな
 振り上げた鋤は
 お前に返り
 そうして掘り起こそうとするだろう
 お前の肉のうちに埋められた
 幾つもの固い種子を
 
 何故耕すのかと
 起き上がった骨に尋ねられ
 差し出す答えを持たぬのなら
 農夫よ
 土を耕すのを止めよ
 その鋤を
 放り出して


 つれづれ「旬」 2002年05月15日(水)

中信地方から東信地方へ越して、初めての初夏。
○○年間生きてきて初めて、藤が自生してるものだと知る(爆)
てか、うっとうしいくらい藤がそこらじゅうに絡まってるんですけど?
前にいた土地は、高山に囲まれた都市。
で、今いる場所は比較的低い山に埋もれた町。
緑は、近い。窒息しそうなほど。
日々眺める光景のあまりの相違に、そこで生きる人間の考え方もまた異なってくるのだろうかとも思う。
本心を言えば。やっぱりあの街に戻りたい。
私は人に繋がるのでなく、土地に繋がる人間なのだろうと思う。
思い出すのは、人ではなく風景。

今日は筍を飛竜頭と筍ご飯にした。
(でも、実はこのあたりで孟宗竹は成長しないので、地物ではない)
子供の頃なら、近場の山へ出掛けて破竹(はちく)の筍を取ってこれたのだけれど。最近は山菜を採るのも権利だなんだとうるさくて。
破竹の筍を、サバの水煮缶と一緒に煮付けたやつ、食べたいなあ(笑)
でも近場で勝手に筍取れるところないしな、と諦めモード。
揚げ物のついでに、柿の若葉とニセアカシアの花房をテンプラに。
ニセアカシアは、旦那には不評。
……信州では一般的な旬の味だぞ。

こうして。
なんとなく旬の物を身体に取り入れたくなるサイクルが、私の身体には根付いているようで。
普段現実から切り離された私が、現実の身体に気づくときでもある。
例えば電気も通じないような山奥で、畑を耕し狩をして
旬のもの、手に入るものだけを食して生きるためだけに生きるなら
何も見失うことはないのだろうと。
まあ、そう思う瞬間でもある。


 放たれぬ、もの 2002年05月13日(月)


 鎖骨の間でためらいつづけ
 やがて
 かすかに震えながら
 羽虫は指先へと落ちていった
 白い紙の上に
 ほっそりと長い足を伸ばし
 それでも
 虫は迷っている
 
 本当は
 とてつもなく簡単なことで
 この唇を寄せて
 その耳に
 吹き込んでしまえば
 閉じることの出来ない鼓膜は
 小さな羽と共に震え

 あなたが何を聞くのか
 伝わってしまうものを
 確かめるのが
 恐ろしくて
  
 目は閉じることが出来るのです
 机の上に置かれた白い紙を
 貴方が眺めなければ
 私は何も想わず
 貴方は何も知らず
 ただ
 すれ違っただけだと
 そう言い張ることができるので

 紙の上で迷う虫を
 指先で押さえつけて
 けれど
 握りつぶしてしまうことは
 やはりできなくて
 机の片隅に
 重ねられた紙は
 日に日に黄ばんでゆくのです
 

 note「猫」 2002年05月11日(土)

観察者としての立場が明らかな烏(からす)に比べ、猫の調停者としての役割はあまり知られてはいない。
これは猫自身に、調停者としての自覚がないことに由来するのだろう。

先ず第一に断っておかなければならないのは、調停者という役割の特殊性だろう。
言葉の響きから一般的に想起されるような、<争いを静める>という働きはここでは含まれていない。
世界の傾きを押し留め、どちらの勢力も優位にならぬように平衡を保つのが、<調停者>の役割であり、その手段として<狩り>が行われる。
この<狩り>の対象は、相対的善の側にも悪の側にも限定されない。
一件幼く無力な存在であっても、それが世界の傾きを加速させるなら、狩りの対象になるのだ。
(故に猫は全ての存在の敵であり、また味方である)

続いて留意すべきは、彼らの殆どが自らの役割を自覚することがない事だろう。
烏(からす)が観察者としての立場を自覚し、その上で収集家として己の楽しみを追求するのに対し、猫たちの調停者としての働きは、一般的に本能の命令として解説される、衝動的かつ遊戯的な狩りの形で発揮される。
猫たちに尋ねたところで、決して狩りの理由は明らかにされないだろう。
あくまでも、平衡を保とうと欲するのは<世界>である。
そして<世界>の意思に善も悪もあってはならず、故に<狩り>は愛憎によらぬ無意識の衝動として、彼ら猫を動かすのである。

この無意識から命令される<狩り>の、愉悦にのみ目覚め狩人として自覚を深めていくと、恣意的に敵味方を選別し殺戮を行う、<猫又>となる。
逆に無意識の命令の意味を深く思索し、世界の意思の方向を見定める能力を身に付けたものが、調停者の調停者、<猫神>となるのである。
猫神となる例は非常に報告が少ない。
これは神となった時点で、世界の表層での存在が困難になるせいであろう。
あるいは、人間という欲望にのみ自覚的で、世界意識にはとことん無自覚な存在の傍らにあるのが辛いのではという、一部に意見も存在する。

最後に、人間でありながら調停者としての役割を担うものも、歴史上僅かではあるが存在することを記しておこう。
彼らも猫たちと同じく、己の役割に無自覚である。
歴史の流れに止むを得ず流され、剣をとる存在として彼らは現れる。
彼らは<世界>が用意した物語に従い、敵を想定し戦いに向かう。
その敵が決して善に限定されないことは先の例と同じである。
また、猫の狩りよりも大きな流れの上で行われる彼ら<人の調停者>の狩りは、累々たる屍と血の海に彩られる。
故に彼らは望むものを得ることが出来ず、まさしく歴史の傀儡として不遇のうちに一生を終えるのである。




 note「烏」 2002年05月08日(水)

烏(からす)は三界を渡る、とはよく言われる。
しかしそれは人の立場から見た事実だということを、忘れてはならない。
どれほど努力しても、我々<人>には三界しか見渡すことが出来ない。
即ち、烏と三界の関係しか知りうる立場にないという事だ。
真実はこうである。

烏(からす)は、全ての界を旅する唯一の生命である。

これはもちろん、異なる言語体系の全てを体現し、界境を越える際に起こる位相変化に影響されない存在となった<目覚めた者>を除いて、だ。

烏(からす)は全ての界を旅する。
彼らはその漆黒の翼を用いて、論理的真空域を軽々と飛んでいく。
それは一重に、彼らが外界に拠らぬ自己確認を常に保持しているという事であり
、相対的善悪基準に惑わされていないという事である。
おおむね一つの世界に縛られる他の生命にとっては、理解しがたい異端の存在であり、神の使いと呼ばれまた悪魔の手先と罵られるのも仕方のないことであろう。

だが、我々は彼らに学ぶべきである。
彼らはどの界でも常に、あらゆる常識や社会的規範から自由である。
彼らは輝くものを好むが、それは彼らが本質を見抜く眼を持ちえているからである。
烏が好むものは自ら光を放つもの、あるいは他の光を受けて輝きを放つもの。そこに底通するのは輝くことに一心である存在の姿勢である。
もしも機会があれば、注意深く観察するが良い。
烏の集める魂の、その輝きの形を。
他力であれ自力であれ、自らの努力によってであれ環境に押される形であれ、輝こうとする魂には一つの共通点が存在するのだ。


烏に選ばれるような魂であれと、それは難しい要求であるかもしれない。
しかし、烏と同じく、現実と肉に覆われて見過ごしがちな魂の輝きを見出す眼を持つことは、そう難くない事だ。

注意深く、注意深く世界の動きと人の動きを観察したまえ。

 なをつけて 2002年05月04日(土)

 目を閉じ耳をふさいでも
 決して
 見失うことができないのは
 それが
 私と共に生まれたからでしょう

 雨の気配に狂おしく
 歓喜の声をあげる蛙と同じく
 私の身体もまた
 春の苦菜を夏の冷たい瓜を求めてうごめく
 一匹の生き物にすぎません
 それは一つの循環
 大地の上に繰り返される
 物語とでもいうのでしょう 
 けれど
 生命の力を全て使い
 繁殖のための花を咲かせる木々の
 恋の歌をうたう鳥たちの
 熱情の理由を私は知らないのです

 孤独とは
 抗いがたく大地に縛られながら
 放置された心の 
 希求の形でしょうか

 環を転がす見えない手が
 何を望んでいるのか
 なぜ
 この心までも縛り付けてしまわぬのかと
 大地から遠く離れた寝床のうえで
 頬を辿る誰かの指先の
 熱を
 煩わしく思いながら
 それでも
 熱のない世界は寂しすぎると
 身体が泣くので
 すがらずにいられないのです

 厭いながら

 求めるのです

 たぶん

 ………孤独とは

 残照 2002年05月03日(金)


 やがて
 僕は地に引き倒され
 背中で知るだろう
 進んでいく
 時の重みを

  
     「僕らの前には未来しかないね」と
       君と確かめ合ったのは
       今日と同じ
       緑ばかりが眩しい初夏
       あの日やさしかった掌が
       今 僕の目を塞ぐ
       空を見上げないように
       耳をそばだてないように


          あといくつ

          数えることが出来るだろう
          
          明日という

          未来に擬態する固い蕾

         
                     
       



 夢「雨天」 2002年05月01日(水)


彼を殺さなければなりません。
僕は、彼を殺さなければなりません。
振り出した雨の中、硬く抱き合った腕を放して。

世界の王である彼の父は<塔>に昇り、禅譲と共に雷帝となることを決意しました。
雷帝の雷は、まもなく降り出す雨と共に、下されるでしょう。
僕の友の上に。王の息子であり、暗殺者でもある彼の上に。
そして王の座は、花女のものとなるでしょう。
僕は、彼を突き放し、雨の中へ走らせねばなりません。
花女のために。愛する美しい少女のために。

彼は殺すことを悦び、多くの命を奪いすぎました。
例えそれが、父親である王のためであったとはいえ。
命を奪うことを悦びとする者が、王の座に就けるはずはないのです。
美しく優しい花女。彼女こそが、次の王に相応しいのです。

降り出した雨が、頬を濡らして、僕の心を冷やします。
僕が手を離せば、雷はすぐに落ちるでしょう。
彼の身体を焼き、打ち滅ぼすでしょう。
僕は花女の伴侶となり、王国は更に栄えるでしょう。

雨が僕を打ちます。
彼の身体のぬくもりが、僕の腕を暖めます。
彼の孤独を知った僕に、この腕を放すことなど出来るのだろうかと。
僕を信じている彼の眼差しに、花女の微笑が重なります。
僕は、どちらかを選ばなければならない。
どちらかを。


 ※  ※  ※

こりもせず夢記録。
しかも旧泡で既出ですが、記録が紛失しているので再掲。
細かいところは忘れておりますが。
すごく悲しい夢でした。
雨の冷たさと、天へと聳え立つ塔の灰色で無機質な姿が印象的でした。
彼のことも好き、だったんですよ。夢の中の「僕」は。
花女の事もすごくすごく愛してたんですが。
結局、雷帝の権力の及なない国外へと、手を繋いだまま逃亡することを選ぼうと考えた所で、目が覚めました。



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