あまおと、あまあし
あまおと、あまあし
 つれづれ「叫ぶ」 2002年03月28日(木)

文字がちっちゃくって判読できないところは嫌いだーーーー。
カーソールが勝手に矢印になったりするところも嫌いだーーー。
カーソールの周りに変なものを纏わりつかせるんじゃねえっ。
ジャバで凝ったことするのは勝手だが、メインメニューくらいはさくっと表示させろーーー。
ノートの画面は文字が読みづらくって目が痛いんじゃっ。
あんまり激しい色使いはやめてくれっ。

………。
ストレス、たまってるようです。
だけど本当に、文字が小さい上にカーソール矢印で点滅してたりすると、速攻帰ります、私。
どれほどお勧めされていても。

………。
で。
けんかしました。
「俺と別れて独りになるか。それとも、その本とパソコンとゲームを全部捨てるか。どっちだ」
と迫られ。
「…………(んなもん比べられっかよ。そりゃ話し相手居なくなって独りで暮らすのは確かに寂しいかしんないが、それ以前に独りでどうやって生活費稼げばいいかわかんないじゃん。だからって本読むなとかゲームするなとか、死ねって言ってるようなもんじゃん。独りで本に囲まれてるほうが、二人でつまらんテレビみて世間話してるよりもよっぽどマシだよなきっと)………」
この間、沈黙約2分。
自分がどんな表情をしてたのか、知る由もないのだが。
あきれたように言われた。
「………次はないからなっ」
───勝った?

そんなこんなで。


 思い出がたり 2002年03月27日(水)

自分は何処へ行きたいのか。
現実のどこか、ではなくて。

誰かを守るために戦うなんて甘い夢は決して、決して見ることはないだろう。
この先、永遠に。
そもそも、それは「夢」なのだと思う。
誰かのために生きる。
自分の生命が、誰かのために存在する。
それは多分、人が見る最高の夢なのだと。

夢はとうに捨てた。
誰かを自分の生命よりも大事に思えるようになりたいと
もう少し欲張りに
地球上に生きる全ての生命を
愛したいなどと
大それた夢を求めた過去もあるのだけど。
あはは。
馬鹿だね。
……と、笑っちゃうような日々だった。
今、私の目の前にある未来、確定的な未来は「死」で。
そいつの前では、どんな悪あがきも無駄なのだろうと思う。
生きて、成長して、衰えて、終わる。
そこへどんな意味づけをすることも可能なのだけれど。
意味づけをしなければ、それはあまりに空しいものに見えるのだろうけれど。
人は、生まれて、死ぬ。
動物も植物、生まれて、死ぬ。
人以外は、必死に子孫を残そうと努力して、死ぬ。
私は、何も生み出さずに、死ぬ。
そこにはどんな意味も価値もない。


どこへ、行く?
……どこへ、行きたい?

 つれづれ「島唄」 2002年03月24日(日)

 遠くアルゼンチンの地で、THE BOOMの「島唄」がブレイク中だとかで。
 日本語を喋ることの出来ない人が、日本語の歌詞をそのまま歌うのを聴き、不覚にも心を揺すぶられて、ここ数日出てくる鼻歌が島唄。
 影響されやすすぎ。我ながら。

 歌いながら思うのは、「これって沖縄の唄だよなあ……」という違和感。
 そもそも、BOOMは沖縄出身じゃありませんし、何より現代の曲なわけで、厳密な意味での島唄、民謡とは違うんですが。
 それでも、鼻歌を歌う自分の中に、異国の唄を歌っているという感覚がある。
 ウージの花なんて見たこと無いし、浮かんでくる情景も雑誌やテレビで見た借り物の風景でしかない。韓国のアリランとか歌ってるのと、自分的には変わりません。どこかの大地に根ざした、人間の歌。
 結局、借り物の感がどうしても否めないのです。

 信州の中核都市で生まれ育った私が、歌うべき「島唄」はあるのか。
 このあたりがどうしても引っかかって、歌いながらぐるぐる(笑)
 民謡というのは、POPSなんかとは全く違う力があると、年を取って思う機会が増えたのはどういう訳なんでしょう。
 たとえば温泉とか行って、湯船で歌うのにPOPSって全然そぐわない。
 あれは流れてく歌。留まって情念を燃やす歌ではない。
 仕方が無いので、「平城山」なんぞを歌って誤魔化していますが、あれも確か昭和の作品じゃなかったかと。
 あとは高校時代に覚えた応援歌とか寮歌、中でも「春寂寥」でしょうか。
 でも何だろうな、信州で生まれて、そこで育った私の歌であるのかと言えば………?
 どれもこれも、違うなぁと。
 「信濃の国」は歌えるけど、お綺麗すぎて、しっくりこないし。
 木曾の馬子唄もなんか違うし。

 なんでしょうね。
 土地にべったり根ざした人間関係の中で生きるのは勘弁と思ってるくせに、島唄のような大地に根ざした唄が欲しいと思ってしまうというのは。(それも選り好みするし)
 別に誰か他人様と民族的な一体感を通して繋がりたいと願ってるわけでは決してなくて、繋がるならこの信州の大地と、などと痛いことを真剣に考えてるわけですが。
 
 年、ですな。


 
 
 
 
 
 



 (遊び歌) 2002年03月22日(金)


至りまして
梅香り

狐、嫁入りいたします

うららの空に
一筋の
雨雲ゆくが道しるべ
野焼きの原をはろばろと
西の山から東の谷へ
ちょいと濡れるは
ご勘弁

どどうと風が吹きまする
どどんと雷鳴りまする
今日はめでたき晴れの日の
祝いの宴でございます














 祝・復刊「コーンウォールの聖杯」 2002年03月20日(水)

 えー。個人的にはパソコンのディスプレイが故障して、メインで使用していたパソが使えなかったり、それ以前にはシステム停止してみたり大事なゲームをトレイで挟み込んで壊してみたりと、今年はしょっぱなから厄年全開なのですが(爆)
 久しぶりに嬉しいニュースがありました。

「コーンウォールの聖杯」学研から復刊決定

 嬉しいっ。これは本気で嬉しいですっ。
 といっても、この本の続編に当たる「闇の戦い」シリーズ未読の方には、なんのこっちゃな話なんですが。
 以前の日記でも書きましたとおり、「闇の戦い」シリーズは私にとって心の一冊とでも言うべき本で。
 二冊目(実際には三作目にあたる)の「灰色の王」以降でのブランとウィル二人の冒険と友情には、初めて「萌える」という気持ちを覚えたあたりも忘れられない一冊でした。

 復刊記念にもう一度、布教をば。

 ハリポタを読んで、ファンタジーが面白いと思ったあなた。
 次もファンタジーを読もうと思って「指輪物語」を手に取ったはいいけれど、ちと難しくて挫折気味というあなた。
 ぜひ、スーザンクーパーの「闇の戦い」シリーズを!
 面白いです。はまれます。
 ついでにいうなら、ハリポタで萌えてる腐女子の方々にも、自信を持ってお勧めできると言っておきましょう(爆)




 note-N.E,ナビゲーター 2002年03月07日(木)

彼女の49人目を見つけた僕は、メールを出すべきかどうか迷っている。

人の魂にはきっと、消し去ることのできないIDが刻まれているのだ。
それは少しばかり昔に盛んだった、パソコン通信のIDナンバーのように。
ハンドルネームをいくら変えても、晒されてしまう個人識別番号。
例えオフラインでは一度も会ったことが無くても、判ってしまう。

キミは、キミなのだろう?
かつて<愛>と呼ばれていた
LoveでアイでIでラビでラピスで逢木でユウキでガジェットでうさぎでラビットで
とにかく
数え切れないほどの存在を繰り返し経た
キミ

彼女の魂に刻まれたIDは
常に叫びつづけている
「ワタシを見つけて、探し出して」
僕は多分呪いにかかってしまったんだろう。
星の数ほどある投稿サイトの、それこそ宇宙の塵ほどの書き込みから
彼女を見つけつづける
無益な作業を僕は繰り返し
求める答えが得られないたびに生まれ変わる
彼女を見つめつづけてきた

人の生まれ変わる姿というのは
きっとこんなふうなんだろう
答えを探し続けて
どこまでもどこまでも
輪廻を繰り返していくのだろう
誰かに救い出される
その日まで

彼女の書き込みから24時間
だれもレスをつけない孤独な呟きに
僕は返事をしてやるべきだろうか
それとも
彼女ただひとりに届くように
囁いてあげるべきだろうか

ぼくは
キミを見つけているよ








 



 偉大なる児童文学者R・サトクリフ 2002年03月06日(水)

 ファンタジーとは微妙に違うのですが。英米児童文学を語る上で外せない作家。
非常にコアなファンを生んでいるという意味でも特徴的かも。
 受け付けない人には全く受け付けない、ある意味児童文学らしくない、重く暗い作品が多いかな。

 ともしびをかかげて
 運命の騎士
 第九軍団のワシ
 王のしるし
 銀の枝
 子犬のピピン

 ローマンブリテンや、アングロサクソンの時代を主題に取って、子供の世界から大人の世界へと、時代の激流に流されつつ歩んでいく少年(青年)の姿がしっかりと、世界の残酷さも余すところ無く拾い上げて語られます。
 子供には明るく楽しいお話ばかり与えれば良いという考えに、私は全く反対です。
 実際、子供にとって世界は解り易く面白く楽し事ばかりでは無く、理解不能で辛くてしかも圧倒的な力を持つ存在として立ち現れる事もあるのですし。
 そうした状況でも、立ちつづける力というのを、語る物語は必要ではないのかと。
 
 つーかね。
 「シートン動物記」をあんなに面白くない話にした、最初の犯人は誰!って感じなんですけど(はなし飛びました)
 無慈悲なまでの自然の力とか、弱肉強食の掟に逆らいつつも必死に生きる動物の姿をですね、こうすっぽりと抜いて、動物の可愛らしいところばかりを拾い上げた低学年向けの(教科書にまで載せやがって)「シートン動物記」は、あれは犯罪ですって!
 原典約を読んで(当時中学生)、憤った日のことを私は忘れてはおりません。


いやいや軌道修正して。
サトクリフが愛されるのは、やはりその話の暗さ、暗さの中でも生きていく人の強さが、確かに描かれているからでしょう。
というわけで。
私の一番は「王のしるし」
同士少ないです(笑)
普通は「ともしびをかかげて」  
確かにそちらも好きなんですけどね。
人が、何者かとして生きるとはどういう事なのか、他者との関わりの中でこそ生かされる、そのことに返せる答えは何なのかと考えるときに、やっぱりこの作品を思い出してしまいます。

とりあえず「ともしびをかかげて」を読んで大丈夫だったら(笑)
その後に是非、「王のしるし」をどうぞ

 苦手な児童文学「ナルニア」 2002年03月04日(月)

 えー。自分が恥ずかしいモードがどっと押し寄せております。
 詩が恥ずかしいなんて今に始まった事じゃないのに、ついつい過去の自分の詩なんか読んじゃったもんだから…鬱々。ヽ(´ー`)ノ馬鹿です。
 なんかねー。何してんのかしらねー、私。
 お世辞で誉められちゃったりなんかして、そんな筈ないって判ってても嬉しかったり舞い上がったりハイになったりするもんだから、簡単に急降下。急降下。


 というわけで(何)
 今回は嫌いな(苦手な)児童文学。 
 これは児童文学に限らず、どのジャンルでもあるんですが、どうにも作者の考えと自分の考えが合わないとか、あるいは作者が楽しませようと頑張ってるのは判るんだけど、全然心の中に入ってこないとか。
 そんな本があります。
 学校と市の図書館で「英米児童文学」のコーナーに並べられていた本は全て(マジ)読んだ私、ほとんどの本は楽しめました。
 が、この「ナルニア」だけは駄目。
 ナルニアといえば、英国の児童書の既に古典と目される一冊であり、そりゃ信奉者(爆)も沢山存在することは知っております。
 が。
 どうにも説教臭さというか、キリスト教的な教訓がむんむんしてて、吐き気がしました。(ちゃんとシリーズ全部読破しております)
 アスランとか、憧れる要素を持ったキャラクターはいたんですけどねー。どうにもこうにも。世界はたまねぎのような構造になっていて……のあたりとか、面白いとは思ったんですが。
 こればっかりは、相性としか言いようがありません。

 これと同じような理由で苦手なのは、梨木香歩「裏庭」
 確か書店でおすすめポップが立ってたり、帯の推薦文がえらく誉めてたりしたので買ったんですが。
 うーーーーん。
 です。うーーーーーん。
 やはし教訓的過ぎるというか、話が作り物くさいというか。
 面白くなかった。というか、日本の作家が書く児童書の類型から、どこもはみ出ていなかったというのが正直な読後感。
 荻原規子とか、さとうさとるとかは好きなんですけどね。

 つか、日本の作家の書いた児童書って、物語世界が弱くって、話に入り込めない傾向があると常々感じてたり。
 いったい、同じようなディティール、同じようなテーマで物語を作っていながら、作品世界からむんむんとエネルギーが立ち上がっているものと、まったく作られた模型みたいになっちゃうのと、何処が違うんでしょうかねえ。
 謎、です。
 つか、自分の書いてるものが、全部後者の気が。いえ、気のせいではなく。


 せ、世界を救う? 2002年03月01日(金)

 再び「指輪物語」のオハナシ。
 映画はおそらく見に行かない……のは、心の中にとっても大事なものとして仕舞われている中つ国のイメージを壊したくないから。
 というのもあるんですが。
 あの、映画のキャッチコピーと言うんですか? 
 テレビでしょっちゅう流れているやつ。

「その指輪の持ち主が、世界を救う」(←えらくうろおぼえ)

【怒】「ちっがーーーう!!!」

 と。あれを聞くたびに全国放送で訂正を入れたくなるから。
 違うんです。フロドが世界を滅びから救うんじゃないんです。いや結果的にはそうなったんですけど、でも指輪の話の流れは違うんです(涙)
 あうあう。いや、詳しく書くとネタバレなので未読の人にはアレですし。
 「指輪」は確かにRPGゲームの元といえますが。
 いわゆる勧善懲悪の英雄物語とはチガウ……ハズだったんですが私の誤読でしょうか(汗)
 最終的に、英雄としてあがめられるのはお供だった筈のあの人とかあの人。
 フロド君の最後は、なんつーか読了後何年も心を焦がすような黄昏っぷりで、それが「指輪」の素晴らしさでもあるんですが。
 あの微妙に自分の認識とずれたところにあるキャッチを耳にするたびに。
「見ねえぞ」
 と決意するのはへそ曲がりな私なのでしが。

 つか。
 凄い売れてるという評判だけで「陰陽師」をまとめ買いしてきたあげく、「つまらない」とか言って、そのくせ「でも全館揃える」と訳のわからない主張をする身内が、おそらくきっと今回もテレビとか雑誌の評判につられて見に行ってるであろう事への対抗心、かもしれません(をい)
 そうやって、世間の評判とか雑誌の特集に騙されてんなよなーって。
 会うたびに言ってやりたくなるその人に、ワイドショー乗りで「指輪」の話を振られるのがイヤなのでした。
 もっと自分の感性を信じろって。

 
  






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