そばを食べる侍が、見つかった。 池波正太郎先生のあと、小説の登場人物がそばを食う小説を探していたが、見つかった。山本一力先生がその人。 嬉しいので、まず、先生のエッセイ集「おらんくの池」から、一篇を全文、引用させていただく。
一枚のザルそば
生まれて初めてザルそばを食べた日は、昭和33(1958)年2月18日だ。 雨降りの寒い日だった。 「きょうでおまえも十になったきに、おとなのもんを食べさせちゃろかねえ」 こどもには大き過ぎる番傘をさし、足取りを弾ませて母のあとを追った。 その当時は、こうもり傘よりも、番傘のほうが安価だった。雑な拵えの傘は、紙の張り方がわるい。竹の柄を伝って、雨が垂れ落ちてきた。 柄を握る手に雨の冷たさを感じつつも、なにが食べられるかを思つて気持ちが高ぶった。 仕事に出る前の母に連れて行かれたのは、高知市内の『湖月』という和食屋さんだった。 ザルそばが出てきたとき、盛られた形の奇妙さに驚いた。 高知はうどん文化圏である。麺といえば、ネギと小さなカマボコの載った『素うどん』か、 煮た揚げの甘みがこどもには嬉しい『きつねうどん』のいずれかだ。 その日まで、そばを食べたことがなかった。しかもザル敷きの器に、そばが載っている。 「おつゆにつけて食べなさい」 教わった通りに食べた。こどもの口には、そばの旨味などは分からない。あっという間に食べ終わった。 わたしは、ザルの下にもそばがあると思って取り除いた。母は周りの目を気にして、こどもをたしなめた。 物足りなさが残った十歳の誕生日以来、わたしはザルそばには近寄らなかった。 故・柳家小さん師匠は、そば食いのフリの名人である。小さん師匠の高座を見て、遠ざけていたそばが好きになった。旅行会社勤務時代だったから、一九七〇年代初めの二十代だ。 「つゆにドボッとつけるのは野暮。ちょいとつけて、口にたぐり込むのが粋」 師匠はこの食べ方を、まくらでよく話された。わたしはひたすら真似ようとした。 ところが当時の勤務先近所の蕎麦屋は、つゆが薄くて甘かった。ちょいづけで食べようにも、味がしまらないのだ。仕方なく、そば猪口からつゆがあふれ出そうなほどに、たっぷりとつけた。 師匠に見られたら、野暮だといわれるだろうなあ……などと思いつつも、ちょいづけはできなかった。 「すごくおいしいおそば屋さんをみつけたから」 妹に『吾妻橋やぶそば』に連れて行かれたのは、奇しくもわたしの誕生日。母親に初めてザルそばを食べさせてもらってから、四十年目のことだった。 職人がご主人で、器量よしのおかみさんが接客をする、小体な店だ。わたしはこの店で、初めて小さん師匠の言われた食べ方ができた。細打ちのそばは、器に盛られたあともまだ瑞々しい。薬味は刻みネギとわさび。そば猪口につゆを入れて、わさびを溶かす。 池波正太郎先生の随筆から学んだ通りに、盛られたそばの真ん中を箸でつまむ。こうすれば、そばはもつれず、きれいに持ち上がる。 わたしはいわゆる「そばっ食い」ではない。知識もなければ、名店を食べ歩いているわけでもない。が、小さん師匠が言われるところの、粋な食べ方には憧れを抱<ひとりだ。 吾妻橋やぶそばのつゆは、見事にからい。しかしそれは、旨味に富んだからさである。 箸で持ち上げたそばの、下三分の一ほどをちよいづけし、そのままたぐりこむ。 そばとつゆとが、口のなかでまざりあう。ネギの尖った味と、本わさびの丸みのあるからさか、さらに美味さを引き立てる。 この店のつゆにドボッとつけようものなら、相当にからいそばを食べることになる。わたしは労せすして、ちょいづけを体得できた。 よろず食べ物は、味だけでなく、それにまつわる思い出をも一緒に楽しむものだと思う。 ザルそばを初めて食べたとき、喜びはなかった。しかし母は、乏しいカネをやり繰りして、 精一杯の誕生祝いをしてくれた。それに思い至ったのは、罰当たりにも、母の没後である。 吾妻橋やぶそばで絶品の一枚を口にするたびに、わたしは亡母を思い出してしまう。
山本一力先生について調べてみた。
「博報堂、WEB本の雑誌[本のはなし]作家の読書道」 http://www.webdokusho.com/rensai/sakka/michi21.html
山本一力(やまもと・いちりき)
1948年高知県生まれ。都立世田谷工業高校卒業後、様々な職業を経て97年に「蒼龍」で第77回オール讀物新人賞を受賞。2000年に初の単行本『損料屋喜八郎始末控え』(文藝春秋刊)を上梓、01年に『あかね空』(文藝春秋刊)で第126回直木賞を受賞。その他の作品に『大川わたり』(祥伝社刊)『はぐれ牡丹』(角川春樹事務所刊)『蒼龍』(文藝春秋刊)、エッセイ『家族力』(文藝春秋刊)がある。最新作は『いっぽん桜』(新潮社刊)。
|