ここ数日トマトを植えた庭に小さな穴のようなものができている。 その数もはじめは二つか三つで「ん、なんか変だな?」って感じ。 それが、日を追う毎にな〜んか大きくなっているし、数も増えているような・・・ おかしいなと思いながらも忘れていたりした。 けど、今朝のこと。 よく見るとかなり大きくなっているし、5個くらいに増えている。 穴といってもなんか丸い感じでモグラのように下から突き上げているわけじゃない。 どう見ても、上から何か小さなものが乗っている感じ、 正確にはくぼみだろう。 お昼過ぎに何か外でかさこそと騒がしい音がする。 あ、そうだと思ってカーテンに近づくと、なんとそこに入っていたのは”すずめ”だった。 そうだ、そうなのだ。 実は心の先っちょのほうに小鳥だよと囁く声が聞こえていた。 でも、実際に見るまではねえとささやきを消していた。 やっぱり小鳥だった。 すずめだったのだ。 雀たちが連れ立ってやってきては、 暑さをしのぐために土の上におなかをくっつけてひやしているので そこが丸いくぼみになっていたのだ。 人の気配を感じてあっという間に飛び立ってしまった。 しばらく次にやってくるのを待ってみた(暇だと思われそうだけど) 15分もたった頃に・・・来た。 カメラを構えてちょっとにじり寄った。 だめだ。 ガラス窓の内側なのに、さっと飛び立ってしまった。 辛抱強くあと5分待ったけどこない。 穴(くぼみ)は、大きさがいろいろだ。 日ごとに大きくなっているわけだから、すずめ一羽一羽で自分の場所が決まっているのだろう。 前日作った自分の場所に入っておなかをこすりつけると言う行為を毎日続けていたに違いない。 ほんのちょっとの涼を求めて、工夫をしてるすずめ、 思い思いにくぼみの中にちょこんと座ってる様はとても愛らしい。 一枚でいいから写真を撮りたいが、撮れるだろうか?
私たちが昔から使っている言葉に”荼毘に附す”というのがある。 大きく捉えてお葬式全体をさしている。 その言葉だけを取り上げると荼毘というのは火葬という意味だ。 その昔、亡くなった人を自分たちの手で火葬を執り行う。 わら束や木切れを、できうる限り沢山積み上げてその人の魂が高く高く天に向かって昇りやすいようにし、火をつけるのだ。 そうして、その火が立ち上る煙となり高く高く空に吸い込まれていく。 その煙に乗って魂は天に昇っていくと信じられていた。 私が子供の頃になくなった祖父のときは、もう火葬場があったが、やっぱりその煙突から白い煙がいつまでも昇っていくのを見て祖母や母がじっと手を合わせていたのを覚えている。 それを見る私たち子供もやっぱり手を合わせずにはいられなかった。 さて、中州次郎さんのお兄さんは、6歳のときに心臓弁膜症でなくなったそうだ。 「お迎えが来ているから、窓を開けて」 お母さんが少し窓を開けると 「お迎えの行列だ。じゃ僕は行くよ」 と言って、亡くなった。そっと窓の外を見たが次郎少年には、お迎えの列は見えなかったそうだ。 お葬式は、火葬場がないところだったので、浜辺に長方形の石が置かれていてそこに小さな棺を置き、おがくずや柴木やそだでおおい、くくったわら束を傘のように開いてこづみ、その上にもいくつもいくつも収穫時の稲小積みのようにつんで行く。 そうして、重油をまいて火をつけた。 そしてお兄さんの好きだった「鐘の鳴る丘」を家族で訥々と、とぎれながら歌ったそうだ。 完全に焼けるまでには朝までかかると言われ、次郎少年は良く覚えていないまま家に帰った。 翌朝、浜辺に出かけていったお父さんは、すぐに戻ってきて、 「まだ、心臓が燃え残っていた・・・もう一度火をつけてきた」 と、お母さんに悄然として伝えていた。 それから時が移って、 お兄さんの50回忌も終わり、お父さんの7回忌が今年だそうだ。 わが子の焼け残った内臓を見た父。 どういう思いで再びわら束を小積みあげたのか・・・。 今も、田舎の砂浜に立つと、あの時の赤々としたほむらが、 私の瞳の奥で屹立する。兄が、行列の牛車に乗って衝天して行く姿が見える。 ♪緑の丘の赤い屋根 とんがり帽子の時計台 鐘が鳴りますキンコンカン メーメー小山羊も啼いてます♪ やさしいメロディーの童謡なのに、なぜか悲しい響きがあるこの曲、 今でも、この歌に遭遇すると感極まると書いてあった。 人の死と言うのは、これほどつらく悲しい、そして崇高なもの。 裁判で、あれこれと作り話のようなものを持ち出して それらしくストーリーをつなげて行くのを聞くのは耐えられない。 怒りで吐き気さえ覚えるようなストーリーはこれ以上積み上げないでほしい。
テレビだったか新聞で読んだかしたので、試してみた。 イメージや関連する言葉を入力してとあったので、 思いつく言葉・・なぜかコゼット(笑) やってみたら出てきたのはイメージと違うコゼット達で私が瞬間に想像したものではなかった。 あはは、 「レ・ミゼラブル 」のコゼットは、トップには出てこないんだ。 もう、時代が違いすぎてしまったのか、それとも私の頭が昔に返りすぎたのか。 ほかにもいろいろ試してみた。 連想したものは岩窟王(笑) (正しくは巌窟王だけどこちらはもっと少なかった) やっぱり違う。 イメージした言葉が検索機能に対して違いすぎたみたいだ。つまり古すぎるのかも。 養老孟司さんのヒット作「バカの壁」を入れてみると、関連作がずらり。 使い方によっては、がっかりの部分(内容の表示が許されないものもある) もあるが、似たような種類の本の中からどれを選ぼうと悩んだときに内容がある程度わかるのはとても良いと思う。 一番いいのは本屋さんへ出向くのがいいのだけど、かえって迷いすぎてしまって決心がつかなかったりする。 少ないお小遣いの中で買うわけだし、あれこれ品定めする段階で楽しくなるし、 買わずに、ちょっとだけでも読んだ気分にさせてくれるだけでも嬉しいような・・・得したような、だ。
昨日の散歩のとき、すぐ側から鳴き声が聞こえる。 きょろきょろ探すとすぐ脇の角材に止まっている。 ちょっと待ってねと囁きながら携帯でパチリ。 今日は梅雨明け宣言、せみやカラスアゲハが忙しく活動を始める。 空港のラウンジがすばらしく素敵な癒しの空間になったそうだ。 もともと、 特別に選ばれた人種?のため(言いすぎかな?ちなみに私は一生恩恵に浴することはないから(笑))に作られたラウンジ、もっともっといろんな設備ができたそうだ。 考えようによっては、長い期間一生懸命働いて定年を迎えた団塊世代が(好きな言葉ではないけど) 自分へのご褒美と、ファーストクラスに乗って海外旅行に行く。 そんなときに、早い時間から空港に行って現在を超越したゆったりとした時間をすごす。 それもいいかもしれない。 でも、それって何度もあるわけじゃない。それに、突然そんなところに行っても落ち着かないよね、多分・・ やっぱり特別なお金持ちの人のための特別な空間だ。 航空チケット、 いまや、誕生日割引さえ廃止されてしまって、安いチケットを手に入れるのも難しい。 期間が決まった割引はあっても、そのときには都合がつかずと、うまくいかなかったりする。 ちょっとくらい、中流以下の人種にも楽しみを残してくれたっていいと思うけど。 でも、 これって、お金のない私の単なる僻みかなあ・・・ ”若いときからきちんと計画的に” なんて、どこかのキャッチコピーが聞こえてきそう・・・
家の庭にはカラスアゲハがせっせと通ってきている。 大きな羽をゆったりと羽ばたきながら一日花を次から次にまわり蜜を吸う。 この蝶が通うようになると夏の始まり。 しかし、今日はまだまだ梅雨の続き・・・たっぷりの雨だった。 普段、何事もなく、暮らしていると自分の状況がどれほど恵まれているかなんて考えることもない。 人なんて、ほかと比較して自分はこうだからなんて、言い訳ばかりして暮らしてる。 変化がないことがつまらないことなんて贅沢ばかり言ってる。 生きるって、その積み重ねなんだよ。 何かできることあるかもしれない。
新潟や長野の地震は、報道を見るにつけ涙を誘われています。 これ以上の災害に発展しないよう祈るばかりです。 今、恋文や、サラリーマン川柳などが巷で楽しまれているが、そんなコンテストの中に、 「愛するあなたへの悪口コンテスト」というのがある。 去年の大賞に選ばれたのは ”私の夢のサスペンス あなたは何度も死んでいる” だったそうだ。 読んでる私は、うふふ、さもありなんと、思わず胸の奥のほうに訊ねてしまう(笑) これを書いた人の気持ちを勝手に察するに、 本当に夢の中で死んでしまっているあなたに対して、 仕方がないわね・・・なんて冷たい視線を向けているわけでない。 あなたのせいよ・・なんてうそぶいてそばを離れるわけでもない。 思わず手を差し伸べてみる 「暖かい、ああ良かった、夢だった。」 なんてほっとしながら、夢にまであなたは出てくるのね・・なんて 笑っているのかもしれない。 ちょっと切なすぎるかもしれないなと思ったのは、第一回の大賞。 ”冷たくなったあなたの心 寝てる間に取り出して そーっとレンジでチンしたい” だった。 そうよね、なんでもレンジでチンすれば暖かくすることができるこの時代だもの。 手助けできるんだったら、高機能のレンジを届けてあげたい。 そして、反面私だったら、そのレンジが壊れるまで使って後は、 別のレンジを買い換えるのもありって思ってしまうけど。 今年の大賞は ”寝言では かなりの亭主関白らしい” これにいたっては、悪口っていうよりは、愛するあなたへの恋文って言うほうがあたってはいないかしらね。 妻の側の余裕たっぷりの目。ある意味、最高の夫婦円満の秘訣のようにも思えるし(笑) このコンテストを紹介していた作家の村松友視さんは第三回の表彰式に出てみてびっくりしたそうだ。 第三回の大賞受賞作”寝言”を書いたのは、 なんと、妻の気持ちになりきって作った夫だったそうだ。 一人で授賞式にやってきた彼の心の内側を想像しながらおずおずと表彰状を渡す時、他人事ではないと思ったと結んであった。
今朝、何気なくつけていたテレビのチャンネルを適当に変えていると、 え、子供番組なのにとびっくりした。 そこでは、 やまのあなたの そらとおく さいわいすむと ひとのいふ という、フレーズがそれも長唄のような三味線に乗って流れてきたのだ。 あれは、うん、上田敏訳 カール・ブッセ だ。 若き頃に空を眺めて呟いていた詩だ((笑) 「にほんごであそぼ」 という、子供番組、一体どこで、どんな子供たちが見ているのかは知らないが、 朝早い時間(8時)だもの、学校で見るわけじゃなく、幼稚園で見るわけじゃなく、 自宅でお母さんが忙しくしてる時間帯に、ちっちゃい子供たちが一人で見て遊んでるわけだし。 幼児が対象にしてはすごい内容を盛り込んでいるんだなとびっくり。 「やまのあなた」が終わった後は「鴨長明の方丈記」 この状態で続けて行くと、今はちっちゃい子供たちが中学生くらいになったときに 幼い頃を思い出してみ〜んな歴史好きや、名作好きになってるかも(笑)
名前を入れると脳内が表示されるサイトがある。 私の脳内、そこは、うそと休もうという気持ちと遊ぼう、ちょっとだけ友達で、占められていた。 うそこメーカーなんだけど、 案外当たっているのかも。 何回やっても同じだもの。 興味のある方はやっと見ると面白い。(開くのがちょっと重いのでご注意を)
めったに見せない笑顔を興奮気味で見せた。 素直な笑顔がすばらしい。 政治家の記者会見や、不祥事が発覚した官庁や会社の会見を聞いていてよく思うのだけど、”「・・・を」する”という表現がよく出てくる。 たとえば 「お願いをしました」 「訂正をいたしました」 とかの、「を」 だ。 妙に耳障りでそして頭の中のどこかにひっかかる言葉をつなぐ「を」 「を」が、はいることで、文節が長くなって難しい表現になるし、入れなければならない言葉ではない。かえってないほうがこちらには、わかりやすい。 そんなことを考えながら、テレビを眺めていると、字幕には「を」のない表現がされている。 やっぱり、「を」を入れるのは、間違った表現方法なのか。 なんて、一人で納得していたら、偶然、新聞にそれについて書いたエッセイを見つけた。 ”7月3日の読売新聞に「余計な「を」にご用心” 鳩山さんの「解明をする」「表明をする」は、正しくは「解明する」「表明する」なのだと。 鳩山さんや、菅さん、それに一番気になるのは安部さん。 よく「説明を申し上げた」なんて表現をされる。 政治家は、聞いている人々に向かって、わかりやすく簡潔な表現をすることが一番大切だと思うのだけど より難しい言葉でわかりづらい説明をすることが身上だと信じているのだろうか? そうして、耳障りで変だなあと感じてる間にさっさと「お詫びを申し上げて」会見を済ませているのかも知れない。
今年は天の川も大洪水だったに違いないと思われるほどの大雨が続いた。 庭のむくげが今年は特別沢山のつぼみをつけていたので、咲いてくれるのをとても楽しみにしていたのだが、幹が大量の雨を支えることができなくなってしまい、見事に変形しみすぼらしい感じになっている。 むくげの幹はとても柔らかいのだ。 大きくなりすぎても女手でののこぎり作業が苦にならないくらいにすぐに切れる。 その性質があまりの大雨に悪いほうに作用してしまった。 むくげの花は、一日花。 朝咲いたものは夕べにはつぼみ、ぽとりと落ちてしまう。 だから太陽をうんと吸って誇らしく、やさしく咲いてほしいと思う。 まだまだ、重すぎるほどについているつぼみたち。 この雨の時期が過ぎる頃には、大輪になってくれるだろう。 上の花の写真は、アパカンサス、ユリ科の花。和名は紫君子蘭(ムラサキクンシラン) この花も今年は沢山咲いてくれた。 いつだったか、植物園ですごい塊で群生しているのを見たことがある。 この花は植木鉢に大事に植えられて鑑賞するよりも大きな塊になって群生しているほうが生き生きとして胸を張っているような感じがして存在感がある。 今朝の雨にぬれて雫が光っている姿もまたよき哉、である。 そろそろ花期を終えようとしている。 雨がテレビの音を消すほどの勢いで降っていたときに、 ちょうど報道ステーションを見ていたといって二男が電話をかけてきた。 「家のほうはどう?大丈夫?」 我が家は台風はものすごいが洪水の恐れはない。 わかっていても、家を思い出して電話してくれたのも七夕のせいかもしれない(笑) 言葉がなかなか聞き取れないけど、それでもそろそろ孫の声を聞きたいなあと 熱望していたじい、ばあの願いが雨に運ばれて届いたようだ。 たくさんの写真も送ったそうだ。 めったに会えない織女を待っている彦星の心地ではある。
カラスビシャクという名前の草がある。 漢字で書くと半夏または烏柄杓、そのうえ、ヘソクリとも呼ばれているそうだ。 面白い葉形をしていてザゼンソウの仲間らしい。 ほとんど目立たないが薬草でもある。その薬草としての名前が半夏(ハンゲ) この季節になると田んぼのわき道などにほとんど目立つこともなく生えている (こちらに解説が載っている。) 「美しい日本」にしたいと日本の首相は言われているが、 日本を美しいと思うかというアンケートではほぼ50パーセントが思うそうだ。 そのうち、20,30代のひとは、思わないほうが多く、50代以上の日本人は美しいと思っているという結果が出たようだ。 「美しい日本」とは、抽象的過ぎて確かに答えにくいが。 日本で際立って美しいものは、日本語だと信じている。 文字にして美しい日本語、ほかの国の言語(しらないくせになんだけど)とは、そこが違う。 ある意味、当て字的な部分もあるが、これまで日本人はその美しさに惹かれていたはず。 ローマ字やカタカナでは表現できない日本だけの、一つ一つの文字にこめられた意味に。 お天気歳時記などから探して行くと、美しい言葉が見つかる。 この半夏生もそうだ。 夏至から11日目のことを歳時記で半夏生と呼ぶのだけれどその意味を探して行くと上に書いたカラスビシャクの草の先端にヒシャクができる頃という説がある。 そして、もうひとつの説。 やはり草花の中にどくだみの仲間でハンゲショウ(半夏生)というのがある。 こちらは、葉っぱがこの時期に花をつけるのでこの名になったとも言われている。 この植物の葉っぱは花に近い部分が白くなり花よりも目立つようになる。 そこで、半化粧(ハンゲショウ)となり、半夏生となった。 梅雨の時期はとかく鬱陶しくて、外を見ながらためいきばかり。 そんなときは、美しい日本語を文字の中に探してみるのもよいと思う。 明日は七夕 里芋の葉っぱから露(雫)を拾い集めて墨をすり短冊に願い事を書いてみるのもまたよいかもしれない。
毎年暑い季節になると我が家のワンコはなかなか歩こうとしない。 地面が暑いせいなのか、歩き出してもしばらく行くと突然に止まってしまう。 今日は調子よく進んでるなあと思っていても、やっぱり突然に止まってしまう。 もともとが、おとなしい性格のせいで、 特別にしつけをしないままでも、 特にしからなければならないようなことはなかった。 ご飯のときはちゃんとお座りして、お手、おかわり。 手でおやつをあげるときには人の手には触れないようにそっと口の端っこで食べる。 自分から催促してほえることもない。 何か用がありそうなときは、目の前にきちんと座ってじっと眼を見る。 外へ行きたいときは玄関のほうに行って、じっと待ってる。 玄関の降り口に靴などがあるとそれには触れないようにして何もないところから降りる。 散歩から帰っても、リードをはずして足を洗わなければ自分で勝手に上がってくることもなく、 玄関のたたきでじっと待っている。 ティッシュを取り出して遊ぶこともしない。 よそのわんことけんかすることもない。 第一吠えることなんてほとんどない。 家の中で粗相をすることも一才を過ぎてからはほとんどない。 よいところをあげれば限りない(単なる親ばかだけど) こういうことを、ほんとに特にしつけとしてやったわけでなく、 いつの間にか自然に身に着けてしまっている。 いいかえれば、ほんとに犬らしくない(ある意味面白くないとも言えるけど) そんなしばわんこが 夏になると歩こうとしないのだ。 (でも、彼女の名誉のために付け加えると、山や、公園や、川など広いところでは、 大喜びで生き生きと歩き回るワンコになる) 団地の十字路や、交差点、なんでもないところで突然止まってしまって一歩でも歩かない。 しばらくは立ち止まって付き合うけれど、あんまり長いと飼い主だってよそ目があるので困ってしまうのだ。 とまらないときは、知ってるお宅にまっすぐに行こうとする。 あちこちで、声をかけてくれて、その上おやつをくれたりすると、そこのお宅は絶対に忘れない。 そっちへは絶対に行かないぞと飼い主は思うのだけど、彼女は迷路のような住宅街を実に上手に進んで行く。 去年はそれでも、何とか歩いていたけど、今年は特に歩かない。 まだ5歳なのに、あんまり歩かないと老化するんじゃないかと飼い主は老婆心がおきるのだ。 夏でも、しっかりと歩かせる方法はないだろうか。 やっぱり根本は甘やかせ過ぎなのかなあ。
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