雨にぬれて朝日に輝いていた。 あんまりきれいなので、花びらの全体を 一つ一つの花びらを見てみるとこんなに細いのに、実に力強い。 たんぽぽ (たんぽ穂) タンポポ 蒲公英 ダンデライオン”ライオンの歯” (フランス語の dent de lionから来ている) 西洋タンポポは子供の背丈ほどにも伸びる。 旭川の常盤公園でみんなで、タンポポ笛を作って、ピーピー鳴らして遊んだのは もう、四半世紀以上も前のことになる。
今では買い物の前にネットを開き、価格の比較、機種の検討など、 口コミやランキングを見ることは当たり前になってきている。 旅行に行くときのホテル選びなんかは当然至極というところ。 よく見るサイトだけではいい宿が見つからなければ、検索サイトに単語を打ち込んでみる。 そうするとこれでもか、これでもかといろんな情報を教えてくれる、など、など。 ほんとに重宝しているのだが・・・ いつのまにか、ネット情報だけが一番だと思ってしまって、落とし穴に落ちてしまっているのかも。 検索サイトは、使う人の傾向をよく学習していてその人の気に入りそうな情報を実に見事に出してくれる。 同じ単語を違う人のパソコンで入力してみると違いが良くわかるのだ。 学究的なことに使っていたお子さんのパソコンをお母さんが譲り受けて使っている知り合いがいるのだが、 その方のパソコンは同じ単語を打ち込んでも、私のパソコンとは違った答えを出してくれる。 それはそれで、出てきた結果を面白いなと思うのだけど、反面怖いなと感じてしまう。 ネットを使っていろんな情報を仕入れているつもりが、見えない相手に情報を送っているわけで、 でも、そんなことっていちいち意識しながらやってはいられない。 たまには、立ち止まって”大丈夫か?”と、問いかけなければいけないのかもしれない。 そうは言っても、見ずにはいられない。
テレビを見てるといろんな試食のシーンがあって、”おいしい”って表現する場面。 大抵おんなじ。 ほんのちょっとだけ、口に運んで、にっこりして。 ”おいしい” ちょっと違うバージョン。 口にほおばりながら ”おいひい” 見てて・・「やっぱり」なんて思うのだけど、難しいねやっぱり(笑) 見てる人においしさを伝えることって技術だと思う。 自分で食べて見て”これは?”と思うとき、人は無口になるんじゃないかと思っている。 けど、そのままやったんじゃレポーターではないしね。 本屋さんに行けば、グルメ本がずらっと並んでいる。 親切に、あそこの通りを右に行って、左に曲がればこんなお料理が食べれます。 ”本を片手にたずねてみれば、同じメニューを注文して食べている人があっちのテーブルやこっちのテーブルに”なんて光景が目に浮かぶ。 きっとみんな幸せなんだね。
去年の7月の終わり頃、近くのホームセンターがM&Aで吸収合併されて店じまいセールをやったので、 駆け込みでお店に出かけたところシャワー付き洗面台が思い切りやすく売り出されていた。 その上、設置料金も4割引だった。 そのお店は少し前にテラスのボードの張替えをやってもらってそれがとても丁寧だったので 好感を持っていたし、今こそチャンスと申し込み、新しい洗面化粧台を設置した。 夫は喜んで毎朝シャンプーをしていたのだが、 「玄関を入るとなんかどうもくさい」 と、言うようになった。 あちこち臭いを嗅いで回ってもわからない。 だけど、どうにも気になる。 ある日洗面台の扉を開けたときにやっぱりここしかないよねえと一人頷いた。 その洗面台の取り付け位置にカビのようなものが付いているのも気になっていたのだが 髪の洗い方が悪いのかなと(洗面台で洗髪をするのは夫だけなので)勝手に決めていたし。 それから、とにかく気をつけて配水管を掃除するようにしていた。 だけど、どうにも臭いの元はなくならないし、ひどくなってるようだ。 で、今朝から思い切ってもう一度点検にかかった。 まずはU字になった部分に水がたまっているかを点検した(以前に見たときはなぜか、たまっていなかった) きょうは、ちゃんとたまっている(この部分はトラップといってそこに水が溜まっていないと臭くなる) だとすると、臭いが取れないというのはやっぱりおかしい。 洗面台の底をはぐってみた。 すると、管が排水溝に入る部分がきちんと覆われていないし、 そばにゴムの継ぎ手のようなものが放置してあった。 ああ、これだ。これに違いない。 それをきちんと管に通して先ほどと反対の手順でふさいでいく。 あの時実際に作業をしにきたのは、まだ若い男性だったし 忙しいせいでアルバイトを使っていたのかもしれない。 しかしなあ。よく見るとあちこち切れ端が放ったままだし洗面台から外の配水管に通すための穴は 曲がっていてぎりぎり届いている状態だ。 こういう工事は素人では出来ないからと、いつも設置者を丸まる信用していた私。 たまに自分で考えてやってみたら案外出来るものかもしれないと自分で自分に感心し、 同時に安易に信用しないで、嫌われたって良いからその場で見てるべきかもってつくづく思った。 これで、臭いがしなくなればよいのだけど。
乗っているバスがとあるバス停に近づいた頃、 濡れて歩くにしてはとても無理と思いながら何とはなしに窓から外を見る。 そのバス停の近くに40代初め位の女性が傘をさしながらもう一本、真新しい傘を持って立っていた。 私は、心の中で自分に賭けをしてみた。 今、降りようとしている人は3人、 一人は高校生(男子)その雰囲気からして2年位かな。 もう一人は、中年の女性。 そしてもう一人は、幼児を抱いたおばあちゃん(もしかしたらお母さんかな) それで ああ、あの人が待っていたのは、この子供連れの二人だ。 そう感じた。だって、外をかなり気にしながらバスの中を前のほうに進んでいたもの。 賭けはハズレだった。 傘を持って迎えに来たのは、男子高校生のお母さんだった。 そのお母さん、息子の顔を見ると同時に、その新しい傘をさっとさしかけてやると、 二人で、バスの進行方向へずんずん歩いていってしまった。 その間、二人には会話はなし。 そうか、そうだよなあ、今は、なんていったってケータイがあるんだ。 これからバスに乗るから、何時頃来てねって、連絡すればバス停まで傘を持っていくことが出来るんだ。 う〜ん。優しいお母さんだなあ・・・ 家の息子たちがその年齢のとき、私は傘を届けるなんてことはしたことがなかった。 仕事も持っていたし、息子たちも親に連絡なんてくれなかった。 平然と濡れてくるか雨宿りしながら帰ってくるか。 でも、それが原因で風邪を引いたなんてなかったような気がする。 けど、私が小学生だった頃はどうだ? 母は、30分もかかる道を歩いて傘を学校へ届けていた。 届けるだけでさっさと戻り、直接受け取ることはなく先生からだったけど。 今思えば、私ってあんまり優しくない母だったのかも。
きれいな紫の花。 地下茎でどんどん自分の陣地を広げていく。 この季節にすっと背筋を伸ばして咲いている。 思い切り接写にしてみた。全体像はかなりイメージが違う。 アップにしてみると茎にある小さなひげ根まで精一杯に息をしているのが見られる。 小川洋子さんの短篇集から「老婆 J」 取り出して読み直してみる。 やっぱり怖いなあ。 段ボール箱を抱えて走り降りる老婆の姿は昔話を連想してしまうし、 手の形をした人参がはじめは3本だったのに男性のマッサージをして、エネルギーをうばった?その後は沢山収穫される。 その人参たちは真っ赤な血が滴るような手の形をしている。 老婆はそれらの人参をアパート中の住人に配って回る。 そして、その敷地の中庭から発見されたのは両手のない老婆の夫の白骨死体。 弔いのひとつの方法。 こわいなあ。 真っ赤な変形した人参を見るとポテトサラダには入れれそうにない。
いつも言ってるのだけど私は歯医者さんが嫌いだ。 といっても、行きつけの先生は丁寧にやさしくはっきりと説明をしてくれるし、 担当の助手さんもとっても優しい人なのに。 どういうのか、大きく口を開けるという作業が苦手なのだ。 大きくなくて、小さくなら良いのかというと、それもだめ。 つまり、口をあけて、鼻で息をするというのが出来ない。 実際はやってるのだけど、息をしてない気がするのだ。 ”もうだめ、死んでしまう”って、思ってしまう。 誓って言うが、治療が怖いのではない。音も怖くない。 窒息しそうで怖いのだ。最強に怖いのが歯形を取るためのあのゴムを口に入れておく時間。 あの時間て果たして何分くらいなのか。 昔は、かなり長かったのが、今では相当短くなっていると思うのだけど、もうだめ。 入れたとたんから、目が白黒になってしまう。 最近、ますます酷くなってしまってるようだ。 先生は、そばについて背中をとんとんしながら”もう少しね”って、終わるまでいてくださる。 もともと、歯を磨くのに奥歯に歯ブラシを当てるだけで、”ゲッ”となる。 食事のとき、最初の一口がのどを通り過ぎることが出来なくて結局は、戻すこともある。 夫は、そんな私をじろっと白い目で見て、シンジラレナイという。 夫は歯医者さんでは、ちゃんと目を開けて治療の様子を見届けるというのだ。 ずっとそんな人(私みたいな人)はめったに居ないだろうと思って一人、落ち込んでいた。 それが居たんだ(嬉) 日経新聞のプロムナードの欄に三浦しをんさんが書いていた。 一度は、歯形を取ってる最中に耐え切れなくなって自分でゴムを剥ぎ取って涙目でいすにへたり込んだそうだ。 良かったあ(変かなあ) 私だけじゃなかった 同じ人はほかにもいるんだ ほっとした。 彼女は言う。 「自分にとっての異物・異世界を拒絶せんとする頑なさから来ているのではないか。 もっとおおらかな気持ちで体の力を抜き、胃カメラ、歯型、海中散歩と何でも受け入れ、 楽しむべきではないか。そう反省するのだが、しかし逆になんでもえずかず飲み込めるのというのも 恐怖に対して鈍感すぎる精神のなせるわざではないかと思えたりする」 う〜ん、私もそう思う・・・ けど、それも彼女と同じ 「無論、えずかないひとへのやっかみだ」
写真は、日曜日に選挙の帰りに出かけた公園でのしばわんこ。 桜の花びらが今日を盛りとばかりに舞い落ちていた。 公園のいたるところにお弁当を広げる家族連れが。 さすがにわんこは桜には興味がなさそうで・・・お弁当の玉子焼きを食べている家族のほうをじっと見つめていた 4月10日は亡くなった父の誕生日。 ”死んだ子の齢を数える”と言う言葉があるけれど、私はいつもこの日になると父を思い出す。 今生きていれば87歳。今の時代特別長生きという年齢ではない。 人の死にはいろんな形があるけれど、もしこの世に神様が居てその神様がそれぞれの死を決めているとすれば父の場合は前世でよほどの大悪人だったのではないかと思えるほどの酷い死だった。 小さいときから、働きづめにただ働いて、信じられないほどの無口な人で、 それならばいらないだろうとばかりにはじめに言葉を奪われ、 言葉を無くしたゆえに気持ちが優しくなったはずなのに、食べるという行為までも奪われた。 それから最後を迎えるまでの父にとっての試練は、母にとっても煉獄となった。 そのうちに思考する能力は幼児のそれになり、母がちょっとでも席を立つとものすごい不安に襲われる。 その後、父が亡くなるまでの壮絶といえる闘病の様子は、亡くなって今年で10年目なのにいまだに人に話すことはできずにいる。
ピンクの桜が目を楽しませてくれる。 人の気持ちはいろいろと移り変わるのに、欠かすことなく毎年この時期に花を咲かせるさくら。 万葉の時代からずっと詠われ続けているさくら。 さくらには不思議な力がある。 言葉はいらない。 先人たちの言葉がある。
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