読み始めるともう止めることができない。そして最後には涙が止まらない。つらくて、でも暖かい涙だ。 ずっとパソコンのお掃除(エラーチェックなど)をしてないなあと、気になっていたこともあって昨日は朝から、デフラグを始めた。そうしたら、ほんとに買ってから一度もやってなかったので、どうも夕方までかかりそうな感じで遅々として進まない。 それで、今日は一日パソコンから離れようと明日のために(明日は本や新聞の回収日)要らなくなった雑誌の整理をやり始めた。その後、買っておいたこの本を読み始めたのだ。 その前の日にさっとあちこち飛ばし読みで読んでいたので早く読みたくてたまらなかったのもある。 15歳の少年と36歳のハンナ、出会ってからの二人は誰にも知られずにすばらしい時間を過ごすようになる。ハンナは本を自分で読むことをせずミヒャエルに朗読してもらうことがすきなのだ。会えば必ず本を朗読しその後で愛の時間を持つ。ミヒャエルにとってすばらしい日々が続いていたがある日、いつもと違っていきなりミヒャエルの前に現れたハンナは何も言わず失踪してしまう。 少年だったミヒャエルは大人になるまでの長い時間をかけてハンナを忘れようと苦悩し続け、いつしか成功しかかった時、大学のゼミでナチの裁判を傍聴することになる。 その時の4人の被告のうちの一人があのハンナだったのだ。 彼はそこでハンナを見ても「何も」感じなくなっていた。本当に「何も」だ。 このときから、本当の物語は始まるのだ。 毎日毎日傍聴に出かけるミヒャエル。彼はハンナを何とかして「理解」したいと思った。ハンナが侵した罪は恐ろしいし、裁かれねばならないと思う。 でも、「理解」したい。 ミヒャエルは収容所にも行って見る。そこで長い時間をかけて何度も何度も周りを廻りながら考える。哲学者の父親にも相談する。父は言う。「その人の自由と尊厳を守るというのはその人に他人が何かをしてあげてそれで幸福になれるということとは違う。他人を通して何かをしてあげるのでなくその人自身と話すことだ」ハンナは自分にできる精一杯の方法で裁判で闘った。でも、結局は一つのことを言わないで終身刑になってしまうのだ。 ハンナは文盲だった、字が読めないし書けなかったのだ。 字も読めない、知識もないそんな女がナチの刑務所の看守として仕事をするのです。という言葉はいえないままハンナが判事に問う「私はどうすればよかったのか、あなただったらどうしましたか?」判事は戸惑ったような顔をする。判事にはその方法しかなかったでしょう。多分誰が判事であってもそうしたでしょう。 ミヒャエルは心が閉じてしまってすべてのことをまるで感じなくなってしまっていた。それでもハンナを「理解」したいとそればかりを思いつめる。 私はまだ十代のころ「若きヴェルテルの悩み」や「狭き門」に熱中していた。 あの、主人公たちの胸をかきむしるような思いや悩み、いくら悩んでも思っても決して解決できない思い。ミヒャエルはナチのホロコーストにかかわった女性を愛した。彼女の過去の情景と自分を愛してくれた彼女の情景が絡まって頭の中で際限なく浮かんでは消える。ミヒャエルの体の中で訳のわからない塊がぐるぐる廻っているのがこちらにも流れてきそうになる。 ハンナが収監された刑務所の場所がわかって彼はまた、カセットを送り始める。たくさんの本を次々に朗読して送り続ける。 彼女が出所する日が近づいて初めて会いにいくミヒャエル。 ベンチに座るハンナは老いていた。 そして、いよいよ明日という時にハンナは自殺してしまう。 ハンナは、荷造りをしていなかった。その部屋に入ってハンナを感じた時にミヒャエルはあの裁判以来、「感じた」のではないかと思う。 私は涙が溢れて、溢れて途中で本を閉じて、もう一度読み直した。 以前に「ゴールデンボーイ」という本を読もうと図書館で借りたことがある。でも、あまりにもおぞましくて吐き気がしてきて読み終わることができなかった。ナチについての本はたくさんあるし、20世紀中にたくさんの戦犯が世界中で見付かっては裁判が行われた。そのどんな場合にも当たり前であるかもしれないが、最後に希望を見ることはすくない。いつも残酷さとおぞましさでむなしさとある種のやましさが残っている。 この本には希望がある。 残酷で辛い物語だけど、生きようという気持ちにさせてくれる。 映画化されるということだけど、どんな映像になるのだろう。
昨日一日中降り続いた雨が夜通し、朝まで大きな音を立てて降っていた。 それがからっとやんでくれたのは嬉しいが、雨上がりのものすごい湿気と高温を残して行ったようだ。 今年も夏の植物が実を付け始めた。 ミニトマトに、普通のトマト、ミニはもう3回ほど収穫し、普通のトマトはまだ硬くて青い実が3個ついている。 にがうりはやっと花が開きだした。 花芽はたくさんあるのだけど、今年はどうだろう。 去年のことを思い出すと、花は咲いてもなかなか実をつけてはくれなかった。 きゅうりはというと、短い幹にたくさんの花が咲いていて、下の方についた実はすでに小さいまま腐り始めている。 あまりに雨が続いたせいか、それとも肥料が足りなかったか。 朝顔もぽつぽつ顔を出し始めている。 一個目の花は色も中途半端で、今年はこんなかなあと思っていたが、2個目、三個目になってきたら色つきもよくなってきた。
■秘事 昭和のまだそれほど裕福ではなかった時代の大学生の三村と女子大生の麻子は恋人同士。同じ会社に就職するはずだったが、ある事件から麻子は就職を辞退し二人は結婚する。 その後三村夫妻は息子二人に恵まれ、海外勤務を経ながら出世コースを歩いている。 作者は女性で、主人公は三村夫妻なのだが、三村清太郎の立場で、ずっと淡々と語られていく。 私の実年齢より10年ちょっと上くらいの人物設定なので、いつの間にか自分に沿わせて読み進んでいる私がいる。その私は、麻子の心の底が覗いてみたくてたまらない。でも、どうしても見えてこない。素直に読んでいけば麻子は幸せな一生だったと思うのだけど、ひねくれた心を持った「私」は、どこかに麻子の素直でない部分を見つけたいといつの間にか、不幸探しをしてしまうが、見付からない。 息子たちから見ても理想の夫婦像であり、麻子にとって最大の宝物は息子たちではなく清太郎なのだと息子の次郎が自分の妻に話すシーンがある。 「母に何でも聞いて欲しい父とそれを聞きたい母がいる」「母は仕方なく聞いているのではなく聞きたいから聞いてるんだよ」「だから、父が、いろいろ話すときは、母は決して寝巻きやガウンに着替えたりはしないんだ。」 二人がまだ学生だったころに、道路の向こう側にいた麻子がこちら側に来ようとして、事故に合い麻子は顔に縫い傷が残っている。 そのことが二人の間にはずっと横たわっているのだ。 だから、清太郎は自分が死ぬ時には麻子を枕元に座らせてどうしても言いたいことがあったのだ。 「あんたとひたすら結婚したくて結婚したんだぞ。侠気や責任感は、そんなものは微塵もなかったんだ」と。 でも、最後まで清太郎はそれを言うことはなかった。 麻子は突然の肝炎で先に亡くなってしまうのだ。ニューヨークからの帰りの飛行機の中で「二人一緒に逝けると良いけどそれはかなわないから、あなたが先に逝ったとしても、私が先に逝ったとしてもそれを恨まないでね」といった麻子。 貸し金庫の中に二人の髪の毛を入れていた麻子。 「どうやって俺の髪の毛を取ったんだ」と聞かれ「あなたが眠ってから、少しずつ切って集めたのよ。いっぺんにたくさん取ったらいけないから、ほんとに少しずつね」と、答える麻子。 多分、死んでいくことにはまるで気がつかないまま死んだのではないかと思える最後にも、「悪いわね、2度もこんなことになってしまって」とわびる。 最後まで読んでも、ひねくれものの「私」には麻子の心の底は見えなかったけれど、麻子は幸せだったと素直な「私」は思う。彼女にとって一番大切なものは清太郎だったし、清太郎以外にはなにも必要なかったから。 ■ぶたぶたの休日 小さい短編がたくさん詰まったとっても幸せになれる本。 ピンクの小さなぶたのぬいぐるみが突然、目の前に現れてジュースを飲んだり、30代のステキな男性の声で話しかけたりされたら、びっくりして腰を抜かすけれど、2度目に会えたら、後を追ってしまいそうになる。 悲しかったりいじけてたりしてる時に目の前にぴょこんと現れてくれたらきっと嬉しくて思わず頬ずりしたくなるだろうな。 この短編集に出てくる人たちも、いろんな問題を抱えていても、いつの間にか自分のいるべきところに戻っていく。 あの点目に見つめられているうちに思い出すのだ、自分が今本当はどこにいるべきかを。 疲れてるときに手にとって見ると心安らぐアニメかも。
6回で1回の無料分があったので、ちょっと興味を引かれた二重スパイを見ることにした。韓国映画は多分初めて見る。 映画館でチケットを買う人の殆どが話題の「マトリックス」で、中に入ってみるとなんと皆で6人。ここまで少ないのは初めてだった。 ラブストーリーか、サスペンスか、かなり興味深々。ラブストーリーが八分というところ。そういう意味ではサスペンスが好きな私にはちょっと物足りない感じ。 映画は地味な仕上がりだが、しっとりとしていて工作員のイム・ビョンホ(ハン・ソッキュ)がいい。東ベルリンから抜け出すシーンは、小説でいつも読んでいたシーンそのまま。銃弾に足を貫かれながらやっとたどり着いた西側で「自由の国へようこそ!」の台詞。しかし、ビョンホにとっては、革命のための潜入だった。 目を覆うような拷問に耐え、南の情報部に信頼を得るようになって、みんなの前で演説をする。旗を打ち振って「万歳(マンセイ)」と何度も叫ぶ様子は今の北を見るような気分にさせる。 チョンチョンガンは医師として地域の人々に尊敬されていたが、彼こそが北の大物スパイ。その本当の姿を現した時の目が、冷徹で信じるものの強さが溢れていた。その彼が捕まりそこから、ビョンホにも疑いの目が。 北のスリーパーであるスミと何度か会ううちに二人の間に違う感情が芽生える。 留学生を大物スパイに仕立てようとする南の情報部や、ビョンホやスミを消してしまおうとする北。革命のためと信じて疑わなかったヒョンホだけど愛のために生きる道を選ぶ。 南から第1級の機密を盗み出しそれと引き換えに外国に逃れる。 それから2年後、ビョンホの帰りを待つスミのお腹には赤ちゃんが。 アパートの下に不審な車と二人の男、スミのはだしの足がとても美しい。 ビョンホの車の中にはスミにプレゼントするためのかかとの低いサンダルが。道路に故障した車が止まっていて、現地の青年が助けを求めている。 通り過ぎれば良いのにと思う私の思いとうらはらにビョンホは止まり彼を助ける。青年は最後まで丁寧すぎるお礼を言いせめてもと何かを渡す、あれが爆弾かもと思った私を裏切るように、車に戻っていくビョンホに青年は声をかける。 「ありがとう。イム・ビョンホ」 呆然と立ちすくむビョンホに銃弾が打ち込まれる。 スパイの末路とはこんなもんだよという声がどこからか聞こえてくる気もするが、なりたくて(洗脳されて)なったビョンホ。 スミは父親がそうだったために運命付けられた。なりたくてなったわけではない。悲しい物語としてだけ受け止めるだけで良いのかと心が痛んだ。
この1週間なんだかあたふたと時間が過ぎていった。 家族が増えるというのがやっと本決まりになりそうなのだ。 それで、検索サイトをあちこち検索しては安い旅費で繁忙期に旅行に出るには?と、相当熱心に探しまくった。 けど、早い時期にと思った第一希望はどこを探してももうすでに空きはなし。仕方がないので7月出発の第2希望にしようとまたまた熱心に探しまくった。 結局知り合いに紹介してもらった元職場限定のところで何とか予約が取れた(多分)。 近頃、自分の老化が進んでるのを頻繁に感じていた。 いろんなシーンで、それ(老化)に出くわすのだ。 変化のなさ過ぎる毎日も、若しかしたらそれに拍車をかけているのかもしれない。すこし、自分に課題を持たせるのも良いかもしれないと思っていた矢先だったから、この出来事はまさに大きな変化だし、少しは頭についたさびが取れるかもしれない。
最近よくホタルの話を聞く。 あちらの川に見付かったとか、こっちの川にもいたそうだよとか。 今では川が汚れてしまったこともあるけど、護岸工事をしてしまったこともあって殆どホタルを見かけることがなくなった。 ホタルツアーとかいうのがあって、バスや電車で出かけないと見ることができない。今の子供たちはホタルがどんなものか図鑑でしか見たことがないだろう。 私が子供のころは家の周りの田んぼにいつも飛んでいた。 毎日捕まえてきては家の中で放したりして喜んでいたものだ。 そのころのホタルかごはむぎわらで作っていた。 小さいころはホタルが光る時触るときっと熱いに違いないと信じて、その瞬間をじっと待って触るのだけど触った瞬間消えてしまったりして何度も何度も試してみたものだった。 翌朝になると死んでしまってかわいそうにといいながら土に埋めるのだ。 でも、やっぱり夜になるとあの柔らかな光に誘われて触りにいく。 目をつぶるとあのころの静かだった夜のことが思い出される。 そういえば雨上がりのような、とても蒸した時にホタルは良く飛んでいた。 また、ホタルたちにあってみたいな。
帯には「奇妙な石造りの家に錯綜する疑惑と不思議・・・世にも恐ろしい物語」とある。 ゴダードと見るとどうしても手を出してしまう私。 久しぶりに出かけた紀伊国屋で見つけてしまう。 弁護士の妻を転落事故で亡くしてしまい、自己を見失いそうになっているトニーは、妹夫婦の家にしばらく住むことになる。 主人公トニー(ぼく)が、亡き妻に向かって語りかける形で話は進んでいく。 夢とも現実ともつかない様な奇妙な体験をするぼく。 日々が過ぎれば過ぎるほどさまざまな絡まった糸が、これでもかこれでもかと新たな絡まりを始め、やっと中ごろになって少しずつつながりが見え始める。 ゆうれいの住む家と、ソ連のスパイ、イギリスの秘密情報部、絡まりすぎた糸が完全にほぐれるのは最後の最後。 辛い、暗い物語だけど(推理小説なのだけど、私には物語なのだ)友情がしっかり結ばれて終わったのが嬉しい。
先週ボランティアにいった帰りに知り合いのお宅に寄り道した。 その時に声が変だな、特別に大声を出したわけでもないかなんだか喉にひっかると思った。 金曜日は陶芸の予定だったけど、なんだか今ひとつ出かける気がしなくて来週に変更した(こんな時専業主婦は都合が良いのだ) 昨日は朝からやたらに眠い、殆ど一日中寝てたようだ。 咳がかなり出るので薬を買いに行こうと思ったけど、やっぱり出かける気がしない。駄目だなあと思いながらもうとうと。 大体、風邪を引くときってそれなりに心当たりがあるものだ。 でも、今回はまるでない。だから風邪の筈は無いと妙に意地を張っていたが夕方からなんだか体の表面がぴりぴりしてきて熱がでる時に似てる。 けど、自分では風邪だとは思っていないので、体温計に手を出す気がしないでいた。 夜になって、夫に「今の気温、暑かったり寒かったり変じゃない?」と聞くと、別に普通だけどという。 それで思い切って熱を測ってみた。 38.2度・・・熱がある。 やっぱり風邪を引いてるようだ。 仕方がないので、バッファリンを飲んで寝た。 今朝は、割とすっきり。 けど、いまだに風邪だとは納得できないのだけど、まさか新型肺炎なんてことはもちろんないよね。
今レンタルしているホームページがいろいろ改正をするので、8月に1週間ほど閉鎖するとメールが来た。 POPメールのアドレスが好きでたいていのメールはここ一本で済ませて来ていたのに、POPメールも止めるという。 有料のホームページなのに、一体どうして? それも、6月が更新月で、更新したばっかりなのに、メールが来たのはその後。あちこちアドレスの変更をするだけで疲れてしまう。 納得いかないなあ・・・・
3月の終わりころか、4月の初めのころガムを噛んでいて、「あ、しまった」と感じた。左上の歯がぐしゃっという感じで、かぶせた冠が外れたのだ。すぐに病院に行けばよかったのだけど、ちょっと様子を見てからと伸ばし伸ばししていた。でも、口臭がどんどんひどくなるようなのでやっと決心して予約をして今日行ってきた。 「この歯は、平成2年にあなたが初めて来たときに治療した歯ですよ」といわれた。その時のことが鮮明に思い出される。その時期はちょうどお正月のころで、「ぜんざい会」をやって熱いお汁粉をお餅を焼いて入れたくさん作ったのに、まったく食べれなくてとても辛かった。とにかく冷たいものも熱いものもまるで食べれなくなってしまって、初め他の病院へ行ったのだけどそこの病院では原因がわからなくて違う病院へ移ったのだ。そこでやっと大昔に冠をかぶせた歯が、中で虫歯になっているとわかって左上の奥歯を治療してもらった。それから13年以上、この歯も頑張ってきたんだなあ。 私は歯の治療がとにかく嫌いだ。 口をあけていると、呼吸困難に陥ってしまう。 右上の治療の時が一番ひどい。もう今にも、このまま息ができなくて死んでしまうのではないかと思ってしまう。 治療自体が怖いのでなく「口をあけておくこと」が怖いのだ。 看護婦さんが、まるで子供に接するように、肩を叩きながら、「大丈夫ですよ、リラックスしてくださいねえ、大丈夫ですからねえ」とやさしく声をかける。 わかるんだろうなあ、怖がってるのが・・・ なんとも情けないことである。
我が家のすぐ近くにワンちゃんを飼っているお宅がある。 聞くともなしに聞いてたら、思わず笑いがこみ上げてきて・・・ そのわんこはとにかくよく鳴く。吼えるのでなく鳴くのだ。 飼い主さんは若しかしたら余りわんこが好きでないのかなと思っていた。 この季節窓を開けておくことが多く、そこの声が聞こえてくる。 鳴き始めると飼い主さんは窓を開ける。 そして「いい加減になさい。もうねんねしなさい、ねんねよ」 次には、「うるさい、ご飯にはまだはやい、まちなさい」 夕食時には「おすわり、ほらもう、おちつきなさい、まだだめ」 「お手は? もう、おちつきなさい・・まだだめだったら」 と、こんな具合、 そのたびわんこは、「わん」とか「きゃん」とか返事をしたり訴えたりする。とにかく飼い主さんが家にいるとずっとそんな調子なのだ。 多分わんこは相手をして欲しいのだ。でも、飼い主さんは普段お勤めだから家にいるときはいろいろと忙しい。 でも、わんこにしてみれば、その時こそがチャンスだから訴える。 「くんくんくん・・」から始まって「わん」「きゃん」と続く。 私はすっかりわんこの気分になっている。 「窓を開けてよ、おこってもいいからさあ」「どう呼んだらあけてくれる?」「ねえ、きゃん、きゃん」「はやく、わんわん」という具合だ。 そして、そんな自分がおかしくて・・・ すごい暇な自分にあきれてしまいながら、わんわんことばが頭をめぐってしまうのだ。 **************************** 先週のこと 「恋ひ歌 百蓮と龍介」(木村光一演出)を見に行った。 百蓮・・・三田和代 龍介・・・原 康義 百蓮は華族の娘で、筑豊の炭鉱王と結婚し、のち自分から三行半を新聞に発表して年下の男性と駆け落ちをしてしまう話は有名であり、彼女の恋歌は、よく与謝野晶子と比較される。 話の筋運びを新聞記者や3人の喜劇役者が説明を付けたり、彼女の歌を随所につけたりしての、難しい内容をちっともあきさせない工夫がしてあり、シリアスな内容なのにところどころおかしかったりでとても楽しめた。 黄泉の国からの死者が3人でやってくる場面が4回くらいあった。 その場面がなぜかしら、好きだったし、龍介の父「滔天(とうてん)」の飄々としたおかしさなどがとてもよかった。 決して子供は誰にも渡さないとしっかり抱いていたのに、学徒出陣で戦死してしまう最後の場面(黄泉からの使いに連れ去られる)暗示のような暗さが胸にずしりと響いたところで芝居の幕は突然に閉じた
定年を迎えた男性がこれからの人生にどう向き合うかって映画なんですけど。夫と一緒に見に行きました。 見終わった後の夫のことば。 「おまえなあ、いくら1000円で見たからって、殆ど睡眠中はないだろ?」でした(・_・;) その日、朝から地域のお掃除があって、夫が出てくれたので、私は家のことしかしてなかったのだけど、お昼に食べたカレー屋さんで、お味噌汁をサービスに付けてくれてお腹一杯に食べ過ぎてしまったのです。 その時から悪い予感はあったのだけど、2時間の映画の殆どが記憶にないのです。 定年後の仕事についている夫としては感じるものがあるというのにまったく悪い妻でした(笑) で、ちょっとだけ見た部分からの感想です。 あの映画の主人公はあまりにも極端ではないかと思うのです。 妻のちょっとしたことまでも癪に障るというか、目に付くというかそんな状態のとき妻は突然死。 荷物の整理をしてみれば、妻は、数十年前に浮気をしててその上、その時の手紙を大事に持っていた。 娘に救いを求めてみると、娘はとんでもなくくだらない男性と結婚するという。彼は、アフリカに住むまずしい少年を養子にするべく手続きをしていて、ちょうど手続きも完了。そこで自分のことを手紙に書くのです。 それだけが、彼の存在を示すことになるのです。 さいごに、彼は自分が今まで生きてきて果たして誰かに影響を与えたかと自分に問います。自分が死んで自分を知ってる人も死んでしまったらあとには何も残らない。なんて悲しいこと。 その時少年からの封書が届くのです。 少年はまだ字の読み書きができない。 でもいつもあなたのことを思っていますと、絵が送られてきたのです。 あの絵に描かれていたのは少年と彼なのでしょうか。しっかりと手がつながれていました。それを見た彼は号泣しそこでぶっつりと映画は終わりました。 う〜ん、私としては、別の映画を選ぶべきだったというのが本心。 でも、ちゃんと観てないからえらそうなことはいえないけど・・・
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