日々の思い

ひばり【MAIL

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1970年代 その3
2002年05月30日(木)

ある日、テレックスを習いに行くよう指示された。
テレックスというのは、多分もうなくなったのではないかと思うが、
銀行のATMくらいの大きさで、全体がキーボードでできている。
電話であり、文字で双方向の会話ができる。

佐賀県には、まだ数台しかなかった。
1週間くらいの講習が終わって戻ると、事務所にテレックス室が
設置されていた。
周りをカーテンで覆われて、今思えばこれが目を悪くしたような気がする。
毎日、製品の出来高状況などを報告するのにつかっていた。

このころは、道路が今のようにコンクリートで整備されていたところは、
殆どなかったような気がする。
整備するといえば、アスファルトのため、暑い時は、溶けてきて、
靴の底に、真っ黒な液体がくっついてきた。
車といえば、ミゼットという三輪のトラックが、走っていた。
日産系のダットサンが主流の時代、
サニーを持ってる人もいて、車を持っている男性は、やはり人気だった。

一番人気の乗用車といえば、あの、ケンとメリーのスカイラインである。
コマーシャルが、だいいち素敵で、都会のにおいを最高に運んできてくれた。

そんな時、45人くらいだった会社も、150人くらいにまで、
増えていった。
編み立ては、男性の分野。対して縫製は女性の分野だった。
広いホールに、ミシンがずら〜と並んで、ガタガタと、音をさせて、
縫っているシーンは、壮観だった。トイレに行くにも、無言で、
手を上げて出て行ったものだ。

当時食堂が別棟にあって、コカコーラが、おいてあった。
自動販売機の入れ替えに来ると、担当者として立ち会っていたが、
その時間がまた楽しかった。
北九州から来ていた彼は、お客さんとは、本当は、仲良くはできないんだと
言いながら、サービスで、一本くれたり、わずかな時間会話するのを
楽しみにしていた。
ブラックユーモアの本なんかを持ってきて貸してくれたり。
でも、長くは続かなかった。同じ人が、同じコースと言うのは、
短い期間でしかなかったのだ。

コースが、変わって、別の人がやってくると、そんな時間は持たなくなった。



アプレット
2002年05月28日(火)

よそのホームページをあちこち歩くと、
ビジュアル系というか、すばらしく綺麗なホームページが、
たくさんある。

いつも、眺めながら、自分では、到底不可能と
考えることもせずうっとりと眺めながら通り過ぎる。

そんな私に先輩がJAVAアプレットのページつくりを
指導してくださった。
説明を読んでも、理解するのに、時間がかかったが、
エイ、とにかくやってみようと、
見本の通りに、画像を取り込んでみる。
けど、ふつうの場合と違って、他のファイルにある画像を
挿入しても駄目なのだと気が付くまでに、1時間くらいかかった。

やっと、何とか組み合わせ、転送に入る。
さあできたと、見てみるが、表紙だけで、何もない。
この場合は、ファイル転送を使わないとできないのだ。

時間をかけること、4〜5時間。
見本の中に、画像を組み入れただけだけど
何とか形になった。

うれしい!
けど、こんなにホームページに時間をかけたってことは、
家人には、内緒だ。


金融機関の赤字決算
2002年05月27日(月)

普通預金のことだけど、100万円を1年間銀行に預けると
10円の利息が付くそうだ。それから預金利息税を引くと
実際に手元に残るのは8円。

自分に当てはめた場合100万円なんて、
もしもいっぺんに預けることができるとしたら、
普通預金にはしないと思うし、結果的に100万円あったとしたら、
銀行に何度も通ってるということになる。
その交通費と手間を考えたら、これは問題だ。
だって、結果的に損してることになる。
この問題て、単純に考えたら、少ししかお金がない人より
たくさんお金を持ってる人のほうが、つらいかもしれないな

預金者から集めたお金で、銀行は、あちこち投資しながら、
営業を成り立ててるのに、大手は、軒並み赤字だそうだ。
みんなから、取り上げた(?)お金をまとめて、お金が欲しい人に
高利で貸し付けてるのに。
それがすべてではないだろうけど。

先日なくなった、プロミスの社長だったか会長だったかは、
松下幸之助さんにつぐ財産を残されたそうだ。
プロミスといえば、消費者金融。
小口で、担保がなくても貸してくれるわけで、それなりに
利用している人は多いらしい。

苦しい財政をやりくりするのに、お金を借りて、
たくさんの利息をつけて返済する。
それが悪循環を生んで、生活が完全に破綻する人もいる。
だけど、やはり借りなくては、食べれない。

町並みを歩けば、とにかく目立つ消費者金融。
数メートルの間に5軒なんていうところもザラ。

それにあのコマーシャル
コマーシャルを見ていると、どこでもいくらでも
足りない時は、どなたでも。笑顔で、お貸しします、
そうすれば夢がかなうでしょうと、歌っている。

あの手のCMを作ってる人は、本気で、信じてるわけじゃないだろうけど、
あまりにイメージつくりが、綺麗過ぎて、寒気を感じる。

間違ってるよね。
今、まだ小さい子供たちが、大人になったとき、
イメージと現実の区別、きちんとつくだろうか



きもの
2002年05月25日(土)

先日から、着物センターと言うところから、電話がかかってきていた。
古い、着なくなった着物があったら、
それを何かの役に立てませんかというのだ。

今、着物の再利用の話が、あちこちで、聞かれ、
ちょっと興味を持っていたので、聞いてみた。
着物教室の生徒さんなんかに、練習用として、
作り直したり、あるいは、学校で、教材用として、
利用したりするのだと、いう返事だった。

ああ、それなら、シミがあったりしてもいいのですか?
ちょっとしたシミくらいなら、大丈夫ですよ。
あんまりひどい場合は、ひきとれなかったりしますが。

年配の女性で、誠実そうだし、
では、一度来て見てくださいといっておいた。

若い時に日本舞踊をしていたこともあって、
着物は、10枚上はある。
殆ど、着ることもなく、タンスに眠ったままで、
申し訳なく思っていたわけで、思い切って、出してみようと、
今日来てもらうように約束した。

昼過ぎに伺いますと連絡があって、
やはり誠実そうな男性が、今から伺いますと
電話が入る。かなりシミがありますよというと、
いや、どんなのでもいいんです。

このときに変だなとちょっと引っかかるものがあった。
タンスの中から、
取り出して、1枚ずつ並べてみる。
あの、貧しかった時代に、母が、1枚ずつ買い揃えて
くれた着物。手を通さずに値札が付いたままのものも。

羽織が、1万2千円。いいものではないのだけど、
そのころの、私の月給が、1万5千円だったわけだから、
殆ど、一月分だ。

現金で、買える訳ではないので、お米をお金に買えながら、
一枚ずつ買ったのだろう。
北海道に住んでいるときに収納の仕方が悪くて、
(ものすごい湿気に気が付かないまま仕舞っておいた)
カビがひどく付き、気が付いて、クリーニングに出した時は、
もう取り返しが付かなかった。

それらを、せめて写真で残そうと一枚づつ衣文かけにかけ、
カメラで、撮っていった。
あの人の結婚式に着て行ったもの。
これは、お茶会で着たもの。

などなど、開くたびに、母の思いが、伝わって、涙がこぼれる。
わたしには、姉妹が、たくさんいるのだけど、
たいていが、親の思う結婚をしなかった。
その思いのすべてをこれらの着物に託して、私に持たせたのだ。

やっと、決心が付いたところで、玄関でチャイム。

そこで、いとも簡単に中を見て、実は、
今度、大きな展示会をやるのですという。

それまで、これらの品物を預かっておいて、
代わりに割引券を差し上げます。
いつも、好評なのですが、着物で、作ったバッグや、
その他洋服などたくさん展示しますから、
是非こられませんか?
それで、気に入るものがあれば、この割引券を
お使いになっていいし、
そういうのがなければ、お預かりした、これらの
品物は、責任を持ってお返しします。
確かに、着物のリサイクルはやっておりますが
うちは、呉服屋ですから、着物は、たくさんあるわけで・・・


唖然とした。
電話でのやり取りとは、違うではないか。
この店は、ちゃんと店舗もあり、間違いは、なさそうだけど、
ある意味、詐欺商法ではないか。
結局、その日は、時間が取れないので、
展示会にはいけませんといって、お引取り願った。


この着物たちを生かす方法を見つけようと改めて考えている。
今日出そうとした、着物たちの中の2枚




亡命
2002年05月23日(木)

北朝鮮から亡命してきた、5人の話が、大きく展開し、
韓国に到着したニュースが、報道された。

韓国に到着して、親類の人たちが、駆けつけ、空港で、
抱き合うシーンを見て、とくに、母親と、その縁者が
思いを噴出したように抱き合う姿を見て、命が守られたことを
痛感した。

母親は、事前のインタビューで、韓国は、北朝鮮よりの政治に
なってきてるようで、大統領を信用できないから、いくら親戚がいても
アメリカに行きたいのだ、と答えていた。
でも、この抱き合うシーンを見ると、あの言葉は、心から、
いった言葉ではなかったのだと思った。

この亡命には、たくさんの人が、かかわっている。
韓国や、日本の支援者、また、それを阻止しようとする反対派。
ビデオを用意し、本を書き、もしも、北へ、送還された場合は、
死の宣告を受けることを十分理解したうえでの亡命。
政治亡命であることを、認めるような発言だったけれど、
年老いた、母親と、2歳の子供をつれての決断は、
壮絶なものだったろう。
日本という国を信用して、駆け込んだ彼らの、目に、
あの副領事の姿は、どんな風に映ったのだろう。

今、ここに立てて、すべてを許します。神に感謝します。
と彼は話していた。

私を含めてだけど、今の日本人は、平和でありすぎることで、
命の瀬戸際にある人の思いが、わからなくなっているのかもしれない。

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今日は、自分のことだけど、無駄なお金と時間を使ってしまった。
このところ腰痛がして、あまり経験がないだけに、
やっぱり病院へ行こうと、思い切って、家をでた。
以前行った総合病院へいこうと、時間はかなりぎりぎりだったけど、
バスに乗った。
途中で乗り継ぎをしないと、いけないところなので、
乗り継ぎのところでタクシーを使った。
時間がぎりぎりだったけど、窓口の受付を終わり、
診察窓口に行くと、4時間くらいの待ち時間になりますという。
11時から、4時間というと、下手をすると、4時になってやっと、
診療ということになりそうだ。
はじめは、待ちますといったけれど、やっぱりこれはあんまりと、
帰ることにした。

ああ、やっぱり、総合病院にいくときは、朝7時には、家を出なくては。
タクシーを使ったし、収穫はないし、乗り継ぎできるところまで、
歩くことにした。
腰の痛みは、昨日くらいから、殆どなくなってたし、まあ良いかと
方角を見当つけて、歩き出した。
一番近いバス停に出たいので、来た道路とは、違う方向に、見当つけて、
歩いて、25分くらいもかかったろうか、無事に、迷路から抜け出し、
バス停に着いた。

そして待ち時間5分。おなかはすいてるけど、なんだか、お店に入る
こともできず、家に帰った。
結局バスと、タクシーで、病院に行ってきた。それだけで、終わった日だった。


1970年代、その2
2002年05月19日(日)

何しろもともと農業で、生計を立てている人が殆どの、町というより、
村に近い田舎のこと。
3交代のフル稼働をする工場、そのために、無料の通勤バスを、提供し、
そのバスの乗務員までも地域から募集するのだ。
瞬く間にたくさんの応募者があった。

電話機というものが70年代になって、本格的に普及したと言うことを
今は忘れてしまっているが、会社ができたときは、まだ町役場くらいしか、設置していなかった。
あの、黒い磁石式の電話である。
四角い形をしていて、右手でハンドルを2,3回まわし、
送受機を取り上げ、もしもしと、交換手を呼びだす。
そして何番と、番号を言うのだ。23番とか73番とか言う番号だ。
しばらくして、黒のあの大きな、ダイアル式に変わり、
一般家庭にも、普及し始めたのだが。

会社は、当時としては、精一杯の努力をしていたと思う。
社内には、大きな交換機が置かれて、ロッカーのような形で、
電話がかかれば、ジージーという音がしていた。
その形も、しばらくすると、受付でジャックを差し替えてする
交換機に代わって行った。

私たち現地採用の人員に対して、奈良から、スペシャリストというか、
係長以上、課長、工場長などがやってきた。
そして、本格的に工場が、動き出したわけだ。
大阪に販社があって、そこから来た若手の男性など、やってきた人たちは、関西弁を早口でしゃべるわけで、田舎の工場の事務所、
管理棟と呼んでいたが、そこは、もう別の空間になっていった。

彼らがやってきてすぐに言ったことを今でも忘れない。
「汽車を降りるとそこには、牛が、寝ていて車なんか一台もない、
と聞いてきたけど、さすがに牛は、寝てなかった。」

殆ど同じ年代の男性にとって、佐賀への転勤は、島流しに近く、
いやだったろうと思う。
彼らが来た事によって、工場の中には、きらきらした熱気が、
こもるようになっていった。

すべてが新しく、若く未来も夢もいっぱいだった。



1970年代、その1
2002年05月18日(土)

ネパールの山の1通の絵はがきが届いて、何十年も前の時代が、よみがえった。
青春のころと、一口で、言うには、あまりにたくさんのものが詰まっている。

そのはがきに書いてあった言葉、
「4月21日に佐賀○○地方を通りました。
長崎道からいつも見るのですが、建物がひとつ残されて使用されていて
当時の工場のどの部所の建物か思いをめぐらします。工場の人はもちろん、
町の人たちのことなど、当時のことは幻覚のようです」

1970年代、ビートルズと、長髪と、高度成長の時代。
すべてがあれよ、あれよと、進化していた、そんな時代のことです。
佐賀県の、田舎町、炭鉱が閉山になって、町が、産炭地振興の政策に乗って、
産業を誘致した。
奈良県から、タイツの工場がやってきたのだ。
原糸をつむいで、一本の糸にし、それを、足型で、タイツを編んでいく。
次にセットという工程で、形を整え、染色部門で、色付けをする。
製品によって、先染め、後染めがあるのだが、染色が終わると
次に、裁断に入る。裁断機で、何枚も重ねた布状のタイツが、すっと切れるときは、
思わず、目を見張ったものだった。
その後、縫製。何台ものミシンで、型どおりに縫い上げていく。
そして、検品、できの悪いのは、糸ひけといわれ、よけられる。
最後に、箱詰めされ、出荷される。

このすべての工程をひとつの工場で、やっていくのだ。
私は、この工場が、起動する前から、かかわった。
何人くらいいただろう。現地採用で、リーダー養成として、奈良の本社に
研修に行ったのだ。現場の作業の指導者と、工程管理と言われる事務要員。
20人くらいもいたのだろうか、今は、はっきりしない。
私は、工程管理を研修して、2週間くらいだった気がするが、佐賀に戻って、
まだ少ない人数で、いよいよ工場がスタートした。


パスポート
2002年05月17日(金)

この日、4月の末に、申請していたパスポートを
受け取りに行った。
私たち夫婦にとって、生まれて始めて手にするパスポート。
ちょっと興奮しながら、開いてみる。

写真としてみた時より、
出来上がったパスポートのほうが、数段良いね、
などと勝手なことを言い合った。

わが夫の生涯の夢は、持ち家を持つこと。
ハワイに旅行することの二つ。

持ち家なんて、絶対不可能だよ、などという私に、
心の中で、多分ののしったこともあるんだろうな

16年前に、ふとしたことから、本気で、家を買おうと、
交渉が、始まり、短い時間で、決定した頃は、
ローンを払えなくて、夜逃げなんてことになったらどうする?
とか、電話代が、落ちなかったら?電気代が払えなかったら?とか
いろいろ想像して、大笑いしながら、それでも、

子供たちと、まず一番に犬を飼おうねなんて、弾む気持ちを
おさえられなかったり・・

ひとつの夢は、こうしてかなえられたわけで、
もうひとつの海外旅行も、やっと実現しそうなのだ。

じつは、夫は、あと数ヶ月で、定年退官する。
そのまえにどうしてもと、ここ2年ほど、ずっと言い続けてきた。
それにやっと、私が負けたというか、
まるで、気持ちが動かなかったのだけど、あまりに熱心なので、
重い腰を上げて、ツアーの説明会にいってみた。
ニュージーランドは、素敵だったけど、季節的にちょっと寒すぎるようだ。

次に目に付いたのが、ヨーロッパ。
何しろ初めてだし、言葉はしゃべれない。
添乗員付きでないと、絶対に不安なので、そういうのを探し、
とにかく説明を聞きに行く。
一緒に行ければ良いけど、そういうわけにも行かず、
代表で、聞いてきた。
私は、いっぺんで気に入ったのだけど、夫はもともと
ハワイに行きたかったわけで、・・・
でも、ハワイは、適当なのが見付からない。
6月というのが夫の希望だし、職場には、5月はじめに予定を出さなければ
いけないのだ。

やっと折り合いが付いて、申し込みを済ませた。
そして、いまや、その時を待つのみと、張り切っている。
けど、禁煙なんだよなあ。
絶えられるかなあ・・・毎日つぶやいている。

私ときたら、
準備することはいっぱいあるんだけど、
まだ、現実味がなくて・・・
多分直前まで、こんな感じなんだろう


ヨーグルトの話
2002年05月15日(水)

夕食の支度をしながら見るともなしに、
聞いていた(こんな表現はないかも)テレビ。

ヨーグルトは、コレステロールを下げるので、常時たべるとよい
というのは、以前から聞いて知っていたのだけど。
今、カスピ海ヨーグルトというのが、ひそかにはやっているらしい。
かなり昔だけど、確かケフィア菌のヨーグルトというのもあった。

これらが、どんな風に違うのかは、よくわからないのだけど、
改めて、放送しているので、手を休めて聴いてみる。

今、よく体力年齢を測定するのに、
どこどこの年齢・・
たとえば、血液年齢とか、骨年齢とか、肌年齢とかだけど、

腸年齢というのがあるそうだ。
そこで、アンケートに答えながら、測定してみると、
(私でなくテレビに出てる人)20代なのに60歳
50代なのに90歳などとなって、顔面蒼白状態。

そこで、ヨーグルトを100cc毎日1週間摂ったらどうなるかと
試したところ、60代だった人が、20代に
90代だった人が30代と、いっぺんに若返って、
嬉々となった。

ここまでの取材で、それ以上継続して取材するのかどうかは
わからないのだけど、このまま食べ続けると、
子供くらいの腸年齢になったりするのだろうか?

ヨーグルトには、いろんな種類があって、
これまで、プレーンだけが、体にいいのだと
勝手に思い込んでいたのだけど、
それぞれに、役割が違うそうだ。

プレーンにフルーツが入ったのが、フルーツヨーグルトで
ビタミンCが、強化されるわけだから、お肌にいいし、

固めのヨーグルトは、寒天の(多分そうだったと思う)成分が、
混じってるので、便秘にいいし、

などと、紹介されていた。
これらの、ヨーグルトを毎日、日替わりで、100ccづつ
摂っていくと肌荒れと、便秘と、コレステロールの増加に
対して、決して負けないのであれば、これは、摂るしかない

で、いつから実行しようかと今、考え中なのだ。



鳥の名前
2002年05月14日(火)

この時期、ちょっと山に入ると小鳥のさまざまな声が聞こえてくる。
今朝の、新聞を見ていると、小鳥の名前の由来が書いてあった。

「メジロや、オオルリは、その色から、

そういえば、色で、つけられた名前は、多い。
それに、泣き声でつけられた名前も多い。

代表は、ホトトギス
地方によっては、方言で鳴くそうだ
ホトタカチョ、ホトトケボ、他に、、てっぺんかけたか特許許可局
なんていうのもある。

ひばりは、日晴れという説もあるが、
ヒーバルヒーバル と鳴くし

コマドリはヒンカララララと鳴いて、駒の鳴き方に似ている。
カラスはカアーとも、カラーとも・・

ふくろうはフクロウ、フクロウ、フクロウと続けて言えば、
それが鳴き声になる」

                      以上、読売新聞から

いつも聞いている、鳴き声を分析してみるのも
面白いのではないかとちょっと調べてみた。

ハンドルネームにしているひばりの鳴き声が
ヒーバルヒーバルというのは、今まで、気がつかなかった。

突然、大空に舞い上がり、瞬間にチッという鋭い声が、
聞こえるところが、親が子を必死で、守る様がして好きだ。


モズ (キチキチキチ、キー)
あちこちで、見かけるが、舌か赤いのが特徴
よく鳴くから百舌なのかな

つばめ
この季節になると、優美な姿を見せる。
実家の小屋には、今でも、毎年巣を作る。
お向かいの玄関にも、巣作りしそうだったので、追い出したそうだ。

すずめ (チュンチュン)
毎日やってくる。
いつも忙しそうに歩き回ってる様が、かわいい

カササギ
みかけは、綺麗な形なんだけど、声は野太いというか、
すずめを大きくしたような、声で、カラスに似てて、中途半端だ。
でも、一番馴染んだ鳥でもある。

キジバト
今住んでいる地方に多い。
はじめ鳴き声をきいたころ、ずっとふくろうだと信じてた。
ボーボーというか、ほうほうと聞こえて、夜に聞こえると
気味悪かったりしたものだ。

むくどり
大勢でやってきて、木の実をすっかり平らげていってしまう。
残された土産が、いつも玄関や、駐車場に落ちていて始末にこまるのだが・・・

実際には、山や、川で、見かけても、名前を知らない鳥のほうがおおい。
図鑑で、みても、書いてある声と実際に聞こえる声とは、
違うような気がするし無理にあわせて、ああそうかと思ったり、・・
じゃ、文字に表せといわれても困るのだが、

あさなど、聞こえるととても、いい気分で、起きられるのだけど、
カラスだけは、寝起きにそばで、鳴かれるとどうにも不吉な気分になる。
とくに、ゴミ出し日の朝は、あの太った、ハシブトガラスがそばでなくと
やりきれない。早くえさをと、催促してる声に聞こえる・・・


ラナの受難
2002年05月12日(日)


夕べの寒さはうそみたい。
見る間にカラット、晴れ上がった。
ラナはいつものように、散歩の催促をする
今日は、日曜日だし(一人だから関係ないけど)
やっと晴れたんだから、洗濯をしなくては
まず済ましてからと、洗濯物を朝一で終わらせる。

おとといは、実はひどい目にあったのだ。
雨が降っていて傘を持っていた。
いつも通るコースに大きな犬がいる。
家の敷地で,離してあるのだが、比較的おとなしい。
それで、よく立ち止まって挨拶をする。
仮に名前を太郎としよう

いつものように、そっちに行きたがるので、
なんのことなく挨拶をして(太郎にということ)
立ち去ろうとした。

その時だ、足に何か障るものがある
きゃつ・・思わず大きな声で、駄目!と叫んでいた。
なんとその太郎、ラナをめがけて、突進してきて、
今にも、覆いかぶさろうと・・
いうより、ほとんど、もうくっついていた。

びっくりして、ラナを抱き上げた。
けど、大きな犬なので、殆ど、ラナの尻尾に太郎の口が届いている
周りに家はたくさんあるけれど、
誰も見てる人はいなし、怖いのなんの・・

走るとかまれそうだし、とにかく何度も駄目、と叫びながら、
逃げるのだが、私の足の間に入り込んできて、
ラナを狙う。

少し行ったところで、違う犬のうちがあった。
そこで、太郎がそっちに気を取られてる間に、
ラナをかかえて必死で、逃げた。

そこから自宅まで、ワンブロック
でも、太郎は追いかけてくる
ラナはというと、遊びたくて、腕の中で
もがくのだ。
必死で、いつの間にか、私の腕に力が入りすぎているので、
ラナは、時々ゲッと言う声を出した。

途中で,斜向かいのご主人の車に出会った。
怪訝な顔で、見ていたけど、
もう、体裁も何もない。
アセって、家に飛び込んだ。

玄関に鍵を差し込む時、手がふるえ
持ってるものすべを部屋の中に投げ出した。
太郎はというと、後ろから追いかけてきていたが、
家にまでは、入れないので、
通り越して、どこへやら走っていった。

ラナは、今、怖いもの知らず、
犬がいるとどんなにほえられてもそのお宅に
向かっていこうとするし、
途中で、会えば、喜んで、遊ぼうとする。

オス犬の執念が、ものすごいことは、
知ってはいたのだけど幼犬にまで、こんなに
執着するとはしらなかった。
うちの庭は、フェンスがない部分があって、
時々、よその犬が、侵入してるのを最近見かける。
今、工事を頼んでいるのだが、
これは、催促して早いとこ終わらせねば・・




中国の日本領事館
2002年05月10日(金)

昨日から、何度も放映されている、亡命事件の一部始終
小説の一幕のようなシーン、女性の絶叫・・
なぜ、あれほど一切が、ビデオに収録されているのかと
はじめから不思議に思ってみていたが、あれは、
亡命希望者自身が、記録を依頼していたという。
これは単なる憶測だけれど、それでは、あの警官たちも、
もしかしたら、何かを感じて、あそこに、張り付いていたのだろうか。
領事館は、治外法権のはずなのに、いったん入った人を、
まるで、動物を引きずり出すように連れ出している。
彼らは、一家族でどのような思いで、計画をし、
あそこに走りこんだのだろう。
日本に領事館の人は、その瞬間をどう感じていたのだろう。
新聞には、まるで、気が付かなかったようなことが書いてあった。
あの、小さな少女は、あの家族は、これからどう生きていくのだろう。
なにかしら、背筋の寒くなる思いがする。

先日、アウンサン・スー・チーさんが、釈放されて、
あの、いつも変わらぬ、すばらしい笑顔で、マイクの前に
たっていたのを見た。髪を花で飾って、毅然として、
決して、うつむくことのない女性。

理想のあり方として、偶像化されているのかもしれないが、
すらりとして、まっすぐの強い視線が、いつまでも輝いていて
欲しいと願う。夫や子供との長い別々の暮らし。
あの強さは、どこから湧き出るのだろう


新しい日記帳
2002年05月09日(木)

新しい日記を借りてみた。
過去を振り返り、未来を思いながら、
少々脚色して書き進んでいきたい。

今日は5月9日、結婚記念日だった。
これまでに、記念日を祝ったことがない。
なぜか、当日になると不思議に忘れている。
20数年前の当日は、実に暑い日だった。
世間で、よく言う晩婚の部類だった私は、
殆ど上がることがなく、どこかしら覚めた目で、
ウエディングを友人のような感覚で楽しんでいたのを
覚えている。
それに引き換え、夫は、感激やさんで、足が痺れたりの
ハプニングがあるごとに、笑いあり、涙ありの
式だった。
とりわけ、花嫁の私が、日本舞踊を踊ったことに
いたく感激していた。



アザーズ
2002年05月06日(月)

話題の映画を見に行った。

グレース(ニコール・キッドマン)が限りなく美しい。
透き通るような輝きと品位に満ちた美しさに、まず惹きつけられる。その美しい母親の悲鳴から映画が始まる。

まるで、霧の中から現れたような、3人の召使。
その時からアザーズの存在が・・・
時折見せる、娘の母に対する冷たい視線、反抗。
ホラー映画にある恐怖は、どこにもなく、かといって、背筋を這う、冷たい感触は、いいしれない。
あくまでも光を拒否し、家中、ドアを開けて中に入るときは前の部屋に必ず鍵をかける、そして入ってまたかける。どこにいても常に密室状態の部屋、緊迫感が走る。

最後まで見ると、すべての謎が解ける。
次にまた、アレハンドロ・アメナーバル監督の作品が、公開されたら、必ず見に行くことは、間違いない



里帰り パート2
2002年05月04日(土)

朝からやっぱりお天気不良・・・早めに出かけようと、ラナを2度目の散歩に連れ出す。
リードをはずすと思い切りよく走り出し、かなり小さく見えるところで、名前を呼ぶと一瞬立ち止まり、麦畑の中を覗いていたが、瞬く間に見えなくなった。
あわてて走っていくとどこにも見えない。
あぜ道に、れんげそうが、いっぱい咲いていた。そこを一目散に走っていくのが見えた。もう一度大声で呼ぶとまた一目散に走ってもどってきた。
一面田んぼ、けど、鉄道線路が、脇を走っているので、注意が必要だ。
以前、実家にいたシェルティは電車が通ると一緒になって走っていた。毎日のことで、危険はなかったのだが、ある日、いつものように走っていて、突然心臓麻痺になってなくなってしまった。その時はあまりに突然で、あっけなくて泣く事もできなかったと、その場にいた母は言っていた。

妹一家の準備が終わって10時に有田に出かけた。ついた頃からあめになり、店先を早足で回ったところで、あきらめて帰ることにする。来る途中にたくさんのふきとアザミが群生していたので、帰りに寄ろうと楽しみにしていたがそれも見込みなし。
昼食を食べて帰った。

この日は、妹の家に泊まり。
実家から、歩いてもいけるところなので、ラナを歩いて連れて行く。

妹の家には、元野良だった猫ちゃんと、ご近所の人の引越しで、無理やり頼まれたワンちゃんと、傷ついたすずめが亡くなった悲しみから、抜け出せなかった甥を慰めるために急遽飼ったインコとが同居している

ここでも、猫のどらちゃんとのご対面が始まった。どらちゃんは、おとなしい性格なのだが、やはり猫であるために、実家のたまちゃん同様、距離を置いての監視が始まった。今までは、新参者である、インコのピーちゃんを飽かず監視していたようだが、ピーちゃんには、見向きもせずにただ、ひたすらラナを見つめる。
そのうちに近づき、足での交歓があった。
そしてやっと、警戒が解けたようだ。

次の日の朝、犬のごんちゃんと散歩に出る。オス犬だから仲良くいけるかと思ったのが、私の浅はかなところ。
彼は、立派な大人。発情期真っ盛りだったのだ。後ろを向いた状態で、引っ張られながらの散歩は彼にとっては、残酷物語だったのかも・・

朝からかなりの雨。
もう出かけるところは他にないと、温泉に行くことになった。とりあえず実家に集合して、どこの温泉かを決める。
やっとつい最近できたばかりの祐徳温泉に行くことになった。時間にして30分くらいの距離にある。
ものすごい人の多さにびっくり。お昼だったので、とりあえず腹ごしらえとうどんの昼食、手打ちうどんで、緬はおいしかった。思ったよりは、中も広く、自然温泉と、銘打ってあるとおりに、自然石をふんだんに使ってあって、ゆったりと、気持ちのよい温泉だった。欠点は、無料の休憩所が特になかったこと。

帰りは、ますます土砂降り状態。
とりあえず実家に寄る。テレビで、どんたく広場の中継をしていたが、ケイ・ウンスクさんが歌っているのに、聞いている人は、本当にちらほら。パレードも中止されるほどの大雨だったのだ。

そろそろ家に帰る時間と、来た時と同じように準備万端整えて、ラナを乗せる。
帰りは、わりとリラックスしているように見える。
高速道路は、途中で深い霧。その途中で、故障車が止まっており、引き取りに来た、JAFが、発炎筒を焚いていた。
思わず、車が炎上かとおもう。

泡を吹いたくらいで、何とか無事に家に到着。すぐに、フードをしっかり食べて、熟睡。夜になって、寝室に引き上げると今まで、一度も泣き声を出さなかったラナが、悲しそうにないている。これまでにも殆どほえたりないたりしないので、猫ちゃんとからかわれていたのだが・・・ラナにとっては、受難の旅だったのかも・・






里帰り
2002年05月02日(木)

5月の連休には、これまで家で、お客さんの接待が多かったので、今年は、こっちから出かけようと早めに、実家と妹のところにアポイント(つまりは、押しかけなのだが)をとっておいた。
一日に職場のお客さんを迎えて、その翌朝一路佐賀へ向かった。

今回は、ラナをつれてのドライブなので、用意が大変。ペットフードにサークル・・
一番問題なのが、車酔いをすること。
かわいそうだが、朝の食事は抜き。だけど目の誘惑に負けて、夫が、玉子焼きを少々あげている。
後部座席にいつものバスタオルをひき、さあ出発。はじめから、情けないかおをしている。20分もするとよだれがだらだら。
もう少しで、パーキングに着くところで、いきなり立ち上がったかと思うと朝の玉子焼きを思い切り吐く。
まあ、何とかキャッチしたが、・・・
高速のパーキングで、とりあえずトイレ休憩。車から降りると大喜び、ちょっと散歩して、トイレを済ます。近頃は、高速のパーキングには、ワンちゃんを連れた人が大勢いて、酔わないワンちゃんが、ちとうらやましくなったりもする。

気を取り直して、あと40分の工程に・・
とてもよい天気で、山が新緑で、実に美しい、が、カメラは手元にないので帰りの楽しみにしようと、意識は、ラナに集中する。

やっと、実家に近づいたところで、農道で、車を降りて、そこから歩くことにした。先にカラスが見えた。とたん、俄然走り出して、田んぼや畑なんのその。戻った時は、もう泥だらけ・・

さて、気の早い母は、もう圧力釜で、豆を煮ている。この圧力釜が、ピンの具合が悪く、なかなか煮えてくれない。一時途方にくれながらも20キロのお味噌を作るため、5キロの豆を煮た。
煮えた豆をパスタつくりの機械の形に似た豆つぶし機にいれて、つぶし、それを麹とまぜる。お湯を少しずつ加えながら、味噌だまを作り、仮置きする。冷えたところで、たるに詰め込む。
一番下に、コブと、ショウガ、からからに干した大根を敷き(大根は、味噌の水分を取るため)味噌をしっかりと押して詰め、途中で、コブを入れる。それを何回か繰り返してさいごに、砂糖を上からしっかりとかぶせる(防腐剤の役目をするのだ)
これで、しっかりと封をして寝かせる。
後始末をして、終わったのは、夕方4時。

その間、ラナは、近くにリードで、つなぐ。実家には、ワンちゃんが2匹猫ちゃんが1匹いる。猫のたまが、はじめ戦闘態勢でやってきた。できるだけ離して置いておくと、少しずつ、少しずつ擦り寄ってきて、じっと番をしている。目が片時も離れることがない。はじめは、ドアの向こうから、そのうちドアの内側から、そして、ちょっとづつ近づいてくる。
いつも、縁側のソファで、午後までの時間を過ごしているのに、ラナの半径3メートルの範囲から離れない。
ふと気がつくと、鼻と鼻をくっつけていた。もうびっくりしたが、それで、どうやら挨拶が終わったらしくその後は、毛が逆立つことはなかった。ラナは緊張しているのか殆ど水もフードも食べずに一日が終わる。
明日は、陶器市に行くことにしているがどうやら、雨になりそうだ。



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