結婚と不倫と離婚の間
蒲公英



 まだ終わりません。

結局まだ運びきれなかった荷物が残ってまして、あと1日、2日引越し作業は続きそうです。(;_;)

疲れた〜(-.-;;


2003年03月31日(月)



 パニック!

引越し準備が進まない!
銀行へ行ったり、役所に行ったり、友達に会ったり、忙しい。
あと3日で全部片付くのか?

今更ながら、ガスレンジや換気扇の汚れが気になったり。
もう出て行く家なんだから良いじゃん! と思いつつも、義お母さんがやってきて、「なんだこれは!」と思われるのも悔しいしとか考えたり。

そんなのどうでも良いから兎に角引越し荷物をまとめるのが先でしょ!
と自分に突っ込みつつ、パニクてます。

2003年03月28日(金)



 卒園式

今日は卒園式でした。
娘の晴れ姿にやはり泣いてしまいました。

3歳2ヶ月で入園し、3年半。
本当に大きくなったなと感慨ひとしおです。

それと同時に、これから娘の身に降りかかる様々な試練、特に母親の私が招いた悲しみや辛さを思うと申し訳なさで涙が止まりませんでした。
「ごめんね、ごめんね。」と何度も声に出てしまっていました。

もう心は決まっているけれど、やっぱりまた自問自答してしまします。



2003年03月22日(土)



 揺れる

「いつ引っ越すの?」
どっきりするほど優しい声で聞かれた。
顔を向ける事が出来なかった。
これで良いのかとまた心が揺れた。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

今日、電動エンピツ削りを買った。

実家に戻ってからにしようと考えていたのだが、お気に入りのキャラクターのものを広告で見付けて、「絶対これ! 多分、おばあちゃんちの方には売ってないと思うからお願い!」と娘にせがまれて。

制服や上履きやその他の準備は全て実家に戻ってからになるので、揃った入学準備品は、おじいちゃんにもらった学習机とランドセルとエンピツ削りさけ。

小学校入学といえば、子供も親もとても楽しみなことだろうに、私には気が重い。多分娘も、余計な不安を感じさせているだろう。

良いの? これで良いの? ほんとに良いの?

迷いと不安で一杯になる。

2003年03月21日(金)



 娘の励まし

今朝、いつものように保育園の連絡帳に保育園への連絡事項を書き込もうとノートを開くと、先生からのメッセージがあった。

「ご実家に戻られるのだそうですね。大変ですね〜。○○ちゃんもお友達と離れるのが寂しいらしく、お絵かき帳にクラスのお友達全員の顔と名前を描き止めていました。」

私は、また、朝から号泣である。(ーー;

そんな私に気付き、娘は
「また泣きべそ〜!?」とちょっとお叱り口調だ。
「ごめん、、、だって、、、」と先生の言葉を読んで聞かせた。
「まぁね、離れちゃうとなかなか会えなくなるから、想い出にね〜」と
テレビを見ながら以外にあっさり答えた。
それでも私は涙が止まらず、
「どうしよう〜、やっぱりここにいようか〜?」
などと、子供を惑わすような事を言ってしまった。
が、娘は
「ダメだよ〜、校長先生に4月7日の入学式に来るね、って約束しちゃったもん!
お母さんももう泣きべそしないで! もう決めちゃったんだからね!」と、全くどっちが大人だか・・・(T_T)

今まで娘の存在をここに留まる理由にしてきたが、今はその娘に「自分の道を歩むよう」背中を押されてるようだ。小さな心と身体で精一杯がんばって私を励まし、私を愛してくれる娘を何よりも大切に思う。




↑エンピツ投票ボタン

My追加


2003年03月19日(水)



 車中

クルマを走らせた途端涙がにじんできた。
助手席の娘に気付かれないよそっとぬぐった。

が、1つめの信号で停車している間に涙が溢れ嗚咽を抑えられなかった。
娘が心配そうに私を見た。

「○○ちゃん、やっぱおばあちゃんちに行くの止めようか?」
全く情けないことを口走ってしまった。
きっと、寂しいのは、不安なのは娘も同じなのに。

娘は、
「でも、お母さん、おばあちゃんの看病したいんでしょ?
お母さんは○○ちゃんの次におばあちゃんが大切なんでしょ?
分るよ、○○ちゃんもお母さんが大切だから。
だから、○○ちゃんはお母さんに着いて行くよ。(^^)」
私を励ますようににっこり笑って言う。

「ありがとう、○○ちゃん。」
涙がぽたぽた落ちた。

信号が青になって、娘に促され発車した。

「ね、お母さん! 私の好きな曲、聞いて良い?」
とCDチェンジャーを操作する娘。
いきなり鳴りだしたのはお邪魔女どれみちゃん(^^;;
私はまだ涙が乾かないまま娘と一緒に大声でどれみちゃんを歌った。

最寄のインターチェンジまで少し渋滞していた。
途中の景色をなんだか懐かしく眺めながらゆっくり走った。

高速道路に載ってからまた涙が出た。
8年間済みなれた街を後にする…
本当はほんの3日でまた戻ってくるのに、もう最後のような気分になっていた。

道中、娘は私を励ますように、「おばあちゃんちで暮らすようになったら、、、」と楽しみな想像を色々聞かせてくれた。そして不安も。
「お友達出来るかな〜。 だ〜れ(誰)も知ったお友達いないからな〜、おばあちゃんちの小学校。 ね、もし、お友達が出来なかったら、お母さんが毎日遊んでくれる?」
「もちろんだよ。(^^) けど、○○ちゃんならすぐにお友達出来るよ。一緒にいて楽しいし、思いやりのある優しい子だから。」
「え〜、けど、お友達になるのって結構難しいんだよ〜(^o^)」
と、保育園でのお友達との想い出話になった。
3年半の保育園生活で、喧嘩して泣いたり、仲直り出来て笑ったり、そんな事を何度も繰り返して、少しずつみんなの事が分ってきて最後には全員大のお友達になれたのだと娘は話した。
そしてそんなお友達と遠く離れてしまう事が寂しいとポロっと本音をもらした。

娘には本当に沢山の無理をさせてしまっている事を改めて感じ、また涙が溢れた。
「ごめんね、ごめんね。」と何度も心の中で謝った。
そして、これからは娘と二人(ま、これまでも"二人"だったようなものだが)頑張って行こうと心に誓った。

2度目のトイレ休憩の後、再びクルマを快調に走らせながらふと思う。
私の運転でも6時間程度の距離なのに、、、月に一度の面会を強要するなと言う夫。月に1度の週末に往復出来ないほどの距離か? 私はてっきり、「月に一度会いに行く事を了解しろ」と言われると思ったので、金曜の朝のメールには本当に驚いた。やっぱり夫の考えは理解出来ない。

目的地まであと1時間の辺りで、さすがに運転に疲れを感じてその事を口に出すと、娘は「元気になるようにちゅ〜してあげる(^^)」と言って迫ってきた。(^^)
運転が危ないので、次のSAでクルマを停めてちゅ〜してもらった。(^^)
ほんとにむすめの存在は有り難い。

その後、実家での数日間で何度も、娘の気遣いを有り難いと感謝する場面があった。それはまた後日に日記に書くが、この時の娘の言葉や態度を私は決して一生忘れてはいけないと心に誓った。

ありがとう○○ちゃん。




↑エンピツ投票ボタン

My追加



2003年03月17日(月)



 転出の朝

子供の小学校入学の事があるので、早く住民票を移動させて、入学の手続きをしなくてはいけない。
金曜に市役所で転出届を出して、土曜に実家に帰った。

クルマで帰省するので、宅急便では運び辛いそうな荷物を運ぼうと、午前中、荷造りをした。
途中、何度も涙が出て、作業出来なかった。

何が悲しいのか?
夫への未練か?
これからの生活への不安か?

頭の半分で自問自答しながら、かなり派手に泣いた。

夫はずっとリビングテーブルに座ったままで微塵も動かなかった。
多分、私の目が赤く腫れぼったくなっているのに気付いているだろうに、何も言わず、何もしなかった。

何かを言われても困るし、何もして欲しくもなかったけど、何もない事が寂しいような気がした。

2階の子供部屋の買ったばかりの学習机に座り、私はまた泣いた。

新しい机を娘はとても喜んだ。

いずれ離婚となってもこの机は娘がもらえるだろうが、この机の置き場はもうここではないのだ。
見晴らしの良い子供部屋の窓際に立って、涙が流れ出た。

窓からの眺めが娘にどんな楽しい空想をもたらすのかと、あまり好きではない我が家で唯一私のお気に入りだった部屋。
ごめんね、と娘に申し訳ない気持で一杯になった。

立っていられないほどになり、私は学習机に座りこみ声を上げて泣いた。

私だって幸せな家族・家庭を望んでいた。
それぞれが仕事や勉強で忙しくても、休日は家族揃って楽しく過ごす事を夢みていた。
何故、それだけの事が出来なかったのだろう?
いつから、私は、一人ぼっちだと感じるようになったのだろう。

「嘘つき!」と泣きながら叫んでみた。

結婚前、夫は私の両親に「娘さんを幸せにします!」と宣言したのに、、、
嘘つき、、、

「私が悪いんじゃない! 貴方が悪いのよ!」
そう声に出して言ってみた。

ほんとは私も悪いと分っているけど、そう言ってみた。
ちょっとだけすっきりして時計を見ると、もうお昼を回っていた。
早く出発しないと、今日中に実家に辿りつけなくなる。

最後にクルマに積むつもりだった1番大きな箱を抱えて階下に降りた。
階段でジタバタしている私に気付いて、夫が手を貸してくれた。
何も言わず。

全部の荷物を積み終えていよいよ出発だ。
「気を付けて」と夫が力なく言った。
「うん。じゃ〜」
夫と目を合わせられなくて私はクルマに乗り込んだ。

(続く)


2003年03月16日(日)



 別居に条件

翌朝、いつものように、ほとんど会話することもなく、夫は出勤した。

私もいつものように慌しく朝の支度をした。

子供を保育園に送り届け、職場に向かいながら、
「結局、昨日の話合いは・・・? あれで、別居OK!て事なのかな〜?」と釈然としないままだった。

と、そこへ、私の携帯に夫からメールが届いた。
読んでみると、「別居の条件」と言うタイトルで、その条件とやらが箇条書きでかいてあった。
いつものパターンだ。<箇条書き
条件は全部で3つだったが、一番めの条件には驚いてしまった。
「月に一度、面会に行く事を強要しないで欲しい」と言うものである。
私はてっきり、逆に、月1度の面会を要求されるものと思っていたので、とても驚いた。続きを読むと、仕事が忙しいので、遠くまでなかなか会いに行けないと思うが、会いに行かない事を愛情の尺度にしてもらっては困ると言う内容だった。
予想外の条件に一瞬驚いたが、まぁ、夫らしいとも思えた。

2番目は期間は夏休みまで。
これは、前夜にも話に出た事だし、その頃にもう一度話し合うと言うのが妥当だと私も思った。

3番目は、家の片付けをきちんとして行く事。
これは、ごもっともな事で、精一杯やって行こうと自分でも思っている。

と、こんな具合で、まずは、別居の承諾を得られた。

2003年03月15日(土)



 話し合い

昨夜、夫はいつもより少し早く帰宅した。
そして、1日早いホワイトデーのお返しだと言って、娘と私にとプレゼントをくれた。
けど、結局、私の分も娘の取られて、私には実質なにもなかった。
まぁ、そんな事はどっちでも良かったけど。

夜に話合う約束をしていたが、私はいつものように娘と一緒に眠ってしまった。
が、「今夜こそはきちんと話さなければ」と思い、夫が寝室に上がってきたらちゃんと起きようと気を張りながら眠っていたので、夫が1時頃に寝室に入って来たときには目を覚ました。

夫は、「やれやれ、結局また寝ちゃってるじゃないか」とでも言いたげに大きなため息をついていた。
私は、「起きてるよ。」と声を掛けた。
「あぁ。」夫は返事をしたが、何も話さなかった。

なんと切り出そう・・・私は考えた。
けど、寝起きで頭が思うように回らない。
ぼんやりしたまま「私、この家が大嫌いなの。この家にいる限り、この家を建てたころの事を忘れなくて、いろんな事が辛いし、一人よがりだった貴方をどうしても許せない。」
そんな話を始めた。

家を持つ前は2DKの社宅暮らしだった。家を持つ事を夫が決めた頃、私は、もう一度夫婦でやり直す事を考え、彼と別れる事を決心していた。子供ももう一人、、、とも考えたいた。
が、そうなると、パート勤めも止めなければならないし、家計上、住宅ローンを抱えるのは不安が大きすぎるので、家は子供が小学校に上がる頃まで待とうと私は提案した。
二人目の子供を取るのか、マイホームを取るのか、、、と言う事まで夫に聞いたが、夫は、工務店の口車に乗り、ローンを組むなら今だ!とかなんとか、色んな口実を並べ、家作りの計画を勝手にドンドン勧めた。
貯金などほとんどなく、全額ローン状態で、独身時代に私が貯めていた預貯金も全部はたいて、、、(今にして思えばこれは大失敗だった...自分の貯金は何があっても手放してはいけません!)

大体、夫は、何につけても、一旦手に入れたいと思いたつと、絶対にそれを手に入れないと気が済まないのだ。

話が長くなったが、そんなこんなで、この家は、キッチンのシンク1つも私が望んだものではなく、夫が勝手にやったものだ。
なので、私はこの家に全く愛着などないし、それどころか、嫌な思い出の塊なのだ。

そんなわけで、私が「「私、この家が大嫌いなの。この家にいる限り、この家を建てたころの事を忘れなくて、いろんな事が辛いし、一人よがりだった貴方をどうしても許せない。」と言ったわけを夫はそれなりに理解したようだ。

「でも、子供が、、、やはり、両親が揃っているに越したことは事はないだろう、、、」と夫は話した。
「どうだろうね〜? ○○(娘)は、『お母さんが幸せなら、おばあちゃんと一緒に暮らしても良いよ。』と言ってくれてるけど。」
夫はまた黙ってしまった。
私は話を続けた。
「私が今月一杯で仕事を止めると言ってた事については、あなた、どう考えていたの?」
「どうって・・・」
これは、何も考えていない時のリアクションだ。
私は、娘が小学校に上がり、低学年にうちはカギっ子も可哀想だろうと思い、仕事を止める事を考えていた。(が、それは立て前で、実は内心実家に帰る事を考えいたからなのだが)

「私が仕事を止めたら、まずは家計が成り立たないのよ。それに、また前のようになるかも。」
私は、今の仕事を始める前、3年ほど専業主婦をしていたが、どうもそれが性分に合わないらしく、毎日すごいストレスを感じ、ついに限界を自覚し始めたので、これではいけないと、仕事を始めたのだ。

「前のようになるって・・・」
夫は、多分、私が引き篭もりのようになって、ネットに没頭し、挙句はネットで知り合った人と出歩くようになった、あの日々を思い出していたに違いない。
「またあんな風になるというのか・・・?」
・・・・・
「またあんな風になるというのか・・・?」
そういう夫はやはり何も考えてなかったのだ、妻が仕事を辞めると言い出した事に
ついて、今後、家族はどう変わって行くべきかを。

いつもそうだ。

「そういう事、何も考えてなかったのね! ま、良いよ、そうだと思ってたから。
でね、ま、職場にもやめる事言わないといけないし、急なことだから、事務の人には少し事情を話したんだけどね。その人も数年前に別居の経験があったんだって、その時初めて聞かせてもらったんだけどね。で、ま、その人が言うには、そんなに長い期間こじれたままなら、一端離れない限りは修復も無理だろうねと言ってた。その人は結局元さやに戻ったらしいんだけどね。」

夫は「うん、うん」ところどころで相槌を打って聞いていた。
ちょっぴり「修復の可能性」を匂わせたので食い付いてきた感じだった。

が、私はあくまで、その「事務の人」の場合として強調した。

更に私は続けた。

「父親がいなくなる事で子供がどんな辛い目に合うのかと心配する貴方の気持も分る。私も正直、母子だけの生活がどれほどキツイかと不安はあるよ。けど、やってみたら案外、貴方も私も子供も、なんとかやって行けるかもしれない。愛情もない形だけの家族を保つためにみんなが無理をするよりずっと良いかもしれない。だから、取りあえず、少し別居してみてはどうかと思うの。」

夫はほんのちょっと考えて、
「それはいつまでなの?」と聞いてきた。

「子供の学校の事とか考慮して、夏休みか、、、年度末か、、、」
と私は一応答えた。(内心戻る気はさらさらないのだが)

「取りあえず、義母さんの看病もしたいのだろうし、、、」
と夫はそう答えながら、眠ってしまった。

(続きは次回)









2003年03月14日(金)



 話合い

週末から数日、実母の見舞いを兼ねて実家に帰る。

今回の帰省で、住民票を移し、娘の小学校入学手続きを済ませるつもりだ。

が、その事をまだ夫には話していない。

いや、とっくにその事は話してあると私は思っていた。

年度末までは、私の仕事の事もあって、こちらにいるが、年度明けには子供の入学の事もあるので、きちんとしたいととっくに話してある。

が、ここのところの夫の態度は、「分ってくれてるの〜?」という感じだ。

平日の夜に家族で遅くまで開いているちょっと遠くのホームセンターに行ったり、
数日前には、「明日お弁当作って欲しいな〜」とニコニコしながら言ってきたりもしてた。

どうしよう。。。
もう一度、しっかり念押しすべきなのか?
父や妹に
「旦那にきちんと承諾してもらってこっちに来ないとまずいんじゃない?」と言われ、そうなんだろうか・・・?と気持が落ち込む。

そんな状態で、なんだか全身の力が抜けたようになって、昨夜は早々に眠ってしまった。

夜中に目が覚め、お風呂にも入ってなかった事に気付きシャワーを浴びた。
そのまま眠れずに明け方までぼんやりしていると、夫がいつもより1時間も早く起きてきた。

その後、なんの会話もなく、私はぼんやりテレビを眺め、夫は、毎日しているように朝風呂に入った後、メールチェックをしていた。

私は何度も深いため息を吐いた。

言わなくちゃ・・・
今?
今夜?
明日?
どうしよう・・・

結局、夫の出勤時間になって、
「行って来ます。」<夫
「はい」<私

動悸が激しくなった。
めまいがしそうになって横になった。

夫にメールしようか・・・
いや、メールではダメだ。
(整った文章では今の私の苦しみを分ってもらえないと思った)

夫の携帯に電話した。
駅までの道を歩いているところだった。

「ね、私、苦しくて、もうどうにかなりそう。
もうだめだよ。だから、実家に帰して。お願いだから。」
と荒い息のまま訴えた。
「子供の学校はどうするんだ?」
「向こうの学校にやる。」
「・・・親の身勝手で子供を振りまわして言いと思ってるのか?」
「・・・ね、お父さんの仕事に都合で、家族みんなが振りまわされるのは良くて、
私のこんな状態が理由なのはいけない事なの?」
「・・・兎に角、帰ったらゆっくり話そう」
「うん。お願いします。」

今夜こそ、ちゃんと話が出来るだろうか?


2003年03月13日(木)



 弁護士さん

友人の従兄さんが弁護士さんをしているというので、今日、急遽、その弁護士さんと電話で話す機会があった。
予め、私の状況を友人が弁護士さんに話してくれていた。
「はじめまして、○○と申します。」とお互い簡単な自己紹介をしてすぐに、弁護士さんが聞いてきた。
「旦那さんは浮気をされているとかないですか?」
「ないと思います。」
「じゃ、暴力とかは?」
「まぁ、特に問題になるようなひどいものはないです。」
「じゃ〜、離婚は無理ですね!」
「・・・」
多分、現状で離婚裁判の申し立てをするのは無理だと言う事なのだろうが、いきなりの事で私は「はぁ〜?」という感じだった。
「まぁ、5年、10年、別居状態が続いて実質夫婦として成り立っていないとなれば、それを理由に申し立ては出来ます!」
5年、10年!?
そんなに待てないよ。
「5年もですか・・・?」
「そうです! 2年や3年での凡例はないですね!」
そうなの・・・? 今時・・・?
いや、、、どこかで2〜3年でOK!って、聞いた気がするが・・・?

気を取りなおして、こちらの聞きたいと思っていた事を質問してみた。

「今、今週末にでも一端実家に帰り、住民表を移して、子供の入学手続きなどを済ませてしまおうかと思っているんですが、そういう事を夫の承諾なしにしてしまったら、後々不利な事はありますか?」
「そうですね・・・。旦那さまから離婚の訴えがあった場合、婚姻生活の義務を怠ったと言うことで、慰謝料を請求される事になるかもしれませんね!」
「はぁ、でもそれは、夫が離婚を承諾した場合ですよね?」
私は多少の慰謝料を払ってでも、離婚してもらえるならそれでも良いと思った。
「ま、でも、今回はお母様の看病の件もあるようですから、それが理由だとなれば、婚姻生活の義務を怠った事にはなりませんがね」
ふむふむ・・・そういう事を先に教えてよ!

「それから、もう1つお聞きしたいのですが、、、調停の申し立てをする場合、居住地の家裁で、、、と聞いた事があるのですが、私の場合、実家の方で出来ますか?」
「ちょっと待ってください。。。家裁の管轄については、、、ちょっと調べます。」
この方、離婚の専門ではないのだね、きっと。。。

結局、家裁の管轄は、夫婦が最後に一緒に居住していた場所なのだそうだ。
が、それが不便な場合は話合いで都合の良い場所に変更出来るそうだ。

今回、初めて、電話でではあるが弁護士さんと話をした。
正直、気持の良いものではない。
離婚問題が嫌いな弁護士さんなのか、なんか嫌悪感を持たれてる感じがしてこちらが落ち込んだ気分になってしまった。

ま、弁護士さんは法律家であって、離婚コンサルタントではないのだから仕方ないが、全く、気の弱くなっているこちらとしては益々気が滅入るような話合いだった。




↑エンピツ投票ボタン

My追加



2003年03月11日(火)



 不倫と離婚の間

夫との離婚話の中で、「再婚したい相手がいる」なんて事は絶対に言ってはいけない!
と、誰にでも言われる。
けど、私は、それを言わないで、離婚したいほど何が不満か?と言う夫の疑問に答えられない、だったら夫を説得出来ないとずっと悩んでいた。

でも、あと半月で遠距離別居強行! となった今、「相手が離婚を受け入れてくれなければそのまま遠距離別居夫婦でも良いや!」と思い始めている。

別居が確定し、すっと気持が軽くなった。
取りあえず離れて暮らせる事がうれしい。

ここ数ヶ月、別居→離婚について考えている間、彼の存在は確かに、挫けそうな時の心の支えではあったけれど、彼との楽しい将来を思い描くような余裕はなかった。離婚したら、彼と結婚出来る!そんな風に思う余裕もなかった。

ほんとにこれ(夫との離婚)で良いのか!?
と、出会った頃から今までの二人(夫と私)の事だけを一生懸命考えた。

友達に話を聞いてもらったり、経験者に相談したりも沢山した。

彼は、そんな中の一人の相談相手であった。離婚経験者でもあったので。

けど、彼はやはり、誰よりも親身に話を聞いてくれ、話をしてくれた。
私にとって掛け替えのない、一生大切にしたい人だと確信した。

そんなの愛人なんだから当たり前じゃないか!
と反論運されそうだが、だったら、夫婦だったんだから(もう私も気持ちの中では夫と夫婦であった事は過去形になっている)あの時、何故、貴方(夫)は私の話をもっと真剣に聞いてはくれなかったの?!と言いたい。

私は何度も寂しいと貴方に訴えたでしょ?
このままじゃ、気持が離れてしまうと忠告もした。
なのに、貴方は、大した事とは思ってなかったんだよね?
だから、何も変わらず、貴方は自分のしたいようにやり続けていた。

けど、私の方にももっとなすすべがあったのかも知れない。
それに気付かないでいた私も悪かったのだろう。
(それは今でも分らないが)

私たちが離婚に至ったのは、他でもない、夫と私の問題だったのだと改めて思う。




↑エンピツ投票ボタン

My追加




2003年03月08日(土)



 胃痛

3日の午後から激しい胃痛に襲われ、寒気に続き発熱、、、
今日になってやっと楽になったが、それでも時々胃がキリキリ痛む。

2003年03月05日(水)



 故郷

母が突然入院し、緊急手術することになった。
そろそろ実家の両親に私が4月からそちらに行こうと思っている事を伝えようと思っていた矢先でもあったので、気が動転した。

母の病気はかなり重く、手術後1〜2ヶ月の入院が必要で、退院後も今までどおりの生活が出切るかどうか、難しい状況だ。

そんな状態の母に「別居」の話などして心配を掛けたくはないと思ったけれど、今、実家に戻れば、母の看病も出来ると、別居の意思がさらに固まった。

実家の方の役所で、3月末に引越してくる予定で、小学校に入る娘がいるのだが、手続き上日程や準備など、どうしたら良いかを聞いてきた。
地元の友人にも会い色々話を聞いた。
娘が入学する予定の小学校は、私が通っていた小学校でもあるのだが、今、その校長は私が中学の時の担任教師であるらしい。また、中・高校で一緒だった友人も教員をしているらしい。

それを聞いて、少し、不安が解けた気がした。
そして、私は長年ここに帰って来たかったんだな〜と感じた。
自分が生まれ育った故郷に帰りたかったんだな〜と。

2003年03月01日(土)
初日 最新 目次 MAIL


My追加