Spilt Pieces
2003年07月30日(水)  香水
今日高校の頃からの友人と遊びに出かけた。
昔は化粧というものをほとんどしなかった私ではあるが、近頃は外へ出るときは一応一通りはするようになった。
気まぐれに、シュッと一吹き香水をつける。
自分では買わない。
以前大学の友人たちからもらったものを、少しずつ使っている。
私一人にだけ香るような、仄かな飾り色。
「昔は嫌いだったのに」
ふと、不思議な気分になる。


私は汗っかきだ。
新陳代謝もよく、人間的にはいい身体に生まれたとは思う。
ただ厄介なのは、化粧をする国の女に生まれたということ。
贅沢を言ってはいけないが、数時間経たないうちに崩れるメイクを見ていると、少しだけ溜息をつきたくもなる。
周りにあまり外見を気にするような友人はいないが、時間が経ってもさして変わらない肌に出会うと、羨ましくなるというのも本音。
…話が反れた。
ともかくとして、私はよく汗をかく。
当然のように、汗の匂いも生じる。
最近CMでやっている制汗スプレーも買ってみたが、さすがに一日は持たない。
夜になる頃には、どうしたって多少汗臭くなる。


朝つけた香水は、夕暮れになっても僅かだが残る。
ふとした瞬間、鼻腔に絡まって。
汗の匂いを忘れる。
今日一日が暑かったということを忘れそうになる。
だけどそれは、あくまでもごまかしにすぎないのだ。
油絵は、重ね塗りをしても削れば前の色が出てくる。
それと同じこと。


小さい頃、よくかさぶたを剥がしては怒られた。
そして自分でも、痛いと言っては泣きべそをかいた。
だけど、幕の向こうで演奏の準備は着々と進む。
薄皮が張っているのを見て、自分の身体が働いていることを知る。
見えない、見せない、舞台裏。
だが実は、かさぶたさえあればきっと、身体が怠けていても気づかない。
「覆うもの」は、諸刃の剣なんだろうか。
そうだな、もしも。
香水がきつすぎて汗の匂いを全く感じなかったなら。
それはそれで怖いことなんだろうと思う。
極端な話、自分は汗をかかないと錯覚してしまうかもしれない。


結局何を書きたかったんだろう。
お風呂で身体を洗いながら、纏っていた薄い香水という膜を消したとき。
ふと、さっき送信したメールのことを考えた。
自分の取りたいスタンスと、湧き上がってくる素直な感情との矛盾。
返信を書きながら、自分がイライラする原因はひょっとしたらこれなのかもしれないと思った。
「こうありたい」と願う自分はいつのときでも(時が経つにつれて少しずつ変わってはいくけれど)あるはずなのに、素直な欲求は時折それに反する。
理想と現実のギャップ、と言い換えれば分かりやすいかもしれないけれど、言葉で単純に片付けられるような問題でもない気がした。
誰が邪魔をしているわけでもない。
私は自分の思うとおりに動けるはずなのに、なかなかうまくいかない。
たとえどんな理想があったところで、それで覆って誤魔化したところで、自分の本質が変わるわけじゃない。
目標は、ないよりある方がずっと、学ぶことも多いのだが。


責めてくれないことが辛いと思っていた。
だけど、責められることも辛いのだと知っている。
優しい空間が好きで、幸いなことに周りはそれを与えてくれる。
足を、少しずつでも前に踏み出すことを。
現実として実行することの重要性を。
手探りでも、綺麗な香りに誤魔化されながらでも、かさぶたで守られながらでも、理想論だと人は笑うかもしれなくても、たどり着きたい場所を持つことは悪いことじゃない。
汗の匂いが香水と同じになることは不可能だろう。
かさぶたを剥がして、前と全く同じ肌となることも不可能だろう。
だけど人間としての内面的矛盾は、自律神経によるものではない、意思で努力できる範囲を大いに持つ。
いつの日か、差が埋まるよう。
何てことない日々の積み重ねの中で生きている自分ではあるけれど、少しずつ何かを変えていけたら、と思う。
そんな毎日を、過ごしている。
2003年07月29日(火)  時折
人込みの中。
時折感じる、危ういバランス。
均衡はどこだろう。
小さな溜息一つで
飛び散ってしまいそうな空間。


言葉を捨てることはできない。
だけど時折、無意味だと思う。
些細な言葉の定義など。
仮に私が知っていても
相手が知らなければ何の意味もない。
誰の中にどんな法律があるというのだ。


道を譲る車。
窓から出た腕にはタバコの煙。
すれ違いざま、顔を見る。
サングラスをかけた、怖そうな人。
ふと、目が合った。
真っ直ぐな目、
後ろめたいことなど何もないのに
思わず逸らしてしまった視線。


何となく開いた恋愛小説。
誰の顔を思い浮かべればいい。
もしも優しさを与えられたなら
私はきっと弱くなる。
張りつめた糸が弾けるように。
揺れる電車の中で
誰がどこにいるのか分からない。


時折、誰かの傍にいたくなる。
だけどホントは、
一人でいることが好きかもしれない。
誰のためでもない自分を
誰のためでもない空間で
ただ知るんだから。
大人のフリも
子どものフリも
全ての仮面を脱ぎ捨てて。


何もかもを
消してしまうほど勇気はなかった。
知らない街で知らない人と話をする。
だから自分が帰る場所を知る。
きっと、
雑踏の中でこそ
一人であることを自覚するかのように。


細く白い指など
持ってない。
長くて綺麗な足などない。
そこにあるのはただ
私の指と、私の足。
小説のようには生きられない。
だからこそ
大切なのかもしれないと思う。


大きな部活鞄を抱えた中学生が
座席に腰かけながら人生を語ってた。
言葉が耳に入るままでもよかったけれど
何となく
ヘッドホンのボリュームを上げた。
否定する気も肯定する気もなく
ただ、
中学生の頃の自分を思い出した。
あくまでも、何となく。
ボリュームを上げていた。


母と二人、駅近くの公園。
ビニール袋片手に
クレソンの葉を摘んだ。
時折虫が手について
その度私は大きな声を上げた。
隣で母が笑う。
虫のいないところを取りなさい。


時折
水に沈む渡し道。
恐る恐る
次の一歩を踏み出す。
そろそろ行くよと
母が呼ぶ。
すれ違う、二人、高校生。
彼らは無邪気な様子で遊び始めた。
人生なんか語っていなかった。
だけどこれが真実かもしれない、
そんなことを思った。


時折、
言葉は重ねれば重ねるほどに
意味を失ってしまう。
だけど無性に留めたくなることがあり。
それは私の悪癖なのだ。
何も語らない、何も言わない。
そんな自分は自分じゃないけど。


何も語らない、何も言わない。
どんな美しい言葉より
どんな立派な言葉より
どんなもっともらしい言葉より
ただ
時折
沈黙だけが発することのできる言葉を。
求めているのかもしれない。
求めていないのかもしれない。


「言葉を綴ることには何がある?」
そう聞かれて
「空虚な自己満足」
と答えそうな私は
やはりひねくれ者なんだろうか。
だって
そう言いながら
今もキーを叩いているのはこの腕。




街を歩く。
街は何も語らないけれど。
時折
やたら
饒舌だ。
2003年07月25日(金)  身体
私の家のお風呂には、全身が映る鏡がある。
しばらく入っていると曇ってしまって何も見えなくなるが、それまでは自分の身体が嫌でも目に入る。
生まれてからこの方、私はずっと自分をやっている。
私が私であると断言できる範囲は、身体の輪郭線まで。
それなのに、どうしてだろう。
20年以上も見ているはずの裸の姿は、どこか落ち着かない。
アダムとイブが実を食べたからだろうか。
ふとそんなことが思い浮かび、不思議な気分になった。


梅雨は明けないけれど、季節は夏。
友人たちと、海へ・プールへ行きたいと言ってははしゃぐ。
その度に「ダイエットしなくちゃ」と笑いながら(だけど半分以上本気で)溜息をつき合うのだけれど。
「お風呂入るとき、自分のおなか見るとうんざりするんだよね」
友人たちは大抵そう言って笑う。
私の家全身鏡があるんだよ、と言うと、悲鳴にも似た声を上げられる。
いつも通りの、他愛もない雑談。


自分の身体なのに、変な感じ。
帰宅後、会話を思い出して改めて疑問に思った。
誰に対してというわけでもなく。
だからだろうか。
傍から見たらきっとおかしな光景かもしれないが、お風呂に入ったとき、何となく自分の身体を見てみた。
どこにホクロがあるとか、掌の皺の数とか、足の指の形とか。
胸から腰への輪郭を眺めてみたり、残ってしまった痣を触ってみたり。
毎日この身体で生活しているはずなのに、意外に多くのことを知らない。


いつもと同じ洗顔フォーム。
指がなぞる顔のラインは、意識してみるとやはりおかしな気分だ。
顎の形、目の大きさ、鼻の高さ。
毎朝鏡で見慣れているはずの顔なのに、別の人の身体のような気さえする。
全てが自分特有。
血管の走り方も、脳のある場所も。
きっとどこも変わらないはずなのに。
見れば見るほど他の人と一緒のようでもある。


自分が皆と同じということ。
自分が皆と違うということ。
「分かっている」といつも思う。
だけどひょっとしたら何も「分かっていない」のかもしれない。
脳は頭にあり、身体には筋肉があって血管が縦横無尽に走っている。
確認したこともないのに、私はそれを知っている。
自分の身体がどうなっているのか、表面的なことさえも知らないのに。


私は、身体を傷つけて自分の立ち位置を確認するような方法を取ろうと思わない。
自分の身体を不思議そうに眺めていたときの私は、周りから見たら変人もしくはナルシストだったかもしれない。
ただ何となく、自分が自分であることの奇跡にびっくりしてみたり。


それにしてもほんと、どうして余計な脂肪ってつくんだろう。
自分の身体なのに、ああもう、こういうところは言うことを聞いてくれないんだから。
愚痴にて終了!
2003年07月24日(木)  意味
ちょうど午前を回った頃、高校の頃からの友人から電話がかかってきた。
久し振りということもあり、携帯電話だというのに2時間以上の長話。
高校の頃の思い出話で盛り上がったりしているうちに、何となく恋愛に関する話題になった。


「キスなんて、たいしたことないよね」
突然彼女がそう言うので、びっくりした。
「でも何とも思ってない人とはしないでしょ?」
「そうだけど、外国だと結構みんな普通にしてるじゃん」
そういえば、彼女の家もそんな感じだということを思い出した。
それを裏付けるかのように、彼女は言葉を続けた。
「私は小さい頃からキスって家族愛の表れみたいに捉えているから」
ああなるほど、と思う。


電話でしゃべっていた彼女が、もしも「家族愛」として捉えていない人に突然キスをしたならきっと相手は勘違いしてしまうだろう。
ただ、彼女にとっての意味を知っているのであれば納得できる。
何が当たり前なのかなんて分からない。
少なくともキスに関しては、私が持っている理論は彼女には通用せず、彼女が持っている理論は私には通用しないのだなと思った。
育った家庭環境が違うということが大きな要因だろうが、認識が異なっているのだ。
きっと、こんな原因で理解できないことも多いのだろう。
周りから見て奇怪なことが、本人にとってはなぜ奇怪であるのかが分からない。
「違い」を認め合うということは、言葉でいうほど簡単じゃない。


一つの行為に対する意味づけを考える。
大学1・2年の頃は、男友達の部屋にも平気でお風呂を借りに行っていた。
宿舎で共同の大きなお風呂が早い時間に閉まってしまうということが皆の認識の中にあったので、二人きりになったからといって勘違いするような者は誰もいなかった。
その「認識」がない他大学の友人に話すと、口を揃えて「信じられない」と返ってくる。
仲間内での「認識」そして「常識」が、社会から見ると「非常識」であることはよく分かる。
だから、社会に出てから同じようなことは決してやらないと思う。
「これはこういう意味」と勝手に捉えてしまうことの恐ろしさ。
TPOを考えろとはよく言われているけれど、それ以外にその集団内や個人の中にある考え方や背景を知る必要があるのだろうと思うし、最近は何よりもそれが一番大切なんじゃないかとも思う。


「常識」「当たり前」「当然」「普通」。
こういった言葉が苦手だと感じる。
それは小学生の頃から変わらない。
冗談で「信じられない」と言うことはあるが、もしもそれを本気で言ってしまったならきっと相手をひどく傷つける。
自分と相手の根底にあるものが異なるだけのこと。
変だなと思うことはあっても、それを頭ごなしに否定してはいけないのだろうと思う。
「思うばかり」かもしれない。
自分がどの程度実践できているのかというと、正直自信がない。
ただ、かつて自分のものさしだけで私を測り否定した人がいて、ひどく悩んだことを覚えている。
今となれば彼女の考え方の幼さを思って我慢することもできるだろうが、当時は自分ばかり責めていた。
同じ思いを誰かに味あわせることのないよう、自信がなくても努力はすべきだろう。


何となく捉えてしまっていることを、ふと思い出す瞬間。
親しい友人と話していると、相手も自分も遠慮がないこともあって、「気づく」ことが増える。
昨夜電話をしていた友人が何の気なしに言った言葉だった。
大切なことを思い出させてくれたけど、きっと本人はそれを知らない。


毎日は、痛みを伴いながらもやはりおもしろい。
八月末に会う約束をして、電話を切った。
「またね」の声が、思わず優しくなった。
2003年07月23日(水)  発する
最近日記を更新していなかった。
別に忙しかったわけではなくて、書く時間ならたくさんあった。
それでも、書く気が起こらなくて放置していた。


自分の中から言葉を出すとき、自然に出来るときもあればエネルギーを必要とするときもある。
思うことがなかったわけではない。
むしろたくさん考え事をしすぎて疲れてしまっていた。
ここは言葉の吐き出し場所であると同時に、発さないことの意味をも自分に考えさせる場所なのかもしれない。
そんなことを、何となく思った。


いつも抱えている不安。
「言葉にしてしまったことは、どこかで満足を得て消えてしまう」
それが事実かどうかは分からないけれど、小さな恐怖であることには変わりなくて。
だから、一番大事なことは言いたくないし語りたくないと思うときがある。
堪えきれずに発してしまう場合もある(むしろ多い)。
でも、少しずつだけど、「発さないこと」を学びつつあるんだろうか。
言葉が好きで、話すことが好きだ。
だけど言葉を発さない自分も好きかもしれないと思う。
「発さない」ということは、誰かに何かを伝えるには不便だけれど。
私も、相手が目の前にいるのでない限り、沈黙の意味を捉えることはできないから。


僅かな言葉の羅列。
それだけで何が伝わるのかは分からない。
ただ、発することと発さないことの両方を知るのは、とても興味深いと思った。
形としての沈黙。
本質としての会話。
自分は何をしたいのだろう。
きっと、何もしたくなかった。
それが言葉のような気がしていた。


ほとんど毎日のように続けていた日記。
一週間放置して、それで何が変わったかというときっと何も変わっていない。
自分が言葉を好きなことや何か書くことを楽しいと思うことも今まで通り。
これからも、同じように気が向いたとき気が向いたことを書いていくのだろうと思う。
意図して書かなかったわけじゃない。
でも、書かないことで得るものがあるのだということも、今さらながら改めて知った。
発するばかりが手段じゃない。


誰かのこと、社会のことを批判することは容易い。
私は口が悪いし、言葉で相手を立ち直れなくさせることだってできると思う。
何を発すれば傷つけるのか、何がどう作用するのか、分かっていながら、それでも時に言葉を選べない。
私の中で意地悪な心が頭をもたげる瞬間。
そんなとき、皮肉めいた言葉を綴るのは簡単だけど。
ふと立ち止まり、優しい言葉を探す癖をつけてもいいのだろうと思う。
誰を誤魔化すのでもない、きっと自分を納得させるために。
綺麗事を並べたいわけではない、そして嘘を書きたいわけでもない。
日記って、吐き出すことも目的としてあるけれど、こういう使い方をするのもいいのではないかと思った。


一朝一夕で変わるようなものでもないとは思うけどね。
2003年07月16日(水)  比較
「あなたは永遠、ならば僕は永遠じゃない」
変な夢をみた。


「あなた」は私。
「僕」は私の前にいた。
人が生まれてくる場所があって、そこで「僕」は「あなた」が永遠の命を授かったことを知ったのだという。
憎しみの表情を向けられて、戸惑った。
彼は泣き、私も泣いた。


「あなたが永遠だということは、永遠じゃない僕はいつか死ぬということだ」
彼は泣きながら言った。
「君が永遠ではないということは、永遠と言われた私は生き続けなければならないということだ」
私は泣きながら反論した。
彼は、ずっと生きていたいのだという。
私は、死ねないことこそ苦しみだという。
本当に、変な夢だった。
それはあくまでもフィクションで、実際は私もいつか死ぬはずなのだが。
お互いに、相手がいることで自分の状況を嘆いている辺りがおもしろかった。


自分の死について。
考えたことがないわけではないが、あまりリアルなイメージは持っていない。
大切な人を失うことでできる喪失感。
心の中に空洞が開くということなのだと思った。
どこを探してもいない。
痛みを自覚するのにさえ、力が必要だと知る。
分かるのはただ、世界のどこにもその人がいないという事実だけ。
こんな私が、自分の死の場合に何を思えるというのか。
死を解した自分に出会うことはできないのではないか、などと思う。


「あなたは永遠、ならば僕は永遠じゃない」
永遠、などという言葉をしっかりと把握したことはない。
なぜなら自分が永遠ではないから。
自分の死と同様に、捉えどころのない概念。
その意味でいうと、「僕」が「あなた」を使って嘆いたというのも分かる気がする。
ひょっとしたら「僕」は永遠など理解していなかったのかもしれないけれど、「あなた」が永遠であると聞いて、それとは異なる自分の立場を飲み込んだのではないか。


周りには、曖昧な概念が多い。
数日前書いた「幸せ」というのも何だか分からない。
比較なしに「幸せ」を捉えられることもある。
ただ、それを常に感じていられるほど、私は人間ができていない。
時折比較しては、自分の状況を納得させようとするから。
その比較の対象は、具体的ではないことも多く、他人でさえない過去の自分を持ち出していることもあるけれど。


比較というのは不思議なもの。
どこか削って、どこか浮き上がらせて。
作業している間はどこがどうだか分からなくても、刷り上げてみれば分かる版画のように。
まっさらな木だけじゃどこに何があるのか分かりはしない。
永遠が分からなくも、永遠じゃないものがあれば分かるんだろうか。
変な夢。
2003年07月15日(火)  理由
私が私でいる理由。
それは、「私が私以外の人間にはなれないから」だ。
立派な人、見習いたい人、大切な人、嫌いな人、苦手な人。
色んな人がいるけれど、どんなに努力したところで私は私でしかありえない。
私は、他の人たち同様に毎日何かを考えて生きている。
それが個性かどうかは分からない。
ただ、誰かの感情ではなくて私の感情を表現しているから。
自分の言葉で話している。
ただそれだけの理由で、私は私なのだろうと思う。


孤独でいることが、以前より苦痛ではなくなった。
一人でいる、と思われるのが何よりも嫌だった時期がある。
6年前、高校一年生。
クラスの人たちとうまくいかなかった。
気の合わない人が、入学直後に悪口をクラスに言いふらしてくれた。
彼女が合わないと思ったのと同様に、私も彼女と合わないと思っていた。
それでも、同類になりたくなくて口を閉ざした。
結局損をしたのは自分だけのような気がしていた。
今思えば、そんなことをして自分の誤りに気づかない彼女の方がずっと損をしていたのだろうけれど。
当時の私はそこまで大人になれなくて、ただ部活の友人たちに一人で廊下を歩く自分を見られたくないという思いでいっぱいだった。
「一人」とか「孤独」という言葉に、当時の自分はネガティブなイメージしか持っていなかった。


最近、一人で買い物に行くことや出かけることが楽しい。
友人たちと一緒のときとはまた違う魅力がある。
仲間内で固まらない分、見知らぬ人とも気軽に話ができる。
「いいお天気ですね」
電車で隣になったおばちゃんとおしゃべりとしたり。
誰かと一緒の時には照れくさいような「イイコト」も、一人ならできたり。
小さな心臓がバクバクいう。
だけど、隣には誰もいない、誰にも聞かれない。
好きな本をずっと見ていても、Tシャツ一枚買うのに悩んでいても、誰にも気兼ねしない。
そして何より、たくさんの考え事ができる。
他の人と話すことも好きだけど、外部から得た情報を元に自分と話すのも好き。
自分との付き合い方を覚え始めた、ということなんだろうか。
21にもなって今さらだけど、成長の速度を他人と競ったところで意味がない。
だから開き直ることにした。


私が話すことや書くことは、きっとかつてどこかで誰かが言ったことや書いたことであるに違いない。
これまで生きていて受けた影響、得てきたもの。
私は私なりのスピードで、言葉で、思ったことを外へ出す。
思ったこと全てを表現するほど野暮ではないけれど、それでも何かを表現したいという欲求を私は持っている。
だから書く。
どこかの誰かの発した言葉と似ているとしても、自分の中で消化して表に出す分には私の個性。
個性とは何か、と問われて、私は明確な回答を持ち合わせない。
外見も考え方も、他の人と比べてあまり変わらない自分。
頼りない細い線を手に、少しずつ糸を縒り合わせて生きている。


この前気まぐれで買った哲学書。
平易な言葉で、考えるとは何かを問う。
個性とは何か、と問題提起して、著者は答える。
「それ以外にはなれないこと」。
他と違うということを求めてばかりの人というのは、自分の中に、自分がそうであるための理由がない。
違う、ということを求めたとしても、その基準はあくまでも他の誰かがいてのこと。
「その人自身のみで存在し得ない状態を個性とは言わない」。
きっと著者はこう言いたかったのだろうと思いながら。
表現できなかった感情に言葉を得る快感。


先述の高校時代のクラスメイトから借りた漫画があった。
その中に「僕は誰」を問いながら生きる人がいた。
最終的な彼の結論、「僕は僕」。
明快で、当たり前のような。
だけど15歳だった当時の私には、この結論は身に染みてこなかった。
だから悩んだのかもしれない。
彼女が大好きだった漫画。
嫌い、を連呼してばかりだったけれど、今さらながら彼女が当時何を思っていたのだろうと考えてみる。
彼女も、何か悩むことがあったんだろうか。


8ヶ月前、風邪で寝込んだ日があった。
大人しく寝ていることに飽きた私は、暇で仕方がなかった。
熱があるのも放って、htmlさえ分からなかったその日のうちにHPを開設した。
結局、不真面目な病人だった私の症状は数日回復しなかったのだが。
それ以来今も何となく続けている、言葉の吐き出し場所。
特別目立つタイプではない。
難しいことを知っているわけでもなければ、大人になりきれているわけでもない。
だけど、何となく思うことを綴っていく場所が欲しかった。
私はこういう人間だと、知らない人にも知っている人にも伝えたくなったのかもしれない。
そのうちに、隠しページだったはずのこの日記を表に出した。
平凡な自分。
でも、こうしたいと思った欲求は誰の真似でもなくて。
「それ以外にはなれない」という理由だったのだろうか。
こんなちっぽけな自分にも個性があるのだと。
私が私でいる理由。
この場所で言葉を紡ぎ続けている理由。
それは、私が私だから。
自分以外の人間になる方法を知らないから。
単純な言葉を重ねるだけなのに、どうしてか探していた答えが一本の線になる瞬間。
何となく、嬉しくなっている自分。


思うこと全てを書くほど、心を開け広げにすることはない。
それでも、こうやって書いていることは確かに自分の一部。
サイト名の由来。
綴ることが、いつか誰かの目を気にしすぎて私の言葉ではなくなってしまったなら、そのときがサイトを閉鎖する時期なのだろうと思う。
稚拙でも、幼くても、私は私の言葉を綴ることしかできない。
それが、自分が自分である理由だと思うから。
まとまらないけれど、思うことが溢れてくる。
久々に味わった、こんな感覚。
2003年07月14日(月)  レターセット
久しぶりにレターセットを買った。
大学近くの書店、文具コーナー。
平日の昼間だというのに意外と人がいる。
隣の人も何やら探しているらしい。
私がその場から去るのを待っているような雰囲気。
広い売り場、順番待ちをする必要もなさそうだ。
近くでソワソワ待たれると落ち着かない。
意味もなくノート売り場へ身を動かすと、彼女はそそくさとレターセット類が置いてあるコーナーに移動してきた。
微妙な気分。
そういえば以前、コピーを取っていたら後ろに並んだ人が背中の辺りにぴったりくっついた挙句足をパタパタ鳴らしていたこともあった。
長時間使っていたわけでもないのに、辛抱できない人なのだなと思った。
ほんのちょっとした仕草で、相手のことが分かってしまう。
おもしろくもあり、怖くもある。


最近よく使う連絡手段は、専ら携帯やパソコンのメールになってきた。
筆不精な私は連絡が途切れるということがよくあったので、メールはとても便利だと思う。
手紙を利用することが少なくなった。
文章を書く機会も減った。
挨拶文を考えるのにも、コピー&ペーストで何とかなってしまう。
手書きの文章が上手いか下手かなど、さほど重要ではなくなってきてしまったんだろうか。
あまり上手くない自分の筆跡を思いつつ、便利な時代に感謝したり寂しさを覚えたり。
時折無性に文字が恋しくなって、衝動的にレターセットやノートを買うこともある。
今日もその一例かもしれない。
順番が前後しているかもしれないけれど、せっかくだから誰かに何か便りを出してみようと思った。
どんな切手を貼ろうか。


最近の文具コーナーは、目がチカチカするような、カラフルなものが多い。
小学生や中学生の服装を見ていれば分かるような気もする。
そういえば、自分がその年齢の頃はどんなものが好きだったろう。
誰かを突き落とそうと考えなかったのは確かだけれど。
記憶が曖昧で、いまいち覚えていない。
ただあの頃から変わることなく寒色系が好きで。
「女の子はピンク」などと決められるのが好きじゃなくて、弟の文具と交換して欲しいと言っては親を困らせていたような気がする。
ひょっとしたら目がチカチカするような文具は昔からあったのかもしれない。
ただ、懐かしさは覚えない。


カラフルな、色とりどりの便箋や封筒。
ためしに買ってみようかと思ったけれど、結局シンプルな青に決めた。
まっさらな紙に、黒のボールペンを走らせる瞬間が好きだ。
いつも書くばかりで投函を忘れる手紙。
書き終えた時点で満足してしまう私にとって、ポストへ辿りつくことがいつもの課題。
今回は、誰にどんな手紙を書こう。
そういえば暑中見舞いも出さないと、などと思いながら。
中学校の頃の恩師に長らく会っていない。
毎年手紙のやり取りで終わってしまうが、今年は時間を見つけて会いに行ってみようか。
ぼんやりと、色んなことを考える。


私の部屋には、書いただけで出さなかった手紙がたくさんある。
高校の頃、部活の友達宛てに書いたもの。
家族宛てに書いたものの、照れくさくて結局投函できなかったもの。
文通相手に、書くたび出すのを忘れたもの。
何でだろう。
相手に向けて書いたはずのものなのに、読み返すと懐かしさと同時にその頃自分が考えていたことまで分かってきて。
何を思い、何を考え、何を感じて日々を送っていたのか。
今となってはもう出せなくなってしまった手紙を、未だに捨てられない。
きっと、そこには相手ばかりではなく自分までも生きていたからなのだろうなと思う。
内容は、些細なこと。
だけど、データが飛んで終わり、ではない、形として残るものが確かにそこにはあって。
残ることが嫌だと思う、だけどそれが時折ひどくいとおしい。
ああ、でもやはり、次書いたときにはきちんとポストに行く方がいいのだろうな。
2003年07月13日(日)  テンション
最近理由もなくテンションが低くなる。
悩みがあるとか将来が不安とかいうわけではなくて。
むしろ我ながらもう少し悩めと言いたいくらいなのだけど。
何でだろう、何かが釈然としない。
毎日は楽しいはずなのに、変なの。


あまりにテンションが上がらないので、せっかくだから改善するために何かしてみようと思った。
テーマは「まともな生活」。
普段昼夜逆転生活ばかり送っているので、少しずつ昼型にしてみようというもの。


今日起きたのは遅い時間だったが、いきなり直すのは無理だろうし焦らずに。
卒論の依頼文を書いたり封筒の宛名書きをしたり。
友人から食事に誘われたが、勉強したいと思ってお断りした。
たまにはこういう日があってもいい。
そんな言い訳を呟きつつ、夕食を食べてお風呂に入ってテレビを見てメールチェックなど。
卒論の続きに取りかかる。
夏休みに行きたいところがあって、ネットでそこまでの電車料金を調べる。
普段サボりがちなスキンケアをしっかりやる。
意味もなく、本当にただのんびりとした生活。
テンションが上がらないことには変わりないけれど、とりあえず、と思う。


何を書きたいのかよく分からない文章。
テンション、と書くから意味不明なのかも。
元気がない、が正解なんだろうな。
うーん、何でだろう。
何かに憤っているくらいの方が分かりやすくていいのに。
まだ夏バテにはちょっと早いような気がするし。
梅雨はまだ明けてくれない。
2003年07月12日(土)  上野
昨日、久しぶりに東京へ行った。
特に目的を決めていたわけではないが、何となく上野へ。
たまには博物館か美術館へ行くのもいいなと思った。
少し厚めの文庫を鞄に入れて、買ったばかりのサンダルを履く。
電車に揺られるのが好きだ。
時折田園風景を眺めながら、本を読み進める。
隣に座ったおじさんが心地よさそうに眠っていた。


最近は多少慣れてきたものの、やはり都会の雑踏の中にいると息が詰まる。
構内の案内を見ながら、出口を探す。
駅を出ると空は青く、日焼けが怖いくらいのいいお天気。
短い横断歩道を待って、周りと一緒にゆっくり渡る。
どこに入ろうかさえ決めていなかったので、総合掲示板で今どのような催し物があるのかをチェック。
隣で地図を見ていた男の人も、私同様一人で来ているらしい。
仲間を見つけたかのようで、意味もなく嬉しくなった。


国立博物館へ行くことに。
禅の特集をやっているとのことだが、予備知識は全くない。
ちょっと高めの入館料を払う。
人の流れに乗って、まずは件の特別展示へ。
地元にはない回転扉が何だか楽しい。


チケットを切ってもらって、エスカレーターで二階へ上がる。
展示室の中へ入ると、お年寄りが多い。
しかしよく考えてみるとまだ一般では学校さえも夏休み前だ。
平日の昼間、私くらいの年齢の女が一人でいる方が珍しい。
人だかりになっているところを避け、すいているところから少しずつ見て回る。
「蘭渓道隆」や「無学祖元」といった、高校の頃日本史で勉強した懐かしい名前があちらこちらにある。
蘭渓道隆の筆跡を見ていると、その文字を読み上げる男性がいる。
チラリと見てびっくりしたのは、私とあまり変わらぬ年齢くらいの人だったこと。
彼の右側には、彼と同じような雰囲気をまとった女性がいる。
カップルで見に来ているらしかったが、彼らは行く先々で目の前にいて、挙句声高に蘊蓄を言い続けて盛り上げっているので最後の頃にはさすがに腹が立った。
というか、インテリってうるさい。
知識よりも、博物館は静かに回るところ、という最低限のマナーの方を知っていてくれたらどんなにかいいだろう。
って、自分が高校の頃のことを思うと人のことなど言えないのだが。


それにしても、私に教養がないだけなのかもしれないが、国宝と重要文化財と何も書かれていないものとの違いがさっぱり分からない。
歴史的背景なども絡まってくるのだろうけれど…とりあえず謎。
ところどころ破れている袈裟が展示されていたが、きっと目の前に置かれていたら私は捨ててしまいそうだ。
価値の分からない者にとっては、豚に真珠、なんだろうな。
布一枚が丁寧に温湿計のついたガラスケースに入れられているのに、上野公園の中にはダンボールの上で寝ている人がいる。
どこか釈然としない気持ちが残っていたり。


色んな人や神の顔が描かれている。
私は特定宗教に対して信仰を持っていない。
だから殊更に崇めるつもりもなければ感激するわけでもない。
我ながら何しに来たのだろうと思わなくもなかったが、そこから何か考えることができるならそれはそれで興味深い。
「立派なお顔ねえ」
誰かの彫像のようなものを見ているとき、隣で見ていたおばさん二人がしゃべっているのが耳に入った。
ちなみに、私は普通の顔だと思った。
身近にいそうな気さえする。
その人に対する予備知識がない分、ただ純粋にその顔を見ていた。


私が知らないその「誰か」は、きっと歴史的に立派なことをしたから今もなお残っているのだろう。
だが、彼にも人間らしさはあったはずで。
最初から立派な人間などいるはずがない。
苦悩や葛藤を経て、結果的に辿りついたところが人々に尊敬されるような場所だった、それだけのことだと思う。
像は、その人の一部を切り取りすぎていて、彼がどんな人だったのかを語ってくれない。
彼を彫った人のことは思い浮かべられても、そこから彼に関する情報を得ることはできない。
どこまで何を信じたらいいのか。
「歴史」になってしまうことは怖い。
彼の人間らしさは、どこへ行ってしまったのだろう。
隣で見ていたおばさんは、もしその像が大悪党の像だと教えられたなら、同じ台詞を言っただろうか。
そんな想像を巡らせる、ひねくれ者な自分。


「すげー手がいっぱい」
千手観音を見て、高校生が騒いでいた。
その手は、誰を救ってくれるのだろう。
遺伝と環境によってその人間が決まるとするならば、信仰心があるか否か、自分の心によってのみ決まるとも限らない。
もしも私が同じ身体で別の国で生まれていたら宗教を持っていたのだろうか。
宗教心というのは誰もが持っているのだと言うし、自分も例に漏れない。
ただ、宗教心があるということと宗教を持っていることとは別問題だ。
頭を捻らせながら、だんだん頭が痛くなりそうだった。


ふと、前に若いお坊さんがいた。
私には何も言えることなどないから、「話をしたい」というのはおかしいかもしれないけれど、何となく、「話を聞いてみたい」と思った。
私とさほど変わらぬ年齢の出家者は、何か答えをくれるだろうか。
彼は、さきほどのカップルとは対照的に、とても静かに展示物を見ていた。
2003年07月11日(金)  私信
最初に断言すると、やはり私は「都会」は嫌いだ。
人と人が交差する瞬間は多い。
だけど、それはあまりに微かすぎて逆に虚しくなる。
見知らぬ人から「こんにちは」と声をかけられる。
田舎の穏やかな雰囲気に飲み込まれ、私はいつも警戒心のない返事をする。
だけど都会だと、聞こえない顔をして足早に通り過ぎるしかない。
当り障りのない関係に心を痛めることはないけれど、喜びも少ない。
「敵」を意識しなくてはならないのが、時に切なくなる。


こんな文句を言ったなら、きっと都会に住む人は多少なりとも不快感を覚えるだろう。
ただ、私がいたぶっているのはあくまでも街のこと。
あまりにも役割分担の境界線がはっきりしている空間は、私には合わない。
倒れている人に声をかけることさえ、繁華街においてだと躊躇われてしまう。
結局は私も保身を願って無視してしまうことが多いのだ。
悲しい時代だ、と、ありもしない実体に文句を言っても何も変わらない。
だけど、とりあえず現実的な問題として、恐怖心が先に立つ。
世間知らずの田舎者だと笑ってくれても別に構わない、自分でも情けないと思うから。


「困っている人を助けろ」と、今も小学校の道徳は教えているんだろうか。
そう育てられ、今の時代(とはいってもニュースで報道されるくらいだからまだ幸いにして一部なのだろうけれど…そう信じたい)に矛盾を感じた子どもに、大人はどうやってヒントを出すというのだろう。
その点、昔から都会と呼ばれるところに住んでいる人は折り合いのつけ方がうまいと思う。
社会と、自分と、その感情と。


一般に都会と言われるところであっても、人と人との繋がりがある程度残っているのなら別に嫌いじゃない。
単に私の面倒くさがりな性格がいけないのだろう。
「都会」と一括で表現してしまったのは申し訳ないなと思いつつ。
田舎であっても、油断することができない場所は好きになれない。
私の住む街の最寄駅などは近頃物騒で、だから夜に電車を降りるときなどはつい神経を張り巡らせてしまう。
ひょっとしたら、自分の心配性すぎる部分が悪いのかもしれないけれど。


都会の空は、狭い。
ただ、だからこそ見えたときに人間の営みの小ささを感じて逆に広くもなる。
想像は、現実以上のものを見せてくれることがあり、興味深い。
ちぎれた雲がどこへ行くのか、色はどう変わっていくのか。
答えが見えない空間で、空は都会でも田舎でも緩やかに流れていく。
ひねくれている、とは思わない。
私もしばしばそういう楽しみ方を好むから。


あの日、渋谷の109付近だったと思う、あまり見えないことに文句を言いながらも空へと視線を向けた。
「都会も夕焼けが綺麗だね」
友人は何となく上を見上げて返事をしてくれたけれど、都会慣れしているだけあってすぐに目線を戻した。
無用心すぎる自分に気づき、私もすぐさま目線を戻して。
地元だったら好きなだけ見ていられるのにな、と思ってしまった私は、いつの間にか今住む地に馴染んでいるのかもしれない、と思う。
引っ越してきた当初は、何の執着も持っていなかったのに。


都会の空は、空だけに集中させてくれない気がする。
空が狭い理由、蟻の巣に生きる自分、空の下にある生き方の数。
考えても答えの出ない問いに心奪われ、純粋に空を見られない。
電線も木も見えない公園のブランコでは、空とカラスのこと以外に考える材料などなかったから。
頭の回転があまり早い方ではない私には、都会の空は目まぐるしすぎて少し疲れる。
興味深くは、あるけれど。
別に、汚いから嫌いなわけじゃないよ。


******


この区切り方は、この私信を宛てている日記書きの真似。
自分はやったことがないけれど、こういう書き方もしてみるのもおもしろいかも、と思う。
ただ、誰かを意識して書くと文章がまとまらないことを今さらながら認識。
普段が余程考えなしなんだろうか。
まあ、こんな駄文ですがどうか勘弁を。
普段もまとまっていないと言われたら、返す言葉もないけれど。


******


キャラミル、つられてやってみた。
とはいっても昨日のこと。
前キャラミルはタイプ3、今キャラミルはP・C・F/SLOW。
本人としては前の方が近かった気がするけれど、真相は不明。


******


最近まともな文庫を読んでいない。
絵本コーナーで立ち読みばかりしている日々。
買いたいんだけどお金がなくて切ない。
総選挙の際はバイト頑張ろうかと思いつつ。
2003年07月10日(木)  雑感
昨夜は寝つけなかった。
最近はよくあること。
母に言わせると、不規則な生活をしているからだという。
なるほどもっともな意見。
だが、普段布団に入って5分と経たずに眠りに落ちる私にとって、何時間も眠れないのはやはり疲れる。
結局、朝を迎える頃まで意識があった。


眠れない夜。
ゴチャゴチャと多くを考えすぎる。
将来のこと友人のこと、テレビでやっていたニュースやさっき読んだ本のこと。
何をするでもなく身体を横たえていると、なぜか涙が出てくる。
ちなみに、悲しいことを考えたわけではない。
以前このことを友人に話したら、同じような経験があると言われた。
彼女の場合、感情が伴っている意識はないのに、緊張場面に置かれると片目から涙が流れ続けるのだという。
そういえば私も本気で怒鳴ろうとするとき、泣きたいわけでもないのに涙が流れて話ができなくなる。
自分の意志とは無関係に零れ落ちるもの、と考えれば、一人で泣く分には何も困りはしない。


パソコンのエラーチェックをしている合間。
久しぶりに本を読んだ。
遠藤周作の描く話は、いつだって胸に痛い。
彼は何を考え、何を思い、何を歌って生きた人なのだろう。
彼の手から紡ぎ出される人間は、人間臭すぎるくらいに人間で。
優しさと哀しみ、愛おしさ。
「生活」とか、「生きる」とか、彼の言葉は単純で複雑。
そこから垣間見える人間を、好きだと思うし嫌だとも思う。
大きな海に放り込まれたかのようで、だけどそれは懐かしさも帯びているから。
泳げずに怖がる子どもな自分。
それでも根底にある色は求めているものだったのだと言って、泳ぎに出かけようとする青年の自分。
要するに私は現実主義者よりは理想主義者に近い。
空を見上げて池を眺め、海に涙し山を好きだと思う。
雨に打たれて考え事をすることも気にならない。
花を見るたび自然の営みと自分の生き方を照らし合わせてはしゃがみこむ。
古い家の暖かさ、色褪せた広告の頃。
時折現実に存在する雑音に驚かされて立ち止まりながら。
何かは見えているのかもしれないけれど、何かが見えていない。
精神年齢の鑑定をやったら、何度やっても30代より上だった。
私の中には、子どもと大人が共存している。
きっと、当たり前のことなのかもしれないけれど。
ふと気づいては、マバタキ繰り返し折り合いのつけ方を学ぶ。


長崎の事件。
誰もが言っているような言葉さえ思いつかない。
ただ、悲しい。
誰が得をするでもない、理由なき殺人。
泣く以外ないのに、どうしてこういうことが起きてしまうのだろう。
何かがどこかで狂っている。
中学一年の頃、自分は何を考えていただろう。
専門家と呼ばれる人たちの発する言葉は、ただ色褪せた万華鏡のようで。
ただ組み合わせを変えただけ。
響いてくるものが何もないのは、何もかも、目まぐるしく移ろいゆく時代についていけないからだろうか。
もっともらしい台詞ではあるけれど。
何でだろう、言葉になど何の力もないのだと。
そんなことを、考えてしまう。
弱い人が増えたのは、弱い人しか生き残れなかったからなんだろうか。


言葉で伝えられない気持ちが、触れるだけで伝わればいいのに。
今という世の中、何が足りないのか。
私の手は小さいけれど、それがいつか宙に投げ出されるばかりではなく何かを掴めるとするならば、何を選ぶだろう。
何を守りたいと思うのだろう。
誰よりも弱くて誰よりも強い自分が生まれるんだろうか。
うまく言葉にならない。
考え事は、いつだって瞬間瞬間を束ねた脆く儚い泡のようだ。
2003年07月09日(水)  見知らぬ人
日曜に小学校へ送った調査依頼。
早い学校からはもう返事が来た。
届いたのは月曜だろうか、それなのに水曜に返事とはびっくり。
ちなみに「否」とのことなので嬉しい結果ではない。
既に他の調査を引き受けてしまって多忙なところと、学期末だから遠慮させてくれというところ。
勝手に資料を送りつけてお願いしているわけだから、「否」なら「否」とだけ書いてくれればそれで構わないのに、理由を書いてくれるあたり律儀だなあと思った。
結局協力はしてもらえないのだが、その心遣いがちょっと嬉しい。


インターネットを始めてから一年が過ぎた。
とはいっても日記を去年の今頃は日記を書くことと検索にしか使っていなかったので、まだ分かっていないことだらけ。
オンラインでの人間関係に戸惑うことも多い。
匿名性を帯びたときに態度が変わる人がいるとは思いたくないけれど、罵詈雑言が並べられた、悪意だらけのサイトを見たこともあった。
「見知らぬ人」が相手で、罪さえ犯さなければ自分が誰だか知られる恐れもない。
だからひどい態度を取るのか。
本音が見えておもしろい側面がある一方、時折人間不信にもなる。
人間の本質は、残虐性を帯びている?
そういえば、似たような心理学の実験を聞いたことがあるなと思い出す。
ひょっとしたら、真実以上の真実を見てしまっているだけなのかもしれない。
そう信じていたい、やや楽観的な自分。


「親しき仲にも礼儀あり」という言葉がある。
それはもちろんそうなのだろうが、個人的な意見としては、見知らぬ人にまで礼儀を払うことができる人に信頼を置ける部分も多い。
普段仲間内でふざけていても、肝心なときに節度ある態度を取れる人。
いい格好をしようと頑張っている人は、見知らぬ人にはきっと冷たい。
勝手な予想。
外面がいいだけの人もいるかもしれないし、違いは正確には分からない。
ただ、やはり相手を選んで態度をひどくする人は好きになれない。
そんなことをふと思う。


高校生の頃、私は「本当のこと」を探してばかりいた。
何が「本当の自分」で、何が「本当の相手」なのか。
途中から、流動的に変わりゆくものを定義しようとすること自体馬鹿げていると思うようになって収まったのだが。
どれもこれも「本当の一部」。
だからそれを否定も肯定もしない代わりに、現在進行形の自分を発展させることに力を注いだ方が建設的だ、と。
優しさも残虐性も、色んな矛盾する部分を含みながらも一人の人間がいるわけだから、一側面を見て判断するのは愚かであるように思う。
それでも、どうしてだろう。
残虐性が垣間見えたときの方が、真実であるように感じてしまう。
真実など求めまいと思っても、なかなかうまくいかない。
「理解」を進めるためには、それだけ相手を知らなければならない。
けれど、自分がそうであるように、自分を開いてくれる人ばかりとも限らないから、表れてくる面から判断せざるを得なくなる。
私が時折インターネットをひどく毛嫌いしてしまうのは、表れてくる面があまりにも部分的だからなのだろうと思う。
そしてそれが誰かへの悪意の断片であったなら、なおさら。
偶然行き着いたページに悲しくなって、ブラウザを閉じてしまう。
そういうページは、もう見ない。


「一期一会」とは、いい言葉だと思う。
すれ違いゆくたくさんの人の生き様。
それが一瞬だからといって粗末に扱う人もいるだろうが、一瞬だからこそ大切にする人もいる。
好き嫌いが激しい自分ではあるけれど、できることなら後者の人間でありたい。
昨日街中で通りすがった人、お店のレジで言葉を交わしただけの人。
きっともう二度と会うことはないのかもしれない。
顔も声も場所さえも、時間が経てば忘れてしまう。
けれど、だからこそお互いにいい感情で去っていけたなら、と思う。


書いていたら、何だか無性にバイトをやりたくなってきた。
成果がどれだけあるのか、なかなか目に見えにくいものではあるけれど、一瞬一瞬を大切にできる人に憧れる。
暇になったら接客業のアルバイト、探してみようかな。
明日はどんな葉書が来るだろう。
仮に「否」であっても、今日のような返事なら嬉しい。
2003年07月08日(火)  分析
「私のことも分析してるの?」
共通の友人の話をしているとき。
友人が笑った口調で言った。
ふと顔を上げると、目は真剣だった。
すぐに言葉が出てこなくて、ファミレスのテーブルに頭を載せてしばらく唸った。


私は誰と接するときであっても、気づくと相手がどんな人なのか考えながら話してしまう。
彼女はこれを「分析」と表現したのだろうなと思う。
ちなみに「分析」は、自分がされて嬉しいことではない。
だから首を縦に振りにくかった。
無意識のうちにやってしまうことで、私の悪癖。
「どうだろう…しているとしても、悪感情ではないよ。そうでなきゃ、元々一緒にいたいと思わないし」
こう答えるしかできなかった。
要するに、多少はしているということ。
適切な言葉が見つからないけど、申し訳ない。


親しい人を「分析」してしまうのは、無意識とはいえ何だか裏切っている気がする。
信頼していないわけじゃない。
ただ、癖になってしまっただけ。
相互作用というか、自己開示というか。
相手が私のことを知りたいと思ってくれているなら、きっと相手も打ち解けて話をしてくれるのだろうと考えてしまう。
要するに、距離が遠い人ほど何を考えているのか分からないということで。
分からないと接し方に窮するので、いつの間にか「分析」する。
親しい人ほど安心しているので、「分析」をしなくなる。
だけど、たとえどれだけ傍にいても、私と相手は違う人間。
全て同じであるわけがないから、多少なりとも「分析」の対象になってしまう。
答えに詰まったのは、そういうこと。


「○○はこういう人かな」と、ある程度自分の中で考えておけば、相手をあまり知らなくても困らずに済む。
ただ、それは先入観であったり考え方の固定になってしまうので、できればしたくないし建設的ではない。
だから新しく相手を知るたびに、イメージを変えていく。
親しくなればなるほど、いちいち考えなくても不安を抱かなくなる。
「この人はこの人」と考えるには、それだけ相手を知らなくてはならない。
相手を相手として自分の中で受容するためには、ある程度のステップが必要だから。
ありのままのその人を好きになるというのは、とても素敵なことだと思うし、やはりそう思える人の傍にいたい。
時間がかかるから、最初は人見知り状態のまま、相手を観察することから始めてしまうのだけれど。
悪癖、と言ったのは、こういう、関係が初期段階の自分の状態。


一番近くにいる人は誰だろう、と考える。
答えは「自分」かなと思う。
生まれたときから一瞬だって離れていないわけだし。
だけど時折、そんな自分のことさえもよく分からなくなる。
むしろ、こんなにも近くにいるのに、ひょっとしたら最も理解不能な人間。
近すぎて見えないのかもしれない。
だから自分はどんな人間なのだろうかと考える。
これも「分析」か。
自分の力で変えることのできる唯一の存在であるにも関わらず、うまくいかないことが多い。
嫌いな人がいれば離れればいいけれど、自分の場合そうはいかない。
考えすぎるとうんざりしてくる。
よく知っている、というのはある意味諸刃の剣。
だから「分析」することもあれば、しないこともある。
自分にとっては、安心できるか否かのみが「分析」するかしないかの基準。
要するに、臆病なのだろうなと思う。


何だかごちゃごちゃと書きながら、これ自体「分析」になっているのだろうか。
他に適当な言葉が見つかればいいのかもしれないけれど、語彙力不足。
あーまとまらない。








私信:読んでいるのか分からないけれど千尋へ。
気をつけていってらっしゃい。
帰ってきたら連絡よこしなさい。
ええ、命令口調ですとも。
2003年07月07日(月)  七夕
七夕は、生憎の雨。
年に一度しか会えない彦星と織姫の伝説は、その儚さと幻想的イメージのためか、未だに受け継がれ続けている。
誰が考えたのかは知らないが、随分と感性の豊かな人がいたのだなと思う。
深い空を見上げながら、落ちてくる雨を見ていた。


その切なさゆえか、美しく感じられる伝説。
雨が降ると、何となく残念な気がする。
七夕は梅雨が明けていない時期にあるためか、晴天であることが珍しい。
「今年は晴れるといいね」
かつての風習を忠実に再現するわけではなくても、こういう会話はどこかしらで交わされている。
ロマンチックな星の夜と、二人の再会をぼんやりと願う。
雨が降ったなら「残念だったね、来年こそは」と言って終わるだけのことかもしれない。
離れ離れにされてしまった二人にとってみれば、私たちのようにのんきな問題ではないのだろうが。
雰囲気ばかりが重んじられて、当の本人である彦星と織姫のことは放ったらかし。
私自身、別に会えなかった二人のために泣くわけでもない。
風習って案外こんなもの。
だけど、こういう伝統が引き継がれていくのは楽しいなと思う。
最近の世の中は、とかく意味を求めすぎのような気がするから。


車に乗っていた。
いつも停まる交差点。
信号が変わるまでが長いので、何となく周りを見渡すのが習慣になっている。
隣は、葬祭式場。
斜め前には大型パチンコ店のネオンが光る。
信号無視をする車、割り込みしてくる車。
ワイパーが左右に動く。
雨掻き分けながら、静かな雨の中に佇んでいるかのよう。
車の窓を開けて、レシートを捨てる人がいた。
高そうな、ピカピカの新車に乗っていた。
つまらない、と思った。
だからって、現実世界から逃げたいわけでもない。
結局のところ、私はこういう空間にさえも固執している。


曖昧な日々。
友人のサイトへ出かけたら、ランダムにメッセージが出てきた。
詳しくは忘れたけれど、「社会に出るというのは社会的な貢献をするということだ」といった趣旨のことが書かれていたように思う。
自分ができる形で自分なりの関わり方をしていたいと思う私にとって、ちょっと嬉しい言葉。
どれだけ貢献できるかというと自信がないけれど、不条理に対して悩むばかりが方法ではないのだなと思う。
お金を稼ぐ経験が「社会に出る」ことではない。
就職への考え方を少し改めようかと考えたり。
とは言っても、元々私は給料も規模も度外視で進めているのだからあまり関係ないのかもしれないけれど。
ある意味、贅沢。


思ったことをつらつらと。
雲の上は晴れている。
ひょっとしたら彦星と織姫は、毎年雲に隠れて会っているんだろうか。
雨を降らせるのは、観衆が多いと照れくさいからかもしれない。
ふと、そんなことを思いながら。
2003年07月06日(日)  池
日曜の午後。
飲みかけのカフェオレ。
ストロー付き、200ml入り。
値段は90円と安い。
さすがは大学の自販機。
外で買うのが、馬鹿らしくなってくる。


池のほとりに座っていた。
最近はめっきり関わっていない所属劇団の新人公演。
始まるまで間があったのと、友人を待つまでの時間潰し。
ぼんやりと、どこを見るともなしに、風景。
夏休みに入った休日ということもあり、人影は疎らだ。
一昨年の学園祭の頃、10月。
毎日のように飲んでいた、安いカフェオレを久しぶりに買う。
パッケージが変わっていた。
前の方が好きだったなどと思いつつ、変わらぬ味に嬉しくなる。
7月6日、曇り。
梅雨と夏の境目で、空は重く腫れた瞼のように。
泣き疲れて、黙ったのか。
少し肌寒いけれど、それがまた心地よい涼やかさ。


人工池は、今日も静まり返っている。
時折風が踊って水面の輪郭がぶれる。
鯉が跳ねた。
ぽちゃりと小さな音が耳にこだまする。
聞こえない魚の声さえも、繋がって体へ流れてくるような。
空と、大地に挟まれた空間。
跳ねて飛び出たあの音は、ひょっとしたら誰かとの会話だったのだろうか。
同心円状に拡がりゆく波紋が、一枚ずつ溶けては消えていった。


鯉の背中が赤い。
ぼやけた世界で色を放ち、その空間だけだけが鮮やかに染まる。
空へと映ったならきっと美しい。
静かすぎる。
柔らかい。
あまりの静寂に、小さないたずらを思いつく。
飲みかけのカフェオレ、池へ垂らしたなら彼らはどんな顔をするだろう。
濁った水が、そこだけますます濁るだろうか。
思うばかりで動かない。
静寂が破られるのを誰よりも嫌がっているのは、きっと私。
膝を抱えて、眠る。
眠ったフリ。
目を閉じていると、たくさんの音が染みてくる。


車の去る音。
虫の鳴く声。
鯉がまた跳ねた。
横断歩道の音楽。
時折どこかから聞こえる笑い声。
近くを通る人の踏みしめる芝。
カラスの涙。


できることなら、このまま眠りたい。
きっと、ほんの数分の出来事。
悲しいことも、嫌なことも全部忘れて。
意味もなく、泣きたくなった。


足音が近づいてくる。
「お待たせ」
息を切らせて、友人が笑顔で近づいてきた。
「待ってないよ」
笑って、飲み干したカフェオレのパックを畳む。
鯉がまた、ぽちゃりと跳ねた。
2003年07月05日(土)  優しさ
「優しいね」
半ば感嘆の混じった声。
私の目を見ることもなく。
何を基準に?


私はいつも、相手の目を見ながら話をする。
もちろんずっと見ていては照れくさくなるので、時折逸らす。
こちらを真っ直ぐ見てくれる人であれば、それだけで安心。
言葉だけなら、いくらでも嘘がつけるからだ。
その証拠に、気まずいときや話したくないとき、私は相手の目を見ることができない。
目を使ってまで嘘をつける人は、きっと大悪党に違いない。
そんな、やや歪み気味な信念を持っていたり。


知識のある人が、声を大にして語る。
テレビの受け売りか、それとも有名な誰かの口真似か。
もっともらしい言葉を吐ける人は、いつだって態度が大きい。
私はそれが嫌いで、はいはいと言いながら心の中で首を傾げることも多い。
「普段の人当たりのよさの割に、見る目がシビア」
そんなことを言われた。
ふと思い返せば、時折笑って冷たい台詞を言い放っていたような。
人当たり、というよりは、オモテヅラがいいと言った方がきっと正しい。
我ながら怖い奴かもしれない。


ちょっと難しいことを知っているからといって、人間性まで優れているわけじゃない。
相手の欠点を論って責めるのは、自分が優越感に浸りたいだけだ。
他人の意見を受け入れるだけの柔軟性を持たない人が、とりあえずな優しさを表現したところで、嘘っぱち。
「分かるよ」という言葉が嫌い。
「分かる気がする」と言う人の方が信頼できる。
自分のことさえ分からないのに、他人をそう簡単に理解できるわけない、と思う。
ひねくれものな、私。


誰も、自ら進んで痛い思いをしたいわけなどないけれど、それでもやはり痛みを知っている人の方が他人の痛みにも敏感な気がする。
敏感だからといって、あまりに似ていると引きずり込まれる気がして倦厭する場合もあるので、優しくなれるとも限らないけれど。
ただ少なくとも、太陽のような眩しさで笑いかけられても、何も言えないことがあるのは事実。
自分にとって理解できない理論を押しつけられても、それは苦痛にしかならない。
相手は本当に親切で言ってくれているのかもしれない。
優しさって何だろう、と思う。


辛いときに励ましてくれる優しさだけではなく、何も言わないでいてくれる優しさ、もあって。
それは時と場合によって自分が求めるもの、の違いなのだろうか。
だとしたら相手からすれば皆目見当もつかないこと。
その直感が優れている人や、結果的に求められているものを提供できた人が「優しい人」か。
「優しい人」「優しくない人」の違いは、表現の仕方が器用か不器用かの違いなんじゃないかと、大胆な仮説を立ててみる。
答えは知らない。


本当の思いが伝わらないことがある。
逆に、偽善的な押しつけが周囲から認められることもある。
何が真実なのか、それはとても難しい問題のようだ。
罪さえも褒め称えられる可能性を持つ、巧妙な心理ゲーム。
全ては捉え方だけなのかもしれないけれど。
願わくば、駆け引きに勝てなくてもいい。
自分の中の真実が、偽善ではない人間になれますようにと。
2003年07月04日(金)  性
成人向けの日記。
以前気まぐれに読んで以来、時折読む。
性描写が過激すぎるものは苦手だし読めない。
ただ、感情を表現する上で必要というものなら読める。
伝わってくるのは、隠し事のない真っ直ぐな感情。
仮に刹那の想いであっても、その瞬間は永遠なのだと思う。
思いのままに大切な人のことを描いているのを見ていると、忘れかけていたことを思い出す。


最近事情が変わってきたとはいえ、この国では性に関する話は未だにタブー。
「彼氏いるの?」
そんな一言が、時と場合によっては「セクハラ」と称される。
仲間内ならともかくとして、社会的な場でプライベートに関わるような発言をすることが許されていないからだろうと思う。
それは大人として、世の中をうまく回転させていくための、暗黙の了解。
抑圧は、必然であるかにみえる。
多くの人が、言葉を濁す。
隠せば隠すほどに、何かが曇る。


性的な話がおもしろおかしく扱われるのは好きじゃない。
押し殺されるがゆえに、独立したものとして切り離されてしまうのだろう、と勝手な推測をする。
人間関係の直線上にあるはずのものなのに。
歴史を見る限り、性を商売道具にすることは今に始まったことじゃない。
昔からずっと繰り返されてきたこと。
本能的に、人々が求めているからかもしれない。
需要と供給。
だけど、そう考えてもやはり、性の商品化には賛成できない。
感情のない快楽の追求は、感情や気持ちを大切に考えていたい私には受け入れられない部分が多すぎる。


高校生の頃、性的な話に対する嫌悪感があった。
今このような日記を自分が書いているのも不思議なくらい。
ある日、友人が部室にレディースコミックを持ってきた。
2ページ読まないうちに、気分が悪くなってリタイア。
笑われた。
誰かが赤裸々な話を始めると、いつも顔が赤くなった。
私の中では、「切り離された世界」だった。
きっと周りの人たちが感情面を省略して、行為のみについて話していたからだろうと思う。


男性が苦手だった。
何を考えているのか分からない。
腕力でも勝てない。
普段いいかげんなのに、肝心なときには力を発揮する。
劣等感や恐怖感を含んでいたのか。
大学へ入って、きちんと話ができるようになって、色んな人の色んな個性を知るにつれ、それまでの自分を恥じた。
傷つけた人たちに、弁解する余地さえない。


好きな人ができて、誰かの傍にいたいという感情を初めて持った。
それは昔周りから聞いたような行為とは全く別種のもののようでいて、同じ線上にあるものなのだと思った。
切り離す必要などなかった、と知る。
きっと、自分が好きな人の傍にいたいと思うのと元は同じ感情。
自然なこと。
だけど、行為として性が商品化されているのを見ると、せっかく得たこの気持ちを失ってしまう。
また、嫌悪感が戻ってきてしまう。
そう思うから、性がおもしろおかしく取り扱われるのは嫌い。
自然なことが不自然に変わるのは、いつだって人間が「部分」を「個」として独立させたとき。
繋がりも何もかも、消して欲しくない。
全て切り離されたところから根本にある感情を推測できるほど、私は頭がよくない。


成人向けの日記には、性描写が当然のようにある。
だけど、大切な人を想っている人の言葉というのはきちんと伝わってくる。
優しい感情、誰かをいとおしく想っていること。
誰もが隠してしまいそうなこと、もしくはただおもしろそうに書いていること、とは異なる連続的な感情。
日記だから、メディアと違って利益を追求しているわけではない。
自分の想いのままに相手への愛情を綴る言葉には、不思議といやらしさがない。
素直で、真っ直ぐ。
私には書けない表現。


昔は、自分がそういう文章を読むようになるだなんて思わなかった。
だけど、今はそういった垣根を設けること自体、「切り離している」ことなのではないかと思うようになった。
誰かを想うというのは、優しさの感情を伴う。
それを表現したいと思ったときにたまたま性行為へと話が及んでも、それはそれで構わないのだろうと思う。
不倫の人が書いている日記があった。
そのこと自体は社会的に許されないし、私も周りの友人が不倫へと走ったならその子の将来を考えてきっと止める。
だけど、その感情までを否定するのはおかしいし、不倫であるというだけで人格を疑うことなどできない。
結局のところ私は、誰かを想う人の言葉というのが好きなのだろう。
優しくて、あったかい感情。
2003年07月03日(木)  関係
連絡を絶たれた。
さすがに、あそこまで露骨に嫌な感情をぶつけられるとゲンナリする。
彼女はしばしば自分のことを「汚れている」と言っていた。
そして私のことを「純粋」だとか「真っ直ぐ」だと言っていた。
私に対する評価には解せないが、本当にそう思っていたのだとしたら嫌われる理由もよく分かる。
分かるだけに悲しい。


彼女とは、何度か言葉を交わしただけの関係。
1つ年下ながら、水商売をやって生活しているとのこと。
そしてその生活を変える気もないらしい。
ただしゃべるだけで多収入を得られるし、真面目に働くなどばかばかしいと言っていた。
また、自分には真面目に働くことなどできないのだとも。
家には帰っておらず、交際相手との同棲生活を送っている。


自分とは全く違う生き方をしている人。
単純に、別の価値観に触れる機会があって嬉しかった。
「水商売しかできないだなんて、駄目な奴でしょう」
「あなたの生き方に口を挟む気はないし、本人が辛くないならそれでいいんじゃないかと思います。どの生き方がいいか悪いかなんて、他の誰かが決めることではないですよ」
本心だった。
少しずつ打ち解けて、彼女は職場の仲間のことや大好きな動物のことについて話してくれるようになった。
「店のトップの子なんて、1日で100万円くらい余裕で使っちゃうんですよ」
「そんなに何に使うんですか?」
「ブランド品とか…かなあ。でも私はそういう使い方はしないけどね」
知らない世界のこと。
彼女の言葉には時折自分を蔑視したような発言が含まれていたけれど、それでも根は真っ直ぐな人なのだろうということが次第に伝わってきた。
周りとの関係において、不器用なだけ。
自分には理解できない世界のことではあるけれど、説教くさいことなど言いたくなかった。
知らない経験をしている人には、知らない苦労が多い。
元々自分が持っていた水商売に対する先入観を捨てて、彼女の言葉に耳を傾けるよう努めた。
自分の話をしても、彼女には自慢話に聞こえてしまうようだったから、専ら話を聞く側だった。


話す機会が増えてくると、私が彼女を知るようになったのと同様に、彼女も私を知るようになったらしかった。
自分の話はあまりしていなかった。
ただ、話をしていれば何となく、私がどんな環境にいるかは分かる。
「最近は何をやっているんですか?」と聞かれて「卒業論文やっています」と答えると、「勉強ができる人はいいですね、大学に行けて」と言う。
お酒の話になったとき、「お酒は強いですか?」と聞かれたので「すぐに赤くなってしまうのであまり飲めません」と答えると、「そういう女の子ってかわいくていいですね」と言う。
自慢をしたいわけじゃない。
それなのに、私の状況そのものが彼女にとっては自慢に聞こえるらしかった。
大学へ通っていること、水商売の経験がないこと。
打ち解けられたと思ったのも束の間、彼女は私と話をしたがらなくなった。


嘘はつきたくなかった。
経験もないのに、知ったかぶって共感するのは上っ面の証拠。
彼女が素直に感情をぶつけてくる分、私もそれに対して誠実でありたかった。
そういう態度も含めて、嫌だったんだろうかと今になって思う。
彼女はいつも自分と私を比較しては、自分を卑下していた。
それを否定する言葉は、きっと彼女に届かなかった。
お世辞を言ったつもりはない。
だけど、水商売に就いていることをどこか自分でも納得していなかったかのような、「何かを変えたい」という無力感を帯びていた彼女には、白々しい言葉にしか聞こえなかったのだろうと思う。


私自身、精神的に荒れている時期があった。
誰の言葉も自分の中に入ってこない。
優しい人や理解ある人が、どうしてか嫌いだった。
自分にないものを持っている人が眩しくて、その光の分だけ自分の影が浮き上がって見える。
光のあるところには影があって、だからそういう人に近づきたくなくなった。
相手に悪いところなどないし、相手に何かをしてもらいたいわけでもない。
それなのに、話をすると痛みだけが残る。
いつの間にか、距離を置くようになった。
話すときには、望んでいないのに口から勝手に罵詈雑言が出てきた。
そんな自分にうんざりする。
だから、ますます距離を取った。
誰も悪くなくて、ただ相手を傷つけたという事実だけが残る。


もしも彼女が本気で私を「純粋」で「真っ直ぐ」な人だと思っているのなら、状況を考えみても、嫌われる理由はよく分かる。
そんなに綺麗なわけがないのに。
彼女は、肝心なところが見えていない。
確かに私は彼女と同じような生き方はしていないけれど、別の面で悩みもあれば考えることもある。
汚い部分だってたくさんある。
それなのに、彼女は表面だけで判断してその先を知ろうとしてくれなかった。
断ち切るのは、楽なこと
そして自分にも経験のあること。
それが分かるだけに、何だかとても切ない。
自分には何ができたのだろうと思う。
彼女のそんな心境まで配慮してあげられるほど、私は人間的にできてないという証拠なのだろうが。
2003年07月02日(水)  他人
ニュースステーションを見ていた。
森元総理の問題発言が取り上げられていた。
彼はどうしていつもああやって子どもじみた話題の集め方をするのだろう。
自分の立場を考えたら、あのような言葉がどれだけ大きな意味を持つのか分かるはず。
ほんの少しでも他人の心情を慮れる人ならば、ありえない発言。
あまりの配慮のなさに、怒りというよりむしろ失望。
言いたいことをはっきり言ってくれる政治家なら歓迎だが、考えなしでただ発言するだけの人は必要ない。
どれだけ多くの人を傷つけたのか、少しは考えて欲しい。


大学低学年の頃、医学部で他学部向けに開講されている講義に出たことがある。
そのとき、不妊の人は夫婦10組中1組いるらしいと聞いた。
10%の人は、子どもが欲しくてもできない。
それなのに、子どもを産まない女性には社会的保障をしなくてよいなどとよく言える。
投書にもあったことだが、そもそも女性にだけその重荷を課すのがおかしい。
彼の理論で言うなら、子どもが欲しくてもできない夫婦や、結婚していない男性にも社会保障しないことになる。
古い上に失礼で、個人の事情など全く考慮なし。
あれで一時とはいえ日本のトップが務まったのだから、不思議なもの。


ほとんどが反対意見だった。
また、テレビの構成を見ていても、局が反対意見を推しているのだと分かる。
街頭インタビューで得たどっちつかずの意見さえ、反対意見に分類して放送していた。
賛成の人の気持ちも、伝わってくる。
欲しくてできない人ばかりではなく、遊んでいて子どもをいらないと言っている人がいるのも事実。
だけど、そんなのどこで境界線を引いたらいいのだろう。
それこそ感情のレベルにまで踏み込まないと分からない。
踏み込んでも分からないかもしれない。
個人的な感想としては、誰かを懲らしめる方向ではなくて、誰かを守る方向で制度を議論して欲しいと願う。
考え方が甘いだけなんだろうか。
確かに、悪意のある人に出会うと守りたいという気持ちも薄れるかもしれない。
でも、そういう人たちの巻き添えをくらって、しっかり生きている人たちまで苦しめられるのはどうなんだろうと思う。
単純に、そんな国好きじゃない。


「さとは結婚する?」
以前友人と話していたらそう聞かれた。
「今のところ分からないな」
「じゃあしないかもしれないの?」
「結婚したい人がいればするけど、いなければ無理にしたいとは思わないし」
「子どもは欲しくないの?」
「欲しいけど…、だからって何とも思ってない人と愛情のない生活をして日々を過ごすのは、私には耐えられなさそうだから。ほら、私根性なしだもん」
そこまで聞いて友人は、「あなたらしい」と言って笑った。
彼女は言葉を続ける。
「私は、絶対にするよ」
「好きな人いなくても?」
「とりあえず家庭欲しいからね。そんなに嫌じゃなければ誰でもいいや」
「仕事は?」
「しなくてもよさそうなら、辞めると思うよ」
「そんな生活耐えられるの?」
「頑張る…多分。でも離婚するかも」
価値観や考え方って色々なのだな、と思う。


森元総理の発言は、結局他人事だから出てきたものなのだろうか。
少なくとも、欲しくても子どものできない人ではないと推測することができてしまう。
子どもが欲しいから結婚すると断言した友人は、もし子どもができなかったらどう思うだろう。
欲しくてたまらないのに、それを罪であると責め立てられたならどれほど心が痛くなることだろう。
結果が全てか。
彼が言うには、国というまとまりは、多様な個性を包み込めるものではないらしい。
考えなしにもほどがある。
そんな人がトップに立てる国であるがゆえの発言だろうか。
無力。
批判は容易だが、結局私の声は彼に届かない。
万が一彼の発言を弁護するような法律が制定されたとしても、何もできない。
口先ばかりだ。


未来は、どんな絵を描いているか。
2003年07月01日(火)  雨音
雨音が、強くなるのを待っている。


甘い。
花の香りがそこら中に漂っている。
それは確かに昔どこかで嗅いだはずのもの。
だけど思い出せない。
一体、その花の名は何だったろう。


傘を差すまでもない。
粉雪のような水滴が、体のあちらこちらに付着する。
体温で溶けていくかのように。
服へと染みこんで、何も残らない。
空を見上げると、憂いを帯びた広すぎる空間。
手を伸ばしたくなる。
衝動を、飲み込む。


雨音は次第に強まっていく。
それとは異質の水が弾ける。
耳に、刺激。
振り向く。
背びれが水面から出たフナ。
動くたびに波紋が広がる。
緩やかに、雨よりも静かなその輪は、
幾重にも彼を取り囲む。
波紋と音、静と動。
見ていられない。
静寂は何も訴えない。


冷たい風が頬を撫でていく。
自分でも、何を考えているのか分からない。
だけど時折、泣きたくなるんだ。
意味もなく、目から零れ落ちる水滴は、
雨音に忍ばせようとしても叶わない。
雨は、静かすぎる。
だからきっと堪えよう。


雨音が、強くなるのを待っている。
感情が、通り過ぎるのを待っている。
甘い花の香り。
水滴が体へ溶けていく感覚。
背びれの見えたフナが泳ぐ。
立っている場所は、どこだろう。
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