Spilt Pieces |
2003年05月31日(土) 実習日記:9 |
実習日記、5や8といった間の記録はつけていない。 でも、後で思い出し日記の形で書くかもしれないので数字は9。 要するに、題名の数字は「実習何日目」という意味で。 今日は文化祭。 前日委員会の作業を見ていて帰宅が午後11時頃だったので、起きるのが辛かった。 5時半に起きようと思っていたのに、体が動かなくて結局6時。 実習中は、妙に規則正しい生活を送っている気がする。 少し睡眠が足りないのが痛いところ。 7時にクラスの集合場所へ行くと、何人かの生徒が既に来ていた。 企画の準備をすると言って早く集まったはずなのに、なぜか遊んでしまっている。 自分もよく脱線するから気持ちはよく分かる。 「教師」の立場としてはこれじゃいけないのかもしれないが、だからといってきつく指示を出すのも嫌だ。 談笑しながらも手を動かし始めると、いつの間にか生徒も参加するようになった。 大声を上げなくても、伝えたいことは自分の体で示せばいいのかもしれないと思った。 そういえば掃除も、私が箒を持って教室を掃き始めると生徒もモップなどを探して片付けをするようになった。 それまで、いくら口で言っても駄目だった。 生徒は、自分が考えている以上に周りを見ているのだと知った。 そしてその分、言葉を伝えたいときには大声ではなくて行動が求められているのだとも。 何だか、とても興味深い。 今日は生憎の台風。 外でやる予定だったが、体育館へと変更。 場所は、電気もつかない奥のエリア。 しかもだだっ広い空間を与えられて、どうしても間延びしてしまいそうだった。 生徒と一緒に、どうすればその場が明るく見えるか頭を捻らせる。 風船を膨らませて、壁にセロハンテープでつけていく。 バスケットゴールを縮めて、看板などをつけて装飾する。 エンジンさえかかれば、生徒は自分でどんどん動き始める。 「面倒」と言っているうちは、やる気がないというよりもむしろ、どうしたらいいのか分からないだけなのかもしれない。 前日決めたシフトでは、できるだけ楽な予定を組もうとしていた生徒たち。 今日は、自分のシフト外であってもクラスに顔を出す生徒が多かった。 初めての文化祭、シフト外で遊びたいかもしれないのに、大雨の中クラスのために買い出しを引き受けてくれる生徒もいた。 正直、最初は口をきいてくれない生徒も多かった。 特に男子は、私がどんな人間なのか見定めようとしている風でもあった。 そのせいか、見られるのが怖かった。 照れているのだろうとは思いながら、返事が返ってこないのが悲しくて、声をかけるのさえ躊躇いそうになった。 でも一週間を経て、少しずつ変わってきた。 警戒心の塊のような表情でこちらを見ていた生徒が、笑ってくれる。 話題を振ると、自分の話もしてくれる。 最初、「馴れ馴れしく声をかけるな」という雰囲気だった。 それがいつの間にか、変な顔をしたり冗談を言ったり。 家族の話、勉強の話、中学の頃の話、そして私にも色々質問してくれた。 高校生は、小学生や中学生よりも大人で、実習生というだけで無条件に慕ってくれるわけでもない。 表面的には笑っていても、あくまでも愛想なのだと最初の頃先生に言われた。 その意味が分かった一週間、その終わり頃になって、少しずつ打ち解けてくれるようになってきた。 笑ったときの顔が、こんなにも違うのだと知って驚く。 すごく嬉しい。 「先生、食べる?」 女子が、並んで買ってきたたこ焼きをくれた。 「おいしいでしょ?」 口の中のたこ焼きが熱くて、返事ができなかった。 1階を歩いていたら、部活の生徒が4階から大声で呼んでくれた。 恥ずかしかったけれど、雨の中窓を開けて手を振ってくれたことを思うと、嬉しかった。 普段の生活では苦手だと思うような子とも、話をしてみると意外に合ったりする。 生徒の友人関係や恋愛、教師や学校に対する考え方など、見ていると随分と多くのことが分かる。 「教える」実習に来ているはずなのに、教わってばかりだ。 その上、嬉しいことばかりで少し怖くなってくる。 最初は3週間に延びた実習が憂鬱で仕方がなかったのに、あと2週間も生徒たちと一緒にいられると思うと今はその変更がありがたい。 クラス担任の先生が出張でいなかったので、点呼や注意事項の連絡、金銭管理など、担任業務を色々と経験した。 その上、何十年ぶりかの台風上陸。 大変なことばかりで、結局ほとんどクラスに付きっきりだった。 他の実習生が色んなクラスの出し物を見て回ったと言っていて、羨ましくもあった。 でも、たくさんの経験をさせてもらっている自分の方が幸運なのだなと思う。 たかだか実習生なのに、クラスを1つ任せてもらえるだなんて、責任は感じるけれどもやはりおもしろい。 文化祭を回ることなど、実習が終わってからいくらだってできる。 文化祭期間中、何時にどこへ集合と言ってもなかなか集まらない。 1人1人の所在を確かめながら話をする。 隣でマイクを使っていたので、大声を出さないと届かなくて、結局話が終わる頃には声が枯れた。 静かに話を聞いてくれるタイプの子ばかりではないけれど、返事がどこかから返ってくる。 できることは少ないし、失敗も多い。 生徒と教師の境が分からなくもなる。 一緒に騒いでばかりはいられないし、3週間経ったら何事もなかったかのようにこの空間からいなくなるのだと思うと、何だかせつない。 でも、自分にできることだけでも、精一杯できたらいいなと思う。 数年ぶりに偶然同級生に会った。 「笑った顔も雰囲気も、全然変わらないな」と、少しクサイことを言われた。 確かにそうかもしれない。 でも、精神的にはあの頃より、色んな経験を経て少しは変わったんだよと言いたかったような気がする。 それにそれは、現在進行形。 毎日が発見だらけで、とても充実している。 実習に来てよかった。 あと2週間、頑張ろう。 |
2003年05月27日(火) 実習日記:5 |
実習日誌を返却してもらった。 それは大学側へ提出してしまうので、手元にあるうちに記録として日記をつけておこうかと思う。 さすがに詳しくは覚えていないので、事実だけの羅列になってしまうと思うが。 この日は、スポーツテストがあった。 雨なら延期の予定で、延期になったら初授業をやらなくてはならない。 準備が不完全な私は、半ば本気でテルテル坊主を作ろうかと思っていた。 天気予報では降水確率40%。 なかなか微妙な数字だった。 結局、朝登校したとき晴れていたので、始まる直前に強い雨が降ったりもしたがそのまま決行ということになった。 控え室へ向かう途中、すれ違った生徒に「先生、今日のテストはあるんですか?」と尋ねられた。 職員室ではほぼやる方向で話が進んでいたので、「多分やるみたいなことを先生方は言っていましたよ」と伝えた。 その直後、自分の言葉を後悔。 彼にとって、先生は私だったのに。 自覚がなかなかできない難しさ。 スポーツテストでの私の担当はハンドボール投げだった。 実習生1人と教職員2人くらいの割り当て。 先生方から、「何事も勉強だよな」と言って、生徒への説明を全て任された。 正直、押し付けられた気がしなくもない。 「いや〜実習生がいると楽でいいですな」 どうせなら、本人に聞こえないように言えばいいものを。 その場にいる教職員がすべきことは、生徒への説明のみ。 高校生なのでそれ以上は言わなくても自分たちで勝手にやってくれる。 ぼーっとしながら椅子に座っていると、先ほどまでの雨はどこへやら、ジリジリと陽が照ってきた。 日焼け止めを塗るのを忘れてしまったので、紫外線が怖くて日陰に引っ込んで見ていた。 すると、そういうときに限って生徒が次々やってくる。 当然のように呼ばれる私。 サボるのはやはり無理らしい。 って、当たり前か…。 開始直後の説明では、声が小さくなってしまって生徒に励まされる始末。 最後の頃にはさすがに慣れてきたが、やはり最初からフルパワーでいかないと教師なんて務まらないのだろうな。 しばらく芝居もやっていなかったので、腹式で声を出そうと思ってもなかなかうまくいかない。 結局、終わりの頃には喉が痛くなってしまった。 連休中、毎日のようにクラスへと足を運んだ甲斐あってか、クラスの生徒の大部分が分かるようになっていた。 「先生、来たよ〜」 クラスの女の子たちが明るく声をかけてくれた。 男の子たちは、連休中来ていない生徒の方が多かったのもあって、分からない生徒も多い。 クラスということもあって緊張している私に、クラス会長が「先生かわいい」と野次を飛ばした。 照れて笑ってしまった私は、やはり教師というより生徒の立場に近かったんだろうなと思う。 難しい、そればかり思いながら話を進める。 生徒たちが様々な種目に取り組む間、私や先生はずっと同じ場所。 暇なときに語りもしたが、色んな先生の考え方が聞けておもしろかった。 「教師」と一括りにされてしまいがちだが、結局は人間性の部分が大きいのだなと改めて思う。 帰りの会、クラスの生徒たちがちっとも席についてくれなくて、思わず「座って下さい」などと命令口調。 自分が言われるのは嫌なのに、つい便利な言葉に頼ってしまう。 帰宅後、日焼けした肌をさすりながら、色んな意味で疲れてぐったりした私は即就寝。 こんな調子であと何日あるのだろうと、疲れたときには愚痴が出たのも事実だった。 |
2003年05月25日(日) 実習日記:3 |
朝起きることができたので、8時からの部活に参加してきた。 久々の運動で、筋肉痛がひどい。 超夜型の私は、朝に弱い。 食事の時間を削ってでもぎりぎりまで寝ていようとする。 そんな私が、朝の7時頃起床。 我ながら気合いが入っているときは違うものだとびっくり。 いそいそと準備をして、ジャージ片手に家を出る。 高校の正門前で、1年生の集団に会った。 朝からものすごいテンションで、生気を吸い取られそうなくらい。 負けじとテンションを上げることもできるけれど、自分の立場を思い出して自粛。 「朝から元気だね〜」 と言って、笑っていた。 それにしても、朝の8時前に部室でガッチャ○ンの合唱はさすがにすごすぎると思う。 自分が高校生の頃は…そこまでしていないはず。 部活は、やはり体がついていかない。 当時の自分の体のイメージが頭についている分だけ、その通りに動かない自分の体がもどかしくて仕方がない。 とらえるイメージ、打つイメージ、どれも残っているのに、体を動かしてみると全然違う。 情けないなと思いつつ、筋肉痛を気にしないくらいに走り回った。 ブランクを取り戻すには、動くしかない。 私もお世話になった顧問の先生が、「次のコース、4本連続で決まった奴から抜けていけ。最後まで残ったらコート一周な」と言った。 そういう練習を2回やったけれど、2回とも残ってしまった。 教育実習生は走らせないと言っていたけれど、それはそれで何だかずるくて嫌だった。 というわけで、他の最後まで残った生徒と一緒に、競うようにしてコート一周。 顔から火が出るほど恥ずかしかった。 でも、できないのに走らない方が自分の中では納得がいかなくて恥ずかしかった。 ここらへん、やはり「教師」の立場の自覚ができていないということになるのだろうか。 3週間のうちに、絶対「教育実習生」の立場関係なしに走らなくて済むようになってやる、と、思った。 部活を10時で抜けて、クラスの企画の方へ。 …行ったのはいいが、生徒が1人しか来ていない。 昨日「明日10時」と言っていたのに、結局皆委員会やら部活やらで忙しいらしい。 思い起こせば私もそうだったなと思う。 というわけで、来ていた生徒と2人で針と糸を持って作業開始。 1時間ほどすると、別の生徒も来た。 生徒が抜けたり入ったりの1日。 昨日会っていない生徒の名前を覚えたり、他愛もない話をしたり。 高校生は、私がいても普段と何ら変わることなく噂話をしたり下ネタで盛り上がったりしている。 時折先生の悪口なども聞こえて、少し慌てる。 自然体で、元気で、きっといつもと違うところといえば多少私に気を遣って話を振ってくれたあたりだろう。 その方が私もありがたいし、楽しい。 それに、少なくとも先生の悪口を告げ口するような人間には見られていないらしい。 帰りの頃には生徒とも随分話せるようになって、こちらから頑張って声をかけなくても生徒が声をかけてくれる。 「先生またね〜」と、大きな声で手を振ってくれる生徒もいる。 クラスの方にいるとき、何度か部活の子たちにも会ったけれど、まだそんなにたくさん話したわけでもないのに、こちらが気付かなくても向こうから元気に声をかけてくれる。 すごく嬉しい。 「来週、ひょっとしたらここのクラスで最初の授業をやるかもしれないんだ」 ふと、クラスの生徒と話しているときに言った。 「HRのクラスだけに緊張するね」 すると、生徒はこんなことを返してくれた。 「大丈夫だよ、先生。うちらのクラスなんだからリラックスしてできるって」 何だか、怖がっていた自分が少し間抜けにさえ思えた。 部活の生徒は、「先生が授業に来たら、ひやかしてあげるよ〜」と言って笑っていた。 ほんの3週間しか一緒の時間を過ごさないことを、皆知っている。 その上、まだ会って2日か3日しか経っていない。 それなのに、暖かく迎え入れてくれることが本当に嬉しい。 すぐに赤くなる私は「先生ってば赤面症だね」と言ってひやかされた。 でもその直後、「そのうち慣れるよ、大丈夫大丈夫。頑張って。それに、赤くなるのかわいいよ」などと、逆に励まされた。 コンプレックスの1つで、どうにも気になって仕方のなかったこと。 それが、こんな風に逆に生徒から励ましを受けるだなんて思ってもみなかった。 「教師」としてはこんなんじゃ駄目なのだろうけれど、私個人としては嬉しくてどうしようもないくらいだった。 私はどうやら、生徒に恵まれたらしい。 生徒に後で「先生の授業分からなかったよ」などと言われませんよう。 帰宅後、体は疲れてへばっているけれど、無理やり経済の本を開いて勉強をする。 実習前は不安だらけだった。 でも、今は次の日が楽しみだ。 きっと、あっという間の3週間になるのだろうな。 一瞬の「あっ」の間、貪欲に色んな経験をしていきたい。 …ちなみに帰宅後、先生に借りた写真を見て、今日覚えた名前を何度も確認していたのは生徒に内緒。 覚えるの苦手だけど、せっかくだから1度で覚えたフリしていようかな。 |
2003年05月24日(土) 実習日記:2 |
土曜なので実習はないが、文化祭前なので高校へ出かけた。 前日生徒に聞いたら作業はないとのこと。 というわけで、本当はいるかどうか顔出しに行って、その後部活に行く予定だった。 部活は1時半かららしいので、1時頃高校へ。 自転車置き場から教室へ向かう途中、買出しから戻ってきたばかりの生徒に遭遇した。 「やっていないんじゃなかったの?」 と聞くと、 「何となく10時頃からやっていたんですよ〜」 との返事。 というわけで、予定変更、文化祭の準備を手伝うことにした。 教室へ行くと、男子が机の上で卓球をやっていた。 元々担任の先生から「男子は大人しいですよ」と聞かされていたので、意外なテンションの高さに驚くばかり。 仲間内で盛り上がっている様子だったので、私は一緒に教室へ入っていった女子と一緒にしゃべることにした。 顔と名前を一致させようと、まずは自己紹介。 目を見ていると、それぞれの生徒がどんな子で、教師に対してや私に対して今どのような感情を抱いているのかが案外分かる。 分かるけれど、だからといってそれに応じた付き合い方ができるほど器用でもない。 それに、生徒の機嫌を取るなどまっぴらごめんだ。 私は私のスタンスで付き合っていきたい…とは思いつつも、人見知りの癖が出てしまってなかなか思うように話せない。 大人しい実習生だと思われたような気がする。 生徒が作る小物やら裁縫やらを手伝って、少しずつ色んなことを話す。 自分が小学生の頃は、教育実習生がどんな人かすらあまり考えずにただ慕っていたような気がするが、高校生のようにきちんと自分を持っている人はそんなことしない。 自分もそうだったからよく分かる。 「先生」と「生徒」の立場ではなく、まずは「人間」と「人間」の立場なのかもしれない。 自分の人間性に自信などないが、とりあえずお世辞を言ったり自分を偽ったりすることだけはしないよう、自分にできる精一杯をやろうとだけ心に決めた。 相手の反応を見ながら、どうすれば自分を知ってもらえるか、相手を知ることができるか考える。 でも結局はそうこうしているうちに、こんなことを考えること自体面倒になって、色んな話を吹っかけるようにはなっていたのだけれど。 まだなかなか生徒とは仲良くなれそうにない。 まずは私が相手の顔と名前をきちんと一致させる努力からしなくてはいけないのだろうな。 とりあえず、生徒はそれぞれ個性的な、高校生らしい明るさを持った子が多かった。 早く慣れられるよう、早く色んな子の色んな面を見ることができるよう、少しずつでも前へ進んでいけたらいいなと思う。 クラスの手伝いを終えて、次は部活へ。 行ったのは4時をとうに回っていたので、もう終わりかけだった。 それでも、顧問の先生は私が顔を見せるととても嬉しそうに「よく来てくれた」と笑ってくれた。 部室を借りて、ジャージに着替える。 しばらくテニスはやっていないけれど、やはり私はスーツよりもジャージの方が好きみたいだ。 4年間使っていないラケットのグリップを見て、帰りに新しいものを買おうかなどと楽しく考えた。 1年生に付き合ってもらって、乱打をやった。 それにしても、ブランク4年では打てるはずもない。 毎日練習している生徒と一緒に打ち合えと言われても、私としてはボールの位置を捉えるので精一杯で、とてもじゃないが打ち方にまで頭が回らない。 どうしてもボールを近くでとらえてしまうので、相手のところまでボールが飛んでいかない。 在学中からそんなにうまい方でもなかったけれど、それがこれだけ長い期間やっていないとなると、笑えるくらいにできない。 生徒は「先生」と呼ぶ。 だが、私は教えられない。 早く調子を取り戻して打てるようになりたいと思った。 できる限り部活に顔を出そう。 言いたいことや伝えたいことが、たくさんある。 部室の様子は当時と全く変わっていなかった。 後輩であり生徒でもあるテニス部の子たちは、皆色々な思いを抱えていそうではあったがどの子も綺麗な目をした子だった。 仲良くなれたら嬉しいと思う。 今日は、頑張ろうと思える要素がたくさんあった。 休みの日ではあったけれど、行ってよかった。 夜は疲れすぎて逆に何時間も眠れなかった。 我ながら柄にもない。 それでも、朝8時からの練習にぜひとも顔を出したいと思って、無理やり布団をかぶって数を数えたりしていた。 眠りが浅くてほとんど寝た気にはなれなかったけれど、次の日何とか起きられた。 続きは実習日記の3で。 |
2003年05月23日(金) 実習日記 |
教育実習スタート。 バタバタしているので毎日更新は無理のような気がする。 でも、書けるときはまとめて更新予定。 (教育実習に興味のない方にとっては、しばらくの間つまらない日記になるかと思われます) 初日の実習。 なぜ金曜からなのかはよく分からない。 ただ、緊張しすぎて家に着くと喉が渇いて仕方がなかった。 8時10分に登校。 控え室に行くと、既にほとんどの実習生が椅子に座って待機している様子。 時間には間に合ったけれど、ちょっとのんびり行きすぎたらしい。 実習担当の先生から説明を受けて、職員室へ。 名前と教科を言う程度の簡単な自己紹介。 静まり返った職員室、見慣れた先生の見慣れない雰囲気。 緊張で上ずったままの声を搾り出し、辛うじて笑った。 1時間目、生徒指導部長の話を聞く。 在学中、その先生のいい噂ばかり聞いてはいたものの、実際に話したことはなかった。 というわけで、ほとんど初めてくらい。 いい噂の意味がよく分かるような、優しい雰囲気の人だった。 少し緊張が解ける。 2時間目、作成した指導案と板書事項を指導の先生に見てもらった。 時間がなくて結局徹夜となってしまった指導案、我ながらよくこんなスピードで書けたものだと感心してしまうくらいだったので、先生にオッケーサインを出されたときには嬉しくてたまらなかった。 いざとなれば底力が出るものだとびっくり。 3時間目、指導の先生の授業を見させてもらった。 自分が高校生として授業を受けていた頃とは全く違う印象。 どれだけ知識があって、どれだけ機転を利かせて、どれだけ生徒のことを思っているのかがようやく分かった。 何だか、尊敬の目で見ることしかできなかった。 自分にはあんな授業はできない。 知識が浅いのは仕方のないこと。 どうすれば生徒に分かりやすく伝えられるか、分からない自分だからこそ生徒の立場に立てるのではないか。 そんなことばかり考えて、3時間目終了。 4時間目。 見させてもらおうと思っていた先生の授業がなくなっていたので、2時間目のときに指摘されたところなどを修正。 今まで先生たちが何気なくやっていた板書。 自分でやるのはかなり大変そうだ。 板書事項をまとめるだけでもヒイヒイ言ってしまっている。 まとめ方も、どうすれば生徒に分かりやすくなるのか考えるととても難しい。 伝えるだけじゃ駄目。 寝不足の頭を抱えながら、悩んでいたらチャイムが鳴ってしまった。 5時間目は、空き教室にて板書の練習。 黒板で文字を書くということを、今までは冗談にしかやっていなかったが、真面目にやってみると力の加え方がなかなか難しい。 その上、書いているうちに右上がりになっていってしまう。 汗をかき始めたので、思わずスーツの上着を脱いだ。 いやはや、本当に大変。 腕が痛くなってしまった。 6時間目、指導の先生の授業を再び見させてもらった。 今度は授業中に教室の中を歩き回ったりして、生徒の様子も観察。 午後の授業では寝ている生徒もいる。 クラスの空気が午前とは全く違う。 澱んでしまっているかのような。 ベテランの先生は、とても興味深い話を多く織り交ぜながら話を進めている。 それでも、眠そうな空気は変わらない。 自分がやったらほとんどの生徒が寝てしまいそうだ。 不安になる。 放課後はクラスに顔を出してから、実習手帳に色々と書いた。 その後指導の先生のコメントをもらい、終了。 帰りに高校時代所属していた部活に寄って、自己紹介した。 自転車置き場に行くと、他の実習生と会った。 休日はどんな服装で来るか、いつから何コマ授業があるか、など、ちょっとした話をお互いにした。 コマ数は、人によるらしい。 4コマの人もいれば、24コマの人も。 ちなみに私は14コマ。 帰宅後は、睡眠不足と緊張疲れとが重なって、即就寝してしまった。 どうしても目が開かない。 まだ授業をやってもいない初日からこの疲れ方。 3週間で体力がつきそうだ。 頑張るぞ。 |
2003年05月22日(木) 跳ぶ |
日にちは覚えていない。 だけど、なぜか曜日だけは覚えていた。 彼女はその直前、屋上で歌を歌っていたという。 5月の末、いいお天気の木曜日。 ほんの数メートル先で、人が死んだと聞いた。 私は怖くて、近づけなかった。 毛布をかけられた担架が運ばれていった。 何となく、目の端に残った光景。 私は、多分自分で言うほど楽天家ではなくて。 悲しみに1つ出会ってしまうと、それを受け入れるため、葛藤。 きっと弱いのだ。 そうでなければこうも毎日、意味もなく泣いたりしない。 でも、そんなところ見せてやらない。 どんな辛そうな表情を浮かべてしまったとしても、私は泣かない。 他人の前で、自分のために泣くことが嫌だった。 そこには惨めな、水浸しの自分がいるかのようだったから。 誰かのために泣くのならよかった。 そういうとき、自分の涙も自分のものではないような気がした。 だから今はもう、人前で泣いたりしない。 映画やニュースは、別。 1年前の木曜日。 受け入れられなかった。 しばらく、その近くを避けながら歩いていた。 それでも、目の端には必ずあるのだ。 添えられた花が枯れていく光景。 置かれた缶ジュースのプルタブが開いているらしい。 何が何だか、分からない。 「分からない」は、私の口癖。 逃げ口上でさえないのが悲しい。 「分からない」と発するとき、大抵無力感に苛まれているような。 だから私は、「分からない」が1つ減れば、1つ笑う。 彼女は、何を想って歌ったのか。 最期、誰の顔を思い浮かべて冷たい足元を蹴ったのか。 何も知らない私が唯一知っていること。 彼女は、同じ高校出身だった。 彼女は、同じ専攻だった。 見知らぬ誰かだったけれど、何だかそうでもない気がした。 彼女は、跳んだ。 私には手の届かない場所。 跳ばなければ、私は貴女を知ることはなかった。 だから結局、どう足掻いても私は勝てないのだ。 見知らぬ貴女が跳んだ場所。 到着してしまった最期の場所。 血だまりとなった緑色の芝生。 初夏の光を受けて光る赤いミュール。 目撃した友人が教えてくれた情報。 私は震えて立ち去った。 真相は分からぬまま。 分からぬ分からぬを連呼して、しかし時間は流れていった。 見知らぬ貴女、日にちは覚えていない。 だけどこの時期、どこかの木曜日。 貴女の、命日のような気がした。 だから言葉を。 綴った。 跳んで、跳んで、跳んで。 貴女はどこへ行ったのか。 夢という名の命の儚さ、それ以上の何か。 胸を刺す、痛み。 |
2003年05月21日(水) 痛 |
さっきテレビで、神戸での小学生殺害事件についての特集が放送されていた。 少し遅い夕食を取っていたときのことだ。 被害者の父親がテレビのインタビューに応じていた。 言葉が途切れる。 聞いているだけの私でさえ、痛くなる。 当時の映像が流されていた。 被害者の首が置かれたという中学校。 報道陣が押し寄せる遺族のマンション。 同じくテレビを見ていた父が悲痛そうに声を上げた。 「報道も、裁判にかけられるほどの罪を犯している」 私は無言だった。 何を言ったらいいのか分からなかった。 自分も、多少なりとも父と同じことを考えている。 しかし、そうやって遺族を傷つけたマスコミから、当時の私は確かに情報を得ていた。 上空から撮影された中学校と、それを取り囲む報道陣の姿。 それを見て、「ひどい人権侵害」と思うのは当然のように思われる。 だが私がテレビで見ていた中学校の映像は、その取り囲んだ報道陣のカメラを通して得られたもの。 自分は、文句を言える立場にいない。 物の見方は、単純そうでいて複雑。 複雑そうでいて単純。 カメラを引けば、真実の姿が見えるというのか。 「ひどい人権侵害」の現場を押さえたそのカメラも、要するにそこにあったということだ。 誰が誰を責めることができよう。 少なくとも、自身が変わらぬままのマスコミがマスコミを批判したところで、正直言ってとんだ茶番にしか思えない。 仮に担当している人が違うとしても、そんなこと見ている側には分からない。 まるで、右手と左手の先にそれぞれ口があって、お互いに悪口を言い合っているかのような。 結局、その手の所有者は同じ。 ただの責任の擦りつけにさえ思えてしまう。 現場では、どのような態勢が取られているのだろう。 各自の報道精神に基づいて動いているのかもしれないが、逆らえない上と下の関係や、企業利益というものも当然のように絡んでいるのだろう。 たとえ自分のところだけ相手の気持ちを慮って報道を取りやめたとしても、他がやっている限り状況は変わらない。 その上、自分だけやめると情報が入ってこない。 だからきっと、やめられない。 こういう現状を打破する方策も思い浮かばぬまま、マスコミ被害の深刻さについて訴えるのは同じ機能を持っているはずの、たまたまそれには関わっていないだけのマスコミ。 悪いのは誰か。 より多くの情報を求めようとする一般市民か。 ならば、私には文句を言うことができない。 それでも、言いたいことはたくさんある。 結局は、これが本音。 自分の中の矛盾に困って、言葉が出なかった。 色んな立場の人が、お互いに譲り合うことのできるラインはないのだろうか。 全く報道しない、というわけにはいかない。 しかし、遺族の気持ちを尊重しない報道には、大部分の人がうんざりしているはずだ。 それはひょっとしたら、同情というよりは自分の身に降りかかった際の不幸を想像しているだけなのかもしれないけれど、それでもとにかく、うんざりしている。 途切れ途切れ、言葉を搾り出しながらインタビューに答えていた父親は、どんな思いで取材を承諾したのだろう。 自分をさらに苦しめたマスコミが、「あのときは大変でしたね」と優しい言葉をかけてきたからではないだろうことは、少し考えただけでも分かるような気がする。 彼は、裁判における遺族の権利について、活動していると紹介されていた。 ならば、きっと彼は自分のような思いをする人が減ってくれるよう、そのための訴えとなるよう、未来を見据えて取引したのではないか。 想像にすぎないけれど、そんなことを考えた。 彼は、もうすぐ仮退所するかもしれない加害者に対する怒りよりも、もっと別の力で動いているように思えた。 そんな彼の強さが、逆に悲しさを胸に伝えてきた。 愛する人を失った空白を埋めるものなどないだろう。 彼は、何を思って話をしていたのか。 考えれば考えるほど、彼が語らなかった感情が、画面から溢れていたような気さえしてきた。 痛い。 私は、考えることを中断して部屋に戻った。 何かが響いてきたというわけでもなく、何だか心が重い。 |
2003年05月20日(火) 頭 |
「どんな人が好み?」 高校生の頃、友人に尋ねられた。 よくある恋愛絡みの質問。 当時私は「頭のいい人」と答えてヒンシュクを買った。 きっと、友人は「成績のいい人」と誤解したのだろう。 あのとき、面倒臭がりな私は、そのまま放って笑っていた。 私は時折言葉の使い方を間違えるらしい。 ちなみに「頭のいい人」と表現する場合、「人の気持ちを理解できる人」という意味になる。 今さらながら自分でこうして言葉にしてみると、確かに分かりにくい。 だが、私としては単に「気持ちを理解できる」という意味に留まらず、他の内容も多少は含有させたい思いだったので、「頭のいい人」とした。 適切な言葉が見つからなかったというのもある。 「理解している」と、言葉で断言する人は基本的に信用できない。 むしろ曖昧に濁すくらいの方が信憑性がある。 そういう感情の機微まで分かってくれるような人が、本当に理解できている人なのだと思う。 自分が言葉数の多い人間であるために、それが少ない人を必要としているわけでもない。 恋愛に限ったことではなく、単純にそういう人が好きなのだ。 「あなたはこうでしょう」 押し付ける人を見るとうんざりする。 「分かるような気がする」 少し困ったような顔をして、理解しようとしてくれる人を信頼する。 いわゆる「いい人」が苦手。 高校生の頃、とはいってもいつの間にやら6年も前のことで、今同じことを問われたならどう答えるかは分からない。 ただ、どれだけ知識があっても、経験があっても、上から言葉をしゃべる人は嫌い。 どこかしら消去法のような気がしなくもない発言。 それにしても、「頭がいい」ってよく聞くけれど、本当は何を指していうのだろう。 |
2003年05月19日(月) 宗教 |
クローゼットを開けると、木の十字架がついている古ぼけたネックレスが出てきた。 かれこれ10年近く前になる。 当時私は神奈川県に住んでいた。 渋谷駅まで約30分、町は田舎だったけれど立地的には都会だった。 ただ、近いとはいっても、人の多い場所が苦手な私がそういうところへ行くのはごく稀で、稀な分だけたまに出かけると「せっかくだし」と言っては何かを買っていたような気がする。 そのときに買ったものの1つが、その十字架のネックレスだった。 ふと、当時のことを思い出す。 どこで買ったのかはもうすっかり忘れてしまったが、その店の中にはシルバー地のものやら派手な装飾が施されているものやら、様々なタイプのネックレスが置いてあった。 友人は早々に買うものを決めていた。 私も何か買いたいと思いつつも、できるだけシンプルなものがいいと言って探す私の好みにぴったりするものはなかなか見つからなかった。 じゃらじゃらと上の方からぶら下がっているものに目を凝らしていると、お互いにぶつかっては音を立てるような木の素材ばかりが集まっているところが視線に飛び込んできた。 そこへ向かうと、細い皮ひもに通された木の十字架。 特定の宗教を持っていない自分ではあるけれど、大きくて優しい雰囲気のそれは何だか気に入って、悩んだ挙句に買ってしまった。 しかし結局、身に付けたのは数える程度だったように思う。 宗教心というものは誰でも持っているものなのだと、以前聞いたことがある。 私のようにどこの宗教と名を挙げて言うことのできないような人間であっても、どこかしら霊的なものを信じてしまう部分はあるし、この世の何処かに何か大きな力が作用していると考えることに対しても、さほどアレルギーは覚えない。 認める、認めないといった次元ではなく、どこかで学んだわけでもないのに宗教があるという事実をそのまま受け入れている。 世界がどうである、とか関係なく。 そして不思議なのは、そんな自分が特定宗教のシンボル的なものを身に付けることに対して抵抗感がないということ。 信じているわけでもないのに、変だなと思う。 身に付けることで、信仰者を愚弄しているつもりもない。 そこには全く何の意味もない。 だからこそ、変な感覚なのだ。 人は美しいものを好むからか、宗教は実際にそれを信じる人々の間で殺し合いが行われているにしても、信仰に関わる部分はいつもミステリアスで美しくも思える。 中学校の修学旅行で行った広隆寺の弥勒菩薩像を美しいと思ったし、キリスト教の聖書を描いた絵本が好きだとも思った。 理由はない、意味もない。 感覚的な部分がそう判断する。 信じている人々の想いが詰まっているためか、人の心の表れ方の一部である宗教から、人間を感じて好きだと思うからか。 垣根なく、時期もなく、私はふと涙を流す。 自分でもよく分からない。 日本人ほど生活習慣の変化が急な民族はいないと聞く。 無宗教者が多い、と言われているけれど、ほんの少し前まではそんなことなかった。 今は商業主義に侵食されたのか、季節によって異なる宗教の行事が当然のように行われている。 それを寛容さというのか、執着がないというのか、民族を忘れたというのか。 私も、あまり疑問を持つことなく成長してきた世代だ。 生まれた頃からクリスマスプレゼントがあった。 家を建てるときは地鎮祭、出席した結婚式は仏前。 身近にあるのは、仏教と神道とキリスト教だけれど、きっと他にも自覚していないだけで色んな宗教の要素が生活の中に浸透しているのだろう。 ごちゃまぜになっているけれど、別に困ってもいない。 それがいいのか悪いのか。 「死んだ後どうなるの?」 誰かにこう聞かれたなら、私はどうするだろう。 無に帰す、とは、まだ怖くて言えない。 だからといって、どこか特定宗教の死後の世界を思い浮かべるのも不思議な感覚。 死について考えないのであれば、宗教の意味は薄らぐに違いないだろうが、今の私はあまり具体的に自分の死については考えられない。 年齢のせいかもしれないし、関心が薄いせいかもしれない。 とりあえず、私は先に挙げた問いに対して明確な答えを示すことができない。 これが、特定宗教に対する信仰を持っている人といない人との違いなのかな、などと漠然と思いながら。 今も、十字架のネックレスは売っている。 私の部屋にあるものは、相変わらずクローゼットの中に仕舞われたままだけれど、きっと当時の私のように何も考えることなく身に付ける人はたくさんいるのだろう。 いや、私も今だって何も考えていないはずだ。 その証拠に、家の中には色んなものがごった返している。 これが幸いとなるか悲しみとなるか。 分からないけれど、とりあえず、今日もどこかの「無宗教者」が、知らずにもしくは知っていながら宗教とは関係なしに宗教の色濃い何かを身につけながら街を闊歩しているに違いない。 今さらながら、この国は、どんな国なのだろう。 説明するのは、なかなか困難だろうな、と思う。 |
2003年05月18日(日) 車 |
車に乗っていると、意外に多くのことが分かる。 相手が全くの他人であるということ、相手の顔がはっきりとは見えないということを除けば、人間性を色んな面から見ることのできるあの小さな空間は、時に重苦しい何かまでを訴える。 世の中の常識を声高に語っていそうな人が、信号無視をする。 どこにでもいそうな平凡で善良な顔つきをした人が、割り込みをする。 怖そうな装飾をしている人が、道を譲ってくれる。 何が本当なのか、時折分からなくなる。 ただ、予想の範囲を出ないのではあるけれど、悪質なのは基本的に世渡りのうまい人なのだろうと思う。 こういう人たちと顔をつき合わせて日々出会っている警察というのも、なかなか大変な仕事なのだな、と考えてみたり。 私が住んでいる地域では、車の運転マナーが非常に悪い。 初めてここに越してきたときは、あまりのひどさにショックを受けて、学校で出た作文の宿題にこっぴどい批判を並び立てたものだった。 悪態をつきまくった文章だったのに、なぜか市の作文コンクールで入選した。 私は当時思春期で、今よりも随分と気が短かった。 適当な賞を見繕って訴えを軽んじられたと思い、苛立ちをさらにひどくしたのを覚えている。 今思えば、そんなことは元々そこに住んでいる人なら当然知っていることであり、それでもどうしようもないものを今さら訴えられたところで笑ってしまうようなことだったのだろう。 半ば諦めたかのように違反運転手を眺め、とりあえず自分は守っておこう程度の消極的な考えをしている自分は、血気盛んな当時からすればなかなか不満を持たれるものに違いない。 いつの間にかこんな日常に、慣れてしまった。 運転免許を取ったとき、周りの運転に合わせるようにと指示されて実行したら、余裕で70キロ以上出てしまい教官に怒られた。 渡ろうと思ったとき、いつも横断歩道の上に車があった中学校からの帰り。 絶対にあんな大人にはなるまいと誓ったのはいつのことか、ひどい運転をする友人がいても、それを指摘することさえしない。 「本人の問題だからね」 こんな言葉を吐く大人になりたかったわけじゃない。 しかし私は知っている。 「言っても仕方がない」 スーパーへ行くと、車椅子用の駐車場に停めている人の姿を多く見る。 怒りより悲しみより、諦めにも似た感情が胸のどこかをよぎっていく。 黄色の信号で止まれず、しまったと思っていたら後ろから3台来た。 直進車線が混んでいるとき、左折レーンから右にウィンカーを出して入ってくる人がいる。 道を譲りたくない。 しかし、ひどい人はクラクションを鳴らしながら当然のような顔で割り込みをする。 急いでいる風でさえない、それが日常の一部というような表情。 顔を、思わず見てしまう。 そのたび、見なければよかったとがっかりする。 それはごくごく普通の、周りにいそうな人である場合が多いから。 60キロ制限の道を、100キロくらいの速度で走る人などザラ。 逆に、制限速度以下でゆっくり走って、信号が変わる直前になると急に速度を上げて自分だけ進んでいくような人もいる。 前が詰まっていてどうしようもないというのに、軽自動車に大型トラックが幅寄せ。 自分が完璧に規則を守っているかと問われれば、正直私は自信がない。 それでも、マナーだけは守っているつもりでいた。 見も知らぬ他人ではあるけれど、相手に不快な思いをさせたくない、とだけは思う。 それなのに、それを自覚していない人が多い。 どうしていつも、こうなのだろう。 顔の見えない場所では、マナーというものは存在しないのだろうか。 いい人の方がたくさんのはずだけれど、ひどい人もそれなりの数いる。 そうでなければ、毎日車に乗るたびにがっかりなどしないはずだ。 海外では、どんなに人から怖がられるような職業の人であっても、障害者用の駐車場は空いていると聞いた。 それが本当かどうかは知らないけれど、とりあえず日本は違う。 普通の一般市民が、当たり前のようにマナーを守らない。 バックしている真後ろを平気で歩く人たち。 ハイビームのまま走り続ける人。 挙げていけばキリがないけれど、ともかく交通マナーに表れた人間性にうんざりしてしまう。 子どもが助手席で飛び跳ねるような車を見てはひやひやする。 私の頭が固いせいばかりだとは、思えない。 |
2003年05月17日(土) 教師 |
しばらく日記を書くのをさぼってしまった。 忙しいときというのは、思うことは普段より多いのに書く時間が取れず、微妙に欲求不満。 昨日、教育実習の事前オリエンテーションに行ってきた。 意識したつもりもないけれど、生徒だった頃とやや目線が違うことに気付く。 特にうんざりしたのは、教師内での立場が楽しいほどによく見えるところ。 出世街道まっしぐらな人、上に媚びるタイプの人、口で「理解している」と殊更訴える人。 「生徒の気持ちになって」と言う人に限って、分かっていなさそうなのがおもしろい。 口で言わないと自分を制することができない人なのかもしれない、などと思った。 「新しい風を吹き込んで下さい、期待していますよ」 ホームルームでお世話になることとなったクラス担任の先生に言われた。 その直前、教育実習生受け入れ担当から 「皆さんは、学校のお荷物です、迷惑です。それを自覚して「お世話になる」という感謝の気持ちを常に持っていなさい」 と強い口調で言われたばかりだったので、お世辞だと分かっていても何だか嬉しかった。 本音と建前、頭では分かっていても、直接言葉で示されるか示されないかでは随分と印象が違う。 私がお世話になる先生に、弟が高校の頃教わったというので少し話を聞いた。 すると、「いい先生だよ」と返ってきた。 弟が教師を褒める言葉を、正直初めて聞いたような気がした。 ちょっとほっとする。 教科での指導にあたってくれる先生は、高校の頃はあまり好きになれなかった。 そういえば悪口を書いたような気もする。 それが、立場が違えば印象も違う。 かつてはきっちり何にでも線を引くような性格にうんざりしていたのに、それが指導を受けるとなるととてもありがたい。 好んで文句を言いたいわけでもないので、いい面はいい面として考え直そうという気になった。 資料などを借りて、真面目に勉強することにした。 教科指導についての打ち合わせが終わり、クラス担任の先生のところへ挨拶に行こうとしたら、「ついでだから一緒に来るか」と言われた。 何のことやら分からずついて行くと、クラスに紹介されることになった。 本来なら来週行われるはずのことで、予想していなかった。 というわけで、当然心の準備もできていない。 動揺しながら教室の隅で先生の話が終わるのを待つ。 ザワザワしていて、隣の席の人とおしゃべりを続ける生徒も多くいた。 先生は声を大きくして連絡事項を伝える。 「では」と話を切り出し、「教育実習生が来ているので紹介する」と、私の番。 教壇に立つと、教室がとてもよく見える。 それまで続いていたおしゃべりがピタリとやみ、物音1つしなくなった。 全員の目線がこちらに向いているのが嫌というほど分かった。 教室を右から左まで見渡しながら話をすると、目を向けたところの人と必ず目が合う。 「無理言ってごめんな」 冗談めいて笑いながら、帰りの廊下で先生が言った。 彼は自分の教育方針やら生徒との関係が現在どうであるかなどを話し、私に何をしてほしいのか明確に言葉で表現した。 「せっかくの機会だから、帰りのホームルームは3週間任せるよ」 てっきり一緒に教室に行くものと思っていたら、1人で行って来いという。 「心理学を学んでいるなら、せっかくだし心理テストでも作って盛り上げてやってくれ」 戸惑う私の肩をポンポン叩き、けらけらと明るく笑う。 ひょっとしなくても、私は先生に恵まれたのかもしれない。 熱心な教科指導、明るいクラス指導。 いいかげんな私には厳しい指導を受けられるのは勉強になるし、同じくいいかげんな私はクラスではのんびりと笑っていたい。 7クラス、14時間受け持つことになった。 何だか不安は多くあるけれど、とてもいい経験ができそうな3週間。 多くは年の離れていない高校生、教わることだらけの生活の中で、自分には何が伝えられるだろう。 自分という人間を見透かされるのではないかという恐怖感はある。 それは、自分が教師を見る目が妙に冷静なところからも推測できることだから。 ただ、それ以上に楽しみという気持ちの方が強い。 何ができるかなんて見当もつかないけれど、自分なりの精一杯が実践できるような実習になれば嬉しい、と思う。 |
2003年05月14日(水) 権利 |
他人の権利を侵害している人に限って、自分の権利を殊更に主張している場合がある。 少し興味深い。 以前ウェブ上で見かけた例。 HPを作るのに、詩の背景となる壁紙を探しに素材屋さん巡りをしていた時期があった。 フリーで魅力的な素材を提供してくれるところが多くてとても嬉しい。 利用するかしないか関係なく、自分の好みの絵に出会うと決まって喜んだ。 見ているだけでも楽しい。 色んな素材屋さん、とは言っても私はあまりにイメージの違うもの同士を一緒に使おうとしなかったため、ある程度の偏りが出た。 今は詩のページで背景を使っていないが、数ヶ月前、いつの間にか「透明でシンプル」に統一するようになっていた。 残念ながら探すうちにそっくりなページに出会うこともあった。 有名サイトの真似をしているサイトだ。 ページレイアウトから絵柄、ひどい場合は素材の題名までほとんど同じ。 そして決まって書いてある。 「二次配布はご遠慮下さい」 そっくりそのまま同じものを配っているわけではないのだから、確かに二次配布はしていないのだろうけれど、アイディアを真似するということに対しては何も感じないのか。 ちなみに、本家のサイトの管理人さんは、一応同様のことは書いてあるけれど、指摘に対しておもしろいコメントをしていた。 「真似したと断定することはできないし、自分の中から出てきたものでなければきっと人の心を動かすなんて無理ですから」 半ば諦めとも取れるが、私にはとても寛容だとも思えた。 そして自分の権利云々ではなく、持たれる印象について述べている。 むしろ権利についてうるさいのは、自分が権利を侵害しているであろう真似した方の人だったから笑える。 こういうことは日常生活でもしばしば見られる。 とかく権利を主張する人の中には、自分の権利は大切にするけれど他人のそれには無頓着な人が多いように思う。 言葉の上だけで見ると大きな矛盾のようにも見えるが、何となく、これが一般的のような気さえする。 主張ばかりに集中してしまって、肝心な足元が見えなくなっているのではないか。 そういえば、「もっと思いやりを持ってくれ」と言う人に思いやりがない場合もよく見かける。 周りが見えなくなるからこういう現象が起こるのだろうか。 それとも単なる自己中心型人間が増えているだけなのだろうか。 どちらであるか、はっきりと見定めることはできないけれど、とりあえず自分はそうならないように気をつけたいなと思う。 明らかな矛盾、というのは、遠くで見ている分にはおもしろいかもしれないけれど、近くだと迷惑以外の何物でもないのだし。 ところで、真似しているような人というのは、つまらなくないのだろうか。 嫌味ったらしいかもしれないけれど、ちょっと素朴な疑問。 |
2003年05月13日(火) 正義 |
13日〜16日は、日記をつけていなかった。 というわけで大きく日付が空いてしまったのだが、もったいないので何か思うことがあったときに書く欄にしてみようかと思った。 ちなみにこれを書いているのは、18日。 この前遠藤周作の「悲しみの歌」を読んだ。 読んだのは14日のことなので、何だか日付がややこしいけれど。 就職試験に行く途中、電車の中で読み始めた。 不覚にも、泣き出しそうになってしまった。 就職試験に行く途中に読んだ、と書いたが、その試験はとある新聞社のものだった。 あまりごちゃごちゃ考えるのも嫌だったので、一通りAERAを読んだ後、文庫へと移行したのだった。 登場人物は、中年の開業医とエセ文化人、ぐうたら学生、愛を与えてばかりの外国人、そして新聞記者。 なぜ新聞記者を最後に書いたかというと、先に書いた通り、私は新聞社の受験に行く途中だったからだ。 最初に結論を言うと、私はこの本を帰りに読めばよかったと思った。 行く途中に読んでしまったのは、失敗だった。 思惑とは逆に、考え込みすぎて作文が書けなくなったからだ。 私は、嬉しいのか悲しいのか、表面的な言葉を連ねて誤魔化すことなら多少はできる。 しかし、この本を読んだ直後の試験では、どんな上っ面の言葉も出てこなかった。 自分の中にある真実しか書けないと思った。 そしてその真実に、疑いが生じてしまっていた。 遠藤氏の描いた新聞記者は、記者の実態を知らない私なので何とも言いがたいが、それでも多少の誇張はされているのではないかと思った。 正義の御旗を掲げた彼の言葉は、きつすぎるし相手への愛情もない。 そして何より、自分の正義を相手に押し付けすぎている。 間違いだと本能的な部分では分かっているのかもしれないが、それを認めるだけの勇気もない。 だから遠藤氏が話の構成上脚色した部分があるのではないかと思ったし、思いたかった。 そう思っても、私は憮然とした表情でいたに違いない。 彼と同じような間違いを自分が犯したとして、私はそれに気付くことができるのだろうか。 自分は本の中に出てくる全体を見渡すことのできる立場にいるためあからさまなくらいに皆の感情がよく見えるが、そうではなくてもし記者の立場にいる人間だったとしたらどういう思いで老いた開業医を眺めたろう。 自分がそれだけの機微を備えた人物だとは思いがたい。 若い新聞記者は、他に拠るべきところがなかったのではないか。 「正義」という言葉でしか、自分の考えの基本を置くべき場所を見つけられなかったのではないか。 きっと、彼はこれからも同じ道を行くだろう。 間違いに気付くとしたなら、それはもっとずっと後のことに違いない。 優しく生きるとは何か、問われても私には分からない。 以前誰かに私は厭世感を持っていると指摘されたことがあるが、否定しがたい。 何となく、確実に悪い誰かがいるとは思えないものの、誰もがどこも悪くないとも思えない。 新聞記者は、悪い人ではない。 ただ、大切な何かをまだ得ていなくて、それに気付こうとしていないという点において悲しい人であると思う。 そして自分がそうならない保証などどこにあるというのだろう。 新聞社での試験、作文で挽回しようと思っていたのに全く駄目だった。 思わず、上に書いたようなもやもやを吐き出す場所としてしまった。 何を正義というのだろう。 正義という言葉が今の時代にふさわしくないのならば、他のどんな言葉でもいい。 ただ、自分の考え方が誰かを傷つけていると、それを分かっていないと、指摘するのはこんなにも容易なのにどうして自分のことになるとこうも分からないのだろう。 難しい。 そして私はそう言いながら、同じ世界に身を投じたがっている。 ふと、疑問が生じる。 |
2003年05月12日(月) 罪 |
さきほどテレビで、とある犯罪者の審理が終了したというニュースが流れた。 殺人に関与し、検察側は死刑を求刑。 弁護側は、脅迫されておりまともな精神状態ではなかった、無罪であると主張。 法については詳しくないので、詳しい話はよく分からない。 ただ、テレビで流れた次の言葉が気になった。 被告は「本当に申し訳ないことをした」と言っているという。 よく聞く言葉だ。 殺人や強盗といった一般に重罪と言われているような犯罪に限らず、日常生活における小さな罪であっても、それを本人が罪であると自覚しているのならば責められないことは逆に酷であるように思う。 例えば誰かを傷つけたとき、「いいよ」と言って笑われるのが一番辛い。 冷たい目で責められた方がどれほど楽だろう、と思う。 宙に浮いた感情は、行き着く先を失う。 何の根拠も持たない考えではあるが、本気で悔いている人には、死刑より無期懲役の方が重い罰なのではないかとぼんやりと思う。 なぜぼんやり、かというと、自分がそういう立場に立ったことがないから断言ができないというだけのことだ。 よほど強靭な精神を持つ者でない限り、罪の意識に苛まれてただ月日を重ねる日々は、苦痛なのではないか。 そう思うと、ましてや己に罪の意識がある者に「無罪」という判断を下すことは、法的に裁かれることなく世間の目には責められ続けるという罰を課されているような気がしてならない。 「本当に申し訳ないことをした」 この言葉が、心から出たものであるならば。 この手の裁判で、本当に無罪になることは多くないのだろう。 世間を騒がせた殺人事件で犯人が無罪となれば、確実に大きなニュースとなって報道される。 だから私が考えていることはあまり意味のないものかもしれない。 しかし、それでもなぜ敢えて減刑ではなく「罪が無い」と主張するのだろう。 法の世界のことは分からない。 だから、その世界に生きる人にとっては私の言うことなど茶番でしかないかもしれない。 それでも、なぜなのか、問いたくなるときがある。 話だけなら、単に犯罪者の名前が違うだけでどの事件も似通って聞こえる。 どこに人それぞれ固有の人生があるのか、垣間見えてこない。 感情が見えない、一様の展開に感じられてしまう。 本人の主張通りにばかりはいかないだろうから、表に出てきたことばかりから何かを判断するのは間違っているのかもしれないが、私は、本当に罪の意識を持つ人間が無罪を主張するとはどうしても考えられない。 反省の弁と主張とが、いつだって頭の中で矛盾を叫ぶ。 きっと私は社会における本音と建前を分かっていないただの子どもに過ぎないのだろう。 それを自覚していてもなお、この手のニュースを聞くたびにどこかしら違和感を覚える。 誰が何を思ってどうしてこうなったか、今何を考えているのか。 多くを伝えているようで何かが見えない。 そんないつも通りのニュースが、今日も流れている。 |
2003年05月11日(日) 時間 |
さっき、大学のサークルの新歓コンパに行ってきた。 私は演劇のサークルに所属しているのだが、1年以上関わっていない。 関係者ではなく、完全に客として公演を観に行った。 「ありがとうございます」 こう言われるたび、どこか別のところに来たような気がする。 高校の部活にしてもそうだったけれど、世代交代というものを感じるというか。 学校という小さな単位内での、ほんの数年の違いでこんなことを言っては、少々大げさなのかもしれないけれど。 2・3年生の演技を見ていて、何も言うことのない自分に気がついた。 私はしばしばテレビを見ながら、嫌いな役者の悪いところばかりが目についてうんざりする。 対照的に、元々何故か演劇に関しては文句を言う気がしなかったのだが、最近は仮にそういう部分を探そうと思っても難しいくらいになってきた。 演技の良し悪しや、演出・スタッフワーク。 実のある批判なら必要かもしれないが、褒めることしかできそうもない近頃の自分。 関係者というよりも、毎回普通に楽しんでいて。 卑屈な目線がなくなったというべきか、それとも厳しい目を失ってしまったというべきか。 舞台から伝わってくるのは、創る辛さではなく、楽しさばかりのような気さえしてしまう。 忘れたわけじゃない。 だけど、何となく、自分の生活の中に今はないものなのだろう。 バラシに参加することもなく、新入生の接待役をやっていた。 体を動かしていないせいか、ちょっと拍子抜け。 話す内容に困って、馬鹿な話ばかりしてしまった。 何がうまくいかないというわけでもないけれど、何かがうまくいっているような気もしない。 昼間から続いていた頭痛が戻ってきた。 どうやら薬が切れたらしい。 駆け抜けた時間は、いつも余韻しか運んでこない。 飲み屋の外で、誰かの嘔吐物が酸の臭気を漂わせていた。 思わず鼻を塞いだ。 今、私は自分の部屋にいて、日記など書いていて。 時間と時間が交差するとき、どうしてかいつも同じ風景ばかりが思い浮かぶ。 ガードレール下。 遠くで響く、夜の電車が揺れる音。 過ぎていく光と、これからの時間。 どうしてだろう。 思うことは多いのに、何となく、まとまらない。 |
2003年05月10日(土) 匂 |
花の名前を調べようとして、図鑑を開いた。 同じ名前の花でも、色んな種類があるものだと驚く。 頭の中がカタカナで埋め尽くされそうになって、早々にリタイア。 庭にある花を覚えるだけでも、しばらく時間がかかりそうだ。 鮮やかなカラー写真が満載の図鑑。 そういえば小さい頃、大きな本を広げては遊んでいたような気がする。 小さい身体には重いくらいだった図鑑には、花のシリーズやら昆虫のシリーズまで、色々載っていた。 持ち運ぶのが辛いと言っては、小さな玄関に置いてあった本箱の前に座り込んでいた。 図鑑に限らず、今なら構えて読んでしまいそうな諺やら漢字の語源辞典まで、ワクワクしながら開いていた。 新しいことを覚えるのが楽しかったわけでもない。 理由なく、楽しかった。 そういえば最近、そう思えるようなことってあっただろうか。 懐かしさと寂しさの同居したような感情を覚えつつ、ページをめくる。 今日開いていた図鑑は、昔家にあったものではない。 あの頃のものはいつからか目にすることがなくなって、替わりに両親の趣味である園芸専用の図鑑が本箱を占めるようになっていた。 分厚い、緑色の背表紙。 最近買ったようには見えない、やや古ぼったい写真。 ぱらぱらと開いていくと、どこかで嗅いだ匂いがした。 「これ、九州のおじいちゃんおばあちゃんにもらったもの?」 親に尋ねると、すぐさまそうだという答え。 家の匂い、住む人の匂い。 私の好きな匂い。 本にまで染み付いているのかと思うと、どこか不思議な気がした。 以前色褪せて捨てようとした古いパジャマ。 母が「まだ着られるじゃない」と言って、家にかなり前からある箪笥に仕舞っていたらしい。 最近気温の変化が激しくて、一人暮らしをしていた頃ジャージばかり着ていた私がやや困っていると、それを出してきてくれた。 袖を通すと、小さい頃住んでいた家の匂いがする。 私が生まれる前からあった箪笥は、今の家では普段あまり着ないものを収納するような役目をしているせいか、今の家というよりは昔の家に近い匂いになったのだろうか。 音が、記憶を呼び起こすことは前々から感じていた。 悲しいときにたまたま聴いた明るい曲は、今でも聴くと悲しくなる。 楽しい思い出の詰まる風景を見ることが、逆に辛さを喚起することもある。 だが、匂いについては今まであまり考えたことがなかった。 色んな人や物の匂いが時折どこかに染み付いていて、ふとした瞬間に何かを思い起こさせる。 それは大抵、匂いと言っていいのかも分からないくらいに些細な、だけどとても懐かしく、好きなもの。 匂い1つで、あまりにも多くのことを、風景を、思い出せるのだと知った。 私には、自分の匂いというものがまだ分からない。 毎日包まれている空間に匂いがあるなどと、考えたこともなかった。 ひょっとしたら、その人や物そのものの匂いではなくて、たまたまそこにあった何かの匂いと勘違いしているだけなのかもしれないけれど。 いつか、何かの匂いと共に記憶を辿ってもらえる先にいることができるなら、それが不快ではないと思ってもらえるような人間になりたいと思う。 私が、今、思うがゆえの悲しみを含有した、懐かしさの中にいるように。 |
2003年05月09日(金) 庭 |
今日は昨日とうってかわっていい天気だったので、夕方カメラを持って庭をウロウロした。 両親が庭好きなためか、見るたびに新しい花が咲いているので楽しい。 少し薄着だったので、寒くなって部屋に戻ろうとしたら母が出てきた。 「一緒に裏の畑行こうか」 結局、上着を取りに行くのも忘れてしまった。 私の家は小さな一軒家で、数年前に建てたばかりだ。 それまではずっとアパートや社宅暮らしだった。 両親は休みの日になると決まって庭に出る。 もしくは、近くの園芸店に行って球根やら種やらプランターやらを買って来る。 時折車の駐車スペースで土を干し始めるので、停めるところがなくなって路上に。 それでも誰にも怒られないような、車の通りの少ない田舎の住宅街。 家の庭の他に、裏に家二軒分くらいの畑を借りている。 近くに住む地主さんのご好意で貸してもらったらしい。 そういうわけで、見るたびに花が違うくらいのスペースがある。 もっとも、広すぎて雑草を抜くのが大変だ、と、楽しそうに愚痴をこぼしている両親を見ることもしばしばだが。 普段耕すための道具を持って麦藁帽子をかぶって行く母も、今日はサンダルをはいて来た。 私も素足にサンダルのまま。 誤って耕されたところに足を入れてしまい、怒られた上に足は土まみれ。 サンダルで行ってはいけないことくらいは当たり前なのだろうが、それでも面倒なのでいつもサンダルで行ってしまう。 今日も例に漏れず。 母が私を呼ぶ。 「この花何でしょう?」 「絹さやが収穫できるよ」 そのたび足元を見ながらバタバタ走ってついていく。 キャベツの上にいる芋虫を見つけては騒ぐ。 夕方の風は冷たかったが、そんなこと関係なしに2人であれやこれやと大騒ぎ。 結局、1時間は外で遊んでいた。 家に戻って緑茶を入れて、昨日父が出張のお土産に買ってきてくれた八橋を食べた。 母が筍と蕗の煮物を作っていたので、味見と称してまた食べる。 こんなことばかりしているから我が家の夕食は遅いのだろうな、と、思いながらもやめられない。 部屋に戻ってさっき撮ったばかりの写真を見ていると、母が隣に来て「この花いつの間に咲いていたの?見に行かなくちゃ」と、さっきまで一緒に見て回っていたはずなのにカメラを見て初めて気付いたらしく、驚いていた。 「お母さんを撮るならもうちょっと綺麗に撮ってちょうだい。雑草抜いている後姿なんて撮ってどうするの」 「だってカメラ向けると逃げるでしょ」 「…それでも綺麗に撮ってよ」 変な会話をしながらまた笑う。 母が、明日にはアスパラとイチゴを少し収穫できそうだと言った。 それを楽しみにしつつ、あまり手伝わない自分に苦笑した。 母と一緒にいると、いつものんびりと過ごしているような気がする。 些細な時間の積み重ねだけれど、こういう時間が私には楽しくて仕方がない。 幸せやら悲しみやらの、感情的な部分が足りなくなっている時期というのは、きっとほんのちょっとしたことを忘れているようなだけなのかもしれない、と思う。 昨夜、今さらながら遠藤周作の「深い河」を読んでどこかしら考え込んでいた。 それが今はほんの少しではあるけれど、気分が晴れたような気がしているから不思議だ。 |
2003年05月08日(木) 終 |
幸せだと感じるとき、素直に幸せだと思えない自分がいる。 世の中に、終わらないものなどないと思うから。 悲しいことに、私は妙なところでばかり想像力が働いてしまう。 終わりのことばかり考えていては、何も先へは進まないのに。 基本的には前向きだが、時には後ろ向きにもなる。 少なくとも私は、大吉というおみくじが大嫌い。 例えば、恋愛。 好きな人がいて、その人を想っている間はいい。 ほんのちょっとしたことでも幸せを感じて、笑う。 それが、叶わないとなった途端、一番残酷な記憶に変わる。 笑って聴いていた曲を聴くたびに泣きたくなる。 そんな時期が、私にもあった。 もう何年前のことかは忘れたけれど。 極端な話、だけど実に現実的な話。 死の問題がそうなのだろうなと思う。 上に挙げた例など、ほんの些細なこと。 時間と共に、もしくは新しい想いが紡がれるようになれば、風化していくもの。 早い話、代用がきく可能性がある。 それでも、死に分かたれてしまったならどうにもならない。 大切な人が増えるたびに、怖いことが増えていく。 だからといって、出会わなければよかったなどとは思いたくない。 そこで、どうすれば怖いことと向き合っていけばいいか、と考える。 縁起でもない、と怒られてしまいそうだが、私は大抵の場合何かが起きたとき最悪のことを考える。 本気で考えているというよりも、無理やりそう考えるよう自分を仕向けているといった方が正確だ。 悲しいことしか考えられないとき、とりあえず笑おうとするのと逆のこと。 楽観主義の私が、最悪のことを考えるというのはなかなか難しいが、それでも敢えてする。 大学の友人が言っていた。 「終わりのある幸せより、終わりのある不幸の方がいい」 きっと、私の癖のようになった悲しい思い込みも、これと同じような願いから。 それに、いつも「今が最悪」と考えた方が、努力のしがいもあるというもの。 上を見るための方法ともいえようか。 私は、しばしばネガティブな曲を好んで聴く。 以前後輩にそれを指摘された。 そのとき、笑って「好きなんだから仕方がないでしょう」と言った。 理由を敢えて挙げるとするなら、一応ある。 悲しいときは、とことん落ち込んでから立ち直る方が無理がなくていい。 楽しいときは、浮かれて知らぬ間に誰かを傷つけるのが怖いから自分を抑える。 共感を求めているというより、きっと、水の上に浮かんでいるよりも潜って泳ぐ方が好きだからなのだろうと思う。 耳に直に触れる水の音を聴いていたいというのか。 いまいち、表現がうまくできないけれど。 お風呂に一番乗りだったこの日、数年ぶりに顔を水に沈めて目を開けてみた。 ぼやけた視界の先に、水色の浴槽が見えるだけだった。 |
2003年05月07日(水) 言語 |
以前聴覚障害を持つ人を主人公としたドラマがあった。 私は、実際に目の前で手話を使う人たちを見て、囁いているというよりは滑らかで美しい表現のように感じた。 何かを誰かに伝えるということに対して、私は普段困ることがない。 鈍感なのだと気付く。 今日、聴覚に障害を持つ人たちと彼らの講義で通訳をする人たちの集まりに行った。 私はこの春パソコン通訳の養成講座を受けて参加することになったのだが、就職活動やら教育実習やらがあるので、定期では入らなかった。 この前人が足りないと言われて明日入ることになったのが最初。 集まった人たちの中で、唯一まだ経験のない私は、ただひたすら周りの人たちが意見を言うのを聞いていた。 参考になったし、明日気をつけるべきことも昨日までよりは分かった。 手話が分からないのが悲しかった。 分からない人の方が少数派であったその部屋で、自己紹介をするときに他の学生が私の話す言葉を手話に通訳してくれていた。 まるで、以前隣に住んでいた人がスペイン語か何かで話をしながら楽しそうだったときみたいだ。 聴覚障害を持つ人たちは、毎日こんなのとは比較にならない思いをしているのか。 自分が話す言葉を誰かに直されて、誰かが話す言葉もまた直されてから伝わってくる。 自分には分からないところで皆が笑う。 以前、英語を学ぶのは、英語そのものを学ぶというよりも単にコミュニケーション手段を増やしたいのだと書いたことがある。 言語を学ぶときには、何であれそういう動機が必要なのだろう。 その場にいて、自分だけ話についていけないのは本当に悲しい。 内容が分からないのでもなければ、話が合わないのでもない。 ただ、伝える手段がないから悔しい。 私が感じたことなど、ほんのちょっとした些細なことに過ぎないのだろうけれど、こういうことはどこにでも溢れている。 そしてきっと、大抵の場合それにすら気付かない。 気付かないことは罪であるとかつて誰かが言ったけれど、確かにそうなのだろう。 身体を使って言葉を表現する人たちを見ていて、果たして今までに私はこんなに真剣に話をしたことがあっただろうかと考えた。 「手話が分からなくても、会話をする手段など探せばいくらでもあります。色々話しましょう」 私の気持ちを知ってか知らずか、今回の集まりの責任者の人が優しく笑って言った。 全体に向かって言ったものではあったけれど、自分の心を見透かされたかのようで、ギクリとした。 話をしたいと思ってコミュニケーションのために学ぶことももちろん大切なのだろうけれど、それ以前に大切なことがあるのも忘れてはいけないのだと。 そういえば、その場では手話が片言の人であっても、誰も急かしはしなかった。 一度に皆が話しては伝わらないから、自然に誰もが前の人が話し終わるのを待った。 伝わらないことが怖くて、言葉のせいにしたりタイミングのせいにしたり。 色んな言い訳くらいいくらだって作れる。 ということは、私は今まで何を学んできたのか分からない。 緩やかに言葉が舞う場所で、意味が分かったときも嬉しかったけれど、皆が楽しそうに笑う理由が分かったときの方がずっと嬉しかった。 日々、あちらこちらに学ぶことがあって。 今さらながら、毎日を自分のペースで生き、学べることが幸せだと思う。 明日の通訳、しっかりできますように。 |
2003年05月05日(月) 日々 |
最近、以前読んだサザエさんを引っ張り出してきて読んでいる。 今と時代は違うけれど、その分温かみがあって好きだ。 人と人の触れ合いが生き生きと描かれていて、ちょっとした失敗もいたずらも、全て微笑みながら読むことができる。 中にはホームレスや犯罪者といった、今の時代だと別の目で見られてしまう人々も、同じ空間で同じように人間らしさを醸し出しながら生きている。 テレビでも、サザエさんはずっと人気なまま。 読むたびに、その理由が分かる気がする。 今の時代に足りないものを、求めているという証拠なのだろうか。 平凡な人たちの、平凡な日常。 私はメディアが取り上げるのが有名になった人や大きな事件ばかりであることに反発を覚え、もっと身近にいるような人たちの生き様を伝えられるような仕事をしたいと考えている。 ただ、こういう話を読んでいると、ふとそうとも限らないのかなという気にもなる。 テレビはどこか遠くのことで、話のネタの1つとなるから今のままで。 日常は、ありふれた日々をそれぞれの人が大切にするという形で今のままで。 自分がこだわる理由さえも、見えなくなってくるような。 だけど、ありふれた日々が大切にされているかというと、近頃はあまりそうも思えなくて、ただその日その日を皆が自分を中心に生きているように感じられて悲しくなる。 結局、夢は変わらないということになるのだけれど。 それとも、私が見失っているだけなのだろうか。 とりあえず、道端で会った人に挨拶をすると不思議な顔をされることは間違いないのだろうなと思いながら。 きっと、私もそうだから。 |
2003年05月04日(日) 言葉 |
何が本当か分からないときは、言葉を使わない方がいい。 綴らずに伝わる気持ちがあればいいのに。 自分の中にある感情を、否定することはできない。 でも、自分と同様の感情を持つ人に同じであることを指摘されると、無性に否定したくなる。 自分の重たい感情を、それはそれとして捉えることはできるけれど、誰かのそれは背負いたくないと思ってしまう。 悲しみを相乗させたくないからかもしれないし、夢から現実へと向かうことのできない弱虫が寄り添うだけになりそうだからかもしれない。 結局私は、自分の悲しみを認めはしても、それを殊更訴えるような人には冷たいのだろう。 飲み込まれたくない、というのもある。 傷の舐め合いを求めたりはしない。 ただ、何かを発したくなるときがあるからそれを消化する場所が欲しいだけ。 カウンセラーには向いていないな。 現実を見つめている人が必ずしも強いとは思わない。 何も見ない方が強くいられることもあるし、強い人たちが善人とも限らない。 そもそも、善人とは何だろう。 とりあえず、私は違う。 そして何だか若さを原因にして、いつだって熱が冷めない。 色んなことに対して怒ること、ではない。 怒っていると表現してしまうこと、だ。 それを分かっているのに何ともできない自分は、経験不足という意味において若いのだと思う。 むしろ幼いと表現した方が適切か。 自分の中に眠る牙は、いつもどこかで誰かを傷つけてしまったし、それを悔いることはできても何も変わらない。 今も、今の自分に満足しているわけではないけれど、できれば自分の気性の不安定さというくだらない原因によって誰かの心を痛めさせることだけは避けたい。 どんな方法が足りなくても、どんな言葉が足りなくても、今できる精一杯をしないといつか後悔する。 だから、今の自分が留まっているところがどれほど未熟なものであっても、それを否定していたら先へ進むことができないから認める。 認めながら、足りないものを補いたい。 自分を認めながらも、自分と同じような感情の展開の仕方をして悲しみを訴えられると逃げたくなるのは、きっとこういう理由。 綴らずに伝わる気持ちがあればいいと願う。 それでも、言葉を使わずにただ裸の自分のままで何かを表現することができるようになる日まで、きっと私は今と変わらず何かを綴るだろう。 「今」が仮にあと何十年も続いたとしても、私はいつか辿り着けると信じていたい。 |
2003年05月03日(土) 電車 |
電車に乗った。 世間ではゴールデンウィークらしい。 行楽に出かける家族連れの姿をあちらこちらで見かける。 いつもは座れる土曜の電車。 生憎と満席で、東京に着くまで隣の人と肩がぶつかるような状態が続いた。 汗やら香水やらの匂いに苛つきながら時間を過ごすのもつまらないので、いつものようにヘッドホンをして肘を縮めながら本を読んだ。 半袖の客も多い。 長袖のスーツに身を包んだ私の顔は、いつの間にか汗が出始めていた。 ふと、寄りかかっていたドア付近で席が空いた。 お年寄りも多い。 そのまま本を読むことを続けていると、子どもを連れた母親が鞄を置いて席を取った。 その子どもを座らせるのがさも当然かのようだった。 その親子連れは、目的地に着くまで私の右の視界をぼんやりと占めていた。 しばらく乗っていると、子どもの座った2人がけ、席のもう一方が空いた。 母親は、幼いもう1人の子どもを膝に乗せて、自分もすぐさま座った。 傍にいた私の背中に、はみ出した母親の手が何度もぶつかった。 それでも、母親は手を引っ込めようとすることもなく、子どもも騒いでいた。 私のすぐ左斜め前では、80歳近いと思われるお年寄りが身を小さくして立っていた。 何だか気に入らない。 電車に乗るたびこういうことが目に付くのは、きっと普段私があまり電車に乗らないからだろう。 慣れた人には、日常茶飯事のこと。 逆にそこに問題を覚えもしつつ。 目的地に着くと、駅の前を同じ試験を受けに行くのであろうスーツを着た人々がポツリポツリと歩いている。 スーツ姿の大学生たちは、それぞれ整った身だしなみをしていた。 少し汗ばむ陽気の中、時折吹く風が心地よい。 道端に咲く花に目を配せつつ歩いていると、私のすぐ目の前を歩く男子学生がそれまで手にしていたストローつきの空コップを手近にあった自転車の籠に放り投げた。 カランと音がして、その空のコップはそこに落ち着いた。 彼は、何事もなかったかのように凛々しい格好で前を歩いていく。 やりなれた手つき。 その後受けた試験で、彼はどれほど立派な言葉を並べ立てたことだろう。 帰りの電車、始発駅で発車前に行くとボックス席に座るところを1つ見つけることができた。 「ここいいですか」 尋ねると、前に座っていたサラリーマン風の男性は、言葉を発することなく一瞥をくれただけだった。 もし連れの人などがいるのであれば、きっと何か言うはずだから、と思って席についた。 行くときに読んでいた本の続きを広げる。 前で、プシュッと軽快な音がした。 先ほど声をかけた男性が、黄色い文字でグレープフルーツと書かれた缶チューハイを開けていた。 発車の数分前、ボックス席左斜め前に置かれた鞄の主が帰ってきた。 彼の手には、生ビールの缶。 前の席に座った彼は、降りるときに空となった缶を座席の下に置いていった。 こういう光景をよく見る。 高校生がやっていることもしばしば。 大人がどんな言葉を投げても意味がないのも当然であるかのように思われた。 身近に手本がいたのでは、どうしようもない。 斜め前に座った彼とは、1度外の景色を見ようとして窓の方へ視線を移したときに偶然目が合った。 何をするでもなく、ただぼんやりと寂しそうな表情が目に浮かんでいたように感じられて、私は半ば露骨に目を逸らしてしまった。 電車に乗ると、色んな人の生き様の一部が現れているようで時に気分が重くなる。 試験後、一つ一つの問題について友人へ偉そうに講義する学生。 ドアが開いても5、6人で固まったまま道を作ろうとしない女の子たち。 どの姿を見ても、自分と関係ないとは決して思えない。 いつか私も、これらの光景を見ても何とも思わなくなるのだろうか。 しばしば「あなたは真面目だから」と言われる。 だけどそうじゃない。 私は、単に慣れていないだけ。 きっと、他の人たちは諦観にも似た慣れで誤魔化しているだけ。 そう思っていたいだけかもしれない。 昔、確か親に、子どもは体力もあるし元気なのだから立っていなさいねと言われた。 そして小学校の道徳では、「席を譲り合いましょう」と教わった。 それらのことを子どもに教えるべき立場にある親が、率先して子どものための席を確保しようとする。 行楽帰りならまだしも、出かけてすぐと思われる朝の電車であってもそう。 こう考えることが「古い」のならば、この国の考え方としての文化は今どこにあるのだろう。 新しいというだけで非難などするはずもないし、柔軟性という面では変化に賛成だが、取捨選択のできないことを新しさを理由として誤魔化すのだけは我慢がならない今日この頃。 |
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