窓のそと(Diary by 久野那美)

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2006年01月01日(日) 合理性と形式美

母方の祖父は私が小学生の時に癌で他界した。
かなり年もとっていたし、あんまり小さい子供仕様のひとではなかった。

ので、ほとんど直接会話をしたことがない。
なにかを直接教わったとか、思い出を共有した記憶もない。
子供の頃母から聞いた話や遺されたものを通してしか、私は祖父のことを知らない。定年まで新聞社に勤め、定年後は自分の住む地方の小さな市の広報誌を創刊し、ひとりでコツコツ作っていたということしか知らない。
就職するとき、新聞記者になるか映画監督になるかで悩み、記者を選んだらしいということしかしらない。日本史が好きで、死ぬまで歴史読本を読んでいたことしか知らない。

小学校に入学したとき、祖父から大量の鉛筆が届いた。
うしろに消しゴムのついた、例の黄色いやつだ。
学校へ行き始めた日から鉛筆を使わない日はないのだから、とても合理的な入学祝いなのだと思う。少なくとも、母はそう思っただろう。わたしは毎日、その鉛筆を削り、ふでばこに入れて学校へ通った。毎日。毎日だ。毎日!!
小学生の女の子にとって、お小遣いで好きな鉛筆を買いに行くことが、好きな洋服や靴を選んで身につけるのに匹敵する華やな娯楽であることを彼は当然知らなかった。私は祖父を恨んだ。正確に言うと、削っても削っても無尽蔵に箱の中からでてくる同じ形の鉛筆を。
祖父がいなくなっても鉛筆はなくならなかった。
同じ箱に入った同じ形の鉛筆を、私は中学を卒業するまで削り続けた。
ひとは自分の命より長い時間を遺して逝くことができるのだということを、私は彼から学んだ。

祖父の亡くなった後、田舎の家を整理しに行った時。
納戸の奥から彼の日記をみつけた。
日記というのはふつう、内容に興味が向くものだと思う。
ましてや故人だし。

祖父の日記はほとんど日常の記録だった。
野次馬的好奇心でページをくっても、全然おもしろくなかった。
撮影所に就職しなかったのは正解だったのかもしれないと少し思った。
驚いたのはソフトではなくてハードの方だった。

何十冊にも渡る日記(しかも覚え書き!)が全て同じ規格のノートに綴られていたこと、さらにどの冊子のどのページをめくってみても、全てが同じ太さの同じ色合いの同じ濃さの、つまり同じ規格のボールペンで同じ筆跡で書かれていたこと・・・。
人間が何十年にも渡って同じ文具を使い続け、同じ筆圧で同じ筆跡で同じ文体で文を綴ることができるということは私には衝撃的だった。

子供の頃、わたしは正直この祖父が苦手だった。
小さい子供というのはふつう順序だって動かないものだ。
毎日同じことを強いられるのが苦痛だ。
祖父の家では全ては同じ場所に整然と片づけられており、毎日することや使うものや量や順序が決められていた。
私はしょちゅう、ものをなくしたり壊したりして祖父の機嫌を損ねた。

だけど今思うに、彼の不機嫌は純粋に、秩序を乱されたことに向かっていたのであって、罪を犯した私自身に対してはあまり関心がなかったような気がする。だから、わたしはこの祖父を苦手ではあったけれど嫌いだと思ったことはなかった。

大人になって。
彼の好んでいた類のものをとても単純に表現する言葉をみつけた。
そして、それに対して驚くほど好意的な感情を持っている自分もみつけた。

合理性と形式美。

なぜ彼が新聞と映画の間で迷ったのか、
なぜ定年後の仕事として新聞のミニチュアを作ることを選んだのか。
なぜ、同じ道具に固執したのか。

私の持ってる情報は、母から聞いた昔話と小さい頃の記憶と私の中にある彼からわけてもらった4分の1の遺伝子だけなのだけれど、今の私には祖父の気持ちがほんの少し、」わかるような気がする。
1月1日の朝。
分厚い新聞が届く。
毎年。毎年。世界中が大変な目にあった年も。
世界の中のほんの小さな地域がひとしれず大変な目にあった年も。

そしてそれから1年間。
毎日毎日同じ形の同じ大きさの同じ厚みの同じ紙質の冊子が届く。
世界中が大変な目にあった日も。
世界の中のほんの小さな地域がひとしれず大変な目にあった日も。
誰かにとってとても悲しいことが起きた日も。
誰かにとってとても幸せなことが起きた日も。

これは、あらゆることを等価に均してしまう方法だろうか?
そうだろうか?

そもそも同じ規格で同じ文字数で同じ書体で同じ語り口で語れるできごとなど在り得るだろうか?

新聞というのは、わたしにはとても、ファンタジックな媒体に思える。


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