窓のそと(Diary by 久野那美)

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2005年12月25日(日) かっこいいものはかっこいい。

今年は。
かっこいい人にたくさん、会った。
かっこいいひとたちは自分達のしていることや創っているものについて言葉いっぱい語らなかった。だから、かっこいいひとと話していると、足がすくむことも耳をふさぎたくなることもなく、穏やかで、心強い気持ちになった。

ここ数年。
私は、ものを創る人が「創るもの」とそのひとたちが「創ったものや創った自分たちについて語ること」の間でパニック状態になっていた。ものを創る際に、私は言葉を使うパートを担当する係になることが多いので、創るひとが語りたくなることや、語ろうとすることについて否定的に考えたくない。なのに、創る人が語るのを聞くとしばしばとても、とても息苦しくて、何もかもが嫌になってしまう。言葉が作品の「前で、まず、」語られるときは、その言葉にむせてしまって、作品や作者までたどりつく元気がなくなってしまう。言葉が作品の「中で、まず、」語られるときは、自分でもよくわからない猛烈な徒労感に襲われ、体中の力が消耗するような気分になる。なぜだかよくわからない。わからないから、そういう自分がとても嫌だった。

「語られる前に創られたもの」に私はとても飢えていたのだと思う。
とてもとても飢えていたのだと思う。
世界や社会がどんな風にあるのか、どんな風にあるべきで、どんな風にあるべきでないのか。そういうのはいいから、説明してくれてもいいけど、してもらわなくても全然いいし、少なくとも後からでいいから、まず、とにかくまず、「自分と世界がたしかにここに在るのだということを」感じさせてくれる場所と時間に飢えていた。ものすごく飢えていた。

16歳のとき私が出会った「演劇」は、私にそれだけを教えてくれた。
他のことはなんにも教えてくれなかったけど、それだけを教えてくれた。
だから演劇に会うたび、初恋のひとの面影を探すように、私にはそれを求める癖がついてしまった。求めたものが得られないと求め続けて求め続けて得られないと、ひとは飢えるのだ。

                ****

初恋のひとに再会したような贅沢な時間を、今年は何度も経験した。
それをきっかけに、いろんなことを考えたり、発見したり、頭のなかはかしゃかしゃと忙しいのだけれど、だから少しずつでもそれを租借していきたいなと思っているのだけれど、でも、今はそのことだけでいっぱいいっぱいで・・・。せめて今は幸せと、感謝の気持ちだけは、大事に感じていたいのです。

昨日は未知座小劇場さんの「大阪物語」を見てきました。
千秋楽の打ち上げで、未知座の方のお話を聞く機会がありました。
夏に衝撃的な公演を見せてもらったどくんごの皆様にもその場でお会いすることができました。

かっこよかった・・・・・。お芝居も。創ってる皆様も。
考え方、とか、方針、とか、グループ、とか、そういう、「まず、言葉で説明できること」は関係ないです。おんなじでも、違ってても。

かっこいいものはかっこいい。
かっこいいなあと思えるものにこんなに出会えた私はほんとうに幸せだと思います。今はとにかく、感謝。心から、感謝、感謝、です。
今年出会ったかっこいいひとたちに。

穏やかで、心強い気持ちで年を越します。

・・・・・・・・・・・・・・・・ありがとうございました。


2005年12月02日(金) ささやかで、ちょっと贅沢で気持ちのいいこと

素敵なお芝居を観てきました。
たぶん。いえ、きっと。

だから、わたしはなんとかしてそのことをここに書きとめておきたいのですが、どうにもうまくいかないので困っています。観てきたのは先週の水曜日で、今日は今週の金曜日です。9日経ったのです。9日たったのですが、まだ困っています。書きながら考えようと思って、とりあえず書き始めてみました。書き始めてみましたが・・・・・・・・・・・・。

書くことがないのです。そうか。だから困ってるのです。

そのお芝居の上演時間は50分で、私は50分間、お芝居を観ていたのです。
最初から最後までぜんぶ観たんです。

私はこれまで、お芝居を見た感想を述べるというのは、そのお芝居の上演中に自分が何を考えたかを述べることだと思っていました。だから、「お芝居を観るのに現を抜かして別のことを考える暇がなかった」という非常事態をどのようにとらえていいのだかわからないのです。

もちろん。自分の創ったお芝居は最初から最後まで見ています。
稽古中も、本番も、本番も全回客席で見ます。
すべてが私仕様になっているので、とても観心地がいいからだと思います。もしかしたら、そのために自分でもお芝居を創るのかもしれないと思うほどです。

だけど、他の方の作ったものを観てるとき、それがどんなに素敵な作品であったとしても、私は必ずどこかでふっと意識をなくしてる時間があるのです。
正確に言うと意識は(たぶん)あるのですが、何か別のことを考えている時間が。洗濯物をたたんでいるときのように。そしてその「別のこと」は、そのお芝居を観ていなければ考えることができなかったことである場合が多いので、私にとって、「よいお芝居を観た」ということは上演時間中に「いいことを考えた。」ということとイコールであることが多いのです。

けれども。

そのお芝居が上演されている間、私はずっとそのお芝居を観ていました。
50分間、お芝居を観ていたのです。
分刻みで可笑しくてしかたなくて、「ふんふん、それで?」って思い続けて、それを繰り返しているうちに終わってしまったのでした。
ムラなく最後までやり遂げる、というのはとても気持ちのいいことです。
とっても気持ちのいい状態でうちへ帰り、そのことを書きとめようと日記を開いて書き始めてみてはじめて、「何を書いていいのかわからない」状態に気づいて困ってしまったのです。書くべきことがないのではないか、なのに何かを書こうとしている私はずるいのではないか?と思えてきたり、でもそういうことならこの類の「心地よさ」について永遠に書き記すことはできないということになってしまう・・というジレンマが沸いてきたり。

とりあえず、50分間ずうっと何を観ていたのかを書いてみます。

「音太小屋」という天六の小さなスペースで上演された、田口哲さんと佐野キリコさんの「眠っちゃいけない子守唄」という題名のお芝居でした。戯曲は別役実さんが過去に書かれたものです。舞台の上では、なんだかとっても素敵なことが起こっていました。二人芝居ですから、舞台の上には二人の役者さんがいます。そして、テーブルと椅子と、食器棚と、電話台と黒い電話機があります。ひとりぐらしの男のところに、話相手をするために、女がひとりやってきます。彼女はそういうお仕事なのです。そういう協会に所属しているのです。
ふたりはいろいろと話をします。それはもう、いろんな話です。主に話すのは女(佐野キリコさん)の方です。男(田口哲さん)は、女の話に相槌をうったり、質問をしたりします。
そこでは何か、ささやかで、ちょっと贅沢で気持ちのいいことが行われています。

なんというか・・・それは、たとえば小粋な室内楽。
旋律を奏でる佐野キリコさんの声は、あたりの空気をいい按配に膨らませたり揺らしたりして音色や音量やテンポを丁寧に整えていきます。田口哲さんは音リズムとテンポを地味に制御しながら空気の流れ(振動)にちょいちょいと変化をつけていきます。音楽のことは全然わからないのにふと頭に浮かぶのは、小さなステージの上でのフルートとベースの協演・・・。
そして主旋律を奏でていたのは実は・・・・。

あるいは・・・・・・・う〜ん、そう、お茶。
「空気とことばを使って美味しいお茶を入れてみました。」って感じでしょうか。古いけどもいい感じに使い込まれたお茶碗にお白湯をいれてあっためて、特別な場所から特別に取り寄せたぜいたくなお茶っ葉を急須に適量入れて、沸騰してから少し置いた80度のお湯をゆっくりと注ぐ・・・・。
そうやって入れたお茶は飲んだだけでは何が違うのかわからないけど、とっても美味しい。お菓子に現を抜かすことなくお茶だけをゆっくり飲むことができる。

・・・・・・・・・・何を書いてるんだ?私は・・・??
観てきたお芝居のことです。
お芝居を観てきたのですが、なんだか違う場所に居たような気もします。でも、私は確かに最初から最後までその物語を見届けたはずで・・・・。ひつこいですが、それはたしかにそうだったのです。ずっと同じところで同じものを観ていたはずで。だからこそ、だからこそ、確かにどこかに居たような気がします。私はいったい、どこに居たのでしょうか。私にとってたしかに幸せだったこの経験は、いったいなんというい言葉で呼ばれる類の経験なのでしょうか。いったいどういうわけで私は、自分の経験をこんなにもわけのわからない表現で記述しているのでしょうか。

9日たったのに。9日たってもやっぱりわからないことだらけ。
だけど、ひとつだけ。
素敵なお芝居を観てきました。
「すごい」でも「かっこいい」でもなく、「大好き」でもあるけれど、それよりもしっくり来る言葉で言うと、「素敵な」。
素敵な、お芝居を観てきたんです。だからとっても心地よかったんです。


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