窓のそと(Diary by 久野那美)
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2002年02月17日(日) |
てん と まる にできること |
変なところに「。」がある。適当につけてるでしょ。とよく言われるけど、本人はものすごく確信を持って打っている。私の中では「、」と「。」は全然ちがうものなのだ。(誰でもそうか。)台詞になると特に「。」の数が圧倒的に多くなる。会話してるんだからあたりまえ。と思ってるんだけど。
出演者の役者さんに、「。」と「、」の間はどうやって区別すればいいのか。と尋ねられて、 「たぶん・・・・・・「、」は相手のための間。「。」は自分のための間。」 ・・・と言ってしまった。言ってしまってから考えた。
「、」がつくるのは、前後の意味のつながりをはっきりさせるために必用な間だ。 「。」がつくるのは、前後の意味の断絶をはっきりさせるために必用な間だ。
「、」の前にある言葉は「、」の後ろにどんな言葉が続くのか知っている。 だから、全体を見渡して、必用な意味の区切れ目で「間」をとることでまだ全体の意味をしらない相手にそれを効果的に伝えることができる。
「。」の前にある言葉は「。」の後ろにどんな言葉があるのか知らない。 とりあえず、「。」のとこまで考える。後のことは「。」の後で考える。 まだ全体像のわからない自分の思考を手探りで言葉に置き換えるとき、とりあえず口をついた言葉の責任の範囲をはっきりさせながら進んでいかないと、何がなんだかわからなくなって迷子になってしまう。あるいは、全体が整理できるまで沈黙し続けなければならない。「。」があれば、未知の状況に言葉で切り込んでいくことができる。
だから。 、は、相手のための間。 。は、自分のための間。
「、」の多い言葉はおせっかいだけど親切だし、「。」の多い言葉は自分勝手だけど勇敢だ。・・と私は思う。
文法的にはどうなのか知らない。 中学生の頃、とても疑問に思ったので教科書とか参考書とかぜんぶ調べてみたことがある。 私の年代では、義務教育の教科書の中に「、」と「。」についての記載は全く見あたらなかった。だから。 「句読点の打ち方には万人が守らなければならない規定はない。好きなように使ってよい。」という意味だと解釈したんだけど・・・・。
エドワード・ホッパーという画家がいる。 空っぽの風景ばっかり描いたひと。 このひとの絵にはひとがいない。 たまに居ても、それは<どこかの誰か>であって、「あなた」や「わたし」や「あのひと」じゃない。ホッパーが描くとなんでも「風景」になる。
ホッパーがエッセイか何かに書いていた。 「わたしはひとのいない建物を書くのが好きで、挿し絵(広告?)によく建物の絵を描いた。ディレクターは大変いい絵だと誉めてくれたあと、決まって<この窓から外を見ているひと>を描きたしてほしいとつけ加えるのだった。とてもがっかりした。私が描きたいのは建物であって建物から外を見ているひとではないのだ。」
ホッパーの気持ちはよくわかる。 人の居ない絵が私も好き。 絵の中にひとが居るとき、その風景はそのひとのものだ。 わたしは絵の中のそのひとを通してしか、その場所を見、その場所に立つことはできない。
空っぽの風景は私のもの。 視点は絵の外にある。 絵のこっち側にある。 わたしはたしかに「ここ」に居て、「ここ」から、この風景を見ている。 ここにいるわたしだけが見ている風景。
そういうものが欲しくて絵を見るのに。 ホッパーも。 そういうものが欲しくて絵を描いたんだろうに。
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