窓のそと(Diary by 久野那美)
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2002年03月27日(水) |
女優:大西智子嬢について |
「大西さん、早く取りに来て・・」 と土曜日の日記に書いたら、それを読んでか読まずか、当の大西智子嬢からメールが来た。 「桜ららら〜」(季語なのか?)ではじまるメールで、パソコンの下見(?)に来るための日程の相談だった。「かついで帰れませんかねえ?宅配のほうがいいかしら?」 という質問になんと答えていいかわからず返事を書きそびれる。 大西智子嬢は、山羊の階のメンバーで、「エプロンの女」を演じた女優さん。 とてもチャーミングな女優さん。人間なのに手塚アニメのヒロインみたいな顔をしている。(リボンの騎士とかユニコとか)不思議なひと。 人間と一緒にいるのがしんどいときでも、このひとにはストレスを感じない。アニメだからか? 観葉植物とか熱帯魚とかに近いのかもしれない。かといって物静かなわけでもない。 観葉植物はものをこぼしたり壊したりしないけど彼女は壊すしこぼす。 稽古場でも普段でも、いつも身体のどこかが絶え間なく動いている。 動いてるからといって何かに働きかけてるわけでもない。本人もあまり意識している様子がない。スクリーンセーバーみたいなものなのだと思う。 あるいは眠っている。とくに雨の日はふと見るといつも隅の方で寝ている。
一見突然話が変わるけど(実は変わらない)「野口英世のお母さんの手紙」というのがある。学はないけれど息子への愛にあふれる母親が見よう見真似で書いた息子への手紙。「よい文章とは知識や技巧ではない」ということの例に使われる有名な手紙だ。たどたどしい東北弁で、文と文との間には大きな○がついている。「文のおわりには丸をつけるものだと誰かに言われたのであろう」とかいう解説が添えられていたりする。「句読点の意味さえもおぼつかない老いた無学な女性がこんなあたたかい文章を書く」ということを、その巨大な丸に象徴させているのだろう。
はじめてその文を見たとき。私は大西さんのメールのことを思った。 彼女のメールはすべての文が○でつながっている。もっとおおきな連結部分(なのだと思う)には◎さえある。彼女は老いてもいないし無学でもない。東北弁でもない。あの○(◎)は何を象徴しているのか?でも、彼女のメールが私はちょっと好きだったりする。 大西さんからはときどき突然はがきもくる。そういえば、電話で話したことはほとんどない。稽古場以外で会ったこともほとんどない。
出会いは結構ドラマチックだった。 4年前。あるプロデュース公演で、コロス(具体的な登場人物の役ではなく、物語そのものを支える役目の群衆。)をやっていた彼女を偶然みつけて一目惚れしてしまった。おなじ役柄の役者さんは他にも何人もいたけれど、私には彼女しか目に入らなかった。まるで人間でないみたいに、立って、動く人だと思った。セルロイドでできた人形のようだと思った。「あのひとは誰?誰?」とあちこちで聞き回ったけど、他の舞台に出ているのを見たこともなく、手がかりがつかめなかった。 それが・・。1年以上たって。そのプロデュース公演に出ていた友人(ジャブジャブサーキットの一色忍嬢)の別の舞台を見に行ったとき、楽屋の前でばったり出会ってしまった。ほんとに偶然だった。 「ああああああああああっ」と頭の中で思って、思わず声を・・・かけようとしたら向こうから声をかけられた。「・・・那美さんですよね。」初対面のひとにファーストネームで呼びかけられてびっくりした。 大西さんは私のほんを読んだことがあると言った。 びっくりしたけど、びっくりしてる場合ではないので、その場でアドレス帳を出して 「大ファンなんです。お話したいんですけど・・電話番号聞いてもいいですか?電話していいですか?」と尋ねた。 私もびっくりしたけど彼女もびっくりしていた。お互い様か。 お互いが相手のペースに巻き込まれている内に、そのまま終電の時間になり、ほとんど話しもしないまま別れた。
そのあと・・・。どうなってどうなったのか・・・ 結構猛烈なアタックをし続けて。その1年後には一緒にお芝居をやっていた。それからのおつきあい。そんな風に親しくなった役者さんが実は何人かいるけれど、大西さんの場合は未だに何者なのか全然わからない。会うたびにわからなくなる。生き物としての仕組みが異質な気がする。大脳ではなく、延髄とか脊椎とかでものを考えてるのではないかと思うときがある。にもかかわらず客観的で合理的な意見が出てくる。延髄でかけ算とかできるのかもしれない。
それが延髄なのかどうかはわからないけど、ひととしても、女優さんとしても、私はこのひとの中の何かがとてもとても好きなのだと思う。
初期化された私のパソコンは、大西智子さんのところへもらわれていくことになっている。 できればかついで帰らないでほしいと思うけど、彼女ならやるかもしれない。
なんか今日は日記と言うより大西智子記になってしまった。 パソコンを入手したらこれ、読むかな?読んだら怒るかな? 怒ったら消さないとまずいかな? でもとりあえず・・書いちゃったし・・。しばらくはこのまま。
ひとに譲るため、古いパソコンを初期化した。 6年前、はじめて使ったパソコン。 どうやって初期化するのかと思ったら、ウインドウズにはあらかじめ、初期化するためのプログラムが組み込まれているのだった。 生まれたときから持っていたプログラムに従って、きちんと、正確に、彼は死んでいった。 どう見てもおんなじなんだけど新しくなってしまったパソコンが私の部屋の隅にある。 友達が引き取りに来てくれるまでこのまんまここにある。 なんか落ち着かない。お通夜のような気分。硬くて四角いからか。 違う。
はじめてパソコンを初期化したからだ。
いろんな形のいろんな種類のものをいろんな方法でいろんな状況で失くしてきたけれど、そしてそれはその都度そのレベルに見合うだけ悲しかったりなんでもなかったりしたのだけれど、その中のどれも「こういう感じの」ことではなかった。
悲しいというにはあまりに実害がなさすぎるし、全く気にとめないでやりすごすにはあまりに「甚だしく実害のあるいろんなことに少しだけ」似すぎている。 パソコンにとって、初期化されるというのはいったいどういうレベルの問題なのか?
ひとが死ぬことと似てるような気もするし。 鳩が死ぬことと似てるような気もするし。 記憶をなくすことと似てるような気もするし。 タマネギがしなびることと似てるような気もするし。 国が滅びることと似てるような気もするし。 窓ガラスが割れることと似てるような気もするし。
「世の中から、ひとつの完成した大系が完全に消滅した」 という点では「死」がいちばん近いような気もするけど、それだけでもいろいろある。
自分の死、 恋人の死、 友人の死、 知らない人の死、 飼い犬の死、 飼ってる熱帯魚の死 鉢植えの死、
そもそも、「死」はどうしてたいへんなんだったっけ? 実害はどこにあったんだったっけ? 大脳が壊れること? 人格が壊れること? 身体が壊れること? 生理機能が壊れること? 関係が壊れること?
死の恐怖って、なにより「意識が消失する」ということの恐怖なのだと思う。 絶対に「意識する」ことのできない状況に対する畏怖なのだと思う。 ひとつの世界が、きれいにその世界だけ内側から中心から消し去ってしまうことへの恐怖なのだと思う。 ウインドウズは窓。 わたしはずっとこっちがわからこの窓をのぞき込んでいたけれど、ここは外側だったんだろうか?この奥には内側の世界があって、そこから人知れず外側を眺めている世界の中心があったんだろうか?そこからしか見ることのできない、世界がひとつあったんだろうか? それを跡形もなく私はなくしてしまったんだろうか? 壊すのですらなく、消してしまったんだろうか?
「初期化する」てそういうこと? 心機一転とかとは違う。 転がらない。消え去るのだ。 それまで確かにあったはずの「何か」を、壊すのではなくなかったことにしてしまうこと。 それは・・・ちょっと・・どうなんだ? どうなんだ?と言っても何を聞きたいわけでもなくて・・・ なんか・・・落ち着かない。
だんだん、わかってきた。 この、おちつかなさの正体。 わかってきた・・ような気がする。 気がしたらよけいに落ち着かなくなってきた。
どうしよう。なんか、書いてることにも脈略がないし・・・・ 私はこれから先、何台のパソコンを初期化するんだろうかと思った。
・・とか・・書いてても目に入る・・・。 故人に思いを馳せようにも馳せかたがわからない。 落ち着かないのはこれがここにあるからか?
・・・・・大西さん、早く取りに来て。
春の「できごと」はわかりやすい。 それに、具体的で華やかだ。 目の前で。 何かがたしかになくなってしまったり、新しくやってきたりする。 だからそれを見ながら見送りながら、びっくりしたり、ショックだったりよろこんだり悲しんだりできる。
中にはものすごく「意外な」ものもあるはずで、 だからこその反応の大きさなんだけど、でも、なんだけど、 なぜだか、どこかで実は、ほんとうは、前から知っていたことのような気もする。 ほんとうに思いがけないことが目の前で起きたとき、それにちゃんと立ち会うことは難しい。きっと何かを見過ごしてしまうし、気づいたときにはすっかり終わってしまっていたりする。
だから、きっとそうではなくて。 それはきっと、必ず「いつか突然」に、起こるはずのできごとだったのだ。 そしてそれが今なのだ。
通りすぎるまでに「さようなら」が言えるのは、そういうときのような気がする。 春はそういうことのための季節のような気がする。
何年も前の夏。 北海道夕張の喫茶店で奇妙な写真を見た。 写っているのは確かに海辺の風景なんだけど、 なんだかとても奇妙な海の風景だった。 なにもかもがあまりに均等で、なにかがこのうえなく不自然だった。 つまり。誰がどこから見てるのか全くわからない風景なのだった。 誰かがレンズの向こう側にいてこの風景を見ているのだということが 全く想像もできないような風景なのだった。
きっとそこはそういう場所なのだ、と思った。 誰にもどこからも見られていない、どこからも断絶された場所。 それが写真に「撮られて」そこに在るということはとんでもないことだった。
一連の写真には「風の記憶」というタイトルがついていた。 そうか。風なのか。と思った。 これは、風が見た風景だ。 風が、通り過ぎざまに自らに焼き付けて、そのまま持ち去った風景・・・の記録。 誰も知らないところでひっそりと記録された、どこからも等しく遠くにある風景。 笑ってしまうくらい、途方もなく孤独な風景だった。 こんな風景を。ずっと探していたような気がした。
だけどこれを確かに見て、レンズを通して確かに紙に焼き付けた人がいる・・。 それはどういうことなんだ?と思った。 気になって仕方がないので、そのまま、その写真家のひとに会いに行った。 会ったらびっくりした。全く反対の意味で奇妙で不思議なひとだった。
喫茶店のマスターに教えてもらった住所を訪ねるとご自宅がギャラリーを兼ねていて、 「ご自由にお入り下さい。」と張り紙が張ってあった。 床には作品がランダムに並べてあり、あちこちに標語や注意書きが張ってあり、やぶれた窓ガラスがガムテープと模造紙で修理してあった。家具は何にもなかった。 庭には大きなブランコがあり、ブランコの上には小さなテントが張ってあった。 しばらく待っていると、迷彩服にサングラスの男の人が帰ってきた。
そのひとが風だった。 写真家の、風間健介さんだった。
その日はたまたま私たち以外にもはじめての来客があって。 4人で朝まで焼酎を飲んだ。 風間さんはものすごい大きさのボトルから焼酎をどんどんついでどんどん飲んだ。 大きな声で、切ない思い出話をいっぱいいっぱい話してくれた。 貧乏と失恋の話をいっぱいいっぱい話してくれた。 大きな草食動物のようなひとだった。
どうしてこのひとがこういう写真を撮るのか・・・ どうしてもわからなかった。 風間健介さんはつまり、そういうひとだった。
風景に纏わるいちばん具体的な想い出。 そのときもらった海の写真は今も私の部屋の壁にある。
「山羊の階のぺーじ」から来てくださってる方へ。 このたび、日記以外の諸々も盛り込んだ(というほど数はないのですが)「Library」という新サイトを作りました。山羊のぺーじを作ってくれた、わたしのデザインの師匠村上氏がプログラマーになって東京へ行ってしまったので、おろおろしながら自分で作りました。 ビルダーを持ってないのでメモ帳で作りました。 「北の国から」とか「大草原の小さな家」とかみたいな気分でした。
自分の技術や知識を惜しみなく初心者にわけあたえてくれる神様のような方がたくさんおられることも知りました。あちこちの「ホームページ作成支援サイト」から情報や素材を頂きました。こんなところでお礼を言うのはどう考えても意味がないのですが、他に書くところがないので、ここに書きます。ありがとうございました。
毎日カラーチャートとにらめっこしるうちに頭の中の色のストックが倍増したみたいで、夢の画質が格段にグレードアップしました。きのう夢で見た夕焼けは、オレンジと桃色のグラデーションが絶妙で、それはそれは美しかったです。 できあがったサイトそのものは、まあそれなりですので、どちらかというと私の夢の方をお見せしたいのですがそういうわけにもいきません。よろしければ、ぜひ、新サイトへもお越しください。
ここ数年、舞台やラジオドラマ用に書いた台本をのせてあります。 ほとんどがkiss-FM STORY FOR TWOで腹筋善之介さんと平野舞さんが演じてくださったものです。99年4月から月1回書いていたので、気がつくと30個を越えていました。 色と同様。自分の中の物語の数が増えるたびに、なにかがグレードアップしていくような気がします。何がアップしているのかはまだよくわかりません。
4月から4年目に入ります。 だいたい毎年4人の作家で分担しているのですが、信じられないほどみんな書く物のタイプが違っていておもしろいです。
そろそろ春になりますが。 まあ。そんなかんじです。これからもよろしくお願いいたします。
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