窓のそと(Diary by 久野那美)
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記憶の中の夕方はどれもよく似てる。
あのときのあの夕方も。 あのときのあの夕方も。 あのときのあの夕方も。
実は同じ町の風景じゃないのかと思うほど、なにか決定的に同じものがあって。 それはきっと夕方の風景にとってとても肝心な何かなのだ。
最近。日が長くなってきたので夕方はだいたい外を歩いてる。 夕方を歩くのは楽しい。 子供の頃から好きだったので夕方の記憶はたくさんある。 状況は全部違う。
あの町の夕方だったり。 あの日の夕方だったり。 あのひととの夕方だったり
季節も時代も場所も違う。
だけども何か決定的に同じものがある。それが何なのかずっとわからない。 夕方がそういう風に夕方であるための、肝心な何か。
夕方の時間。 時間の粒子が少しずつ荒くなり、どんなものにも影が差して。 町がゆっくり立体になる。 時間と場所の距離は天文学的に遠い。 近づこうとすれば残酷なほどよそよそしく、遠ざかるためには際限なく優しい時間。
決定的に同じものは何? 空の色?影の方向?光の射す角度?地球の軸の角度? …わからないけど、何しかそういう類のものだと思っていた。
********** 夕方の時間。 時間の粒子が少しずつ荒くなり、どんなものにも影が差して。 町がゆっくり立体になる…。 少しずつ起きあがっていく町を歩いていて、今日、ふと思った。 決定的に同じものは風景の中ではなくて、風景からいつも等しく遠いところにあったのかもしれない…。
私は、私の見た夕方しか見たことがなかった。
私は過剰なものが苦手なので、世界が空っぽに近い方がどちらかというと居心地がいいので、 「寂しいなあ。嫌だなあ。」とは、あんまり思わない。 「悲しいなあ」と思うことはときどきある。
どうちがうのかというと、たとえば 遠くまで響く、大きな空っぽの鐘の音はきっと、寂しくて。 中身のぎっしり詰まった、重くて分厚い鐘の音は、悲しい。
そんな違いのような気がしてる。
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