窓のそと(Diary by 久野那美)
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2001年01月27日(土) |
だから南極は人気があるのか? |
「誰のものでもないもの」「誰のものでもない場所」に憧れる。 どんな風に見ても、どんな風に居てもいい場所に憧れる。
「ここに居てもいいんだよ。」 という言葉が優しいと思わない。 誰かがどこかに居ることは他の誰かに許可されることなのかと思う。 誰かに許されなくても、誰かと競合しなくても、 私が確かにどこかに居て、他の何とも関係なく自分とその場所だけの1対1の関係を持てるとき。そういうとき、世の中は優しいなと思う。
「停電の夜に」という小説を読んだ。 「ああいうの、きっと好きだと思いますよ。」とある人に薦められたから。 インド系アメリカ人の夫婦や家族の物語。 しっとりと淡々と日常を描きながら、背後に世界観の違い、みたいなものをあぶりだしていく。すらっと読めて、スパイスも効いていて、しゃれた結末もあるんだけれど、私は少し苦手だ。 うまくいえないけど、こういう風に感じることはときどきある。「ああ、あの感じ。」っていう類のいつものあの「苦手さ」。
「あの感じ」というのは、たぶん、「みんなのための素敵なもの」ていうあの感じだ。あれがどうしても苦手。「これって私のもの!」って思わせてくれないと嫌なのだ。 いろんなひとが同じような言葉で誉めてしまうものが苦手だ。 悪いとか嫌いとかいうんじゃないけど、「苦手」。
こういうのって「趣味にあわない」っていうのか…それとも単に私がわがままなのか…。
雨の日の記憶ってなんだか不思議だ。 記憶の中の風景は必要以上に古ぼけてくすんでいる。そして不自然に大きい。 なのに妙にはっきりしている。 私は風景の外にいて、どこか別の場所からそれを眺めている。
普段は人間で埋まっている場所がその時だけ空っぽになる。 いつも自分がいる場所を、遠くから見ることができる。 違和感とノスタルジーがまぜこぜになった不思議な風景。
いちばんふるい雨の記憶は小学校に入学してはじめての雨の日。
雨の日の木造校舎のにおい。 からっぽの運動場。 ぐっしょり濡れてる朝礼台。 水溜りんの上でぴちゃぴちゃと雨を受けているブランコ。 遠くまで白い空…。
6年通って。ほかにもいろんな日があったはずなのに、 いちばんはっきり覚えてるのはそんな風景。 誰もいない、からっぽの風景。
ホラー小説を2冊読んだ。 全然怖くなかった。 ときどき読んで見るんだけど、いつも思う。 完結したストーリーがあるのに怖いということにそもそも無理があるんじゃないか?
わけのわからないものは怖い。 合理的でないものは怖い。 合理的なのにわけのわからないものはもっと怖い。 言葉で説明できないものは怖い。 言葉で説明できるのにわけのわからないものは怖い。 言葉で説明できてわけがわかることになっているわけがわからないもの、は猛烈に怖い。
怖いときはホラー小説を読んで安心する。
大きいガラスの瓶に入ったぎゅうにゅうを買いました。 これは1パック300円の卵と並んで、値段の割にはとてもぜいたくな気分になる買い物です。
大きいガラスの瓶を持って帰って、クリームの浮いているぎゅうにゅうをたぷたぷとカップに入れて飲みました。 とりあえず、今日はこれでいいかなっと。
瓶に入った飲み物ってなんであんなに魅力的なんでしょう。 ラムネ然り。昔のコカコーラ然り。
重くて中身のないものに、形のないものがたっぷり収納されてるところがいいのかもしれません。 それって、何かに似てるような…。
岩合光昭さんの「地中海の猫」という写真集を買った。 私はこのひとの撮る風景と動物が大好きで、写真集を何冊か持っている。 今度は猫。地中海!!
石畳の上に。ただっ広い市場に。塔の上に。砂漠の砂の上に。海をバックに…。 大きな遺跡や海の向こうを見つめている猫の横顔には哲学者のような風格すら伺える。 そうかと思うと、面積のほとんどを風景が占めていて、目を凝らすと片隅に、横切っていく猫の後姿がやっと小さく写っている…というのもたくさんある。こちらはこちらで猫のシルエットと背景の対比が美しい。
猫にはきっと、「ものすごく大きいもの」が似合うのだと思った。
*→「地中海の猫」の情報はこちら
「ここはどこかの窓のそと」のゲネプロの舞台を見た後。 私は思わず照明の葛西健一さんに「舞台にひなたを創ってくれたんですね!」 と言ってしまった。その小さなひなたがとても魅力的に見えたので。 葛西さんはきょとんとしていた。
あとから、ああ、そうか、と思いだし、気がついた。 舞台の打ち合わせの間中、葛西さんにも、美術の姉川さんにも、 「建物の影を、丁寧に綺麗に作ってください。」とおねがいしていた。 だから葛西さんは「日陰」を創ったのだ。 時間によって少しずつ、長くなっていく建物の影。
仕込みのとき、葛西さんに聞かれた。 「…どうしても、こちらが北になるほうがいいですか?」
「???…こちらは北じゃない方がいいのでしょうか?」 「この芝居は午後から始まって夕方で終わります。南北を反対にすれば、夕方17時前の最後のシーンでこちらから斜めに夕日が差し込むとても素敵なシーンを照明でつくることができます。北向きにしてしまうと、その効果が得られず、とても地味な舞台になってしまいます。照明的には南北を反対に設定することをお勧めします。」
それはとても美しいシーンになると、素人の私にも想像できた。 クライマックスで一筋の風が吹くのだ。 そこに斜めから指すやわらかい桃色の灯りがあったらどんなに映えるだろう。
だけど、それはできないのだった。 この物語は、図書館の「裏庭」の物語だった。 終日日陰になるその場所でひとしれず起こる小さな物語でなければならなかった。
「…というわけなので、すみません。北はこちらなのです。北がこちらでないとこの物語が成立しません。」
私は頑張って、でも、おそるおそる葛西さんに言った。
葛西さんはひとこと、 「わかりました。」
といって、作業を始めた。そのあと、そのことについては何も言わなかった。 なので、本番の舞台を見るまで私もすっかり忘れていた。
あの後ひとりで、「日の当たらない北向きの裏庭」の照明をこつこつとつくってくれたのだ。陽の向きを反対にすれば得られる効果の誘惑と闘いながら、苦心して光を配置してくれたのだ。
そしてその結果。 地面のほんの一角だけがあたたかく色づいた舞台になった。。
地面の大部分を占める影を見て、「日陰がある」とは思わなかった。 そこにあるのは小さなひなただった。 とても魅力的なひなただった。 それはなんだか衝撃的な発見だった。
だって、空とはじまりの風景を創りたくて、 影と風とさようならの物語を作ったのだ。 建物の裏側を舞台にした、秋の終わりのお芝居をつくったのだ。
どうしてそうしようと思ったのか。舞台の上の裏庭を見てやっとわかった。
ラヴィーナさん提供のラジオドラマ「STORY FOR TWO」で、また1年間、台本を書かせて頂くことになりました。 毎月1回ずつでちょうど2年たちました。早いです。25本くらい書いたのかなあ。 男女二人の10分間のラブストーリー。
それまでラジオドラマの経験も、短い台本を書いた経験もなかったので、お話を頂いたとき、はてどうしたものかと思ってお手本を探しました。自分の中でいちばん近いなと思ったのは料理でした。悲しいときや混乱したとき、私は思いたってよく料理をするのですが、それと同じ要領で書くことにしました。自分の中に不足している栄養素を身体はちゃんと知っていて、気が付いたらすごい量の野菜を炒めていたり、気が付いたら暖かい粕汁を作っていたりします。
短い間隔で定期的に自炊するのはとても健康的なことのような気がしました。 凝った料理はできないけど、時間や費用に制約がある中で、美味しくてお腹に持つものを作ること、それを綺麗に盛りつけて食べること…。そういうことで何かが確実に消化され、何かが確実に埋められていきます。
体力があるときは外食でもいいのですが、体力が落ちているときは自炊は特に有効です。 他人の作ったものはやっぱり、自分の身体にはどうしても栄養のバランスが悪いからです。
自分の中に綺麗なものが不足しているときは綺麗な物語が必要です。 自分の中に、スペースが不足してるときは、ふわふわした物語が必要です。
自分に足りない栄養素を補う機会を毎月1回、定期的に与えられるのはずいぶん健康にいいことでした。 ただ…。私はひとりで勝手にやってることだと思ってたのですが、恐ろしいことに年末の忘年会で、 「毎月、台本を読みながら、久野さんは今こんな精神状態なんだろうなあ。あれからこうなってこうなったんだろうなあって考えてるんですよ。」と、番組制作の方ばかりか出演者の腹筋さんにまで言われてしまいました。これにはちょっとびっくりしましたが…。
健康的な生活をもう1年、続けられる機会ができてとても嬉しいです。 音だけの世界というのはいろんな意味でとても面白いです。よろしかったらぜひ、聞いてみて下さい。 毎週金曜日、KISS-FMで10:50〜11:00。レギュラー出演は腹筋善之介さんと平野舞さんです。
年末年始。突然、なんか大きなものが見たくなって。 これはやっぱり富士山だろうと思って、富士山を見に行った。
富士山はほんとうに大きくて立派だった。 もう、ものすごく立派だった。 どこにいても町中から見える。道を尋ねると「富士山を背にして右」とか言われるのがまた素敵。
電信柱の向こうに富士山。 グランドの向こうに富士山。 不動産屋の向こうに富士山。
「富士山に行って来た」と言うと。 「御来光見に行ったの?」と言われるんだけど違う。 見たかったのは富士山。 登ったりしたら富士山が見えなくなるから嫌なのです。
富士山三昧のお正月でした。
2001年01月03日(水) |
「愛もなく何故創った…。」 |
年末に「フランケンシュタイン」のテレビ放送を見た。 ものすごい映画だった。 壮絶に悲しくて美しい映画。 「正しい」ものが悲しく、「間違った」ものが美しい映画。
脱走した「怪物」が自分を創った博士の書いた日記を読んでしまう。 そこには彼の反省が書かれている。研究が「失敗だった」こと、彼の創ってしまった生命体が「間違った」ものであることが書かれている。
「失敗」の結果であり「間違った」成果であるその怪物は、その言葉に自分の存在を根こそぎ否定される。 彼が「怪物」として人間を襲うようになるのは、実はその後からだ。 怪物と話し合い、問題を解決しようと試みる博士と怪物の気持ちは最後まで交わることはない。 怪物にとっていちばん肝心な、たったひとつの問題に、博士は最後まで思い至らない。 博士は家族を失い、妻を失い、仕事を失う。
映画のラスト。自分の「失敗」の責任をとることに奔走し、死んでいった博士の傍らで怪物は涙を流す。 「何故泣いている?」と聞かれて彼は答える。 「このひとが自分を創ったのだ…。」
ああ。もう。こんなやりきれないことがあっていいのか。 誰からも疎外されたこの圧倒的な事実に誰がどう責任をとるんだ? 間違ってるって何? 失敗って何? 安易に反省することは決して謙虚じゃない。暴力だ。
「愛もなく、何故創った…。」 映画のコピーになっていたこの言葉を、怪物は実際にはいちども口にしなかった。
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