窓のそと(Diary by 久野那美)
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2ヶ月前。 山羊のぺーじに日記をかくことになった。 私達が何を考えていて、どんな風に考えていて、どんなことをしたいのか、 遠くの誰かに直接伝える方法がないかなあと思ってはじめた。
2ヶ月間、日記を書いた。 毎日あったこと、毎日思ったこと、毎日考えたこと。
公演の動員にどれくらいプラスになったのか、あるいはマイナスになったのか、わからない。 プラスにするためにはじめたんだけど、実際のところマイナスになってたのかもしれない。 分かる方法がないのでわからない。 公演がおわったから、もう必要はないんだけど、稽古の間だいたい毎日書いていたので習慣になってしまった。 続けることは難しいけど、続いてしまってるものをやめるのも、同じくらいに難しい。
そうやって、書き続けてる人いるんだろうなあ。
2000年12月27日(水) |
他者」について考えてみました。 |
作品を批評する時に「他者」という言葉をよく聞くけど…。意味がよくわからない。
私の創る物語の中に「他者」はいない。 「他者のようなもの」を創るのがどうしても嫌なので創らない。 自分の言葉で絶対に語れないものを「他者」というのだと思ってる。
「他者」はいつも外側にいる。 内側には絶対にいないし、外側には絶対にいる。
自分の言葉で「自分の輪郭」を正確に語りたいなと思う。 自分の輪郭がはっきりしないと自分の外側になにがあるのかわからないから。 自分の輪郭は、自分の言葉でしか創れないから。
自分の輪郭をきっちり閉じて内側について考えるとき、はじめてその外側にある「自分には想像も及ばない世界」を意識することが出来る。 「他者」とコミュニケーションする、というのはそういうことだと私は思ってる。
特に理由があるわけでもないし、 特に用事があるわけでもないし、 特にそのひとに出したいわけでもないけど、 約束事だからなんとなく出す手紙がある。 クリスマスカードとか。年賀状とか。暑中見舞いとか。
とても寂しいとき、 誰かが私のために手紙を届けてくれるのを待つには寂しすぎるとき。
そういうのが届くと無性に嬉しかったりする。 雪が降ってるのを見てるときの気持ちに、 それはなんだかよく似ている。
お芝居の中で本を燃やした。 本番中に「本を燃やすなんて…」という批判をいくつか頂いた。 批判だったのか戸惑いの声だったのか…。 いずれにせよ本を燃やす役の役者さんが「私…悪役に見えるんでしょうか…。」 とわけのわからないおちこみ方をしてしまってなんだか見るに忍びないので、燃やしたあとに炎の前で手を合わせてもらうことにした。
誰も読まなくなった本が燃やされて、その煙がいつも空に上がっている「図書館の裏庭」が舞台のお芝居。 煙は空高く上がり、遠くにいるひとの目に触れる。 煙を見て、それに釣られるようにそこへ尋ねてくるひとがいる。
そこでは本が弔われている。 そこは図書館ではなく、図書館の裏庭で、 だからいつも、そこには火が絶えなくて。 だからいつも、そこは「少しは暖かい」。
あったことすら誰にもしられず、ただ書庫の中で埃をかぶっていく本…。このまま、もしかしたら永遠に…。 エプロンの女はそれを少しずつ出してきて、裏庭で燃やすのだ。
暴力だと思われることも、彼女は知っている。かもしれない。
その日は休館日で、そこは図書館の扉の外。 びゅーびゅー風が吹いている。
12月に入ってから公演が終わるまで、外の風景をちゃんと見る余裕がなかった。 ようやく後かたづけが終わって、ふと外を見て…おどろいた。
靫公園の木にも、御堂筋の木にも、葉っぱが1枚もついてなかった。
ちょっとショクだった。 あんなにたっぷりと紅葉していた葉っぱが1枚もなかった。 わたしたちはお芝居の中の「図書館の裏庭」に落ち葉をたくさん敷いたけれども、あのたくさんの落ち葉は、このたくさんの枯れ木でもあったのだ。
葉っぱのない枯れ木たちは風がふいてもざわざわ音を立てたりもせず、空を突き刺すように静かに立っていた。
20世紀が終わる。 ほんとはなにもおわらないのに。 誰かが決めた始まりの日から2000年たった日に、20世紀が終わる。 この「おしまい」は、もうずうっと前から決まっていて。 誰かが文句をいうことも変更することもできない。
不思議なおしまい。
私はこれまで、何でもおしまいの瞬間に全て精算し、ゼロに戻してきました。 終わったあとに何かが残るのが嫌でした。 公演が終わったら、出演してくれた役者さんにもスタッフさんにも会わなかったし、台本も読み返さなかったし、公演で使ったものはぜんぶ処分してしまいました。打ち上げとか精算会とかに行くのも嫌でした。おしまいの瞬間になにもかも消えうせて、後に何も残らないのがとても気持ち良かったのです。というか、そうでないと耐えられなかったのです。
今回、公演に先立って、制作さんの方から「公演が終わった後のことをどうします?」という質問がありました。私はとても戸惑いました。終わったあとのことがどうして公演の打ち合わせの議題になるのかわからなかったのです。 おなじ公演に携わったひと、同じ公演を見たひとが自分の言葉でそれを表現できる場、ひとの言葉で表現されたものに接する場を作りたいという制作さんの意見を、狐につままれたような気持ちで聞いていました。わたしがつままれている間に、ホームページの掲示板を終演後も残しましょうということに決まり、アンケートにその旨が表示されていました。 「せっかくどんな風にも解釈できる作品なんだから、いろんな解釈が交換できる場がほしい。」というのがその企画の意図でした。
公演にまつわることでひとつだけ、公演が終わるまでではなく公演が終わってからしかできないことがある…。 これまで考えたこともなかったこの不思議な(私にとって)企画に、今回挑戦してみようと思いました。おしまいのあとに起こることを見届けてみようと思ったのです。
今日早速、3人の方が掲示板に感想を書いてくださいました。 びっくりしました。とても嬉しかった。ちかいうちにお返事を書きたいと思います。 でも私たちだけでなく、書いてくださった方同士がここで出会い、ことばを交わすことのできる場になれればそれはもっと素敵だなとも思っています。
見にいけなかったけど上演台本を欲しいという方からのメールを何通か頂いています。 公演を見ていただきたかったのはもちろんですが、そう言って下さる方がいるのならぜひお届けできる方法を検討したいと思います。近いうちホームページでお知らせします。
そんなわけで。 このページはしばらく残ります。 掲示板と、それから舞台写真ができたらくろやぎ写真館に掲示します。 よろしければぜひ、ごらんになってください。
この日記は…どうしようか悩んでいます。なぜかカウンターがついてるので、もしもひきつづき読んでくださっている方がいらっしゃるなら続けてみようかとも思うのですが…。
「ここはどこかの窓のそと」は、さようならの物語です。 そしておしまいの日の物語です。
物語を読む時。 おしまいのページに書かれている内容から、私たちは物語を再構成します。 おしまいのぺーじの、おしまいの言葉を読み終わるまではわからない。 それが、どういうジャンルの物語だったのか。 そこには何が書かれていたのか。 それまで予想もしていなかった展開が、そこで待っているのかもしれない。 すべてをひっくりかえすひとことがかかれているのかもしれない。 どきどきしながらページに手を掛ける…。
おしまいのページを読み終わった瞬間。全てが精算されてしまう。 おしまいのページまでに書かれていなかったことは、もうどこにもかかれていない。 それ以上もうなにもひっくりかえらない。
どきどきしながら、ページに手を掛ける…。 おしまいの言葉を読み終わる瞬間はもう目前。 行く先はだいたい予想できるような気がしてくる。
でも、そこがどこなのかはほんとうはまだわからない。 おしまいが近づけば近づくほど、「わからない」は希望に代わる。 ような気がする。
以上。今日、思ってること。
2000年12月14日(木) |
いちばんきれいなもの |
いつも。ここから見えるいちばん綺麗なものをちゃんと見ていたいと思う。 何が見えるのかと聞かれたら、それが見えますと答えたいと思う。 たとえ、それが絶対に手の届かない遠くにしかないものでも。
どんなに遠くにあっても見ることはできる。離れてさえいれば。
2000年12月12日(火) |
マスメディアについて |
マスメディアというのはなんだかすごい。 去年の「船の階」公演のときは「新聞で見たから」と言って18の時から会っていない高校の時の友達が見にきてくれた。 今日、「山羊の階のぺーじみつけたよ」と小学校の時の友達からメールをもらった。 どちらの友達からも「ずっと、どこで何してるのかと思ってた。」と言われた。 付き合いが悪くて同窓会も行かないし、年賀状も出さないし、すぐ引越しするし、旧友を大事にしないから、こんな機会でもないと再会できない友達がいっぱいいいる。 遠くからみつけてくれた友達から公演をきっかけに連絡もらうとちょっと嬉しい。不思議だなあと思う。 こまめに人付き合いしていればこまめに交流があったのかもしれないけど、私はそういうのがとても苦手なので友達はどんどん入れ替わってしまう。ときどきこうやって、ものすごい遠回りして再会する。マスメディアって、遠くの人と会うためのものだと思ってたけど、もっと用途は広かった。近くのひととも会えるのだ。これはなんだかすごい。
私が不精なだけなのかなあ。
2000年12月09日(土) |
全体を考えて、分類すること。 |
「海の上のピアニスト」という映画の中で、主人公のピアニストが言っていた。 「私は船の上とピアノしか知らずに育った。ピアノの鍵盤は有限だった。だけど世界には果てがない。無限の世界へ出て、一体どうやって自分の人生を選び取っていけばいいのかわからない。」 彼は船から下りることをやめ、人生を船とピアノの鍵盤の上だけで終えることを決意する。 このピアニストの気持ちはとてもよくわかる。 私は生まれたときから船の上やピアノの前ではなく、「世の中」で暮らしているので、いつも「わからなくて」悩む。
誰かに何かを伝えたいとき。 自分に何かを伝えたいとき。 何かを探しているとき。 どこかへたどり着きたいとき。
世の中に無限にある言葉の中から、分類の中から、道の中から、ものの中から、いったいどうやって必要なものを選び出せばいいのか、いつも途方に暮れて立ちすくむ。
私は快楽主義者なので、自分にとってなにかがものすごく必要なことだけは分かる。でも、その「なにか」の名前がいつもわからない。 それがどういうジャンルのもので、どれくらいの大きさで、どこへ行けば手に入って、どんな方法で描写できるのか。 わからない。わからないのでよくパニック状態になるし、よくひとに迷惑をかける。道を歩いているときも。稽古場でも。だいほんを書いてるときも。
てきぱきと目の前の状況を分類し、適切なジャンルの適切な方法で斬っていくひとを見ると感動する。 なにかこつがあるのではないかと思ってつぶさに観察してみるんだけれど素人にはなかなかまねできない。前々から目を付けていたそういうひとのひとりに、今日、思い切って聞いてみた。 ちょっとした秘訣を教えてもらった。 こつは「全体像を考え」、「分類すること」。 道がわからなくなったら「東西南北」を見極め、「目的地がどちらの方向にあるのか」を考え、「そこへ行くためにはどの道がわからいやすいか」を検討する。 シーンを2回見たら、まず「どっちがよかったのか」考え、「それはどの辺りなのか」を考え、「どうしてそう思ったのか」を考える。 そうしていけば、その都度有限な範囲のなかから選びだすことができるのだ。
なるほど。発想の転換。しかし、これは慣れないと難しそうだ。しかも、慣れたくらいでできることなのかどうか。
*→海の上のピアニスト」の情報はこちら
事故で亡くなって5年たってもまだときどき鳴る娘さんのポケベルを、解約しないでそのままにしているというお母さんの話を聞いたことがある。 主のいなくなったホームページがいつまでもそのまま残っていたりするという話も聞く。 これはなんだかすごいことだ。 何かのために作られたシステムでも、あらかじめ終わりを設定せずにプログラムされたものはシステム自体が故障するまで同じ状態で残るのだ。その「何か」が故障して、システムが本来の用途を果たさなくなったとしても関係ないのだ。
本来の目的を失っても迷うことなく動きつづけるシステムを見るとき、なんだかとても複雑な気持ちになる。何かがたしかに終わってしまったことと、それはたしかにそこにあったのだということを全く同じ次元で実感する。
みかんというのはちょっと気になる果物です。 果物のくせに、か弱く頼りなげなところがありません。 「フルーツ」、という響きからはほど遠い、何かがあります。 かつ、可愛い。
皮を剥くのにナイフが要りません。 皮は頑丈で、ごつごつしています。 表面は鮮やかなオレンジ色です。 箱にどっさり放り込んで外へ出しっぱなしにしておいても大丈夫。 ポケットにつっこんで持ち運べます。 けっこう長い間、おいしさを保ちます。 値段も安い。
桃とかリンゴとかに比べるとずいぶん色気がないともいえます。 だけどそういうかわいらしさはちょっとかっこいいなと思うのです
「ここはどこかの窓のそと」には。そんなみかんがいくつか登場します。
2000年12月03日(日) |
ある日突然理由ができて |
「どうして○○しないの?」と聞かれると困る。 ひとはひとりひとり価値観や前提が違うから、「どうして○○するの?」と聞かれたときは答えなくちゃ意志疎通ができないだろうと思うんだけど、、「○○しない」理由を説明するのは無理じゃないのかと思ってしまう。 する理由があるならやっている。理由がないからしないのだ。
「どうして世界一の野球選手になりたくないのか」 「なぜ今すぐ命懸けで走り出さないのか」 「どうして地球から脱出しようとしないのか」
そうする理由がないから。としか答えられない。 それはいちばんしっくりくる理由だと思うけど、でも、不動の理由じゃない。
「どうして劇団に入らないの?」とよく聞かれる。あまりにもよく聞かれるので、答えなくちゃと思って答える。 「これまで入る理由がなかったからです。」というのが自分の中でいちばん正しい答えだ。 それは協調性がないからかもしれないし、入りたいと思う劇団に会えなかったからかもしれないし、面倒くさかったからかもしれないし、考えれば理由は無限に考えられると思うけど、要するに入る理由がなかったからだ。 そうすると、「これからも、入るつもりはないんでしょ。」と言われる。 それとこれとは関係ない。入る理由ができたら入る。 「でも、10年やってて(回数は少ないけど一応10年)入る理由がなかったんだから、これからもきっとないでしょう。」 と言われる。 それとこれとは関係ない。 10年やってて理由がなかったことにある日突然理由ができることなんか、普通にいくらでもある。
30年生きていて、ある時突然理由ができて結婚したりする。 それはとても普通のことだし、とても素敵なことだ。
ある日突然理由ができて何かをはじめる、あるいはやめる… それって、ものすごいことだと思う。 そしてきっと、ものすごく素敵なことなんだと思っている。
2000年12月02日(土) |
ここはどこかの窓のそと |
山羊の階をやろうと思って、台本を書いて、仲間を探し始めてから半年以上経った。 いろんなことがあれからあった。 本番まで、あと2週間。 稽古は今追い込み。美術や小道具や衣裳も着々ときまりつつある。 毎日がどっぷりと<「図書館」の裏。> 2週間と1日たったら全く関係のなくなる世界と今ものすごく密接に関わっていることが不思議だ。 それはとても不思議なことだ。 2週間と1日後の日からは、今の私はどんな風に見えるんだろう。
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