窓のそと(Diary by 久野那美)
→タイトル一覧 過去へ← →未来へ
ある種のシチュエーションを指して… 「まるで久野さんの作る話みたい。」とか 「久野さんの話にでてくるひとみたい。」とか 「久野さんの書く台詞みたい。」とか
言われることがある。稽古場で話してるときや出演者の役者さんと話してるとき。 よく言われる。結構しばしば言われる。 言ってる人は「なんだか不条理だ。」とか「不自然だ。」とか言う意味でつかってるんだろうけど、言われるたびに腑に落ちない。 そんなに度々あるんなら、ふつうのことじゃないか。
「ひとは普通こんな風に話さないよ。」とか言う人が、「なんか私いま久野さんの台詞みたいにしゃべっちゃった。」とか言うのを聞くと、「ちょっとまて。なんでだ??」と思う。
言ったのはあなたでしょーが! あなたそういう風に言うでしょーが!
「まるで絵のような風景だ」といわれた風景はこんなきもちなんだろうか。 −あんた今目の前で見てるでしょーが! って思うのかしら。 日常って何だろう? ************* ちなみに「ここはどこかの窓のそと」は、「11月30日」の話。 なんともありふれた、日常的な題材です。
2000年11月28日(火) |
とりかえしのつかない距離 |
何かと何かが 「どこまで、どんな風に関わることができるのか」ということよりも、 「どこまで、どんな風に関わることができないのか」ということの方が気になる。 ふたつのものとものとの間にある「距離」が気になる。 「距離」というのは、共存するふたつのものが全く共有していない部分の名前だ。ふたつの別々のものを同じ場所に共存させる部分の名前だ。 その距離が遠ければ遠いほど。その場所の面積は大きくなる。
このところいちばん気になっている「距離」は、おなじふたつのものの間にある距離。 おんなじなのにとりかえしのつかないほどに隔たってしまったふたつのものの間の距離。たとえば「かつてこんなことがあった。」という話をするとき、 話されている自分は、話している自分から最も遠くにいるひとのような気がする。 ふたりの自分は、遠く距離を隔てて向き合うことさえできない。 「とりかえしのつかない距離」をはさんで同じ方向を向いている。
その間にある「距離」のことを考えていたら。さようならの物語になった。 書いたのはすでに半年前の私。 そのときの私に遠く思いを馳せながら稽古をしている。
数日ぶりにCDを入れ変えました。 ここ数日。クリスマスソングのCDをかけっぱなしにしてたのです。 KISS-FMのラジオドラマ「TORY FOR TWO」のクリスマス特別番組「イブ−4つの恋」の台本を書いてたからです。4人の作家がそれぞれ同じテーマで書いた10分くらいのラブストーリーををクリスマスイブにオムニバス形式で放送する!という素敵な企画で、桃園会の深津篤史氏、三角フラスコの花田明子氏、第二劇場の四谷原茂氏と私が、それぞれ「イブ(前日・前夜・ちょうど)」をテーマに恋の物語をつくり、腹筋善之介氏と平野舞氏他の小劇場の役者さんが演じてくださいます。面白いのでぜひ、こちらも聞いてくださいね。(去年、おととしの台本はSTORY FOR TWOのページで読むことができます。本の横のてんとう虫をクリックしてください。)
私は同じCDを何日も、場合によっては何週間もかけっぱなしにしておく癖があります。 特に好きな曲があれば、それだけを選んでひたすらリピートします。 CDという便利なものが無かった時代は、カセットテープの裏表に同じ曲をぎっしり録音して繰り返し聞いていました。最近はCDとかMDとか便利なものができたのでほんとうに重宝しています。台本書いてる間は特にひどくて、おんなじ曲が何ヶ月も流れていたりします。 うちに電話してきた友達は、いつも背後に同じ曲が流れているので気持ち悪いといいます。
書き終わってCDを入れ替える時は、なんだか名頃惜しいような、新鮮なような、不思議な気持ちがします。こたつを片付けたり、扇風機をしまったりするときの気持ちに似ています。 音楽をかけることで、自分で好きに区切れる「季節」を部屋の中に作ってるのかもしれません。
「おなじ曲ばっかりそんなに何度も聞いててどうして飽きないの?」とよく聞かれるのですが、 それは「きのうも今日も明日もあさっても同じ季節の中にいて、どうして飽きないの?」という質問に似ています。今日は冬だったけど、あしたは秋だし、あさっては春だししあさってはまた冬になる…という状況のほうが困るのです。
新しいCDは綾戸知恵さんです。クリスマスソングは、ふんわりと天に昇っていくようなのが多かったのでちょっと低い音が聞きたくなったのかもしれません。 うちにお電話いただくと。今日からしばらく、これがかかっています。
人間の身体の中でいちばん魅力的で神秘的でプライベートな部品は骨だと思っている。本体が燃え尽きても残るものがあるなんて、ものすごいことだ。
だから火葬場という場所はとても不思議だ。 本人すら1度も見ることのなかった、あんなプライベートなものを複数の人間が箸で渡し合う。もう、想像するだけで恥ずかしくなってしまう…。
なぜか今日は、火葬場と骨のことを考えている。 人間を、きちんと肯定したい気分なんだろうと思う。きっと。
2000年11月23日(木) |
具体的で生産的で美しいこと。 |
ものすごく動揺することがあったとき。とっても悲しいことがあったとき。 とにかく「具体的で生産的で美しいこと」が無性にやりたくなる。 自分の中にある、もやもやしたわけのわからない熱量がきちんと運動エネルギーに変換されていくのを感じると、少しずつ気持ちが落ち着いていく。たとえ落ち着かなかったとしても、社会的にトラブルが起きるようなことではないし、私の感情に無関係・無関心なひととも、作業の結果を通じて有意義に交流することができる。
いちばん手っ取り早いのが料理。 野菜を切って、肉をたたいて、煮て、揚げて、盛りつけをする。 動揺の度合いが大きいほど作業行程の複雑なもの、作業の面倒なものが食卓に並ぶ。 これ以上簡単で具体的で生産的で美しい作業は思いつかない。 だから動揺したり混乱したりすると、私はよく天ぷらを揚げる。 他にはいなりずしとかババロアとかアイスクリームとかが最高値のメニュー。
あるいは何かの「手続き」をする。 市役所へ書類を提出する、電気料金を払いに行く、携帯電話の機種を替えてみる…。 そんな程度では足りなくなると、以前はよく引っ越しをした。 2年に1回くらい引っ越してた時期もあった。 あいまいで抽象的な「感情」は、「引っ越すという行為」を通して、猛烈に「具体的で生産的で美しい」ものに変換されるのだ。
最近はデータベースソフトの作成に填っている。おかげで、仕事も、公演のDM送付や予算管理もずいぶん楽になった。 そういうことに填っていても、私がどんなに動揺し、どんなに悲しんでいるのかたいてい誰にも伝わらない。 それは問題といえば問題かもしれないけど、いいことだといえばいいことだとも思う。
「具体的で生産的で美しいこと」って、なんだか切ない。
ある精神病院の風呂場で、患者が釣り糸を垂れていた。 通りかかった医者が、声をかけた。 「どうです?釣れますか?」 患者は答えた。 「釣れるわけないでしょう。ここは風呂場ですよ。」 ********** 虚構の中のリアリティについて考えるとき、いつもこの話を思い出す。 ものを創るときにいちばん排除するべきものは、この医者の目だと思っている。 思いっきり大きな、リアルな嘘をつきたい。
ひとと話すときに動く「手」には2種類あるような気がする。 話の内容をより具体的に表現するために動く手がある。いわゆるジェスチャー。 一方で、話の内容と全然関係のない動き方をする手がある。
落ち着かないときにせわしなくこすり合わせる手。 意味もなくリズムを取る手。 服や指をもそもそといじる手。 宙をさまよう手…。
話の内容を補足するためではなく、話と自分の隙間を埋めるために動く手なのだ。ことばではなく、ことばのない部分を補足して動く手なのだ。 水中で、もがいて水を掻く手のように。 そこでは、前提になるのは「泳ぐ」という行為ではなく、水と自分の存在であり、「沈みたくない」という気持ちだ。 「自分の言葉」ではなく、相手と自分の存在であり「伝えたい」という気持ちだ。
稽古場で、役者さんの手を見ていて気がついた。 初対面の奇妙な相手との微妙にかみ合わない会話を、 「相手がそこにいることも自分がそこにいることもどっちもOKになるように素敵にやっちゃって下さいな。」 とお願いしたら、いつからか登場人物の手は無意識に宙をさまよいはじめた。
誰かととっても一緒にいたいとき 誰かに何かをとっても伝えたいとき。 いつも、ことばは「足りない」、と思ってしまう。 「違う。言いたいのはそういうことじゃなくて。」 「何言ってるんだろ、私…。」 「でもことばにするとこうなっちゃうよ…。」 話す端から零れてくる言い訳
でも、ひとはことばの限界をこんなに無意識にひょいひょいと超えていこうとする。 どんなに宙をかき回したとしても、結局のところ手の長さより遠くへ行くことはできないんだけど、 でもその手は確実にどこか「ものすごく遠いところ」へ向かって伸びていこうとする。
稽古を見ていて。宙をさまよう不器用な手を、私はとても優しいと思っていたんだけれど、 その理由が少し、わかったような気がした。
2000年11月17日(金) |
じゃあ、空はどこにあるのか |
稽古の時。みんなで美術の話し合いをした。 台詞がだいたい入り、立ち稽古が一通り終わりつつあるので、お芝居の中の世界のことを話し合う余裕が出てきた。 台本を書き上げた瞬間には私ひとりだったその物語の関係者が今では何人にも増えた。 この時期から、役者さんや美術さんや制作さんとお芝居の中の世界のことを話すのはとても楽しい。 びっくりマンチョコのシールを集めてる子供ってこういう気持ちなんじゃないかと思う。 みんなで話し合うといろんな物の見方がでてくる。 「へえ。あれってそういう意味だったの?」 というのがいろいろ出てくる。自分がそれまで考えもしなかった観点からお芝居を見直すことができる。
今日は特に場所についての話し合いだったので、話し合いの間中、わたしは 「空はどこにあるのか」考えていた。 舞台の上には天井がある。天井には照明機材がつるされている。 空はどこにあるのか。 風はどっちから吹いてきて、どっちへ向かって吹いていくのか。
「わからないと見逃してしまうじゃないですか。」 芝居の中で。本を抱えた女が言う。 わたしたちが彼女に教えてあげられることは何だろう。 彼女が私達におしえてくれることはなんだろう。
2000年11月16日(木) |
客席はどこにあるのか |
美術の姉川さんと、舞台セットの打ち合わせをした。 「客席はどこにあるのか」というところでずいぶん話し合った。 客席は、本当はどこにあるのか…。 稽古だけしていたらわからないけどこれは大問題だ。舞台を見るたび作るたび、毎回悩んでしまう。お客さんは客席にいて舞台の一部始終を見ている。でも舞台にいるひとたちは誰もそれに気づかない。気づいてるのかもしれないけど、みんな黙っている。 どうして気づかないのか。あるいはどうして気づかないふりをしているのか。 なにか理由があるはずだ。それはなんだろう?
このことを考えてると。もしかしたら全然関係ないのかもしれないけど、昔住んでたアパートのことを思い出す。そのアパートは、窓から手を伸ばせば届きそうな距離に隣にビルの窓があって、日当たりが悪かった。用心も悪いのでそちらの窓はいつも閉め切っていたけれど、声はつつぬけだった。初老のおじさん夫婦が暮らしていた。夫婦仲はどうもよくないみたいで、夕飯時になると、おくさんがだんなさんを怒鳴りつける声が聞こえた。 ある日、「茶碗がどうの…」という決定的な会話を最後におくさんの声が聞こえなくなった。茶碗がいったい何を決定してしまったのかははっきり聞き取れなくてわからなかった。二人しかいないので、その日から、会話そのものが聞こえてこなくなった。隣は静かになった。 何ヶ月かたって。静かになったはずの隣の窓から、再びおじさんの声が聞こえてきた。 楽しそうな、弾んだ声だった。もう新しい家族が増えたのかしらと思って聞くともなく(?)聞いていたら、話し相手は人間ではなく、テレビの音声だった。 よく聞いていると会話というよりは独り言なのだった。 「伊予ちゃん〜。可愛いねえ。」 テレビをつけっぱなしにして何度も何度も、溶けるような声でおじさんは繰り返していた。 それから、隣の窓からは夕飯時になると毎日「伊予ちゃん」の出ている番組の音と、おじさんの独り言が聞こえてくるようになった。 それはほんとうに毎日続いた。数ヶ月の間、毎日、毎日…。 そういう夕飯時のすごし方もあるのね、と思いながら、なんだか腑におちない気持ちがしていた。なにが腑に落ちなかったのかは半年経ってやっとわかった。 10年近く前とはいえ、すでに第一線を退いたアイドルだった彼女がそうそう毎日テレビに出ているはずがない。よく聞いてると、毎日流れてくる音声はまったく同じもので、おじさんがあいづちを打つ個所もせりふも毎日少しも違わないのだった。
そのあと私は引越しをしたので、おじさんの夕飯のその後がどうなったのかわからない。だから私にとって、おじさんの夕飯の話はそこで終わっている。 直接見ていたわけではないし、参加したわけでもない。おじさんのせいで私の生活は別に何もかわらなかったし、わたしのせいでおじさんの生活が変化したとは思えない。ただ、晩御飯を食べるときに聞こえる音が少しずつ変わっていき、その時間の空気が少しずつ変わっていった。それはたしかに変わっていった。 その半年間の間に、自分が確かに何かに立ち会ったような気もするし、すべてが所詮、私の想像の中のできごとに過ぎないじゃないかという気もする。
なんだけど…。 客席と舞台のことを考えるとき。いつも私はこの窓のことを思い出してしまう。 窓の向こうから聞こえてきた、おじさんの夕飯の音のことを思い出してしまう。 10年たった今でも…。
ちなみに美術の打ち合わせの結果については…。ぜひ、本番を見にきてください。
あの日。空は遠くまできれいに晴れていて。 私は持っていた靴を片方、空へ向かって投げた。 真上に向かって投げた。 靴は雲の向こうに吸い込まれて見えなくなった。 そしてそのまま落ちてこなかった。 いつまで見ていても落ちてこなかった。
秋の空を見ていると、 どうしてだか何かが落ちてくる「はず」のような気がするので、 そんな思い出を捏造してみたりする。 そうすると、 もう片方の靴がまだ手の中にあるのに気づいたりする。
でたらめの思い出の効用。
2000年11月14日(火) |
驚きやすい性格について |
稽古場日誌にもありましたが、今日は「驚く」シーンの稽古をしました。 稽古とは関係ないのですが、私はものすごく驚きやすい性格です。 「驚かすよお。」と予告されて「うわつ。」と言われても確実に驚きます。 夜中に台所のステンレスがぺきっつと音をたてたら心臓が凍りそうになります。 ぼおっとしてるときに話し掛けられると飛び上がります。 稽古を見ているときも、驚くシーンや、誰かが大きな声を出すシーンのたび、実は内心びくびくしています。格好悪いので黙ってダメだしを考えるふりをしたりしています。動揺しやすいというのはなんだかみっともないので、普段から、驚いたときはできるだけ、何事もなくとりつくろうようにしているのです。
動物の中では。コアラが驚きやすい性格なんだそうです。 天王寺動物園のコアラの檻のまえに張り紙がしてありました。 「コアラは大変驚きやすい動物です。「怖い」と思う気持ちだけで死んでしまうこともあります。コアラを驚かさないようにしましょう。」 以前、どこかの山で家事があったとき。 恐怖のため逃げ送れた大量のコアラが現場で丸焼けになる事件がありました。 驚きやすい性格の動物は長生きできません。なんだか切ない事実です。
2000年11月13日(月) |
ジェットコースターと兎 |
自分が「自分のような状態」であることに疑問を感じずにすみ、自分が「自分のような存在であること」に疑問を感じられずにすみ、予測のつかない刺激や危険におびやかされることなく存在できる状態を「健康的」というのだと思ってる。
「健康的」という言葉を聞くと、ジェットコースターを連想する。刺激や恐怖すらも手の内に収めてしまった遊具。ジェットコースターがある日、レールを踏み外して空中へ飛び出していくかもしれないなんて誰も考えない。思いもよらないことは何ひとつおこらない。何一つ起こらないなかに、ちゃんとドキドキもワクワクも存在する。 これこそ健康的の極致だ。遊園地にはジェットコースターがなくてはいけない。ジェットコースターのない遊園地はなんだか違うと思う。
反対に。 「不健康」という言葉を聞くと、私は何故か兎を連想してしまう。 兎は「よくわからない」。そもそも字が怪しい。何を考えてるのかわからない大きな目も怪しい。食べることさ面倒くさそうな無表情な顔も、あんなに耳が大きいのに自分では音を出さないインプット主義な生き方も怪しい。 きっとみんなそう思ってる。だから小学生に埋められるのだ。コンクリートブロックをつけてプールに沈められたりするのだ。学校の兎小屋で大量虐殺されたりするのだ。猫や犬はそんなことされない。想像の範疇にいるから。殺されるにしても埋められたり沈められたりしない。
遊園地にはジェットコースターがなければいけないと思う。たくさんのひとがそれを楽しんでる状態は正しいと思う。 そして兎にはそのままで居て欲しいと思う。漢字には怪しげな「、」をつけたまま、音を自分の中に溜め込んで、死ぬまで無表情に人参をかじっていてほしい。それは正しいのだ。埋められたとしても。沈められたとしても。
以上。「健康」について私が思うこと。
2000年11月10日(金) |
「なんか納得いかない…」ふたり |
今日は1場の稽古。 エプロンの女と本を読む女が出会う場面。 お互いに、「なんか納得いかない…」と思っている。 「なんか納得いかない…」ふたりが一緒にドラム缶を挟んで話をする。 ほかに誰もいない。 風は冷たく、火はあたたかい。
「なんか納得いかない…」からふたりとも困っている。 困ってるけど、そこには他に誰もいない。 困ってるふたりの間にある空気はなんだかとても可笑しくて優しい。 なにかがぷつぷつと生まれ、ぷつぷつと消えていく。
優しいお芝居になりそうな予感がした。
2000年11月09日(木) |
困難に立ち向かうこと |
「登場人物がだれも困難に立ち向かっていかない。それでいいのか。」 と批評されたことがある。
私自身が、避けられる困難は避けられる限り避けて生きてきたので、 「ひとが困難に立ち向かう姿」をリアルに描くことができないのだと思う。 努力してもできないことがあまりに多かったので、努力してると人生が努力だけで終わりそうな気がした。 結果が出せない努力は空しかった。人生が空しいのは嫌だと思った。 他の道を探せば目的地に着けるのなら、努力してる時間がもったいないなと思ってしまった。 結果が出せないときに「私は充分がんばっているのに…」と思うのは、なんか世の中を責めてるみたいで気持ち悪いし。
困ったときはまず、立ち向かわなくてすむ方法を考えてしまう。 みつかるととても嬉しい。
こうやってるといつか。どこかでつけがまわってくるんだろうか?
2000年11月08日(水) |
「そういう世界」じゃなくて |
私のお芝居は、「不思議なひとが出てくる」とか「不思議なことが起こる」とか言われる。
わたし自身は不思議だと思わない。 書いてるのは私だからあたりまえだけど。 「そういうことだってあるでしょう。」といつも思っている。 誰にも想像も付かないことだってしょちゅう起きてるんだから、 誰かが簡単に思いつく程度のことが「おきるはずがない」はずがない。
私がビーズクッションの上でパソコンを叩いているように、 誰かがドラム缶の横でざぶとんに座っている。 そのひとが不思議なら私も不思議だ。
だから。「そういう世界なんですって言い切っちゃえばいいんですよ。」 という言われると素直に頷けない。 違う。
「わたしの世界とは違うけど、私とは関係ないところにそういう世界があることは認めますよ。」 というニュアンスを感じるから。 世界はひとつしかないと思っている。 だからどんなものもそこにいなければいけないし、そこにいることができる。同じ世界にいるからといって別に賛同しあわなればいけないとも思わない。出会わなければいけないとも思わない。 というか、それは無理だろと思う。
「そういうこと」は「そういう世界」でだけ起こるのではなくて。 私やあなたの世界のなかにも「そういうひと」が居て、 私やあなたの世界にも「そういうこと」が起こりうるのだ。 誰かが認めようと認めまいと、それはどうしようもなくそうなのだ。
わたしは、そう、思ってる。
建物を訪ねる男 「11月30日…」 本を読む女 「明日じゃもう、間に合わない…」
2場の稽古をしていたら…
ごろろん、ごろろろろおおん、がらがらがら… なんだか奇妙な音が聞こえてきました。 制作の中村君が大学を終えて来るはずの時間だけど、キックボードの音にしては派手だし… と思っていたら、ちょうど窓の外にむいていた片桐さんの目が点々になりました。 窓の外を見て一同唖然。 中村君が大きなドラム缶を抱えてはあはあいいながら稽古場に現れたのでした。
「ドラム缶ぐらい、僕が調達してみせます!」 と啖呵を切って帰ってからわずか3日。彼の行動力に拍手。 風や図書館と並んで、ドラム缶はこのお芝居の大切な登場物のひとつですから。 稽古場はなんだか活気づきました。 片桐さんはドラム缶のまわりを何回も回っていました。 私も嬉しいです。 少しずつ、場所が見えてきます。 私達の「図書館の裏庭」が少しずつ、形を、影を、持ち始めました。
悲しいときとか、しんどいとき。 紙をやぶると気持ちが落ち着く。
耳に心地いい音。 手に心地いい感触。 たしかに今何かに対して何かを行っているのだという実感。 そしてそれが目の前で起きていること以外に何もひきおこさないはずだという安心感。
芝居の中に紙をやぶるシーンが出てくる。 それを見てるといろんなことを思い出す。
「宛先に届かなかった手紙と本のお芝居をします。」とおしらせしたら、あるひとからメールを頂きました。 「夏の終わりに見たお芝居についての手紙を秋の半ばに出したのですが、冬のはじめに宛先不明で戻ってきてしまいました。」と書かれていました。
とても不思議な気持ちがしました。そして、私が今、そのメールを頂いたことは、 なんだか大切なことのような気がしました。
手紙という媒体は、書いた時期と受け取る時期の間にタイムラグがあります。 その間に状況は変わることもあるし、相手がいなくなることだってあるし、書いた本人がいなくなることだってあるし、手紙自体が届かないこともあります。受け取った時期によって届くものも違うような気がします。
去年の今頃その手紙が届かなかったことで今私が受け取ることのできたものがあるような気がしました。 それが何なのか、まだわからないのですが。
2000年11月03日(金) |
たまには稽古のこと その2 |
稽古は混乱の中順調(?)に進んでいます。
私は、物語を作るというのは目の前で起こっていることを全部肯定する方法を探すことだと思っています。 お芝居を創るのも、その延長線上。
リアルなお芝居を創りたいなと思います。
リアルというのは、「同じものは今・ここ以外のどこにもないけど、それがここにあることはとても素敵で、合理的だ」ということです。
「そういうことってあるある。知ってるよ。」ではなく、「知らなかったけど。そういうことってあるのかもしれないね。」 という場所を創りたいなと思っています。
3人の素敵な役者さんが、「今、ここにしかないもののリアリティ」を創るために悪戦苦闘してくれています。 今ここにしかないものにはお手本がないので、稽古場は混乱を極めています。 3人3様のアプローチの仕方があって、とても面白いです。毎日が発見の連続です。
不自然なことをからからと当たり前にこなしてしまう大西智子さん。 異常なことに不思議な色気を創り出すカネダ淳さん。 人間離れしたことを生理的にリアルにやってのける片桐慎和子さん。
3人の役者さんが「地に足の着かない」と批評される、でも書き手は「リアルだ」と信じている物語を素敵な舞台に仕上げてくれます。これは楽しみです..
情報誌さんへ公演のお知らせに行きました。 駅から10分のところに1時間半たっても着くことができず、ご迷惑をおかけしてしまいました。 丸ビルを迂回する際に、90度曲がり間違えて、南へ行くべきところをどんどん西へ歩いてしまっていたようです。 いくら歩いてもつかないのでお電話ししたら、「……不安なので迎えにいきます。」と言われてしまいました。 結局なんとかたどりつくことはできたのですがご迷惑おかけしてしまいました。…記者の方、ほんとうにすみません。
私は地図を読むのがものすごく苦手です。いつも必ず道に迷うので1時間余裕をもって出るのですが、それでも ときどき迷い込んでしまいます。空間把握力が全然ないのです。 さらに、道に迷うとパニック状態になって思考力がゼロになるので、他のこともできなくなります。 何十分も、同じ場所にぼおっと立っていたりします。 道とか東西南北とか時間とかの概念がどっかへ飛んでいき、広い宇宙空間にひとり、ぽつんと投げ出されたような気持になります。 こういうときはとても悲しいです。 電話で道を聞くと、たいてい親切に「そこから何が見えますか?」と聞いて下さるのですが、はるか遠くには大阪城や大きなビルのネオンが見えていたりするし、すぐ近くには「山田パーマ」とか「ハイツ川崎」とかの入り口や、駐車場や大きな犬のいる家やパン屋さんらしい店(入り口は見えないけどパンの匂いがするので)があったりするので、どこに見えている何を答えればいいのかわからなくてよけいパニック状態になってしまいます。
劇場へ着くことができないので見に行けない公演がときどきあります。 自業自得とはいえ、大変残念です。 これからいくつか情報誌さんへ公演の宣伝に行くことになるので、今からかなり不安です。
ちなみに。 山羊の階公演場所の都住創センター。場所は少しわかりにくいですが、「私でもひとりで行ける地図」を創ってもらったので、チラシやホームページの地図を見ていただければたいていの方はたどり着けると思います。 もしもたどり着けない方がいらしゃったら私が迎えにいきます。 ぜひ、お友達になりましょう。
稽古場には「ここにないもの」がたくさん「在る」。 椅子や机で代用してるけど、ほんとうはあるはずの「ドラム缶」、ジャージにしか見えないけど着ているはずの「ジャケット」、あるはずの窓…、事情があって稽古場にいないけどほんとはそこにいるはずの登場人物…。 不便だし不自由なんだけど、私はひそかにどきどきしている。
本番は、当たり前だけど何も足りなくない。 ずべてのものがあるべきところにある…。 それはもちろん当たり前のことで、そうでないと困るし、いちばん理想的な状態。 なのに。なんだかちょっとだけ淋しくなる。 何かが「減ってしまった」気がして。 稽古場にしかなかったものがあるような気がして、それがとっても懐かしい。 本番なんかなければいいのにとさえ思う。
言ってはいけないことのような気がするので、こっそり思う。 だって美術や照明が不要なわけじゃない。 美術完成予定図や、照明さんの説明してくれる灯りの雰囲気は、稽古場にも不可欠な要素だ。 なのに…。
「すべてがちゃんとそろってる」のに「ここにないものもここにある」本番の舞台を 作れたらいいのだ。
稽古場では今。そのための方法をみんなで探している。
→タイトル一覧 過去へ← →未来へ
|