un capodoglio d'avorio
もともと恰幅がいいわけではありません。でも、いまは、あまりにもやつれすぎている気がします。こんな顔をして帰国しても良いものだろうか、と思うほどです。
先月、インフルエンザで倒れたことが大きかったと思うのですが、いままた風邪を引いてしまって、辛くはないのですが、ぐずぐずと治りません。幼かったころなら、病気をしてみんなにちやほやされるのは嬉しかったですけど、いまはもう、恥ずかしいだけです。なさけないです。
さっき、作業や勉強をする時用のBGMを集めたプレイリストを iTunes でかけていたら、ふと耳が、過ぎ去る時間に打ち付けられたままちぎれてしまいました。なんだなんだと思って、とっちらかった意識を集めてみると、その曲はシロップ16gの《月になって》でした。
わたしは、シロップは一時期、いや一瞬間に、強烈に惹かれたのですが、その後ボーカルの五十嵐さんが書く詞にほとばしる自意識の洪水が、どうにもわずらわしくなってしまい、いくつか批判めいた感想も書いてしまったほどです。でも、そういう感想を書くときにいつも言い訳っぽく付け足していたことがありました。それはアルバムの〈HELL SEE〉だけは、ぜったい傑作だということでした。
それは、かつてわたしの某かがこぼれてそのまま下水に流されていきそうなところを、すんでの所でせき止めてくれた、彼らへの恩義の気持ちがあったからだと思います。
いま《月になって》に感じた、わたしの動揺は、この恩義の気持ちとはまったく無関係に、しかし確実に、なにかわたしの知らないところで音もなく走っている流れにスポットライトを当てたような気がします。もともと、詞以外のメロディ、編曲、声色、ちょっとUK調な哀感あるディストーションはわたしの最も好むところでもあって、でもそんな要素をひとつひとつ挙げても、きっと今回のスポットライトがなにかを射抜いてしまった理由にはならない気がします。
こんなにやせこけてしまったわたしだけれど、まだもっと、精錬されるしかないのでしょう。あなたは何をバカなことをと笑うかも知れませんね。いまさらそんな過ちを繰り返してどうするつもりなのかと。わたしも、本当のことを言えば、違和感と異質感を、もっと違和と異質を含み混んだまま、荒野を踏みしめて立ちたいのですが、でもいまのわたしには、そんなことは到底できそうにもないのです。かろうじてわたしができそうなことは、かろうじて、今回《月になって》が教えてくれた流れを、止めるためにできそうなことは、鍛冶屋よろしく、自分をもっともっと精錬する方向に行くしかない気がします。でも、もっともっと精錬すれば、きっと切れ味も上がって、そうしたらどんな違和にも異質にも、それを破壊したり分断したりしないまま、スッと刺さることができる。その刺さったときの摩擦と湿度にしか、希望はない気がします。
もっともっと、火花を散らして、もっともっと、鋼を鍛えなくてはいけません。
あなたは、わたしから散っていく火花を、それでも肯定してくれるのでしょうか。
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