un capodoglio d'avorio
2004年12月30日(木) |
l'ottava riforma! |
または the 8th renewal!です。このたび、doka's homepage の8回目のリニューアルを実施。主な変更点は以下の通り。
● サーバーの変更に伴う、新URL(http://doka.m78.com/)
● レビューインデックスの変更、大分類ひとつに対して小分類13個
● トップ並びに各背景画像の刷新、画像ページ(photo)の改良
● bbsの刷新、フラッシュサイト内で表示
● テキストサーバーをエンピツから自サーバーのMTへ変更
と、かなり大々的なリニューアル。特に一番下の点が、最も大きな変更になると思われる。これまで2年ほどずっとお世話になってきた日記サーバーのエンピツだが、今後は引っ越しした新サーバーに組み込んだ MovableType にテキストをアップしていく。当然ブログなので、コメントなども可能となりました。
作業は、もう振り返ってもちょっと凹むくらい大変だった。画像処理も1ピクセル単位でこだわったし。でも、その甲斐あって、今回のリニュはかなりの自信作!
背景画像もどかが好きなものを選んだし、新しく導入したMTのスキンも敢えて「エンピツ風」に、デチューンした。演劇レビューは全てMTに移行したものの、他のレビューや日記はとても移せなかったために、当面の違和感を消したい。という実際的な理由もさることながら、どか自身、エンピツにすごい愛着があったのです。ので、この「エンピツ風」MTスキンは、どかのエンピツへのオマージュとして受け取ってもらえるとうれしいです。
また、何か不具合などがあったら教えてください。そして、ブックマークの変更、お手数ですがよろしくお願い致しますです。
m(_ _)m
やっと鑑賞@梅田ガーデンシネマ。
関係ないけど、きょうの梅田スカイビルは『本田宗一郎と井深大』展と『ペ・ヨンジュン写真展』が開催されていて、しかも後者は最終日だったこともあって、すごい人出(中性子爆弾が欲しい、なんて決して思わなかったですよ・・・思てへんかったってば!)。
『青い車』、原作のよしもとよしとも氏の短編は読んでいないどか。原作マンガを知らないまま、まっさらな状態で鑑賞できるのはちょっとぜいたくだなーと思ったり。
感想、いいと思う、とてもていねいに、繊細に作られていて、まず監督のその基本姿勢に好感を持った。原作がよしもとよしともサンだし、音楽が曽我部恵一サンだし、主演がARATAだし、いかにもサブカルミニシアター系な布陣なんだけど、撮影技術としては奇をてらった構図は一切用いず、オーソドックスかつ上品なアングルから少し引いたショットを多用。若干、ショットの繋ぎかたの「モンタージュ性」が強調されているかなーというくらい。
脚本も、とても繊細かつ緻密に練られている。セリフ数は少ないのだけれど、その合間の空気もきちんと整理されて、ひとつの焦点にきちんと収斂されていくのを感じる。
ひとつの焦点、それが原作部分だ。つまり、この脚本は、よしもとよしともサン原作の短編部分をクライマックスにそのまま持ってきていて、そこに繋げるまでの部分を新たに創作するというスタイルをとっている。つまり、彼女であり姉であったひとりの女性が死ぬまでの物語を創作し、残された彼氏と妹が海に行くという短編をそのまま生かすということ。これってかなり割り切った、思い切りのいる方針だったんだろうな。
さて、なぜどかが原作を見ていないのにもかかわらず、このスタイルがパッと分かったかというのが、問題だ。つまり「そこまで」と「そこから」が、明らかに異質の時間が流れていたからだ。焦点にたどり着いてからの、全てが隠匿され圧縮され亀裂が入った時間(それがつまり、よしもとよしともサンの代表作である『青い車』)は、焦点にたどり着くまでの、丁寧に緻密に上品に紡がれた時間。
奥原監督はこんな明らかな差違をどうして残したままにしたのか。もしかしたら「原作ファン」からも「映画ファン」からも糾弾されかねないほどのギャップをどうしてわざわざ生み出したのか。「そこまで」の時間をもっと圧縮しかき混ぜるか、もしくは「そこから」の時間をもっと延長しおしなべるかすれば、このギャップは容易に回避できただろうに。
そうしてどかは、奥原監督の原作への強いオマージュを知る。なるほど、と思う。これはあくまでひとつのオマージュなのであって、そしてオマージュであっても映画というメディアで成立しうると言う確信がここにある。
傑作の誉れ高いよしもとよしともサンの短編、 それがまずここにあって、この短い物語のプロローグは、 読者にもいろいろ想像されてきただろうけれど、 わたしとしてはこおゆうプロローグがあっても、 いいんじゃないかなー・・・
と、奥原監督は言っているんだと思う。何と奥ゆかしいw、ヒトによっては物足りない、もったいない、とそれでもやっぱり糾弾されかねないほどに、控えめで、でも清々しい姿勢だなあ。そして、その監督自身の控えめな誠実さは、すべてのシーンとその繋ぎ方に、きちんと反映されていて、そして特にクライマックスまでのシーン、とりわけ原作には登場しない彼女であり姉である佐伯アケミ(麻生久美子)の造形に結晶している。
彼氏であるリチオ(ARATA)から、そして妹である佐伯このみ(宮崎あおい)からも、それぞれの孤独をそのままぶつけられて傷つき、その痛みを誰とも共有できないというアケミ自身の孤独は、彼女の死でもってはじめて輪郭が与えられる。けれども、孤独がそこにあると知っても、その孤独がどんなものかはリチオにもこのみにも、誰にもそんなものは分からない。そう言う意味で、彼女の死はコンテンツではなくインデックスだ。
リチオのサングラス、このみの花束、それらもインデックスとして機能し、そこに何かがあるのは分かっても、それが何かはわたしたちには分からない。分かったフリをしてみても、それがフリでしか無いことに目を背け続けられるほどにヒマなヒトは幸いだ。「みんな孤独だよね」と言ってみても「じゃあ孤独って何」と聞かれて、それはやっぱりわからへんし。
90年代の「薄っぺらさ」とはそういうものだった。「深み」が無かったのではなく、「深み」を知られなかったのだ。よしもとよしともサンが90年代後半を代表するマンガ家のひとりと評する向きがあるとすれば、それはこの「深み」に対して毅然と背を向けて「薄っぺらさ」の純度を高める方向に自らの資質を傾ける勇気を持てたことだろう。リチオはアケミのようについにはガードレールに突っ込むことができず、このみはアケミの死に「胸がチクチク」し続けても責任から逃避することに成功している。共有の重みを剥奪された二人は、ひたすら軽く、波間にたゆたう泡沫である。
そして、奥原監督は、よしもとよしともサンが巧みに描き出した孤独の泡沫を包むインデックスとしてのオブラートを、そのまま、破かないように見失わないように緻密に丹念に誠実にひとつのプロローグをつけて見せた。そしてこれが成功しているとわたしは思うので、この映画は、映画としてではなく、オマージュとしてとても優れた表現だと思ったことだった。
(多分、続く)
もーすぐ今年の授業が全部おわるー・・・ と、思って気を抜きすぎたのか。 それとも稽古で踊ったあとの疲労が原因か。 どうやら、風邪を本格的に引いたらしい、 鼻水が止まらない、グズグズ。 なんだかカラダも熱っぽい。
うー、しんどいよう。
やっぱ、京都は寒いと思った。 大阪と比べると、明らかに実感するくらい寒い。 大阪を基準に上着を決めていくと、 向こうに着いたら泣きを見る。
でも、三条の駅前で食べた山頭火のラーメンは 美味しくて嬉しかった。
でもでも、やっぱり鼻グズグズ。 身体がダルーイ。 まだ授業残ってるのに。 レポートたくさんあるのに。
ことし最後のゼミ。ずいぶん久しぶりな気がするなあ。でも実際、久しぶりなのか。
このシナリオの最後につけられたオッターヴァ・リーマ(八行詩節)のスタンツェ、 マリア役の俳優が担当するところの一部が、まったく構文が取れず苦しむ。 したらボスも「これは分かんないよ」と言っていたのでちょっとホッとする。 「破格だから、厳密に文法は取れないでしょう」 と、言いつつもボスはきれいな訳文を言ってくれる。
・・・、なぜそういう訳になるんだろう。
先輩でD2のサバさんも「あれはわっかんないねー」と言っていた。 たしかに。 どうして io(1人称)なのに sara` という3人称の未来形が取れるのか。
世の中割り切れないことだらけだわ。 いまだどかが『青い車』を観に行かれてないことも不条理だし。 ああ、あおいタン・・・。
あしたの講読ゼミでの発表分がなんとかやっつけられたので、 フィットネスのジムに行って、軽く運動する。 本番は来年の2月初め・・・、 それまでにこの身体をなんとかしないと。
先週、踊りの稽古に参加したところ、踊り始めてから10年、 これまででもっとも情けない拍子を踏んでしまったのです。 ああああ、ここんとこプールにも行かれず、 ずーっと辞書を引き引きしてたからなあ。 覚悟はしてたけど、ここまでとわ。
9月の上京のときに踊ったのと比べると、 今度のはかなり激しくテンポの速い舞だから、 気合いと技術だけではごまかしきれない。 あと1ヶ月半、やれることはやらないと。 一緒に踊る相方のぶぅクンにも迷惑がかかっちゃうし・・・。
とゆうわけで、腹筋と背筋がかるーく痙攣しつつ、 膝が少しいたいなあと思いつつ、 勉強と舞踊の両立は大変だなあと思いつつ、 パーマンのコピーロボットが欲しいなあと思いつつ、 少しくらい鼻が赤くてもこの際いいからさあと思いつつ。
・・・クリスマスだしね。
久しぶりにあおいクンに乗る。 朝、出がけのエンジンがかかりにくいのは覚悟してたけど、 でもそれだけじゃなくて、ちょっとご機嫌ナナメみたいだった。
後ろに車を背負いながら信号待ちしていて、 青になって遠心クラッチを一速に入れた瞬間、 「ストンンッ・・・」。 エンジンがストールすること2回。 もー、あおいクーン、、、怖いよー。
うん、でも、わかってる。 わたしがキミをほったらかしにしてたのが、 いけないんだよね、拗ねてるんだよね、抗議してるんだよね。 ゴメンねゴメンねとココロのなかでつぶやきつつ、 トコトコフイーンとアクセル開ける。
少しずつレスポンスが良くなってくる。 二速が粘る粘る、引っ張って引っ張って三速。
風は冷たいけど日差しは温かく、 やっぱりあおいクンとの「散歩」はいいんだなあと思った。
マイミクのゆいサンに教えてもらって、外に駆けだして空を見上げてみる。
冬の帝王、オリオン座。 その主星ベテルギウスを一角に、全天一明るいシリウスとプロキオンで冬の大三角形。
ヒンヤリ冷たい空気は、大阪でも何とか星を見られるほどに澄んでくれてる。
さて、オリオン座の左上、ふたご座のあたり。 目を凝らすのではなく、出来る限り視角を広く取ってぴやーっと眺める感じ。
・・・見えたー。
良かったあ。 双子座流星群。 どか二等兵、しかと確認しましたです。
と、アルファベットを並べてみて、パッと意味が分かったヒト。あなたはもう、人生アブナイですw
はい、もちろんこれは、秋のG1戦線の「ジャパンカップ」「阪神ジュベナイルフィリーズ」「朝日杯ヒューチュリティステークス」の略でした。どかはファインの引退ショックをまだ引きずっていて、あんまり馬券を検討していません。元会社の同僚であり、競馬の師匠のゆきチャンにも「あと二年待てば仔が走るから、しっかりしなさい」と叱られる始末。でもなー。
ジャパンカップ、これは一応、祭典だし買いました、馬券。買ってもいいかなと思える馬が一頭だけ、いたし。そう、ヒシミラクル。屈健炎で一年以上休んでいた馬。普通に考えたら、もう競走馬としては引退するしかない。でも、彼は戻ってきた。天皇賞は惨敗したけど、たたいて二戦目、JCはいいんじゃないかと。・・・だめでしたけどね。でもいいの、4角出口で、一瞬夢見られたから。ファイン以降、叫んで応援できるなんて思いも寄らなかったから。ありがとー、ミラコーたん。ロブロイは、、、全く惹かれない。おもしろくない。
ジュベナイルフィリーズ。馬券買わず。でも、どかの大好きな血統予想家の水上学サンが競馬予想TVに戻ってきてくれて、どかは嬉しい。水上サンの本命、ジェダイトを応援するも、ヨシトミの全く攻めない騎乗でつぶされる。切ない。
フューチュリティステークス、馬券買わず。これも水上サンの本命馬、テイエムヒットベを応援する。しかしこれは、そもそもの力量不足だったのかも。驚異のハイペース、差しきったレコルトはともかく、レコードペースを作ったストーミーカフェは強いと思った。
あとは有馬かー。ミラコーたんが出てくれるんなら、ちょっとはやる気もでるんだけど・・・。いまでもまだ、伊藤雄二への恨み辛みが口をついて溢れてしまうくらいなので、ちょっと大変。引退式もやらないらしい。ファンを舐めるにも程がある。
2004年12月10日(金) |
エンピツとミクシィと |
ミクシィとエンピツの棲み分けをどうしようか、いまさらながら悩み中。もしくは、ブログを始めて、それで全部まとめてしまうか。
どうしようかな。エンピツがRSSの書き出しなどに対応していればもっと楽なのになあ。
どかは「カタチからはいるヒト」なので、この辺が決まらないとなかなか始められない。うー。どうしよう。
新しく、テキスト系をブログとして統一していくとすれば、やっぱりMTを使いたい。なぜなら、idのカートリッジでMTのログを反映させられるものを配布されてる方がいらっしゃるから。でもそうすると、サーバーの要件としてMySQLが必須となってしまう。ビッグローブから、別のサーバーに移さなくちゃになっちゃう・・・、たいへんだあ。
あー、どうしようどうしようどうしよう。なにかひとつにまとめたいよう(じゃないと、これからの定期的更新はとてもムリ)。
2004年12月07日(火) |
NODAMAP「走れメルス 〜少女の唇からはダイナマイト」1 |
ちゃんとしたレビューっぽい文章を書く体力が無いからそれはまた今度、書きたい。
パンフの扇田サンと野田サンの対談が面白かった、さすが扇田サンだった。
バブルと90年代を乗り切った野田秀樹
この認識はきっと、かなり適切なものだと思う。そしてこの伝で言うと・・・
バブルと90年代を乗り切れなかった鴻上尚史
これも事実だと思う。音楽劇『リンダリンダ』の失敗を見るまでもなく。そして、恐らく・・・
バブルと90年代から逃げたつかこうへい
このレトリックに即して言うと、きっとこうなるのだろう。扇田サンが指摘するとおり、つかサンは自分が一世を風靡しているのにもかかわらず、自らをアングラとうそぶき、アイドルたることを頑として受け入れなかった。うがった見方をすれば、いま拙い役者を揃えて北区つかこうへい劇団を主宰しているのも、表舞台に出るのを拒むためにあえて舞台のクオリティを「低く抑える」ための施策だと、とれなくもない(きっと扇田サンはそう見ている)。
激しく撃沈した鴻上サンはおいておくとしても、野田サンは外様の役者を揃えたプロデュース公演と、企業の冠を戴いたスポンサーシステムいう「禁じ手」に染まりながらも、とにかくもバブルと90年代を乗り切った。そうしていまでも、つかサンや鴻上サンと比べると雲泥の差とも言えるステータスを、自らの舞台に付与し続けている。
代償が、9000円という「演劇」としては極めて高価なチケット代の設定である(ちなみに同時期に上演するつかサンの舞台は500円w)。
いい悪いの問題じゃないし、自分のなかでもあまりまとまってないし。野田サンのすごさすばらしさを充分認めた上で、でも、この「生き延びるための代償」は小さくないと思ったりもする。
「演劇」とは舞台の上がすべてじゃない。青年団の駒場アゴラや、維新派の野外劇場がそれをどかに教えてくれた。もしくはつかサンの「500円」も、どかにそれを教えてくれたんだと思う(でも、お金だけの問題じゃない)。そして野田サンもかつてはそれをたしかに知っていて、どこかの段階であえてそれを切ったのだと思う。
切り捨てたのだと思う。あえて。それはいい悪いの問題じゃない。ただ、でもこの「切り捨てた」ということを、どかとしては認識したい。野田サンの「演劇」の、舞台上の表現が洗練されていけばいくほど、煌めきを増せば増すほど、影として暗く落ちて見えにくくなる部分がある。それはテーマ性以外の部分である。
思惑通りアングラと化したかつてのスター、つかこうへいの視点に立って、見えてくることのひとつには、そういうこともあるのだと思う。
(続く)
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