un capodoglio d'avorio
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2004年11月21日(日) G1マイルチャンピオンシップ

ファインモーションの勇姿を、痕跡として心に刻むため、京都競馬場へ向かう。


パドックで見たファインは、これ以上ないくらい調子が良さそうに見えた。前走札幌記念の好調を維持しているように見えた。


調教師は「去年とは違う」と繰り返し、騎手は「自分のためにここに使うことを決めてくれたスタッフのためにも勝ちたい」とモチベーションを高めていた。


そして、折しの「引退報道」。


これがラストラン・・・。押し寄せた10万人のスタンドに満ちてくる「有終の美」を求める雰囲気。オッズ的には、デュランダルに譲った二番人気だが、それでも、最も耳目を集める焦点としての、ファインモーションは揺るがない。


でも「有終の美」ってなんだ? それは誰にとって美しいのか? そもそも誰が終わらせるのか? 美しくもなく、終わりもしないことが、隠されているんじゃないのか?


超満員のスタンドにいて、ファンファーレを聴きながらこんな憂鬱な気持ちになったのは初めてだ。発走しないで欲しい。ずっと枠入れの瞬間が続いて欲しい。でも、わたしに残された道は、彼女の名前を叫ぶだけ。


・・・そして、ファインモーションは、9着と惨敗した。


彼女は、またしても引っかかってしまった。4歳になってからもたげてきた気性面の難しさ、前々走と前走で克服したかに見えた唯一の弱点が、ここでまたしても再発してしまった。


精いっぱい、きょうは精いっぱい、彼女を間近に応援したから、これだけは言わせてもらう。


レース後、競馬場でそのまま有馬のファン投票、ファインに一票を投じたわたしだからこれだけは言わせてもらう。


これは人災である。


2004年11月19日(金) ファインモーション引退報道

が、東スポで流れた。


もう、泣きそう、ってか泣く、ひーん。


マイルCSがラストラン、か?


香港カップは中二週となるために回避する可能性が高いのは分かった。たしかにそうするとあの伊藤雄二は、きっと輸送を嫌って有馬は出さないから(たとえファン投票で一位になっても)、すると阪神牝馬Sくらいしか使うところが無くなっちゃう、そんなの意味無い。


あー。もー。


まだ、ソースが東スポなので、信憑性無いけど、とりあえず明日、あしただ。


がんばれファイン、がんばれ。がんばれ。応援しに行くよ。ゆたかサン、どうか、おねがいします。おねがい。


どかの予想<GI・マイルCS・京都・芝1,600m>

  ◎ ファインモーション 武豊騎手


2004年11月18日(木) 「天の煙」追記

以下、どかの勝手な妄想。


野田秀樹と同じく、劇作家の松田サンは長崎の出身地。アフタートークの中で平田サンがいみじくも看破したように、この作品のラストシーン<遠くの街が火の海になる>という設定は、原爆投下直後の「日本に見捨てられた」長崎の街、というイメージを読むことはそれほど無茶では無いと思う。


舞台セットも、かなり綿密に作り込まれたカトリックの教会堂の廃墟となっていて、頭上から鐘を鳴らすための綱が一本、垂れ下がっていて、それ以外のすでに「地に墜ちてしまった」鐘は舞台中央、瓦礫のなかに半分埋まっている。この「鐘」という装置/システムはとても面白いなあと、アフタートークを聴きながら思っていた。


モダニスト・野田サンの「パンドラの鐘」との類似を先に書いたけど、野田サンの戯曲のなかでは「鐘 ≒ 原爆」であった。決して鳴らしてはいけない音、決して聞きたくはない音、でもあまりにも人を魅了してやまない音。パンドラの箱との類似をもとに、一気にあの戯曲を書き上げた野田サンの力量はさすがだと思う(どかは「カノン」のが好きだけど、泥臭くてw)。


でも、松田サンは、その鐘の音に鼓膜を振るわせるではなく、もっとミクロな視点を導入して焦点を合わせようとした。つまり、鐘が鳴るときの構造を、現象学的に見ようとしたのである。西洋の教会堂に吊される鐘は、外側が大きく揺れて内側のベロにあたって音が鳴る。そのベロのあたり方が複雑に反響して、予測できない不思議な響きが街にこだまする(そう、ヨークミンスターの鐘の音が、広くヨークの街に行き渡るように)。内側の存在(ベロ)は動かない、自分の周りの世界(鐘のガワ)が激しくのたうち、そこに衝突が起こる。激しく振動する世界のなかで、ベロは何度も何度も打ちのめされ、その度に響きは重なり大きくなっていく・・・。


この構造は、そのまま、この劇の構造である。「西之西町」という長崎のとある離島の街に、二人の登場人物が紛れ込む。この「西之西町」では、通常の常識とはズレた詩的かつ残酷な、凛々しくも淫らな秩序が一貫して流れていて、そして加速増幅していく。ベロとしての二人は激しく打ちのめされながら、響きが劇場を満たしていく。


登場人物ではなく、その世界をグルッと動かして回転させてしまい、そこにドラマ性を生み出すのは、演劇がもっとも得意とする展開のひとつ。しかし「天の煙」は、あまりにその「周囲の世界」が突飛であり、過剰であり、欠如であるので客席もまったくついていかれない。だからこそ、客席もその二人の登場人物と同じように、知らず知らずベロとなってしまい、打ちのめされる自らが鳴らす音に囲まれながら、違和感と不安感に苛まれて行く。


でも。


鐘のなかのベロは、打ちのめされ、音を聴くことでしか、自分の存在を確かめられないのではないのか? ガワのなか、光が差し込まない、まったくのソリッドな暗闇の中、世界が動揺し自分に迫り衝突する刹那にこそ、はじめてその存在が自覚できるのではないのか? じゃあ、観客は?


と、思うとどかは、こういう舞台はいいなあと思います。少なくとも、どかは予定調和な某キャラ○ルとか某新○線では、自分の音を聴くことはできなくて、「かえって」不安になるのだもの。


2004年11月17日(水) 「天の煙」(松田正隆作/平田オリザ演出)

17日、尼崎のピッコロシアターにて観劇。


松田サンとオリザさんのコンビは定番になりつつある。どかも何年か前に「月の岬」の再演を紀伊國屋ホールで観た。あれはとてつもなくいい舞台だったのを覚えてる。


そして今回は・・・、どうだろ、傑作!とは言い切れないけど、問題作、とは言い切れると思う。松田サンの脚本、ぶっとびまくり。


この5月に松田サンが主宰を務める京都の劇団、マレビトの会の立ち上げ公演(「鳥式振動器官」)を観たので、最近の彼の作風はとてもよく分かっていた。彼のぶっとびまくった「難解極まる」脚本を、スーパーリアリストのオリザさんがどう演出つけるのか、どかは最初からそこに興味を向けていた。


しかして、オリザフィルターを通してみても、やはり「難解さ」は消えなかった。でも、どかは観ながら「あ、これはオリザさんが付け加えたセリフだ♪」とか思いながら観てた。古いタイプの演劇人、それこそ70年代の下北っぽいアングラ風な演劇人の自己欺瞞をこそ、もっとも忌み嫌うオリザさんだから、できあがってきた舞台表現を中途ハンパな韜晦には堕させたくなかったのだろう。そこかしこにリファインをかけた後が見えた。


そして、案の定、アフタートークで劇作家と演出家が激突w やー、あれは面白い、舞台よりもある意味面白かったー。松田サンが「あんなにいじられるとは・・・違和感がありました」とのたまえば、「だって、わかんないですからね、あのまんまじゃ」と切り返すオリザさん。あはは、ウケる。


アフタートークのなかで、客席から「この芝居の意味が分からん!」というあまりにもストレートな(だからこそ、他の観客みんなは心から喝采を送ったと思われるw)質問が成されて、松田サンはしどろもどろになりつつも「分かんないことがあるほうがイイ舞台なんです」と答えたのに対して「わたしは、こう解釈しました」と自分の演出プランの意図を話したオリザさんの誠実さが際だった。


わたしは、松田サンの「難解さ」を「鳥式振動器官」のレビューのなかで、かなり厳しく評価した。この舞台を観て、でもちょっと軟化したかも。「難解さ」自体は、別に構わない。「意味の伝達の透明性」を崩したい、乱したいというデリダっぽいポストモダンな松田サンの意図は痛いほどよくわかる。多少「いかにも」すぎるところがあるにしても、多少「高踏的」というキライがあるにしても。


でもね。


ポストモダンで行くならば、もう少し、心に余裕が欲しいなあ、松田サン、ってわたしは僭越ながら思った。軽やかに表層をズレながらたゆたい戯れる心の余裕が無いから、客席に対して「さあこの難解なパズルを解いてみろ!」という押しつけがましさを与えてしまっている。オリザさんは敏感にそれを感じ、なんとか緩和しようとした。オリザさんは、押しつけがましい表現が一番キライなのだ。


ポストモダンで行くならば、戯れる心の余裕がないとだめ。あくまで「ネタ」として「断絶」をつくらないとダメ。不真面目にだらしなく遊べ、と言ってるんじゃなくて、ね。


いずれにしても、日本の小劇場界の到達点に位置する舞台であることには違いない。演劇はここまで来てしまった。テーマとしては野田秀樹の「パンドラの鐘」に近いのだけれど、モダニストの野田サンとポストモダンの松田サンで、できあがってくるものはこんなにも違う。


ともかくも、オリザさん、おつかれさまでしたw


2004年11月14日(日) G1エリザベス女王杯

馬券、買いに行けそうもなかったし、何より、ファインモーションが出走しないのに、何が「最強牝馬決定戦」だよ、フン。って思ってたし、あんまり乗り気しないけど、予想は立ててみた。


 ◎:ヤマニンアラバスタ
 ○:スイープトウショウ
 ▲:アドマイヤグルーヴ


まあ、買うとすれば、アラバスタの単複かな。オッズを考えれば、とくに馬連や馬単で勝負する必要もないだろうし。


レースは、部屋で見る。


アドマイヤグルーヴ、鮮やかな差し切り勝ち。武豊の見事な騎乗。たしかに、鞍上の力量の差が一番はっきり出ちゃった展開だなあ。


スイープは上がり33.2の鬼の末脚を繰り出しても掲示板がやっと。展開が<ドスロー>だったから仕方無いなあ。このペースはアドグルに対しても、決して有利に働くものではなかったはず。あれほど、前半のペースがゆっくりな「よーいドン」のレースだと、先行馬有利。そして実際、オースミハルカはまんまと自分の注文通りに逃げ切るかに見えたけれど。


その展開の不利のなか、うまく馬群をさばいた豊サンの手綱は見事だった。そして、それに応えたアドグルも、強いと思う。


あー、ファインとの一騎討ち、見たかったなあー、と今ごろになって思う。MCSからはどう考えても有馬には行けない。でも、もしファインがこの2,200mを使って、アドグルやスイープを3馬身ほどちぎっていたら、有馬挑戦の目もあったかも知れないのに。


返す返すも、調教師の決定が口惜しい。そして口惜しがっているのはどかだけじゃない。これほどファンに人気のあるファイン、どうしてもっと、ウマとファンを大切にできないのか。


2004年11月13日(土) ファインモーションの後先

次走「エリザベス女王杯」と言われていたのだが、ここに来て伊藤雄二調教師が「マイルチャンピオンシップ」路線へと変更したとのこと。きょう図書館で、<優駿>最新号をパラパラ見てたら、伊藤師のコメント。


  豊クンも悩んでたみたいだし、かわいそうに思ってね


!!


ようするに、武豊が「エリ女」でアドマイヤグルーヴに乗るためにファインモーションに乗られないことを引け目に感じてしまうのを哀れんで、ファインの路線を変更したということだ。騎手の都合でレースを選ぶなーっ。と、わたしは声を大にして言いたい。


「エリ女」と「MCS」では距離がまったく違う。2,200mと1,600mだ。調教過程も自ずと変わってくるだろう。というか、「エリ女」はもう今週末である。で「MCS」は来週末である。こんな土壇場での路線変更はファインのコンディショニングに大きく影響すると思うのが自然である。


どかとしては「エリ女」でも「MCS」でもどっちでもいいと思っていた。「エリ女」に出て欲しかったから怒ってるんじゃない。ひたすら、ファインモーションという稀代のスターを軽んじるような調教師の姿勢に怒ってるだけ。


いまのファインなら「秋天」に出たって、ぜったい勝ち負けになってる(今年の低レベルならぶっちぎりもあったと思う)。しかし、一度左回りで引っかかってしまっているために、伊藤師は府中にファインを持ち出すことはしない。ヘタに黒星をつけてしまうと、繁殖牝馬としての価値が下がってしまうことを恐れているのだ。


種牡馬、繁殖牝馬としての価値も、もちろん競馬の大事なファクターであろうと思う。でも、少なくともファインを始め現役の競走馬は、現役にあるときは、もっとも輝く道を探してそこに進ませてあげて欲しいと思う。馬券を買って、競走馬を応援している競馬ファンのためにも。


・・・もう五歳のファインは、あとがあまり無い。恐らく負ければ即引退、勝ったとしても、あと2レースで引退だろう。次の次のレースは「香港カップ」への遠征が噂される。・・・ちがうだろ、香港じゃなくて、有馬だろ。グランプリレース、有馬記念、中山2,500m。世界最大の売り上げ高を誇るスーパーレース、有馬記念こそ、ファインのラストレースにふさわしい。オグリキャップやトウカイテイオーが奇跡の復活を果たしたそのターフこそ、このスーパーホースにはふさわしいと私は思うのです。


2004年11月10日(水) バースデイ・セイント

図書館でキリスト教関係の事典をあさっていたら、ふと、ミーハーっぽい背表紙の本が目にとまった。「バースデイ・セイント」・・・、あ!


そういえば先日、イタリア語会話のクラスで l'onomastico(聖名の祝日)について、話が盛り上がった。フランスやイタリアなどのカトリック圏ではいまでも残る風習で、自分の名前と同じ(もしくは連なる)聖人の日は誕生日みたいにみんなでお祝いするらしい。つまり365日、それぞれに聖人が割り当てられている。


昔は、自分の生まれた日に該当する聖人の名を、そのまま命名していたらしいのだけれど、最近はさすがに男女の名前の違いなどからそのまま命名しないことが多い。そして、大体どんな名前をつけてもどれかの聖名に連なることになるらしいから、いきおい、イタリア人やフランス人は、誕生日以外にもうひとつの聖名の祝日を持つことになる。


前置きが長くなったけど、それでわたしの名前は本名でも「どか」でも聖人へのコネクションが見つけられなかったので(いや、実は「どか」から「ドミニコ」へとむりやり繋げてやろうかしら、と思ったのだけれど、ドミニコ会創始者へ自分を繋げることのあまりの畏れ多さに断念w)、とりあえず実際の流れとは反対になるのだけれど、誕生日から聖人をさかのぼってみる(くどいけど、ホントは名前から祝日を決定するのです)。


・・・、するとわたしのバースデイ・セイントは、やっぱり畏れ多くて参ってしまう。なんと、


  <カンタベリーの聖アンセルムス> o(^-^o)(o^-^)o ヤッター


だった、ひえー。あのアンセルムスさんですかっ。嬉しいけど、、、畏れ多いなあ。聖アウグスティヌス、聖トマス=アクィナスと並ぶ、3大スコラ学者のひとり。イギリスのカトリック教会の下地を築き上げた偉大なヒト。なんか特徴はいろいろ、勉強にまつわることが書いてあって、当面、どかの生活にフィットしそうなので、勝手に信じてみることにする、えへへ♪


むかしやったガンダム占いでは、


  <ジムキャノン(後方支援専用)> (ノ_<。)。。ウッウッウッ


とかなんとか、極めてマイナーなキャラクターを押しつけられていたく傷ついたものだった。ジムキャノンから聖アンセルムスかあ、うひひ、昇進だなあ、えへへ。


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