un capodoglio d'avorio
passatol'indicefuturo


2004年09月26日(日) 逃亡者(〜最終話)

わたしはこのドラマを面白いと思った。それは単純に阿部寛扮する刑事・峰島がとても格好良かったから。野生のカンみたいなするどい洞察力で、江口洋介扮する永井の必死の逃亡を追いつめていく様にドキドキしたからだろう。そのふたりの対決の構図が、西部劇、最後の決闘のシーン、街を食い物にする狼藉者のリーダーと、その街に流れ着いた流浪の保安官。そのふたりの間に舞う砂ぼこり。一瞬視界が遮られたあとの緊張感。わたしがこのドラマに引き込まれたのはひとえに、ここだったのだと思う。


けれども中盤以降、このドラマの構図は大きく展開する。それまでの<峰島 vs 永井>という対決の構図が、<峰島&永井 vs 警視庁&大病院>というものになる。きわめてモダニスティックな、個人対組織という構図になった。組織的な陰謀に翻弄されてきた個人が、逆にその陰謀を暴いていくという流れは、サスペンスを仕立てていく上で極めて優等生的な回答。けれどもこの謎解きという要素は、あまりに強い吸引力を持ってしまう。だから序盤、あれだけブラウン管越しにきらめいて見えた、阿部チャンと江口サンの華がスパークする役者芝居は、少しずつ後退していくことになる。


まあサスペンス調を強めたこと自体を責めたいわけじゃない。その裏に、人情噺っぽいトピックや倫理観っぽいトピックなど、いくつもの争点を観客にほのめかしてきたことが、どかとしてはひっかかる。争点を多様に散らすことで「重層的な味わい深い余韻」を生み出すことを狙ったのかもしれないけれど、どかには、なんだかドラマの魅力がとっちらかってぼやけてしまったように思えたの。


例えば「自分の愛する者を殺した犯罪者を許すことは可能なのか」とか。


例えば「ふたりとも見殺しにするか、一方を犠牲にして他方を救うか」とか。


でも、単なる追いかけっこ、ふたりのスターさんの対決に心躍らせていたワタシは、いきなり生命倫理っぽい話をぶつけられても、困っちゃう。いや、困りはしないんだけど、そういうことに触れてくるのであれば、もっと突っ込んだ議論をしてくれないと、アガンベンや『白い巨塔』などを再通過してしまった21世紀に生きるヒトたちにたいして、請求力はどうしても不足するのではないかしら。モダニスティックな<個人 vs 組織>という対立軸でドラマを締めたかったのであれば、より緻密な議論を展開していかないと、鼻白む感を与えることはまぬがれないように思う。


本当の黒幕が、実は大病院の院長、殺された妻の実の父親であることを知った永井が、最終話のラスト、義父の首を締め上げていく。そこにかけつける、峰島と、水野美紀扮する尾崎。永井を止めようとする尾崎を、峰島は制止する。それは第七話あたりの、峰島と永井の会話に伏線がある。湾岸の倉庫で対決した峰島と永井の会話で、過去に、彼らが交わした会話がプレイバックされる。「お前なら自分の子供が殺されてもそいつを許せるのか」と問う峰島に対して「苦しむだろうが、わたしは許せる」と答える永井。そのエピソードのなかの言葉を信じて、峰島は尾崎を制止したのだ。つまり、必死の逃亡劇と追跡劇を通じて、峰島と永井のあいだには信頼感が醸成されていて、ギリギリの局面でも相手の言葉を信じられる間柄になったのだ。ということを、この最終話のシーンでさらっと演出は見せたかったのだろうが、いかんせん、弱い。どかは、もっとこのふたりの間柄、憎み合いつつ、醸成される信頼感というのをクローズアップしてほしかった。そして、21世紀にあっても、そういう若干「くさい」テーマでも、背負いきれるほどの役者だと思うのね、阿部寛は。


しかし、そうはならない。


サスペンス調が強まり、陰謀色がドラマ全体を覆い、使い古された倫理っぽい争点が乱立してしまったために、現場のキャラクターへのフォーカスが弱まったせいだ。あの、尾崎を制止する峰島の、あのシーンこそ、どかが好きな「逃亡者」を締めくくるのにもっともふさわしいシーンであったにもかかわらず、実際の「逃亡者」は以下のようなセリフで締めくくられる。


  誰だって本当は弱いの
  だから誰だって、一歩間違えれば犯罪に手をそめてしまう
  でもね、その弱さに負けてしまったら、終わりなのよ

  (TBSエンターテイメント『逃亡者』最終話より)


おもわず、脱力してしまった、どか。こんな月並みな(ああ、言い切ってしまうさわたしは、こんなの月並みな正論だ)セリフで締めくくっちゃうのか。がくー。


まあ、でも、TBSらしい真摯な作風で、見られるドラマだった。わたしも序盤はグッと引き込まれたし、だからこそ、こんなふうに辛口な見方になっちゃった。阿部チャンはやっぱり格好いいし、江口サンも終盤はいい顔してた。水野サンは、アクション、がんばってたしよく走ってたし。別所サンは、最終話、かっこよかったなあ。悪者はやっぱりこうでなくちゃ。ふてぶてしさ最高。原田芳雄サンも院長役、良かった。原田美枝子サンも色っぽくて良い。最低だったのは、極楽とんぼの加藤。だめだあれは。黒幕のひとりを背負うにはどうしたって力量不足。カメラワークで演技をサポートするのにも限界がある。ああ、もったいない。主題歌の松たか子の「時の舟」はかっこいい。なんだかコアーズっぽいよね、アイリッシュなストリングスの使い方が。


2004年09月24日(金) 茶の味(再鑑賞)

9月19日、コクーンで「赤鬼」を観たあと、
そのままスペイン坂を登って二回目、観る。
映画でリピーターになったのは久しぶりだなあ。
でもおもしろいものは、回数に耐える。
ライブである演劇と複製芸術である映画のちがいに馴染むのに、
少し時間はかかったのだけれど、
でもおもしろいものは、やっぱりおもしろい。


二回目だから、一度目とはちがった見方をしようと思った。
各所に小ネタがちりばめられているのだけれど、
一度目で拾えなかったネタがいくつかあって、それでクスクス。


というか、大阪の観客と東京の観客で、
笑い方がかなり違うことがけっこう興味深かった。
大阪の観客のほうが、ウケが良かった気がする。
東京はけっこうシブイというか、小ネタ、気付いてるんかな?
とちょっと不安になったり。


浅野忠信演じるアヤノ叔父サンの、さりげない身振りに、
ついつい引き込まれてしまう。
ああ、そうだよねー、といくつも思った。
女の子に未練があって、でも時間がたって、
そしたらヒトはあのタイミングでああいうふうにキョドるよな。
って、そこいらで思ったりしたよ、わたしわ。


ヒトは、他人に自分のことを完全に理解してもらうことは、
まず、おそらく不可能であるということ。
例えば、なんで自分がわずらわしくてひとりになりたいのか。
例えば、なんで自分がさびしくて誰かといたいと思うのか。
そういうことは、おそらく、誰にも伝えられない。


でもでも、でもね。


ヒトは、それでもいくつかの気持ちを共有することは、
たぶん、きっと可能であるということ。
例えば、いつもそばにいてくれた家族の形見分けをしたり。
例えば、山向こうに沈む大きな大きな夕焼けを眺めたり。
そういうことで、きっと、何かを共有できる。


そんなことをナチュラルに納得させられて、
ピースフルな気持ちにさせられて、
やっぱりこの映画はいいなーと思った。
そして「♪山よ」は傑作ナンバーだと思った。


追伸
ワンシーンにだけ、ひょいっと登場するくさなぎクンが、
かわいくてかわいくて仕方なかったです w


2004年09月22日(水) キリストは弟子たちのもとへ帰り、言った:

 Una ora vigilar voi non potete.
 Giuda non dorme, e con furor ne viene,
 qual di tradirmi ha tanta la gran sete
 che ogni disagio grave lui sostiene.


 あなたたちは一時間と目を覚ましていられないのか。
 ユダは眠らない。彼は狂気の者たちと来る。
 そしてわたしを敵に引き渡すという、
 大きく激しい野望を持っている。
 あらゆる深刻な貧困が彼を衝き動かしているからである。


今回のわたしの訳の一部、15世紀の聖史劇のシナリオ。
有名な「最後の晩餐」の直後のシーン。
すこし意訳をいれちゃった。
「貧困」という言葉がちょっと浮いてるけど、
たぶんローマカトリックのことだから、
(ココロの)貧困とかいうコンテクストをふまえてそう。


なんてことを考えつつ、
わたしのココロも貧困だなーと思って切ない。


全然関係ないけど、この聖史劇、出演できるなら、
どかは絶対、キリストはヤだ。
ユダがいいな、いろんな演り方がゆるされそう。
もしくはペテロかな、このあとのシーンで殺陣ができて、
かっくいい。


なーんてことを考えて、うひひ、ってなってるわたしは、
やっぱりちょっとくたびれてるんだと思う。
ふー、ちょっと寝ます、ぐー・・・


(mー_ー)m.。o○ zZZZ


2004年09月21日(火) 戒厳令

と、いうわけで帰ってきて早々、
どかの部屋はこれから戒厳令下に入ります。
理由は明後日のゼミのため。
うにー、やばいー、まだ和訳が進んでないー。


明日は図書館にこもりたいのだけれど、
折からの雷雨、朝までに止むのかなー。


身体は復調ぎみ。
イイ子だからおとなしくしてなさい、
わたしの気管支くん。


さっき録画してた『逃亡者』第10話を見る。
まあまあおもしろい、あべチャンのぎらついた目、
やっぱりかくいい、そしてここに来てようやく、
別所哲也が本性をあらわし始める。
ってか分かってたけどね、だって、最初のころの、
あんなちょい役のためだけにこんな濃いヒト、
キャスティングするわきゃないもの w


まあ、戒厳令下だからいろんなものは後回し。
『赤鬼』も、『じゃぐちをひねれば』も、
『茶の味(再観賞)』も、久しぶりの神楽の稽古も、
その他上京中のなんやかやも、ハイロのニューアルバムも、
ポラリスのニューアルバムも、『逃亡者』も、
感想文はぜーんぶ、後回しにされます。


うう、書きたい‥‥、でもがまん。
はい、お勉強します。


2004年09月20日(月) 花田清輝

という、思想家・作家がむかし、この国にいた。


上京して、ミクシィで一緒してる友達と会ってるとき、
ふとこのヒトのことを思い出して口に出してみた。


花田清輝、マルキシスト。
でも日本共産党とは仲違いして独自の路線。
埴谷雄高、吉本隆明との論争がつとに有名。


でも、どかはとにかく文章が好きだった。
めくるめくレトリックの世界。
「韜晦と諧謔の作家」と揶揄されたらしいけれど。


でもじっさい、この世界に、
「韜晦と諧謔」以外になにがあるというのだろう。


きれいな円でもなく、まったくの無秩序なカタチでもなく、
楕円なスタイルで行きたいなーと、わたしも思う。


たまごの輪郭線のように。
地球の公転軌道のように。


2004年09月19日(日) 野田秀樹「赤鬼 THAI version」

@シアターコクーン、マチネ。ホールの真ん中に正方形の白い舞台。四方に客席。どかはエリア指定席、しかも最前列。役者が手に触れられそうな距離にいる、っていうか向こうから触れてきた。客イジリしまくり(それで、むかしロンドンで観たミュージカル「CATS」を思い出した)。


今となってみれば、何を言えばいいのだろう。とにかく、これまで観た芝居の中で5本の指に入る舞台だった。野田サンの舞台で、どかが観たなかではまちがいなくベスト。「パンドラの鐘」よりも「贋作・桜の森の満開の下」よりも、そしてこれまでの野田作品のベストだった「カノン」よりも、これが良かった。


何を言えばいいのだろう。タイ、そう、野田サン以外はすべて、タイ人の役者。セリフもすべてタイ語。観客のほとんどは、同時通訳のイヤホンを耳につけて舞台を観る。どかも最初、右耳で聞くタイ語のセリフと左耳で聞く日本語の通訳、そして目で見るタイ人の動きとの間でどうしても「わたり」をつけにくくて困ったなーと思ったのだけれど、知らないうちに馴染んでいた。


まず、タイ語。きれい、とにかく、響きが美しい。こんなにきれいな言葉だったんだー、と思う。中国語もきれいだよねーと思ってたけど、こっちのが美しい。タイ人の役者達が村人役として歌うシーンがたくさんあるけれど、もう、コクーン全体がふわーっと非日常の青やオレンジに染められていく。イタリア語も抑揚が強くて歌うような言葉だけれど、あれがソリストみたいな響きだとすれば、タイ語はコーラスみたいな響き。習いたいなあ、いいなあ。


そして、表情。タイ人の役者の表情。「屈託のない」と言ってしまえばそれまでなんだけれど、それにしても引き込まれる、まっさらな感情がそこにあるみたいな。日本の役者の表情は、なんだったんだよ。と思っちゃうくらい、説得力があった。席が最前だったから、しょっちゅう役者と目が合うんだけど、目が合うたびに、なにかしらレスポンスをしてくれて、もう、嬉しくて仕方がない。垣根が無い。壁が無い。客席と舞台という物理的な壁を中和してしまうほどに、彼ら彼女らの感情の浸透力は高かった。汗をかいた後に飲むポカリスエットのように、目から身体全体に沁み渡る感情である。


そして、身体。あの美しい身振り。やはりどうしたって、身体には国民性が出る。それは物理的なサイズのことではなく、身振りの残像にもっとも顕著に、出る。タイの民俗舞踊に見える、あの優美でマニエリスティックな曲線、アールヌーボー調とすら言えるかも知れない指のしなり。その爪の先から背骨までが有機的にうねる一本のラインで結ばれるときに醸し出される動的な美。それはやはり日本の役者やイギリスの役者が出そうと思ってもなかなか難しいものなのだろうなと思う。しゃがんでいる姿勢からスッと立ち走り出すそれだけの身振りに、こういうしなりやうねりが満載なのだもの。しかもロンドンバージョン、日本バージョンと異なり、このバージョンの登場人物は14人もいる。これだけの大人数が、あの狭い舞台のなかであくまで「優美」にのたうちまわる。すばらしい、としか言えない。


そしてその中心キャスト。「とんび」役のナット・ヌアンペーンさんはその愛嬌のある容姿を生かしたとぼけた味わい、この脚本では狂言回しでもある大切な役をしっかり堅実に演じた。「あの女」役のドゥァンジャイ・ヒランスリさん。きれい。目がすっと切れて流れる美人。意志の強さを感じさせるうなじ。優しさよりも激しさ、脚本の要求するところをきちんとふまえて、赤鬼と対峙するときの緊張感を出せていた。すごいなー、こんな女優サンがいるんだなー。すっごい凛々しい、感情がグッと向いたときの集中度が、凡百の女優とは桁違い。ハイライトである裁判のシーンの彼女のまなざしは、気圧されるほどの迫力。そしてそして、どかが一番気に入りだったのは「水銀」役のプラディット・プラサートーンさん。上手すぎ。なんなんだ、あの抑揚とリズムは。憎めないゲス男の愛嬌と堕落を、うねりのたうつボンゴのリズムで体現しちゃう。・・・わからん、でもとにかく目を奪われる。きっと、芝居の受けが、このメンバーのなかでは断トツ出来ていたんだと思う。野田サンの舞台は、芝居を受けてるヒマがあったら叫んで走れっていう感じだから、けっこう流されがちなんだけれど、でも、実はやっぱり「受け」こそが大切なんだと思う。この水銀は、セリフのないところでも、「あの女」の憎悪をいちいち受けてから流し、「とんび」の莫迦をいちいち受けてから嘲り、そのことを最後まで貫いていたからこそ、観客はそこに定点を観る。そしてそこから舞台のハッピーエンドを探すのだ。野田サンの赤鬼は、いつも通り楽しそう。劇作家・演出家であることの強みと弱みが同居するたたずまいはいつも通り、けれどもきっとこのヒトはその弱みをちゃんと知っているから、何をしてもどかは許せる気がする。でも今回の赤鬼の、コミュニティの中における異物感を出していたのは、彼の演技ではなく彼の衣装だったと思う。


3バージョン全てで、もちろん衣装は異なるのだけれど、タイバージョンが優れているのは衣装の点でもそうだ。野田サン演じる赤鬼の衣装は、これがまたすごかった。異物感バリバリ。でも、それは不快感からは紙一重で逃れているところが如才ない。ストーリーの肝をきちんと踏まえたうえでのデザイン、良かった。


ストーリーは野田サンの作品にしてはきわめてシンプルだと思う。ひとつのコミュニティに異人が入ってきたときの群集心理。まず驚愕し、そして拒絶し、いったんは利用し、けっきょく排除する。そういうフェーズの移行を突き動かしていく、ヒトが発する言葉というもの、その連鎖反応。このあたりのことがテーマのひとつなんだろうと思う。


もしくはこうも言える。「ヒトとオニのあいだって?」ということ。イタリア現代思想の第一人者、ジョルジョ・アガンベンが「ヒトと動物のあいだ」について現象学的につきつめた精華を残したとすれば、野田秀樹は「ヒトとオニのあいだ」について叙情的につきつめたのだろう。そして野田サンが徹底的に優れているのは、「ヒトとオニの境界線」というのは実は、ヒトの外にあるのではなく、ヒトの中にしか無いということ。この厳然たる事実を、美しいラストシーンに結実させたその一点にある。


美しいラストシーン、「あの女」が衝撃的な事実を理解した瞬間のあの慟哭の眼差し。あの眼差しが吸い込まれていくコクーンのホール、虚空の闇こそが、その事実の証人である。野田サンの戯曲としては小品に属するものかも知れないけれど、でもどかは、この作品こそが最高傑作であると思う。


そして、3バージョンのなかでは、タイバージョンこそがきっとベスト。どかは日本バージョンは観られないわけだけれど、ロンドンバージョンは以前録画で観たのでなんとなく実際のそれを想像できる。どれほどプラス方向に修正を加えたところで、あのタイ語の響きとタイ人の表情、タイ人の身体を超えることは難しいと思われる。そしてこれだけのタイという風土の説得力をもってしてこそ、この絶望以上の絶望を、孤独以上の孤独を支えきれることができたのだろう。チケット獲りのとき、とっさにタイバージョンを選んだ自分の直感がちょっと誇りである。この舞台は、心底、すばらしかった。


こういう舞台と出会ってしまうから、まだどかは観劇ライフを打ち切りできない。回数さえ分からなくなるほどのカーテンコールを繰り返しつつ、タイの役者サンたちと目があって微笑みあって自分の気持ちを伝えるなかで、ぽやーっとそんなことを思っていたどかだった。


2004年09月18日(土) 青年団リンク・地点「じゃぐちをひねればみずはでる」

青年団演出部に所属している三浦基サンのプロジェクト・地点の舞台。どかは前に下鴨のアトリエ劇研で観た「三人姉妹」以来、このヒトの演出に惚れこんじゃったわけで。上京のスケジュールとちょうどマッチさせられたので、観に行く。久しぶりの駒場アゴラ劇場、ソワレ。


戯曲は、今回役者としても出演する飯田茂実サンの小説や詩集を、三浦サンが咀嚼して再構築したもの。明確なストーリーというモノは皆無で、登場人物にも統一された人格を見つけることはできない。抽象的な単語がどんどんつづられていき、そしてその単語同士もかなりの跳躍を含むので、観ているヒトはかなりのストレスがかかってくる。耳を澄ませるだけでクタクタ。そうしてクタクタになっていくうちに、だんだん言葉の意味が少しずつ抜け落ちて、音とリズムだけが残っていく。多分、この先の場所に、三浦サンが目指しているユートピアがあるのだろう。という予感だけはしっかり持って、でもその持った場所が閉幕だった。


どかは、この舞台は、あまり評価できない。それは演出法ではなく、テクストに問題があったと思う。三浦サンの「三人姉妹」で見せた演出法は、テクスト自体に鋭い切り込みを入れていく、強度の果てしなく高いものであった。チェーホフの名作戯曲に流れる叙情が、切り刻まれて震えて弾けていくときに、もういちどはかない光彩を放つ瞬間こそ、三浦サンの舞台の神髄だと思った。


でも、この舞台は、すでにテクスト自体がバラバラにされていて、しかも抽象度が高い。そこに、この国の現代演劇シーンにおいて、最も特異かつ強烈な演出法をぶつけてしまっては、あまりに荒唐無稽すぎるのではないのかしら。チェーホフの磨き抜かれたテクストなればこそ、はじけ飛ぶ前の刹那に見えるオーロラも、飯田サンのテクストではオーロラの光自体も雲散霧消してしまう。そこに残っているのは、オーロラのブレークアップが終わって消えたあとの漆黒の闇。


まだ、いろいろ試行錯誤しているのだろうなーと思う。まあ、こんな実験舞台を観られるのも、スリリングな経験ではあるから、三浦サンを信じて、レビューにしてみたり。


役者、安部聡子サンはあいかわらずすばらしい。このヒトの身体はすごいなー、どれだけカッティングが入ってもそこからテンションが漏れたりはしない。内田サンも良かった。すごいきれいなお顔、そう言えば以前「月の岬(レビュー未収録)」で観たことがあったなー。安部サンほどの強度は無いけれど、長い手足をしっかり支えて、テクストの隙間にきちんと姿勢を保って、かっこいい。飯田サン、あー、舞踏のヒトなんだねーという感じ。あの大野一雄サンの弟子らしい。肩書きはダンサー・文学者・演出家・音楽家、ともう、すごいのだけれど、ちょっとどかは舞踏家に観られがちな自己陶酔が見えた気がしてイヤだったかも。


あ、あとひとつ。音。後半のハウリングぎりぎりな大きな音、かなり不快だったので、辞めて欲しかったです。三浦サン、次に期待。


2004年09月14日(火) 岸和田だんじり祭り

生まれ変わるなら「甲本ヒロト」か、もしくは「岸和田のだんじりの大工方」になりたいと公言してはばからないどかです、こんばんわ。


というわけで行ってきました、「日本一速い祭り」「日本一危ない祭り」、かなり有名な岸和田のだんじり祭りの宵宮。きっと、岸和田のヒトは「日本三大祭り」にこれが入らなくても一向構わないのだろうけれど、この祭りが一番速い、と言われなかったら食ってかかるんだろうな。そういう種類の心情が、この世の中には確かにあって、すばらしい。やーでも、マジすごかった。もう、泣きそう、おしっこちびる。うう。


岸和田のだんじりと言えば「やりまわし」。猛スピードで90度、角度を変えて曲がっていく見せ場のこと。どかは割と良い場所で見てたんだけど、マジでかっくいい。100メートル以上ある引き綱で、4トンあるだんじりに、すさまじい加速度を与えるのだ。


「やりまわし」の舞台となるT字路は、もう戒厳令下のようなピリピリムードで、機動隊の警官が出張っていて完全にスペースを確保している。そこにだんじり囃子が遠くから聞こえてきて、綱の先頭が見えて、ぞろぞろとその町のヒトたちが「戦闘服」に身を包んで走ってきて、そしてだんじりがあらわれる。


最初は、笛である。そして、号令。「牽け牽けー、牽けよおらーっ!!」次にかけ声、「ソーリャ、ソーリャ、ソーリャ」、すると、戒厳令下のこの空間と時間が、一気に軋む。想像を超えた加速度でだんじりが真っ直ぐ突っ込む。前テコ、後テコの操作手が命を懸けてくさびを打ち、ベクトルをギッと90度曲げてみせる。その時の迫力。しびれます。


なぜに、ここまで、アホなほど時間と体力とお金と気力をつぎこむのだろう。うーん、やっぱ、あれかな、バタイユっぽい「供犠」なんだろうな。そしてこの「供犠」の極致、この日本一の祭りの最高の華を担うのが、大工方。どか、生まれ変わったらこれになりたい。


大工方とは、だんじりの屋根にひとり乗り、両手にうちわを持って、だんじりの進行、やりまわしなどに指示を与えるコンダクター。これが、もうとにかくかっこいい。最高、やばい、まじ憧れる。全てを捨てても、やってみたいと思わせる。このうちわを振る身振りもかくいいのだけど、大工方の華が最高にスパークするのは、やりまわしに入った時だ。


大工方は、号令がかかる前に彼は屋根の上でカーブの内側にサッと身体を移す、そして号令、100メートルの綱を持つ全ての人間がグッと力を入れて時空が軋んで4トンが躍動し、テコの操作でそのベクトルが歪む刹那、彼はなんと、宙に舞うのだー!すでにかなりの加速度でがたがたに揺れているであろう、わざわざそんな状況で、内側から外側へ、ヒョイっと跳び上がり、スタっと屋根に着地、すぐにグッと腰を入れて遠心力に持ってかれないよう身体を支える。猛スピードで曲がってるだんじりの上、わざわざ考えられるもっとも危険な瞬間に跳ぶ必要性は普通に考えたらどこにも無い。事実、これで命を亡くしたヒトの噂もつとに聞く。


それでも、大工方は跳ぶのだ。こともなさげにヒョイっと。


先頭の綱を引く少年も、だんじりの前の綱を引く青年も、だんじりの後ろの綱を引く強者も、前テコ後テコを操作する勇者も、そして最高の華・大工方も、みんなみんなかっこいい。そりゃーこれを体験したら、祇園囃子なんてあんなタラタラやってんのは、かったるくて仕方ないだろうって思うなー。


それでも、跳ぶのだ。その瞬間に、何が見える?


(画像は後日、photoalbumにアップします)


2004年09月11日(土) "Amarcord" di Federico Fellini

『アマルコルド』観る。『ローマ』を撮った翌年、1974年の作品。


『ローマ』がすでに、監督自身の思い出が基本な作品だった。でも『アマルコルド』はさらにダイレクトな意味で、そうである。フェリーニの少年時代の1年間、その「風景」を映しとった作品。ひとつの物語の筋が通っているというよりも、いくつものエピソードが断片的に続く特徴的なスタイル。ストーリーとか、起承転結という「神話」に背を向けるのは、フェリーニの最盛期のりりしさだとどかは思う。


「思い出」というものを扱うときに、どうしてもわたしたちは感傷的になってそれを美化してしまう。だからそれは他人にはちょっと押しつけがましくなっちゃう。


でも『アマルコルド』を見て、そうは思わない。どかは少なくとも、そういう意味でお腹いっぱいにはならない。それは、フェリーニがちゃんとあきらめているからだ。『ローマ』の感想文でも書いたけれど、彼は過ぎ去ったものに感傷は抱くけれど、執着はしない。過ぎ去るものをそのままにしておくほどに、彼はいさぎよい。


もしくはこうも言える。愛しい過去の時間に、自分が執着してしまいそうになった瞬間、フェリーニはその執着を時間を止めることには向けず、そのシーンを息をのむほどに美しく彩って送り出してやることに使うのだろう。それを続けて続けて、最後にどうしても心が溢れてしまってにっちもさっちも行かなくなったとしても、フェリーニには切り札がある。そう、フェスタ。フェリーニは心が溢れてしまったそのときに、あの有名な大団円のシーンをフィナーレに持ってくる。ニーノ・ロータの音楽も沁み渡る。画面の中ではみんなが笑い、画面のこちらでは少し涙。そんな感じ。


時間芸術としての映画の体裁を崩してまで、フェリーニが追求した絵の美しさは、たくさんたくさん印象的なシーンを残してる。どかがホエーッと感心したのは次のシーン。

 ○ 綿花が街に舞って子どもたちが歓声を上げるシーン
 ○ 祭り、摘み藁の上に魔女の人形を置いて燃やすシーン
 ○ ファシストの兵が反乱分子を鐘楼に射殺するシーン
 ○ 主人公の叔父が木に登って叫ぶシーン
 ○ 公道のカーレースのシーン
 ○ 大雪が降って、街が雪の迷路になったシーン
 ○ その雪の中、逃げ出したクジャクが羽を広げるシーン
 ○ 主人公の母の葬列のシーン
 ○ 主人公の想い人の結婚式、草原に綿花が舞うシーン

誰でも、最後のシーンで再び綿花が風に舞うのを見ればアッと思うだろう。それはまた、冬から春に、喪失から再生へと向かうことを示す、それはそれは美しい記号なのだ。どかは上にあげたシーンのなかでも、とにかくお母さんのお葬式のシーンが忘れられない。このヒトの映画自体が、だって、葬列そのものなんだもの。葬列のなかの葬列、と言ってもいいかも知れない。非凡なのは、この悲痛なイベントすらも、フェリーニは決してウェットにはしないことだ。悲痛だからこそ、ドライに扱い、そして何よりもまず、美しく。


もひとつ。彼にかかればファシストの暴挙のシーンすら、美しくなってしまう。鐘楼に逃れた「インターナショナル」を奏でるヴァイオリニストめがけて、兵達は一斉に銃を撃つ。弾丸が鐘にあたって小刻みに音が鳴る。ヴァイオリンは止まない。しかし、ついにヴァイオリンは止み、鐘の音も止む。別に悪を賞揚しようとしているわけじゃない。善だの悪だのに囚われることなく美を追究したかった。生粋のモダニストでありフォルマリストであったフェリーニらしい、優れたシーンだと思った(関係ないけど、北野武の『ブラザー』の銃撃シーンを思い出した、彼はフェリーニ好きなのかな?)。


観始めてすぐに、あれ、これは期待はずれかしら。と思ったけれど、観終わって、ああやっぱり大したものだなーと思う。でも一方で、この前に観た『8 1/2』のすごさが身に沁みてきた。あれはやっぱりすごかったのかも知れない。なぜだか、自分でもわからないんだけど。


2004年09月10日(金) PARTY7

というわけで石井サンつながりで、さかのぼってみる。
永瀬正敏、浅野忠信、岡田義徳、原田芳雄などなど、
イイオトコがたくさん出てる、監督長編第二作。


のっけのアニメーションがとにかくかっこいい。
主人公の七人を紹介していく(かのような)アニメなんだけど、
もう、すげーぶっとんでいてしびれる、パンクなの。
でもね、アニメが終わって本編が始まると、
ギャップがすごい。
このヒトタチ、とにかくかっこわるい。


このギャップというのが、テーマなんだと思うの。
あらゆるカットで、あらゆる展開で、あらゆる位相で、
とにかく石井監督は観客の予想をことごとく外して、
ゆる〜い笑いの波紋を観客席に落としてくる。
そしてその波紋の強さ大きさ波の間隔などは、
実はとても計算しつくされているということ。
そのゾッとするような冷徹な計算を、
観客の見えないところでやってくれるから、
安心してその波紋に乗ってサーフィンやってしまえる。


永瀬サンはヤクザの金を持ち出して逃げるハードボイルド。
かと思いきや、元カノに未練タラタラでだらしないし。
浅野サンはすっきりヒゲを剃って見目麗しいお顔。
なのに「覗き」が趣味のオタクくんでスカート覗いてるし。
原田サンはあいかわらず大人の男で渋い声、いいわあ。
って思ってたら、キャプテンバナナだし w
そして岡田クン、演技派美少年クンは、
気持ち悪いナンチャッテ成金ストーカーだし。


二時間の映画を作ったら、普通外そうと思っても一発くらい、
うっかり的にあたってしまいそうなものを、
石井監督は、たんねんに、まごころをこめて、
きちんと的から外す w
最初は、どんどんオフセットな展開で笑ってた観客も、
最後の最後の「さいご」まで、かっちり外されたことで、
この映画の作り手の、冷静極まりない計算を知る。
そして、強い印象が焼き付いて離れない。


どかはねー、『PARTY7』おもしろかったけど、
やっぱり『茶の味』のが好きだなー。
『茶の味』も外して外して、
予定調和の輪の外へと飛びだしていくんだけど、
なんというか、その飛び出すときのウェーキー(軌跡)を、
きちんと裏打ちして残してくれるような感触。
外しっぱなしじゃなくて、こうやって外したんだよー、って。
そこが優しい。


石井監督のもとからのファンのヒトは、
『茶の味』は人情に流されているって指摘するかもだけど。
そうかも知れない。
たしかに『PARTY7』の破壊的なベクトルは、
『茶の味』には無いかも知れない。
でも、ちゃんとつながってるんだよ、きっと。


例えば。


例えば、キャプテンバナナの黄色と、
あの逆上がりのあとのひまわりの黄色、とか。


2004年09月09日(木) 適切な司書サン

大阪府立中央図書館まで、カブでトトトッと行く。
天気がいいし良い気持ち、遠心クラッチもいい感じ。


昼ご飯は例によってスタバで軽く。
なんかパウンドケーキみたいなのを頼んだ。
クリームチーズが入ってるみたい、
案外おいしい、はまりそう。
どかの後ろのテーブルで、
スタバのスタッフのひとたちが三人でミーティング。
聞こえてくる話とかもちょっとシリアスな、
オフィスっぽい雰囲気でかっくいい。
なつかしいなーと思う。


で、図書館に戻る前に、カブの証明写真を撮る。


夜になって、帰る前に、司書サンに相談。
イタリア語の辞書(Lo Zingarelli)を、
参考図書として蔵書に加えてもらえませんか?
とお願いする、だめもとで。
だって、伊和辞書や、伊英辞書ならまだしも、
伊伊辞書なんて、仕入れてくれないだろーなーって。


でも、予想外に、親切に対応してくれる。
「それでは希望として、うえに上げてみましょう」、
って言ってくれてめちゃくちゃうれしい。
いやー、ホスピタリティ、高いなー。
司書サンとか学芸員サンで、親切なヒトって、
考えてみれば当たり前な話なんだけど、
でもどかがきょうこんなに嬉しいってことは、
普段の日本のそういうヒトたちが当たり前に、
出来てないんだろうなー。


なんかどかも嬉しくなってその辞書の有益性を、
説明してみた、イタリア語の古い資料を読むにあたって、
必須の辞書で、美術・文学・歴史・政治・経済など、
彼の国の研究をしてる学生なら、必ず使います、と
(これは多分ウソじゃない)。


でも、親切なヒトは、いいヒトだ。
どかも親切なヒトになりたいな。


なんだ、きわめてシンプルやん。


2004年09月08日(水) iMacG5

iMacG5が発表された、たぶん今年の目玉なのだろう。
でも、どかはちょっとがっかり。


いや、どかのiBookG3_600MHzクンは、
もうスペック的にフラッシュやらなにやらを動かすのには、
かなり辛くなってきてるし、
ハードディスクがそろそろ心配だし
(容量ではなく耐久性が)。


物持ちは良い方なので、まだまだ使えるだろうけれど、
これを持ち運びオンリーにして、デスクトップが欲しいのは確か。
でもどかが検討してるのはeMacだったから、
最初からiMacにはあまり触手が伸びないというか。


でもねー、iMacはやっぱりアップルデザインの、
極致であって欲しいのー。
で、前代の、通称「大福」、iMacG4とか、
その前の、あの大売れに売れた iMacG3とかは、
やっぱりなんだかんだ言ってかっこ良かったの。
どか、あの「大福」を初めて見たときは、
グッと来たもんなー。
3年前は部屋のスペースの問題で、
泣く泣くiBookにしたんだけど。


でも、こんどの新 iMacは、ダメ。
有り体すぎる。
こんなの、ソニーでも作れる。
ソニーでも作れるくらいのものを、
わざわざアップルがやんなくてもええやん、いまさら。


ミニマリズムにプラス「α」の「α」こそ、
どかが好きなとこだったのにな、
こんなのただのモンドリアンじゃないかっ
(暴言多謝)。


‥‥やだなー、なんかわたしってば、
こんな、熱いマカーだったのかしら。
やだやだ。
でも、このデザインを見たときに、
改めて気付かされたのかも。


このデザインは、機能的であってもつまらないと思うの。


2004年09月07日(火) 野沢尚「恋人よ」

先日、マイミクのさえサンに関東でこのドラマの再放送をやってると聞いて、あーこっちではやってないよーって残念に思っていたら、いつの間にか関西でもやってたのね、再放送。脚本家は、先だって自殺で話題になった人気作家の野沢サン。でもまだ野沢サンがブレークする前のドラマ、これは。たしか、1995 年放送。


どかはリアルタイムでずーっとはまって見ていた(というか当時、わたしは大学の男子寮にいて、男子寮総出でこのドラマ見てたよ‥‥こわい w)。それまでも、そのあとも、たくさんドラマ見たけど「恋人よ」はどかにとってもかなり大切なドラマだと思う。野島ドラマ以外では、希有と言っていい(あとは「マンハッタンラブストーリー」くらい)。当然、野沢サンのドラマのなかでベストは断トツでこれを推したい。


とにかく中心キャストがみな、演技が上手い。鈴木保奈美に鈴木京香のWスズキ。岸谷五朗に佐藤浩市。万全である。この四人のあいだでラインが交錯していくというありがちな話なんだけれど、セリフの巧みさとキャストのいい演技とで、ぐいぐいストーリーを展開してしまう。音楽も良かった。セリーヌ・ディオンとクライスラーカンパニーの「To Love You More」が主題歌で、それいがいの挿入曲も、当時のドラマの中ではかなり垢抜けていたもの。


そして、なんといってもラストシーンに尽きる。男子寮生がみな、号泣するという世にもおぞましい風景(笑)を生み出した、あの沖縄の海岸に望む崖に咲き乱れるブーゲンビリア。ドラマのテーマ自体も、決して野島ドラマのそれみたいに過激でも深遠でもなく、「プラトニックラブ」と「生と死、その輪廻」のふたつなんだけれど、このときの野沢サンが優れていたのは、セリフ回しが抜群に上手いくせに、言葉でそれを説明せずあえて、ラストシーンの映像に全てを語らせたことだ(野島サンならかならず、長い長いモノローグが入る、徹底的に言葉責め w)。


ヒロイン愛永(まなえ)のキャラクターの造形も巧み。あの手紙のやりとりの中に必ず書いた、そしてドラマそれ自体を締めくくった<かしこ>という響き。「愛」だの「恋」だのでドラマを作りたいんだったら、このくらいの完成度には最低持ってきてもらいたいものだわ。とツトに思う。


9年前にリアルタイムで見て以来、ひさしぶりに見た。まだおもしろかった。なぜかそれに、ホッとした。


2004年09月06日(月) "8 1/2" di Federico Fellini

"Otto e Mezzo"、フェリーニの代表作。
わたしのボスが「ちょっとむずかしいかな」と言ってたし、
ちょっとおっかなびっくりしながら見始める。
最初のシーンにとりあえずたまげた。
これはマグリットの映画かと、シュールレアリスムかと。


シーンの美しさという点ではあいかわらず卓越している。
ただ白黒なので、正直言うと、カラーで見た作品と比べて、
つまり『道化師』や『ローマ』ほどの鮮烈さはないかな。
いや、、、それでも、いまのハリウッドのよりも、
全然、品があってきれいなのだけれど。


映画監督が主人公で、プロダクションの俗物に囲まれて、
苦悩し疲弊していく一方で、彼の過去の思い出や妄想、
夢や願望が映像として挟まれていく。
現実のシーンと、架空のシーンが交互にやってきて、
見ているヒトは現実でも架空でもない「閾」に取り残される。


フェリーニの作品を観たあとのこの独特な印象は、
この「閾」にふわふわ浮いてしまうことから来ると思った。
ハリウッドみたいに架空を押しつけられるわけでもなく、
記録映画みたいに現実に踏みつけられるわけでもなく、
グイっとふたつに引き裂いたはざまに観客は浮くのだ。


映画の構想に詰まった監督がつぶやくセリフ。


  その娘を無垢のシンボルとするか・・・陳腐だ。
  純粋とはなんだ? 誠実がいったいなんなんだ。
  シンボリズムや純粋無垢信仰はもう古い。
  ・・・娘の村には美術館があることにするか?
  それでその娘は美しいモノに囲まれて育ったと。。。
  (娘の笑い声)
  そうだよな、、陳腐だよ、これも。


浮いているわたしにも、このセリフだけは生々しく痛かった。
フェリーニはとても賢い。
純粋だとか、誠実だとか、本物がどこかにあるという考えが、
その考え自体が既に無効であることを、彼は知っていた。
だから内容ではなく形式に走る、フォルマリスムの道だ。
しかしこのフォルム(≒美)の道も、
別の「本物」を生み出すに如かないことを彼は気付いている。


歴史主義や正統主義にも、そしてフォルマリスムにも頼れない。
八方ふさがりの中、それでも美しいシーンを撮らざるを得ない、
そんな監督(≒フェリーニ自身)のことが、
わたしはとても微笑ましく、そして切ないと思う。
負けるために美しいシーンで綴り続けるフェリーニ、
彼がたどり着いたラストシーンは、さすがだった。


淀川サンが絶賛したのが分かった気がした。
監督が妻に向かって、


  人生は祭りだ。
  共に、生きてくれ。


と語りかけるシーンは、掛け値なしに感動的、グッと来る。
そしてその後、登場人物が手をつないで輪になって、
楽隊の演奏に合わせて踊り続ける。
そして、ライトが落とされ、楽隊のひとりの男の子が残り、
その子もフェードアウトしておしまい。
このラストシーンの大団円には、すべてが詰まっている。


希望か、絶望か。
という二者択一をせまること自体が間違っている。
希望と絶望に引き裂かれたはざまでしか、
わたしたちは生きる術を知らない。
そしてもちろんそのはざまでは、
ちゃんとした希望も持てないし、絶望しきることも許されない。


けれども、美しさを添えることは許されているかも知れない。
これが、『道』を撮ったあとにこれに取り組んだフェリーニが、
到達することのできた結論だったのだろう。
だからこそ、この後に続くフェリーニの絶頂期、
『道化師』や『ローマ』はあれほどに咲き乱れる花として、
結実したのだろう。


主演のマルチェロ・マストロヤンニと、
妻役のアヌーク・エーメ、らぶ。
マストロヤンニ、かくいいなー、あんな大人の男になりたい。
で、アヌーク・エーメみたいなヒトとつきあいたい。
うー、らぶ(‥‥ってこんな締め方でええんか、わたし)。


2004年09月05日(日) 予知夢

そとはぼんやり明るかった、
明るいと言うよりは白い感じ。
光が乱反射して、ボゥッと光っていて。
わたしは朝ご飯を食べた後で、
食卓でコーヒーをボケボケ飲んでいた。


奥のリビングでおかんがテレビを見ている。
そのとき、揺れが始まった。
最初は壁や天井がびりびりゆうから何?
と思ってたら床が揺れ始めた。
いつもよりも長く揺れてるからおかんにゆった。


 地震や、地震

 うん

 え、なんかけっこお揺れてるし、
 机ン下、もぐったほうがええんちゃうん?


母親はテレビを観たまま動かない。
ふむ、と思ってわたしはかがみ込んで食卓の下へ。


・・・そこで、目が覚めた。
昨日の朝の話。


そっかー、やっぱりあるんだなー。
ここまではっきりした「ソレ」を見たのは、
珍しいかもしれない、二度目か?
さっき、自分の部屋で<震度四>が始まったとき、
一分くらい続いた揺れのなかでぼぅっと昨日の「ソレ」を、
思い出していた。


阪神大震災のときはもっと揺れが鋭かったから、
これくらいはへいきー。
って思ってたけど、
むしろ「ソレ」をはっきり体験した自分に、
ちょっとどきどきしていた。


奈良と和歌山は震度五って言ってたっけ。
その地区の方は大丈夫でしたか?




・・・ここまで書いていたのが20時過ぎ。
ところがこの後、23時50分過ぎに二度目のでかい地震。
これはけっこう怖かった。
ちょっと、余裕が無くなるくらい。
うー、、P波が届いたときのあの不吉な感じ。
そしてそのあとのS波がずーっと続く憂鬱な感じ。


いままだ、S波の横揺れで酔っぱらってる感じ。
きもちわるー。


2004年09月04日(土) Mew "Frengers"

デンマーク・コペンハーゲン出身の4人組なバンド、去年発売されたデビューアルバム。好き。1曲目のイントロだけでもっていかれてしまったのは、久しぶり。いつ以来だろう。


どかがこれを聴いて近いなーと思ったのはふたつ。ひとつは、My Bloody Valentine。もひとつは、Sigur Ros。でも、Pixiesも入ってるかなー。うん入ってると思う。基本は、でも前者ふたつに近い、フィードバックギターが重ねられて麻薬的な陶酔を引き起こす音の壁を空高くおったてて、それを聴衆に向けて倒してくる系(どんな「系」やねんな)。


けれどもそれだけじゃない。マイブラはひたすらメロディを、エフェクトという名の硫酸に浸してその輪郭を融かしていったけど、ミュウはそこまでいかない。それはきっとマイブラのその後のデッドエンドを知っているからだと思う。マイブラは絶世の名盤"Loveless"を作ってしまったあと、音楽活動をまともに続けられなくなってしまった。そう、メロディを融かしてきってしまったあとには、草木も生えない不毛な大地が広がるのみだから。


そしてミュウは凝ったエフェクトでメロディをギリギリまで追いつめつつ、しかし別の抜け道からそれを疾走させることに成功する。それがピクシーズばりの「不穏なコード進行」だ。単にネガティブなだけじゃない。聴いていて安心できない妙な展開、でも不思議なことにポップなんだこれが。とってもピクシーズだと思う。ピクシーズの良さは静から動へのダイナミズムとよく言われるけれど、それだけじゃない。むしろいま、ピクシーズが面白いのはそのコード進行の不吉さにあると言ってもいいんじゃないかな。それでいてかつ、ポップ。


ミュウはそんな先輩たちの影響をたっぷり受けて、甘くて不吉なメロディで、夢のなかに泳ぐようなCDを作った。でも、そう、夢というのは、いつだって楽しい幸せなものではありえない。むしろそれは、いつも不安や孤独が、悲哀と恐怖が紛れ込んでくる。


 Show you how much I care
 Know that there is no escape
 From my snow brigade
 (M3. Snow Brigade)


詞も、とても不思議で奇妙、かつロマンチックだと思う。もう、日本に来ちゃったんだよねー、なんでもっと早く、これに気付けなかったんだろう、いつもわたし、こんなだ。と、思いつつ、iPodでヘビロ体制に入りつつ。


2004年09月03日(金) 買いすぎ

きのうの疲れが貯まりまくり、
どうにか起き出して、難波のタワレコに行く。
ゼミを乗り切ったら、自分へのごほうびにしましょう。
と、思っていたCDを買いに行く。


・・・買いすぎた。
や、これでも半分くらいに減らしたんだけど。
うーん、ほんとはもっと買いたかったんだけど。


例えば、湯川潮音のファーストアルバム。
試聴してみてやられた。
きれいな声だなー。
これでまた二十歳かあ、すごいなー。
詞のセンスもいい。
アルバムのタイトルにもなってる「逆上がりの国」。
いいと思う、レンタルには並ばないだろうしなー。
買っちゃうのかなー・・・、きょうはガマン。


例えば、ZAZEN BOYSのセカンドアルバム。
試聴してみてやられた。
椎名林檎がコーラスで参加してる2曲目、
かなりかなりやばい。
全体的に音のエッジが若干柔らかくなるかわりに、
厚みが増したサウンドワーク。
これはレンタルに並ぶし、待つ・・・、
あーでも、あの2曲目はやばかった。
椎名林檎にひさしぶりにゾクゥっとなった。


他にも、ACIDMANのシングル、DOWNYのアルバム、
GRANDADDYのサード、小島麻由美のシングルなど、
かなりホールドアップな感じ、さくれつ。
良かったと思う。


でも、それよりもずっと買わなくちゃな4枚を選んだ。


THE HIGH-LOWS「DO!! THE★MUSTANG」
POLARIS「COSMOS」
ONE TONE「とおり雨」
MEW「FRENGERS」


そのうち、感想文書ければ。
とりあえず、MEWはしびれる、
腰、じゃなくて脳髄に来る感じ。


( ̄。 ̄) ずもー


2004年09月02日(木) フレスコのかけら

3週間ぶりのゼミ。
例によって、自分の発表はハッタリかましまくり。
・・・、良かった。
まだ、わたしのハッタリは効くらしい。


夜、寺町通りの台湾料理屋さんで、
この夏からイタリア政府の奨学生としてローマに行く、
Sさんの壮行会。
うわさは本当だった、ごっついおいしい。


帰り、なぜかひとりで河原町通りで迷子になる。
あー、迷子になるこの感覚、
なつかしいなーと思う。
鴨川に出て、風にあたる、せせらぎの音が、少し痛い。


三日かけて修復したフレスコ画の天使が、
泥水を浴びて三分でかびてしまって剥離する。
そんなことの、くりかえし?


ちょっと、許容範囲を超えてると思う。
どうにかしなくちゃ。


でも、フレスコのかけらは床に散乱してるよ?


天使の羽はもいちどはばたけるの?
フレスコを永遠に修復しつづけることは正しいの?
美とはそもそも永遠でなくちゃいけないの?
古びて滅んでいくことに美しさがあるの?
銀河鉄道999で、わたしたちは何を学んだの?


フレスコのかけらは、床に散乱しているよ。


2004年09月01日(水) l'ultima cena(最後の晩餐)

9月になった。
わたしの季節の秋は、もうすぐだ。
ここが胸突き八丁、がんばんなくちゃ。
うん、うん、と思いつつ、二ヶ月に一度のスペシャルイベント。


宮崎あおいカレンダーをめくるのだー、わーっ。
というわけで、朝、いそいそとめくる。
むう、あおいタン、そんな目でにらまんとってー。
せくしーじゃーん、おとなじゃーん。


・・・だめだ、わたし。


というわけで、人間を入れ替えて
(もうこころだけじゃ追いつかないわたし)、
明日のゼミの予習を始める。
と言っても、図書館でこつこつやってたし、それをまとめて。


きょうの資料のシーンは、まさに「最後の晩餐」。
聖史劇のシナリオ、ぽちぽち和訳を進める。
・・・ん?
やばい、わたし、さっきからシーンを想像して、
おかしいなあ、なんでこんなにマッチョな印象?
って思ってたらやっぱりそうだ。


キリストの顔が、メル・ギブソンになってるー (ノ_<。)。。
やだー、やめてー。
「パッション」なんかまだ見てないのにー。
でも、マリアさまの顔が何故か手塚理美だった。
これは「茶の味」の影響か?
手塚理美の息子がメル・ギブソン・・・?


うきゃ。
わたし、寝たほうがいいな、きっと。


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